今回の話は、もし円香がW.I.N.G.予選で敗退したら…というIF時空です。
「今日の講義はこれまで。レポートは来週までに提出するように。さっきも言ったが、1秒でも遅れたら受理しないからな」
「えぇ~、そんな~」
「なに、お前まだレポート書き終わってないの?」
「いや~、サークル活動が忙しくて…」
「ははぁ、大学生活満喫してるな~。言っておくが、俺は見せてやらないからな」
「そんな殺生な!?」
大学の講義室。
4限目の講義を終え、ガヤガヤと話し出す学生たちを尻目に、円香はノートや筆記用具をリュックに詰めていく。
円香の隣に座っていた明るい髪の女性は、携帯を弄りながら彼女に声を掛ける。
「あっ円香!この後みんなでカラオケ行く予定だけど来る?」
「…ごめん、レポートまだ途中だから今回はパスで」
「円香は真面目だな~。じゃあ、私がレポート間に合わないときは助けてね」
「自分でやりな…どうしてものときは手伝うけど」
「マジ!?ありがと!じゃあ、またね~」
大学で仲良くなった友達に別れを告げ、円香は大学を出る。
歩いて数分で駅に着き、そのままやってきた電車に乗り、空いている席に着く。
『283プロダクションライブ開催!出演メンバーは───』
電車内で流れるその広告を見た瞬間、自然に円香の瞼は閉じ、視界は暗闇に包まれる。
(…283プロダクション)
その名前には聞き覚えがあった。なぜなら彼女が2年前まで所属していた芸能プロダクションであったからだ。
そう、所属していた───過去形である。
今の円香は283プロに所属していない。
そして、ノクチルというユニットにも所属していない。
なぜなら樋口円香は、2年前のあの日を境にアイドルをやめたからだ。
『W.I.N.G.本選に出れなかったらアイドルをやめる…そう決めてたから』
『もう夢を見るのは終わり。明日からはアイドルじゃない、普通の高校生として生きていく…そうするってあのときに決めたでしょ』
(アイドルをやめて、今の私は身の丈に合った人生を送っている。周りと同じ空気を吸って、ほどほどに息をしている)
無難に生き、普通に呼吸し、心臓は静かに脈を打つ。
アイドルでなくなってから。
夢を見なくなってから。
うつくしいものを遠ざけてから。
今の樋口円香の人生はかつてないほど穏やかで、平坦で、そして───。
(これでいいはずなのに、この気持ちはなに…?)
円香はふと、大切な何かを忘れてしまったような空虚感に襲われる。
あれから2年も経つのに、時々こうした気持ちに陥ることはあるのだ。
原因は彼女にもわからない。
それでも1つ明らかなのは、時が経つにつれて空虚感に苛まれる頻度が減っていること。
(違うことを考えよう…そういえば、今朝何かしようとしていたことがあったような…なんだっけ)
今朝の行動を思い返す円香であったが、眠たい頭ののままラーメンを茹でて食べたことしか思い出せず、結局マンションに着くまで彼女がその答えにたどり着くことはないのであった。
◇◆◇◆◇
大学生になって一人暮らしを始めた円香。
今住んでいるマンションはセキュリティがしっかりしており、関係者以外は入ることができないようになっている。
「あらおかえり、樋口さん」
「こんにちは、佐藤さん。ただいま帰りました」
マンションのエントランスに入ってきた円香に気付いた管理人が声をかけてきた。
挨拶を返してそのまま部屋に戻ろうとする円香に、嬉しそうな顔を浮かべる管理人が言葉を続ける。
「樋口さんからもお兄さんにお礼を伝えておいてくれないかしら?いつも美味しいお菓子ありがとうって」
「…あっ」
管理人の言葉を聞いて、円香はようやく忘れていた今朝の出来事を思い出す。
(そうだ、起きたら翼からチェイン来てて、朝食を食べてから返信しようと思ったまま、すっかり忘れてた…)
「樋口さん、どうかしたのかしら?」
「…いえ、何でもありません。私の方から兄に伝えておきます。それと、もう兄は来ているのでしょうか」
「えぇ、今朝連絡したけど樋口さんから返信なかったからお兄さん心配してたわよ」
続けて「ふふ、本当に兄妹仲がよくて微笑ましいわ」と口にしながら管理人のおばさんはニコニコと笑う。
(恥ずかしい…翼の馬鹿)
羞恥を覚えて顔を少し赤くした円香は、手で髪を触って顔を隠すようにして返答する。
「…すみません、返信するのを忘れてました」
「まぁそうだったの。けどお兄さんは合鍵持っているし、もう何度もここに来ているから先に通しちゃったけどよかったかしら?」
(いや、よくないけど)
心の中でそうツッコミ円香。
なぜなら今朝食べたラーメンの丼もシンクに置いたままだし、それ以外にも色々と散らかっている。
来客の予定があるときは事前に部屋を綺麗にしており、だらしない一面を見せないようにしている円香にとって、不意の訪問は大変好ましくない。
しかし管理人に文句を言っても仕方ないため、円香は「ありがとうございます、それでは」と返答してから足早に部屋へと向かっていった。
そして自室に到着した円香を出迎えたのは、スッキリした部屋の姿とキッチンから漂う美味しそうな匂いであった。
(はぁ…案の定部屋が整頓されている…しかももう作り始めてるし)
綺麗になったリビングを一瞥してから、キッチンに向かう。
そこにいたのはエプロン姿で料理をしている彼女の兄…樋口翼であった。
円香が帰宅したことに気付いた翼は、料理の手を一旦止めて「おかえり、円香」と出迎える。
「家主がいない間に掃除や料理をするなんて、いつの間にハウスキーパーに転職したの?」
「すまない。悪いと思ったが、食材が駄目になるといけないから先に部屋にあがらせてもらったんだ」
円香の皮肉にそう弁明する翼。
もっとも、彼女も本気で怒っているわけではないし、そのことを翼も気付いているので、2人の間に漂う雰囲気は穏やかなものだ。
「悪いと思うなら入らないで…って言いたいところだけど、食材に罪はないから許す」
「はは、ありがとう。もうすぐ作り終わるから、座って待っててくれ」
「ん」
「それと他にも作って冷蔵庫に入れておいたから。1週間はもつと思うが、早めに食べた方がいいかもな」
「…いつも言ってるけど、そこまでしなくていいのに」
「そうはいっても、円香はいつも簡単に作れるからって麺類ばかり食べているだろ?栄養が片寄るじゃないかって心配でな」
「はぁ…知ってると思うけど私はもう大学生。いつまで私の母親のつもりでいるの?」
不満げな表情を浮かべる円香に、翼は柔らかく微笑みながら言葉を返す。
「いや、兄のつもりだよ。それに、俺がしたくてしてるだけだから。円香が嫌じゃなければこれからもさせてくれると嬉しい」
「……ずるい言い方」
「はは、すまん」
そう言って、彼は昔と変わりない優しい顔で微笑むのであった。
◇◆◇◆◇
「お待たせ円香、ご飯できたぞ」
「ありがと。食器は私が並べるから、翼は料理を運んでおいて」
「了解」
手早くリビングの机の上に食器と料理を並べ、向かい合わせに座った2人は手を合わす。
「「いただきます」」
黄金色のチャーハンに卵スープ、野菜サラダと蜂蜜をかけたバナナヨーグルト。
そこまで手間ひまをかけずに作れる料理であるが、一人暮らしの円香にとっては作るのに億劫に感じてしまう料理。
(美味しい…まぁこれくらい時間があれば私にも作れるけど)
それが誰に対しての言い訳なのかは、円香自身もよく分かっていない。
ただ、翼の料理を素直に美味しいと認めるのに抵抗があった。
もっとも、もう10回以上は円香の食生活を心配して様子を見にきた彼にご飯を作ってもらっているのだが。
何なら、円香がいつまで経っても(本格的な)料理をしようとしないのは、翼の手料理に期待している部分があることを否定できない。
(お節介なのは昔から変わりないけど…普通ここまでする?まさか他の人にもやっていたり…)
「…ねぇ、私以外にもこんなことしてるの?」
ふと心に生じた疑問を翼にぶつける。
「ん、こんなことって?」
「…勝手に年頃の女性の部屋に入って、家主の許可なく掃除や料理をしているって意味」
円香の手厳しい言い方に苦笑しながらも「してないしてない」と翼は首を振る。
「流石に家族の円香にしかこんなことはできないよ」
「ふーん」
自分から聞いておいて興味なさそうな反応をする円香であったが、先ほどよりも彼女の機嫌がよくなっていることに兄である翼は気付いていた。
そこを指摘するとややこしいことになるのは経験上わかっているので、彼が追及することはないのだが。
「そういえばそっちは大学早く終わったの?」
「あぁ、今日は2限までだからな。チェインで夕方行くって送ったのにずっと既読スルーだったから、電話するか迷ったけど」
流石にその件は円香に非があるので素直に謝る。
「ごめん、返信するの忘れてた」
「そうか、まぁ円香に何かがあったわけじゃなくてよかったよ」
その後、最近あった出来事を共有する2人。
樋口翼と樋口円香。19歳になり高校を卒業した2人は、順風満帆な大学生生活を送っていた。
ちなみに翼は都内で最も偏差値が高い大学の教育学部へ、円香は同じ都内で有名な大学の文学部へ進学している。
2年前まではアイドルとマネジャーとして活躍していた円香と翼。そんな2人の進路を大きく変えたのは、W.I.N.G.本選出場者が決定したときである。
樋口円香の───W.I.N.G.予選敗退が決定した。
『W.I.N.G.本選に出れなかったらアイドルをやめる…そう決めてたから』
『…そうか、決意は変わらないんだな?』
『うん、きっとこれが私の限界だから』
『そんなことない!円香ならもっと高く空を飛べるはずだ!俺が不甲斐なかったから、それで…』
『それ以上は言わないで』
『でも…!』
『もう夢を見るのは終わり。明日からはアイドルじゃない、普通の高校生として生きていく…そうするってあのときに決めたでしょ』
『……そうだったな。それじゃあ、俺もマネージャーをやめて普通の高校生に戻るよ』
そして、樋口円香と樋口翼は283プロを退職した。
その後、紆余曲折を経て浅倉透と市川雛菜、福丸小糸の3人もアイドルを引退することになり、ノクチルというユニットは解散となった。
現在。
雛菜と小糸は高校3年生になり、受験勉強に勤しんでいる。
雛菜はファッション・アパレル業界の道に、小糸は医学の道に進むことを決めた。
そして、透の進路はというと───。
「しかし、今でも驚きだよ。まさか透が宇宙飛行士を目指すなんて」
「…まぁ逆に浅倉らしいけどね」
高校2年の最後、進路を決める三者面談で「あー、なりたいかも、宇宙飛行士に」と言い放ち、親と先生どちらも驚かせた。
それから翼が勉強を教えたり、透の努力の甲斐もあって、都内にある自然科学系の大学に入学することができた。
「みんな、本当に立派になったな」
「突然なに、父親のつもり?」
「いや兄のつもりだ」
「それはそれでおかしいでしょ…それに、不本意だけどあなたの妹は私だけでしょ」
「はは、そうだったな」
「まったく…本当にいつまで経っても変な人」
食事をとりながら笑い合う兄妹。
過去に後悔を残しても、時が止まることはない。
昨日は今日になり、今日は明日へと進んでいく。
過去に忘れ物を残したまま、今日も彼女たちは前へと歩いていくのであった。
アナザーエンディング 『ありえたかもしれない未来』
ちなみに円香が主役のため透たちが283プロをやめた経緯はばっさりカットしました。
ノクチルが抜けた後の283プロの様子も書きたかったのですが、文字数の関係でこれもカット…。本編書き終わったらいつかはこの辺りも書きたいですね。