雛菜と小糸がプロデューサーである椿から面接を受けている頃、透と円香の2人は283プロの事務所で仕事を始めるところであった。
「それでは~、円香さんはプロデューサーさんから事前に言われた通り、今日はアイドルとしてのサインを考えてくださいね~」
「わかりました」
283プロダクションの唯一の事務員である七草はづき。
彼女は新しくアイドルになった透と円香に今日の業務内容を伝えていた。
「透さんは、先週から検討中とプロデューサーさんから聞いていますが、進捗はどうですか~?」
「あ~…すみません、忘れてました」
「ふふ、それでは透さんも今日は円香さんと一緒に自分のサインを考えましょうね~」
サインの存在を忘れていた透に、はづきは優しい表情のまま答える。
「サインか~…、樋口は得意?」
「サインに得意とかある?」
「ん~、わからん」
2人の独特なやり取りを見て、はづきは小さく微笑みながら話を続ける。
「ふふ、透さんと円香さんは小さい頃に、自分のサインを考えたりはしなかったんですね~」
「ん~…あったような、なかったような…」
「普通の生活を送っていたら、自分のサインを考える機会はあまりないかと」
はづきの質問に、2人は芳しくないリアクションを返すのであった。
本日、透と円香の仕事内容は自身のサイン作りであった。
業者に委託してサインを作成するアイドル事務所が多い今のご時世、283プロではアイドルたちが自分のサインを作る方針をとっていた。
もちろん、素人がいきなりサインを作るのは難しい。
そのため283プロのアイドルたちは、有名人のサインを参考にしたり、プロデューサーに相談したり、同じアイドル同士で相談し合って自分のサインを作っているのであった。
「部屋に置いてある本や、他のアイドルたちのサインを参考にしてもらっても大丈夫ですから~。私も別室で仕事しているので、何か相談したいことがあったら声をかけてくださいね~」
「はい、わかりました」
「それと、苦戦している透さんに朗報です~。お昼頃に助っ人が来ると思いますので、行き詰まったらぜひ相談してみてくださいね~」
「…?りょーかいです」
はづきが事務室に戻った後、透と円香は自身のサインを考え始めた。
「ふむふむ…なるほどな~」
「その本、参考になる?」
「ん~、わからん」
透は部屋に置いてあった『小学生でもわかるサインの作り方』という本を椅子に座って読んでいたが、書かれている内容をあまり理解していないようであった。
「頷いていたのは何だったの?」
「読んでもわからないから、あとで翼に聞くかーって思った」
兄の名が突然出たせいか、円香の反応は一瞬遅れる。
「…浅倉、翼に頼りすぎじゃない?」
「ふふ、大丈夫。私と翼の仲だから」
「それよく言うけど、浅倉と翼はただの幼馴染でしょ。普通の幼馴染にはそこまで頼ったりしない」
円香が責めるような眼差しで透を見つめるが、彼女は気にした様子を見せず言葉を続ける。
「じゃあ特別な幼馴染だ」
「……」
「もちろん、樋口もね」
「………」
「聞こえてる、樋口?」
透の問いかけに、フリーズしていた円香はようやく反応を示す。
「…聞こえてる。あと、私は手伝わないから」
「えぇー、樋口のケチ」
「どうせ翼に聞くんだから、別にいいでしょ。私は携帯で調べているから、浅倉も自分の携帯で調べてみたら?」
「そうするか~」
そんなやり取りをしてから約1時間。
透と円香のサイン作りは難航するのであった。
「うし、休憩するか」
「ちょっと、まだそんなに時間経ってないでしょ。それに、はづきさんが昼に助っ人が来ると言ってたから、もう少し───」
「ん、聞こえた」
「はぁ?何、いきなり」
「人の声。助っ人だ、待望の」
透の言葉通り、円香の耳にも複数の女性の声が事務所から聞こえてきた。
先程までは同じフロアにはづきしかいなかったが、たった今誰かが事務所に入ってきたらしい。
「…声が近づいてきてるし、こっちに来そうな気配。このタイミングだと、はづきさんが言っていた助っ人で間違いなさそう」
「おぉ、ようやく来たか~。うし、失礼がないようにしないとね」
大きく背伸びして立ち上がった透を見て、円香はため息を吐きながらも彼女と同じように立ち上がる。
その後、円香の予想通り複数人の気配が部屋に近付いてきた。
そして彼女たちがいる部屋のドアが開き、
◇◆◇◆◇
「それでは、知っているかもしれないけど改めて自己紹介するねっ!わたしは283プロ所属の八宮めぐるで~」
「わ、私は、櫻木真乃ですっ」
「風野灯織です。趣味は音楽鑑賞や占いで、特技は料理です。よ、よろしくお願いします」
助っ人の正体は283プロ所属のアイドルグループ『イルミネーションスターズ』の櫻木真乃、風野灯織、八宮めぐるの3人であった。
透たちとは初対面であったので、めぐるの提案でまずは自己紹介から始めることにした。
「樋口円香です。アイドルになったばかりの若輩者ですが、これからよろしくお願いします」
「浅倉透でーす。趣味は…何だろ、樋口知ってる?」
「自分のことでしょ?私に聞かないで」
「えっと、じゃあ…寝ることかな」
「そ、それは素敵な趣味ですねっ」
独特な自己紹介を行う透に、灯織は精一杯のフォローを入れる。
「わたしたち3人はイルミネーションスターズ──イルミネとしてグループ活動してるんだ~!透や円香はグループ組むとか決まってる?」
「いえ、まだそのような話はプロデューサーから伺っていないですね」
「そっか~、あっ!2人のこといきなり名前呼びしちゃったけど、嫌だったりする?」
「いえ、私は特に」
「いいよ、私も」
「よかったぁ!はづきさんから年が近いって聞いていたから、仲良くなりたいって思ってたんだ~!」
「八宮さんたちは確か16歳でしたよね」
「1歳違いだ、私たちと」
円香と透は17歳の高校生2年生なのに対し、イルミネ3人は16歳の高校生1年生で、透の言う通り1歳違いであった。
「うん、そうなの!だから、お互いに気楽に話せたら嬉しいなって思ったり…あと名字じゃなくて名前で呼んでくれたらもっと嬉しいかも!」
「わかった、めぐる…これでいい?」
「うん、ありがとう円香!」
めぐるは持ち前のコミュ力を発揮し、円香たちとの距離を縮めていく。
「あの、よかったら私も名前で読んでくれたら嬉しいです」
「じゃあ、真乃ちゃんって呼ぶね。いい名前だね、真乃ちゃんって」
「!あ、ありがとう、透ちゃん」
めぐるよりコミュ力が劣る真乃であったが、無事に透との名前呼びに成功して嬉しそうに微笑む。
「そ、それでは、私も──」
「ところで、めぐるたちはどうしてここに?」
真乃同様、コミュ力が芳しくない灯織は、
しかし、円香に話を遮られてしまったため、名前で呼んでほしいとの灯織の願いが言葉に出ることはなかった。
「あっそれはね~、円香たちにサインのアドバイスするために来たんだっ」
「おー、助かる」
「ほんとっ?2人の迷惑にならなくてよかったよー!」
「逆にそっちに迷惑かからない?めぐるたちは仕事で忙しいでしょ」
テレビ出演が増えてきて忙しいはずのイルミネ3人に、円香は当然の疑問を投げかける。
「大丈夫っ!ねぇ、2人とも?」
「うんっ…私たち、今日は15時までフリーなんだ」
「私たちのために、わざわざ早く事務所に来てくれたの?」
「えっと、プロデューサーさんから、ま……樋口さんたちがサイン作りに困っていたら手伝ってあげてほしいと言われていたので…」
それに、と灯織は言葉を続ける。
「私たちもサイン作りには苦労したので、ぜひお2人の助けになりたいと思ったんです」
プロデューサーからアイドルになったばかりの透と円香をフォローしてほしいと頼まれていたイルミネの3人。
彼女たちは昨夜チェインで連絡をとりあい、今日は早めに事務所に来て透と円香の手伝いをしようと決めていたのだ。
ちなみに灯織が円香を名前で呼ぼうとしたが、いきなり名前で呼ぶのは馴れ馴れしいかもという彼女特有のネガティブ思考に陥ってしまい、結局名字呼びとなった。
「………」
(───実物には初めて会ったけど、この人が
そんな灯織の様子から、自分の名前を呼んでいいものか迷っていることに円香は気付いていた。
しかし、彼女は『風野灯織』というアイドルに
◇◆◇◆◇
「私のサインはフルネームをひらがなで書いて、最後に鳥さんの羽を足したものです…えっと、こんな感じかな」
経験談が一番参考になるだろうという灯織の案が採用され、自分がどのようにしてサインを作ったのか、最初に真乃から紙にサインを書いて説明していくことになった。
「おぉー、いいね」
「ありがとうっ。私は鳥さんが好きだから、自分のサインに入れられたらいいなと思って…」
自分のサインを見て感心した声を上げる透に真乃は照れ臭そうに微笑む。
「自分の好きなものを入れる…好きなもの…」
「ちなみに、円香の好きなものはなにー?」
視線を左上に向けながら好きなものを考える円香。
そんな円香にめぐるは楽しそうな顔をしながら質問する。
「…秘密」
「そっか!いつか教えてくれたら嬉しいなっ」
答えをはぐらかした円香であったが、めぐるはまったく気にした様子がなく微笑むのであった。
そんなめぐるに円香はそっぽを向きながら口を開く。
「…まぁ、そのうちね」
「うん!そのときはわたしが好きなものも教えるね~!」
そうして真乃の説明が終わり、次は灯織の番になった。
「私のサインはフルネームを漢字で書いて、『風』の最後を伸ばしたものになります。…全然工夫がないサインですみません」
初手から謝罪しながら自身のサインを説明する灯織。
申し訳なさそうな表情をする彼女を見て、円香は口を開く。
「…そんなことはないと思うけど」
「樋口さん…?」
「この部分を伸ばすことで風を連想できる。…悪くない工夫じゃない?」
「あ、ありがとうございます!その…何日も悩んで考えたサインなので、そう言ってくださると嬉しいですっ」
先程とは打って変わって明るい表情を浮かべる灯織に、円香は視線をそらす。
「…私はあくまで一般論を言っただけだから」
「んん?樋口、何かあった?」
円香の様子に、いつもとは違う違和感を感じたのか、透は不思議そうな表情で尋ねた。
「別にないけど…何でそう思ったの?」
「ん~、勘」
「また勘?浅倉の気のせいでしょ。それより、サインはできそうなの?」
「あともうちょっとで出来る…気がする」
灯織に対する円香の態度に透は違和感を覚えたが、その後円香に対して追及することはなかった。
そして無事に灯織の説明が終わり、最後はめぐるの番へと移った。
「私はね~、自分の名前をひらがなで書いて、『る』の最後の部分を二重丸みたいにしてるんだ!」
「名前の周りにあるのはハート?」
「うん!名前だけだと物足りないかな~と思って、ハートも書いてみたのっ」
円香の問いかけに、めぐるは笑顔で答える。
「めぐるちゃんのサイン、女の子らしくて可愛いよねっ」
「え~、真乃のサインの方が可愛いよ~。ねぇ、透もそう思うでしょ?」
「うん。グーだよ、真乃ちゃんのサイン。後でもらっていい?」
「う、うんっ!後で色紙に書いたものを渡すねっ」
自分のサインを褒めてくれた透に、真乃は嬉しそうにはにかみながら答えた。
「めぐる、このサインはどれくらいで考えたの?」
めぐるのサインを真剣に見つめていた円香は、質問を続ける。
「う~ん、私は数時間くらい考えたかなぁ。プロデューサーにアドバイスしてもらったおかげで、思ったよりも早くできたよ!」
「なるほど」
そして、イルミネ3人によるサイン作りのアドバイスは、大きな問題もなく透と円香に伝えることができた。
説明を終えた真乃は、少し不安そうに透たちに問いかける。
「その、参考になったかな、2人とも…?」
「ばっちり。ありがとね、真乃ちゃん」
「うんっ、何かあったら連絡してね、透ちゃん」
真乃と透はこの短時間で打ち解けたようであった。
「その、樋口さんはどうですか…?」
「3人の話は参考になったけど、まだサインは検討中」
「そ、そうですか…」
「…サインが完成したら連絡する。それでいい?」
「は、はい!その…楽しみにしていますっ」
灯織と円香は相変わらず壁があるが、それでも最初の時より距離は縮まっているように感じられた。
「うんうん!同じ事務所のアイドル同士、これからよろしくね、透、円香っ!」
そして透と円香との連絡先を交換しためぐるたちは、改めて挨拶を交わすのであった。
今日の裏話⑤
円香が灯織にだけ冷たい態度をとるのは、彼女の兄が関係しているらしい。