待ちに待った家族旅行当日。
樋口家と浅倉家、合計7人を乗せた車は現在、目的地の途中にある休息所で一息ついているところであった。
翼たちは外の空気を吸いながらトイレに行っている母親2人を待つ。
自販機で買ってきたコーヒーを翼が飲んでいると、浅倉父が声を掛けてきた。
「いやぁ、今日は温泉旅行を企画してくれてありがとうな、翼くん」
「いえいえ、全員の休みが揃ってよかったです。ちなみに今日自分たちが泊まる宿は、温泉好きなスタッフの方が凄くおすすめしていたところなんですよ」
「おぉ、それは楽しみだ!いやぁ、親孝行の息子を持ってよかったな、樋口」
上機嫌な様子で樋口父に話しかけると、彼はクールな表情で答える。
「…そうだな、今日はありがとう翼。しかし、本当に代金は支払わなくてよかったのか?」
「大丈夫だよ、父さん。ここの支払いは俺たち3人に任せてほしい」
翼の言葉に円香も同意を示すように頷き、透は「グー」と返事をする。
ただしそんな子どもたちの返事を聞いても、樋口父の渋い表情は変わらなった。
「…翼と円香の収入は把握しているが、7人の宿泊費となると今まで稼いだ分の半分以上は使ってしまうんじゃないか?気持ちは嬉しいが、あまり無理をしすぎることはないぞ」
「大丈夫だよ、樋口パパ。ここは私たちにドンと任せて」
そう言って透は、可愛らしい財布を彼に見せる。
財布がないことに定評がある彼女であるが、今回は流石に忘れることはなかった。
「しかしそうは言ってもな、透くん」
「まぁいいじゃないか、樋口。ここは娘たちの好意を素直に受け取っておこう。その方が子どもたちも喜んでくれるよ、なぁ透?」
「うん、喜ぶ喜ぶ」
しかし、まだ不安が解消されない樋口父は円香にも視線を向ける。
「…円香も本当に大丈夫なんだな?」
「心配しすぎ、私たちは大丈夫だから。それに翼がコメツキバッタみたいに頭を下げて今後も仕事をとってきてくれる予定だから、お金にもそんな困らないし」
「いや円香、コメツキバッタって…」
辛辣な妹の言葉に翼は何か言いたげな表情を見せたが、円香はクールの表情なまま言葉を続ける。
「仕事熱心な兄を褒めたつもりだけど、何か問題ある?」
「な、ないです…」
「ハハ、樋口兄妹は相変わらず仲が良さそうで良かったよ。それでどうするんだ、樋口?」
「…あぁ、お前の言った通りできた息子たちを持ったようだ。今日は本当にありがとう、翼、円香、透くん」
樋口父が頭を下げて翼たちにお礼を告げたところで、トイレから浅倉母と樋口母が戻って来た。
頭を下げている彼の姿を見て、2人は不思議そうな表情を浮かべる。
「お待たせしてごめんなさい、あら…?」
「あなた、何かあったの?」
「いや、改めて子どもたちに感謝を伝えていただけだ。それじゃあ、そろそろ出発しようか」
樋口父はそう言うと、運転席に乗り込む。
そして皆を乗せた車は、本日の目的地である温泉宿を目指して発進するのであった。
◆◇◆◇◆
「お待たせしました、チェックインは無事に終わりましたので部屋に向かいましょうか」
時間通り旅館に到着した後、予約した翼が代表して手続きを済まして皆に声を掛ける。
「ありがとうね、翼くん。確か浅倉家と樋口家で2部屋取ってあるのよね?」
「はい、どちらも4人部屋ですが7人が1部屋に集まっても大丈夫なくらいスペースがあるようです。ちなみに部屋のキーはこちらになります」
翼は受付から預かった部屋の鍵の1つを浅倉母に手渡す。
「えー、私じゃないの?」
「いや、透は失くすかもしれないから鍵の管理を任せるのはちょっとな…」
「ふふ、透のマネージャーを務めるだけあるわね翼くん。流石の判断だわ」
「お母さん、ひどい」
翼と浅倉母の会話を聞いて、透は頬をぷくっと不満げに膨らませる。
そんな娘を宥めるように、浅倉父は声を掛ける。
「まぁまぁ、部屋の鍵は母さんに任せて透はのんびり温泉に入りなさい。存分に羽を伸ばすといいさ」
「んー…じゃあそうする。えっと、色々効く温泉なんだよね?」
「確かに色々効能あるけど…有名なのは疲労回復や筋肉痛、肩こり改善かな?」
透の疑問に一番この場所について詳しい翼が答える。
そんな彼の答えを補足するように、浅倉母も言葉を続けた。
「ふふ、調べたら美肌にも効果あるみたい。部屋に荷物を置いたら早速入りに行ってみない?」
「オッケー、樋口も行く?」
「ん、そうする」
「円香も行くなら私も行くわ。男性陣はどうする?」
樋口母の問い掛けに、樋口父は少し悩んでから答える。
「そうだな、少し部屋で休んでから温泉に入るつもりだ。浅倉はどうする?」
「同じく。それと腹が減っているから何か食べたい気分だな。ルームサービスで軽食を頼むつもりだけど一緒に食べないか?」
「ではいただこう。翼もどうだ?」
「俺は…温泉が気になるから、先に入って来るよ」
「わかった、ゆっくり入ってきなさい」
「ありがとう、父さん」
そんなやり取りの後、部屋に着いた翼たちは荷物を置き、用意された浴衣に着替える。
そして温泉に入る準備を整えると、父親たちを部屋に残して目的の場所まで歩いて向かって行った。
「そういえば、翼も一緒に入るの?」
「えっ!?いきなり何を言っているんだ、透…!」
「ふふ、冗談冗談。それにここ、混浴はやってないって書いてあったし」
「えっとな透…あまりそういうことは冗談でも言わない方がいいぞ」
「え、なんで?」
「何でって、それは…痛っ!?」
少し頬を赤くして言いよどむ翼。
すると横から円香の手が伸びてきて、ぐにっと力を込めて彼のほっぺを掴む。
「ま、まほあ!?おへなにあやったあ?(ま、円香!?俺なにかやったか?)」
「下らないことを言ってないで黙って歩いて、2人とも」
「ふふ、ラジャー」
頬を引っ張られた状態のためうまく喋れない翼に向けて、円香は冷たい眼差しを向ける。
「おぉ、いたそー」と透は呑気にそのやり取りを見つめながら、いつもの調子で返事をする。
「ふふ、変わらないわね、このやり取りも」
翼たち3人の後ろを距離を空けて歩く浅倉母はニコニコと心底嬉しそうに、樋口母は感慨深げにその光景を眺める。
「えぇ…子どもたちがアイドルやマネージャーとして活動し始めて、いつの間にか遠いところに行ってしまったように感じていたけれど、あの子たちはあの子たちのままだとわかって、少しホッとしたわ」
「その気持ちもわかるわ。円香ちゃんは小さい時から利発な子だったけど、翼くんは飛び抜けて優秀だったからね。まぁ自由過ぎる透に2人が愛想をつかすんじゃないかってヒヤヒヤしてたときもあったけどね」
「あら、そうだったの?」
浅倉母のその言葉に、樋口母は意外そうな反応を示す。
「ふふ、結局は私の考えすぎだったわ。円香ちゃんは透の友達としてずっと仲良くしてくれて、翼くんは透の兄としてずっと面倒を見てくれた。2人には本当に感謝してるわ」
「兄か…翼と透ちゃんは同い年だけど、確かに友達というよりは第二の兄妹って言ってもおかしくないわね」
「ふふ、あの子たちの関係がこれからどう変わっていくかはわからないけれど、私たちは温かく見守っていきましょう」
「そうね、叶うなら十年後もこのメンバーでどこか旅行に行けるといいわね」
「ふふ、まずは目の前の温泉に集中しましょう。すぐに美肌効果が出るといいんだけど」
「それじゃあ私は肩こりの改善を期待しようかしら」
そんなやり取りをしながら、母親たちは子どもたちの後を追って、温泉へと向かって行くのであった。
◆◇◆◇◆
「あー、いい湯だったー」
温泉に20分ほど入浴した透と円香は、のぼせる前に湯から上がる。
満足げにそう呟きながらタオルで身体を拭く透に対して、円香はツッコミを入れる。
「その言い方、おじさんっぽい」
「そう?でもいい湯だったし。美肌効果も出たかな?」
「そんなすぐに出ないんじゃない?」
「んー、樋口の肌見せて」
「嫌。鏡でも見れば?」
「んー…鏡を見てもよくわからん。誰かに聞けばわかるかな?」
「母親にでも聞いてみたら?」
「あー、まだ温泉に入っているんだよね、樋口ママと一緒に。先に部屋に帰ってていいって、言ってたよ」
「うい、じゃあ髪乾かしたら行くか」
髪を乾かし終え、改めて浴衣に着替えた円香と透は脱衣場から出て行く。
そしてマッサージチェアや卓球台、自販機などが並ぶ娯楽室に踏み入れると、2人は辺りをキョロキョロと見回して彼の姿を探す。
「…いない?」
「んー、いなそう。まだ温泉に入ってたりするのかな」
「それか、もう部屋に戻ったんじゃない?」
姿が見えない翼を探すのを諦め、円香たちは部屋に戻ろうとしたところ、後ろから声が掛かる。
「なんだ、もう温泉から上がっていたのか2人とも」
透と円香が同時に振り向くと、浴衣を着た翼が目に映る。
顔がほんのりと赤くなっており、長く温泉に浸かっていたことが見て取れた。
「おー、翼じゃん」
「翼、まだ入っていたの?」
「はは、あまりにいい湯だからつい長風呂しちゃったよ」
「ふふ、確かに顔赤いね。んー…」
透は翼との距離を縮めると、風呂上がりの彼の顔を間近で見つめ始める。
「ど、どうしたんだ透?俺の顔なんかじっと見て…」
「いやー、美肌効果あるのかなーって思って」
透の言葉を聞いて、彼女の突然の行動に翼は合点がいく。
「あぁ、そういうことか。うーん、俺には関係ないと思ってたけど効果出てたりするのかな?」
「ふふ、出てる出てる。いつもよりも潤ってるよ、翼の肌」
「はは、ありがとう。透と円香も肌ツルツルだし、早速温泉効果が出てるんじゃないか?」
「やった、温泉効果ハンパない」
「…はぁ、適当なこと言わないで。そんなすぐに効果出ないでしょ、普通」
嬉しそうに微笑む透と爽やかな笑みを浮かべる翼に対して、円香はいつものクールな表情のままツッコんだ。
「いやいや、名湯と呼ばれる温泉はすぐに効能があるらしいぞ。実際、今の円香と透はいつもより肌に張りがあると思うし」
「…いつまでじろじろと人の肌を見ているの。美容家にでもなったつもり?ミスター・スタイリスト」
「す、すまん。いくら家族でも配慮が足りなかったよな」
彼女にぎろっと睨まれた翼は、すぐに謝って余計なことを言ってしまったことを反省する。
そんな彼をフォローするかのように、透は口を開いた。
「まぁまぁ樋口、褒められたんだからいいじゃん。それと喉渇いたから、自販機で何か買っていい?」
「あ、それなら俺も買おうかな…円香も何か飲むか?」
「…じゃあコーヒー牛乳で」
「じゃあ俺もそれにするか。透はどうする?」
「んー、私はフルーツ牛乳で」
翼たちは自販機に近付くと各々飲みたいものを選び、翼が代表してお金を入れてボタンを押す。
そして空いている椅子に並んで座ると、ビンの蓋を開けて飲み始めた。
「ぷはー、お風呂上がりのフルーツ牛乳、最高っすね」
「はは、コーヒー牛乳も美味しいぞ。なぁ円香?」
「ん、誰かさんが飲んでいるコーヒーより100倍美味しい」
椅子に座りながらゆっくり飲み、温泉後の気持ちの良い余韻に浸りながら過ごしていると、女湯の方から浅倉母と樋口母がやって来た。
「あら、待っていてくれたの3人とも?」
「もう、先に部屋に戻っていいって透には言ったのに」
「んー、くつろいでただけー」
「そうなの?あ、美味しそうなフルーツ牛乳。お母さんも一口もらっていい?」
「ん、いいよ」
「それじゃあ私も一口もらっていいかしら、円香」
「もう残り少しだから、このままあげる」
そして、翼たち5人は少し涼んでから部屋に戻るのであった。
文字数の関係で省略したけど、実はこの浅倉・樋口家旅行計画を翼が円香に提案した際、それはもう大変だった。結局、透のフォローもあって無事に纏まったけど、数日間は円香の機嫌が悪くなったとか、なっていないとか…。