プロデューサーとしての記憶を持ったまま『樋口翼』として生まれ変わった彼であったが、大きな問題を起こすこともなく、比較的平穏な日々を送っていった。
市川雛菜という少女と仲を深め、透や円香の家で5人で遊ぶことがほとんどだった小学生時代。
翼と小糸だけ円香達と違う学校に通い、5人の仲に変化が生じた中学校時代。
翼と円香、透は同じ学校を選び、その1年後小糸と雛菜も同じ高校に入学し、再び幼馴染み5人組が集結した高校生時代。
そして現在、高校2年生になった彼は、日曜日の夜に自室で雑誌を読んでくつろいでいた。
翼がとあるアイドル雑誌を読んでいると、誰かが2階に上がってくる足音が耳に入る。
(ん、この足音…円香か?)
予想通り、部屋の扉を開けて入ってきたのは今世の自分の妹で、前の記憶では自身がプロデュースしたアイドルの円香であった。
「ただいま」
「おかえり、円香。ずいぶん遅かったね」
「…まぁ」
歯切れの悪い返事をしながら、円香は自分の机の方に向かっていく。
翼と円香の部屋は16畳ほどの広さがあり、真ん中はカーテンで仕切られている。
着替え時や就寝時にはカーテンを閉めているが、それ以外のときはカーテンを閉めないことが2人にとって暗黙の了解になっている。
そのため、現在はカーテンが開いており、雑誌を読む翼を視界に入れながら円香は会話を続けた。
「…それ」
「ん?」
「その雑誌」
「あぁ、これか。昼に本屋に行ったらたまたま目について買ったんだ」
「ふーん、たまたま、ねぇ…」
「ど、どうした円香…?」
「別に」
言葉とは裏腹に、円香は明らかに物言いたげな目を彼に向けていた。
(円香の前でアイドル雑誌を読むのは不味かったかな。別に邪な目的で買っているわけではないのだが…)
「───それと、私アイドルにスカウトされたから」
「そうか、アイドルにスカウト…ってスカウト!?」
突然の円香からの爆弾発言。
驚愕から、思わず雑誌を落としてしまう。
「うるさい」
「あ、あぁごめん」
「
若干早口で言う円香に、翼は落とした雑誌を片付けながら彼女に向き直った。
「そ、そうか。いや、円香が決めたことに文句なんてないよ。ちなみにどこの事務所からスカウトされたんだ?」
「貴方が読んでいた雑誌のアイドル事務所」
ちなみに彼が先程まで読んでいた雑誌のタイトルは『今話題の、283プロアイドル特集!』である。
「は、はは…それは凄い偶然だな…。
「えぇ、凄い偶然」
そう言って物凄くいい笑顔を浮かべる円香。
(あ、これやばい)
彼女が本心から言っているわけではないことは火を見るよりも明らかであった。
ちなみに円香は、透が283プロにスカウトされたのを知ってから、すぐに事務所の場所を調べ、万全の準備をしてから行動に移した。
本日、昼から事務所を見張り、夜になって事務所の関係者1人で出てくるのを見計らい、「私、アイドルに興味があるのでお話を伺えないでしょうか?」と近くの喫茶店に誘い込んだのだ。
そして実際に関係者───透をスカウトしたプロデューサーから事務所の話を聞いて、クリーンな事務所であることを確認し、そのまま彼女もアイドルにスカウトされたのであった。
そのような事情を知らない翼は、前の記憶で円香をスカウトしたときの場面を思い出しながら彼女に笑いかける。
「なんだ、円香はアイドルに興味があったんだな」
「は?」
「ご、ごめん。違ったのか?」
「………」
「円香?」
「…誰かさんが、283プロのアイドルに夢中だったから」
消え入りそうなほど小さな声が耳に届く。
視線をそらされて発せれた言葉の中に、確かな熱量が込められているのを翼は感じた。
「…!」
「同年代の女の子に興味がない貴方が、テレビや広告に彼女たちが映ると凄く嬉しそうに…眩しそうに見ていたから」
「…そうだったのか。自分では気付かなかったよ」
「そんな貴方を見るのは初めてだった。私が初めてだったのだから、浅倉達もきっと初めてだったはず」
「円香…」
「だから、今まで多くの事務所からのスカウトを断っていた浅倉が、283プロの人からスカウトされた今回だけ、そのままスカウトを受けた」
浅倉透。
樋口兄妹の隣に住む少女が先週、283プロダクションからのスカウトを受け、アイドルになったのは記憶に新しい。
「浅倉の本心は全て分からない。だけど、スカウトを受けた理由だけは分かる」
「多くの男子が女性アイドルに夢中になり、ファンになるのは知っている、でも、貴方は低俗な男子とは違う。283プロのアイドルにそんな反応を示したのは、彼女達が他のアイドルとは違う『何か』を持っているから。その『何か』を知りたくて私は…」
円香はそこで一旦言葉を切り、綺麗な瞳を閉じた。
「───私たちは、アイドルになった」
「円香、俺は…」
「…今のは全部独り言。だから何も言わないで。私はもうお風呂に入って寝るから」
そう言って円香は部屋から出て行くのであった。
円香が部屋を出て行ってから5分後、誰かが2階に上がってくる気配を感じた。
そのままノックをせず扉を開けたのは先程話題に上がった透であった。
「おはよ、翼」
「おはよう、透…もう夜だけどな」
「業界だと、夜でもおはようだってプロデューサーが言ってた」
「はは、確かに業界ではおはようって挨拶するな」
「やっぱり知ってたんだ、業界用語」
「…まぁな。雑誌に書いてあったのを読んだんだ」
「そっか、よく読んでるもんね、アイドル雑誌」
「透も読むか?同じ事務所の先輩達についてよく載ってるぞ」
「ん、それじゃ読もうかな」
そう言って透は翼から雑誌を受け取ると、そのまま彼のベッドの上に寝転ぶ。
女子…しかもアイドルになった透が男子のベッドの上でゴロゴロするのはとてもマズイ状況である。
もちろん翼は何度も注意した。女の子としての自覚を持つようにと。
しかし、彼がいくら注意しても透は「えぇ、別にいいじゃん 、このくらい」と言って聞き入れてくれなかった。
そしていつしかこの光景に慣れてしまった翼は、諦めた表情で椅子に座り直した。
「ん、今日は注意しないんだね」
「言ったら、ベッドから降りてくれるのか?」
「ん、それはないかな。お、この子、私と同い年じゃん」
仰向けになってペラペラと雑誌を捲る透。
(アイドルになったのにこれは流石にマズイよな。いやでも、今はプロデューサーではない俺があれこれ言うのは違う気が…)
そんな彼女にアイドルとしての自覚を教えるべきか迷う翼であった。
20分後、透は雑誌を一通り読んだのか、ページを閉じてベッドの横に置いた。
そして身体を起こすと、ベッドに座ったまま翼に言葉をかける。
「樋口もアイドルになったんだよね」
「ん、聞いたのか?」
「ううん、でも分かるよ、幼馴染だから」
「はは、幼馴染パワーは凄いな」
「翼も幼馴染じゃん」
翼と透は可笑しそうに笑い合う。
気心が知れた同士、心地よい空気が2人の間を流れる。
「そうだ、次に事務所に行くときに、翼も一緒に行かない?」
「え、それは不味いよ透。ああいうところは部外者は立ち入り禁止なんだぞ」
「えぇいいじゃん、樋口がアイドルになったんだから、その家族は部外者じゃないでしょ」
「うーん、それはそうだけど…」
「それに、興味があるんでしょ、283プロに」
弛緩していた空気が少し張りつめる。
透は真っ直ぐな瞳で、彼の瞳を覗き込んでいる。
「…あるといえば、あるかな。なぁ透、アイドルになったのは、もしかして俺の───」
「ふふ、秘密。じゃあ、今度の土曜日、予定空けておいてねー」
翼の言葉が終わらない内に透はベッドから立ち上がり、そのまま部屋の扉へと向かっていく。
「え、透…まだ話が───」
「おはようございましたー」
別れの挨拶を告げた透は、そのまま扉から出ていき1階へと降りていった。
「透、それは絶対に違うぞ…」
間違った業界用語の使い方だけはしないよう、今度会ったときに最低限の知識は教えなければと考える翼であった。
今日の裏話②
カッコよくて優しくて可愛さも備える兄のせいで円香の感情はぐちゃぐちゃである。