旅行から帰ってきた翌日。
久しぶりに事務所へ出勤した翼は、真っ先にプロデューサーである椿に大切な話があると伝え、誰もいない別室へと移動する。
そこで翼は、旅行中に円香と話した内容を彼女に打ち明けた。
円香と翼が事務所を去ることになるかもしれないというくだりに差し掛かると、流石の椿も驚きを隠せない様子であったが、最後まで彼の話を聞き終える頃にはいつもの落ち着きを取り戻していた。
「2人の意思はわかったわ。もしW.I.N.G.予選で落選した場合、円香さんはアイドルを、翼くんはマネージャーを辞めるということで間違いないわね?」
「はい。申し訳ございません、椿さんや社長に相談もせずに決めてしまって…」
頭を下げて謝る翼に、椿は優しく「頭を上げて」と声を掛ける。
「2人が下した決断を責めるつもりはないわ。円香さんはアイドルを、翼くんはマネージャーという職業をそれだけ真剣に考えてくれたという証拠だしね」
「…円香の実力なら本選出場はほぼ確実だと思います。ですが、実力があっても予選で落ちてしまうアイドルがいるのも事実です」
彼の言葉を聞いて、苦い自身の過去を思い返した椿は複雑な表情を浮かべながら口を開く。
「…私もね、予選通過間違いなしだと思っていた子がいたの。でも、結局本選に進むことはできなかった…凄くショックだったわ」
「そう、だったんですね」
沈痛な表情を浮かべる彼女の気持ちは翼にも痛いほど分かるため、彼の表情も固くなる。
「『ごめんなさい、本選通過できなかったわ』とその子に謝罪したとき、逆にこちらが励まされたわ。『また一緒に頑張りましょう、プロデューサーさん』って…ふふ、その子の方が辛いはずだったのにね……よし!」
突然パンパンと自分の頬を叩き出した椿の行動に、翼は目を白黒させる。
「え、椿さん…?」
「突然ごめんなさい、改めてプロデューサーとして気合を入れ直せてもらったわ。それじゃあ、早速スケジュール調整に入りましょうか」
「椿さん…はい、よろしくお願いします!」
そして翼と椿は、円香のレッスン時間を増やす方向でスケジュール調整を始めたが、そこで問題が発生した。
「円香さんは透さんの次に仕事の依頼が多いから、これ以上レッスンの時間を確保するとなると、どこかを削る必要があるのよね…」
売れてきた弊害で、円香のレッスン時間を確保するのが以前よりも難しくなってきていた。
選択肢は3つ、オファーされた仕事を断るか、レッスン時間を減らすか、プライベートの時間を削ってレッスンに充てるかのどれかであった。
「依頼された仕事を断らず、今以上にレッスン時間を増やすことができればいいのだけれど、円香さんに負担がかかり過ぎるわ」
「はい、自分も彼女がオーバーワークになることを望んでいないです」
「そうなるとレッスン時間を減らすのが妥当だけど、円香さんは納得してくれると思う?」
「事情を話せば表面上は納得してくれると思います。ただ、見えないところで練習時間を増やして、体調を崩さないかが心配です」
「そうね…まずは円香さんが希望しているレッスンをリストアップして、優先順位をつけてもらいましょう。今日は円香さん午後からレッスンだけど、その前にこちらに顔を出してもらえるかしら?」
「予定は入っていないはずなので、大丈夫だと思います。今、連絡を送っておきます」
「ありがとうね、翼くん。それじゃあ、今日も一日頑張りましょう」
その後、午前の仕事をこなした翼たちは、事務所にやってきた円香を交えて3人で今後のレッスンや仕事のスケジュールについて話し合うのであった。
そしてスケジュール調整を終えた後、トレーナーからダンスレッスンを受けるために円香はレッスン室へと足を運ぶのであった。
◆◇◆◇◆
「っ…」
日が暮れてきたレッスン室。
そこで円香は、汗を流しながらダンスの練習を行っていた。
(違う…こうじゃない。もっと動きを滑らかに…)
鏡を見て、手から足の動きを確かめように踊る円香。
彼女が熱心に取り組んでいるのは、新しくトレーナーに教えられたダンスの振り付けであった。
それは数時間前のダンスレッスンにて───。
『円香さんは上達も速いし、今回から1つ上の段階に上がりましょうか』
いつも担当してくれているダンストレーナーが今回指導するのは、今の円香では一曲踊りきるだけでスタミナを大きく消費する振り付けのダンスであった。
『それじゃあ、まずは私の動きを真似してみてね』
トレーナーの振り付けを見ながら踊り始めた円香であったが、今までよりも難易度が高い動きに身体がついていけずに息を切らすのであった。
『はぁ…はぁ…』
『初めてにしては上出来ね。激しい振り付けが多いから体力も消耗も激しいでしょ?』
『…はい、トレーニングするようになって体力が増えたと思っていましたが、恥ずかしながら勘違いのようでした』
『いいえ、円香さんは最初のときより体力は付いてきているわ。だけど、より高度なパフォーマンスを身に付けるためには、まだ体力が足りていないのも事実よ』
『…はい』
『まずはこの曲を踊りきれる体力を付けながら、しっかり振り付けを覚えていきましょう』
そしてトレーナーとのレッスンを終えた後、円香は残って練習を続けていた。
『残って練習するのは素晴らしいけど、怪我だけはしないよう気を付けてね。しっかり休憩を挟むことは忘れないで』
去り際のトレーナーの助言を守り、こまめに休憩をとりながら円香は黙々と練習を続けていく。
そんな彼女の身に予想外のことが起きる。
──ガチャ。
「え…」
この後はここを利用する人がいないことを確認していた円香であったが、レッスン室の扉が開く音が聞こえたことで思わず動きを止める。
(誰かレッスン室に入ってきた…?私の後にここを使う人はいないはずだけど…)
疑問を覚えた円香は練習を止め、開いた扉を注視する。
そしてレッスン室へと入ってきたのは、意外な人物であった。
「お邪魔するっす!」
「…は?」
元気な声をあげて現れたのは、円香もよく知る人物───芹沢あさひであった。
明らかに歓迎していない雰囲気を身に纏う円香であったが、あさひは気にした様子を見せずにそのまま話しかける。
「レッスン室を使っていたのが円香ちゃんでよかったっす」
「いや、どういうこと?ちゃんと説明して」
言葉の意味が分からずあさひに問い質す円香。
そんな彼女に、目を輝かせたあさひは言葉を続ける。
「さっきテレビでやってたダンスなんすけど、わたしも試してみたくなったっす!」
「それで?」
「事務所で踊るのは危ないからやめなさいって前に言われたから、レッスン室に来たっす!」
無邪気な顔をしてそう告げるあさひに、円香は少し顔をしかめる。
(まだ続けていたかったけど…レッスン室は事務所で共用だし仕方ないか。キリがいいところまでやって今日はあがろう)
「…ここに来た理由はわかった。もう終わるから、少し外で待ってもらえる?」
「どうしてっすか?」
(はぁ…)
円香は内心でため息をつく。
あさひとの会話に疲れてきた彼女は気を遣うのも面倒になって、正直に自身の気持ちを告げる。
「…近くにいると気が散るの」
「そうなんすね。じゃあわたしは向こう側で踊ってるっす!これだけ距離があれば大丈夫っすよね」
「…いや、大丈夫じゃないけど」
集中して練習したい円香にとってあさひの存在はノイズにしかならないため、一緒の空間で踊るのは何としても避けたかった。
しかし、円香の言葉が言い終える前にあさひはレッスン室の奥のスペースへと駆けていき、踊る準備を始めていた。
「よし、確かここをこうして…」
「…自由過ぎるでしょ」
(まるで透みたい…)
あまりにもフリーダムに振る舞うあさひに、円香は幼馴染の姿を重ねてため息をつく。
もしこの場に冬優子がいれば「あさひちゃん、いくら同じ事務所の仲間でも失礼だよ」と圧がある優しい笑顔を浮かべながら強引に彼女を外へと連れ出していたことだろう。
そしてあさひに「樋口円香みたいなタイプは1人で集中して練習したいんだから、あんたがいたら邪魔になるでしょ」と注意してくれたに違いない。
しかし、残念ながらここに冬優子はいない。
同じのユニットの愛依やマネージャーである翼などがいれば話は別だったが、ここにいるのはあさひと接点があまりない円香のみ。
彼女の手綱を握る人物がいないせいで、あさひはフリーダムに動いていた。
(もう自分の世界に入ってる…凄い集中力)
円香もテレビで見かけたことがある有名なダンスを踊り始めたあさひは、本当に初めて踊るのか疑わしいくらい滑らかに踊っていた。
「はっ!やっ!」
「……」
その姿をしばらく眺めていた円香は、意識を切り替えて練習を再開する。
離れた位置で踊るあさひの息遣いやステップを踏む音が耳に入る中、円香は今日教わったダンスを頭から踊り始める。
次第に周囲の音が遠のいていき、聞こえるのは自分の呼吸だけになっていく。
…、
……、
…………。
「───円香ちゃん!」
「っ!?」
ゾーンに入るほど集中して踊っていた円香は、すぐ近くから聞こえたあさひの声に驚く。
「…突然なに」
「さっきの部分っすけど、少し変な感じがするっす」
「変な感じ?」
「そこだけメリハリが弱い気がするっす」
あさひが指摘した部分は、円香が苦手としている振り付けパートであった。
あさひとは同じ事務所のため、ダンスが得意であることを円香は知っていた。
そして先程見せた動きから芹沢あさひにはダンスの才能があることを改めて実感した円香は、助言を求めてみることにした。
「…具体的にどうすればいいかアドバイスできる?」
円香はそう尋ねてみると、あさひは嬉しそうな顔をして口を開く。
「えーと、こうシュパパって手を伸ばして、足はもっとシュシュと動かせばいいと思うっすよ」
「ごめん、もっとわかるように言ってくれる?」
しかし、あさひの感性は独特であるので、その説明を聞いても円香はまったくピンと来なかった。
「こう…手はシュパパ!ってやって、足はシュシュ!っとやるっす」
「…もっと具体的に言ってくれない?」
実際に実践して見せながら教えてくれるあさひであったが、円香は彼女の言わんとすることを掴み切れずにいた。
「え~、わかりやすく言ってるのに~」
「……(やっぱり、この子のこういうところが苦手)」
感覚派のあさひにとって理論的に説明するのは困難であり、論理派の円香にとって相性最悪であった。
(聞いたのは失敗だった。これ以上関わっても疲れるだけだし、適当に切り上げよう)
「アドバイスありがとう。私はこれであがるから、レッスン室は自由に使って」
「ん~、円香ちゃんならもう少しでできる気がするんすよね」
「人の話聞いてる?もう私帰るから」
「翼くんなら今ので理解できると思うんすけど、双子なのにそこは違うんすね」
「は?」
思ったことを口にするあさひにとって、その言葉に深い意味はなかった。
そもそも翼は前世であさひをプロデュースしていたからこそ、独特なあさひの言語を理解することができていた。
そのため、彼女との接点が少ない円香にとって、あさひの言いたいことを理解できないのは仕方ないことなのだ。
しかし、そうとは知らず発したあさひの言葉は、円香の逆鱗に触れてしまった。
帰ろうしていた円香は足を止め、元いた位置まで戻る。
「…もう一回やってみるから、黙って見てて」
「わかったっす!」
(手をシュババ、足はシュシュ…こんな感じ?)
あさひの言葉を自分の言葉で置き換えて円香は踊ってみる。
あさひには劣るが、円香もトレーナーに褒められるほどの才能を持っているため、先程より上手く踊ることができていた。
「…どう?」
「手はできてるっす!問題は足っすね」
「どこら辺が問題?」
「えっとっすね、足をこう───」
その後、あさひの奇抜なアドバイスを何とか自分の中で嚙み砕いていき、円香は着実にパフォーマンス力を上げていくのであった。
おまけ① 事務所にて
(円香、まだ練習しているのか…心配だし、様子を見に行くか)
「翼くんじゃん!今から帰り?」
「お疲れ様、愛依。レッスン室に寄ってから帰る予定だよ」
「マジ!?うちもレッスン室に用あるから、一緒にいかない?」
「もちろんいいけど、忘れ物か?」
「いやぁ、あさひちゃんがレッスン室に行ったきり帰って来なくてさ~。携帯に連絡しても反応なくて心配で…今から様子を見に行こうと思ってたとこなんだよね~」
「そうだったのか、じゃあ一緒に行くか」
「サンキュ~」
おまけ② レッスン室にて
「お疲れ様、2人とも」
「おつかれ~」
「あ、翼くんに愛依ちゃん!お疲れ様っす」
「…お疲れ様です」
「なになに~あさひちゃんと円香ちゃん、いつの間にそんな仲良くなったの~」
「…?初めからっすよ」
「はは、そうか。今日は円香にダンスを教えてくれてありがとうな、あさひ」
「別にいいっすよ。わたしも円香ちゃんと踊れて楽しかったっすから!」
「色々言いたいことあるけど…あなたのおかげで踊れるようになった。ありがとう、あさひ」
「円香ちゃん、今度もっとすごいこと教えてあげるっすよ!」
「…機会があればね」
「あはは、今からワクワクっす~!」
「円香のことをよろしく頼むな、あさひ」
「はいっす!」
「お~、円香ちゃんがいると翼くんザ・お兄ちゃんって感じになるね~」
「自分ではよく分からないけど、そうなのかな?」
「自覚ないの?正直鬱陶しいから止めてほしいんだけど」
「うっ…」
「円香ちゃん、翼くんがいると生き生きしてるっすね」
「は?別にそんなことないけど」
「自覚ないんすか?やっぱり兄妹だから仲いいっすね!」
その後、兄妹仲が良いor良くないであさひと円香の舌戦が繰り広げられることになった。
後日あさひは「円香ちゃん、冬優子ちゃんくらいめんどくさいっす」と冬優子に愚痴り、「喧嘩売ってんの、あんた」と般若と化した彼女に怒られるのであった。