話は少し過去に遡る。
風野灯織が283プロ所属のアイドルになって、新人アイドルという区分から抜け出してきた頃。
世間から注目を集めているとあるアイドル番組、そのオーディションが開催された。
『アイドルの笑顔は無敵』という言葉をキャッチコピーとした番組に興味を持った灯織は、プロデューサーである椿に頼み、その番組のオーディションに挑戦した。
しかし、届いた審査結果には『落選』の文字。
そして、落選理由には『笑顔がアイドルとして足りていない』と記載されていた。
オーディション終了後、椿は灯織のことをフォローし、次の仕事に切り替えていくよう告げたが、そう簡単に心に生じた曇りを晴らすことはできなかった。
もちろん、灯織がオーディションに落ちるのはこれが初めてではない。
今までも数回オーディションに落選したことがあった。
その都度修正すべき点、自分に足りていない部分を分析し、補うよう灯織は努力してきた。
だが、そんな努力家な灯織でも、どうしてもアイドルらしいキラキラとした笑顔を浮かべることができなかった。
そもそも、灯織は笑うこと自体が苦手である。
アイドルになる前は、周囲の人に笑顔を浮かべることはほとんどなく、他人と積極的に関わろうとしない生活を送ってきた。
そんな風野灯織がアイドルを目指したきっかけ──それは、中学の学園祭で偶然目にしたアイドルであった。
『笑顔は無敵だからね~!』
アイドルとしての魅力的な笑顔、そして舞台で躍りながらそう告げた彼女の言葉は、今でも灯織の心に深く刻まれている。
───彼女のようにキラキラして、周りの人を元気にする存在に、自分もなってみたい。
───そしていつか、こんな自分を好きになりたい。
こうして、灯織はアイドルになることを決意したのだ。
その後、283プロのアイドルになってから、灯織は努力を続けてきた。
苦手だった笑顔も、真乃やめぐるというかけがえのない仲間ができたこともあって、以前より上手くできるようになった自負が灯織にはあった。
しかし、成長したと思っていた自分の笑顔を「アイドルとして足りていない」と審査員に指摘されたことは、灯織に大きなショックを与えるのであった。
アイドルらしい笑顔を身につけるためにはどうすればいいのか?
そもそも自分にあのアイドルのような笑顔を見せることができるのか?
灯織の悩みは解消されないまま時間が経ち、イルミネーションスターズのライブが開催されることになった。
結果だけ見れば、ライブは大成功に終わった。
チケットは完売で、当日の天候は良好。
機械トラブルもなく、イルミネの3人は最高の歌やダンスを披露できた。
観客に向ける笑顔がぎこちなかった灯織であったが、真乃やめぐるのフォローもあって、無事に演目を終えることができたのだ。
ライブ終了後、会場に設置されたプレゼントボックスに灯織宛への手紙が何枚か投函されていた。
複数の手紙はプロデューサーの手を経由して、灯織へと渡された。
その際、その中の1枚を手に取った椿は、最初に読んでみるよう灯織に告げた。
(この手紙に何かあるのかな…?)
今までもファンレターをもらってきた灯織だったが、椿から順番を指定されたのは初めてだった。
灯織はそのことを不思議に思いながらも、彼女の助言通り、シンプルな便箋に書かれた手紙から読んでいくことにした。
『風野灯織さま。
本日のライブ、お疲れ様です。
心に響く歌や目を惹き付けるダンスを見れて、とても楽しい時間を過ごすことができました』
その手紙は、灯織がよくもらうファンレターと同じような内容が書かれていた。
もちろん灯織にとって嬉しいことであったが、わざわざこの手紙を最初に読むよう伝えた椿の意図が理解できずにいた。
だが、手紙を読み進めていくうちにどうして椿がこの手紙を最初に読むよう指示したのかわかってきた。
『───灯織さんは自分の笑顔について悩んでいませんか?』
手紙の後半から、灯織が今抱えている悩みについて触れてきた。
『私の見当違いかもしれません。それでも、もし灯織さんが深く悩んでいるとしたら、これだけは伝えさせてください』
丁寧な言葉で書かれていた手紙が、熱が入っていくにつれ崩れていく。
『───灯織は、間違いなく誰かを笑顔にしているよ』
(───あぁ)
目の前にあった曇りが消えていく。
『他のアイドルと自分の笑顔を比べる必要はないんだ。灯織は、自分らしく笑えばいい』
(───そうだった、初めからわかっていたのに)
明かりが、道を照らしていく。
(───『風野灯織』はあのアイドルにはなれない。それを理解した上で、私はアイドルになった)
『自分らしく笑うと言っても難しいよな。それなら、まずは自分を好きになってみよう』
(───それでも、キラキラとした笑顔ができなくても、私は『風野灯織』として誰かを笑顔にしてみせる)
歩んでいく道の先に、自分が憧れた存在が待っている。
『誰しも最初から完璧な笑顔はできないよ。だから焦らず、灯織のペースで───』
(───1歩ずつ進んでいこう)
手紙を読み終えた灯織から迷いは消えた。
その後、彼女は心配をかけた椿や真乃、めぐるに謝罪した。
自分のことを心配していた仲間たちは、悩みが解決した灯織に対して温かく迎えてくれた。
こうして、灯織は理想のアイドルを目指して再び歩み始めるのであった。
(ありがとうございます、私のことをよく見てくれていて。えっと、名前は…)
灯織の悩みを解消するきっかけを作った手紙、その人物の名は───。
◇◆◇◆◇
「───樋口さん、か…」
時刻は13 時。
次の仕事まで時間があるイルミネ3人は、軽い昼食を挟みながら円香、透と楽しく話していた。
話題がファンレターになったことで、1番記憶に残る手紙を思い返していた灯織の口から、思わず言葉が漏れた。
「私がどうかした?」
「あ、いえ!その、手紙を送ってくれた方と同じ名字だったので…」
「……そう」
灯織の口から手紙という言葉を聞いた円香は、感情が読めない声で返事をした。
「灯織ちゃん、もしかして前のライブのときに手紙を送ってくれた『樋口さん』を思い浮かべてた?」
灯織から手紙の存在を聞いていた真乃が口を開く。
「うん、私がもらった手紙の中で特に印象に残ってるから…」
「灯織、休憩時間とか嬉しそうによく読んでいるもんね~」
「そ、そんなことっ…あるのかな…?」
顔を赤くした灯織は、恥ずかしそうに顔を背ける。
そんな中、話についていけていなかった透が不思議そうに首を曲げる。
「なに、手紙って?」
「あっ、ごめんね透、それに円香も!いきなり言っても何のことかわからないよね!」
めぐるは事情を知らない透と円香に、灯織の話を交えながら説明し始める。
灯織がオーディションに落ちた後、長く悩んでいたこと。
真乃やめぐるの励ましでも、心の曇りが晴れなかったこと。
悩みを抱えたまま行われたライブ、その終了後に投函されたファンレターの内容が、灯織の悩みを解消するきっかけになったこと。
「───それで、その手紙を書いてくれた人が、円香と同じ名字で『樋口』さんっていうんだ!」
「へぇ~、それって樋口?」
「なわけないでしょ……その人の名前は?」
「え?」
あまりこの話題に興味を示していなかった円香からの質問に灯織は思わず驚く。
「その手紙には名字だけじゃなくて、名前も書いてあったんでしょ?」
「はい、えっと手紙には───『翼』、と書いてありました」
灯織が名前を告げると、質問した円香は何も答えず、目を閉じて黙ってしまう。
「………」
「え?翼って、あの翼?」
透の質問に、灯織は正確な意図がつかめないまま答える。
「えっと、どの翼かは分かりませんが、鳥の羽を意味する『翼』です」
「上が樋口で下が翼…ふふ、樋口翼だ」
「…?はい、それが手紙を書いてくれた方のお名前ですね」
戸惑い気味で返答をする灯織から、そっぽをむいている幼馴染に透は視線を移す。
「ねぇ樋口」
「…なに?」
「知ってた、樋口は?」
「…たまたま」
実は、兄である翼が風野灯織というアイドルにファンレターを送っていたことを円香は知っていた。
兄が気にかけている事実に羨望や嫉妬など複雑な感情を抱いていたため、今日会った灯織に対して円香は冷たい態度をとっていたのだ。
「そうだったんだ。…ねぇ、風野さん」
「は、はい!」
「持ってる?翼からの手紙」
「えっと、一応持ってますけど…」
「見てもいい?」
「は、はい…」
灯織にとって彼からの手紙は宝物で、真乃やめぐる以外にはあまり見てほしくなかったが、何か知っている透からのお願いを断ることはできなかった。
灯織から手紙を受け取った透は、その内容に目を通していく。
いつの間にか透のすぐ横に移動していた円香も、手紙を読み始めた。
そして、数分後。
「なるほどね、これは間違いなく『翼』からの手紙だ」
「…翼らしいキザな文章」
「あれ、樋口は読んでなかったの?」
「書いたのを偶然後から知っただけ。翼に聞いたけど内容までは教えてくれなかった」
翼から送られた手紙を読み終えた透と円香はそれぞれ感想を口にする。
「いいね、アイドルになるとこんな手紙を書いてもらえるんだ」
「こんなの1歩間違えれば厄介ファンでしょ」
「でも、翼からこんな手紙もらえたら嬉しいでしょ、樋口も」
透からの指摘に、円香は一瞬言葉を詰まらす。
「…家族から手紙もらっても恥ずかしいだけ」
「素直じゃないね、樋口は」
「…うるさい」
そんな透と円香のやり取りを見ていた灯織は、おそるおそる話しかける。
「あの、もしかして樋口翼さんって、樋口さんの…」
「そう、私の兄」
「~~っ!」
まさか今まで話していた手紙の送り主が円香の兄だと知り、灯織は目を白黒させる。
「えっ、そうだったの!?すごい偶然だねっ!」
「灯織ちゃん、ようやくお礼を伝えられそうでよかったね」
灯織は自分の悩みを解決してくれた手紙の主にお礼の返事を書こうとしていた。
しかし、返信しようにも手がかりになるのは名前しかなく、住所やメールアドレスなどの記載はなかった。
本来のファンレターなら送り主の住所は必須であったが、ライブ会場にあるプレゼントボックスに直接投函されたものは名前のみで問題なかったため、今日まで灯織は感謝を伝えることができずにいたのだ。
「あのっ、樋口さんのお兄さんに会わせていただくことはできますか?」
ようやく平静を取り戻してきた灯織が、円香にお願いをする。
頬を上気させながら頼み込む灯織を見て、円香は少し考え込む。
「…考えておく」
「えっ!?」
まさか保留にされるとは思っていなかった灯織の口から驚きが漏れる。
「もう円香っ、灯織にいじわるしちゃダメだよっ!」
「ふふ、樋口は兄をとられるのを警戒してるんだよ」
「あっ、そうなんだ!お兄さんのことが大好きなんだね、円香って」
めぐると透の揶揄うような言葉に、円香はぶすっとして答える。
「…違う」
「あのっ、私は別に樋口さんのお兄さんをとるつもりはありませんので…!」
「…はぁ、めんどくさ…ねぇ、風野さん」
「は、はい!」
「空いている日を教えて」
「えっ」
「その日に翼をここに連れてくる。それでいいでしょ?」
「っ!あ、ありがとうございます!!えっとスケジュール、すぐに確認しますねっ」
とても嬉しそうな表情でお礼を伝えた灯織は、慌てて手帳を取り出して予定を確認していく。
「…まったく、そんな急がなくても私は逃げないから」
そんな彼女を見て、円香は今日初めて笑みを浮かべるのであった。
今日の裏話⑥
男友達に誘われイルミネのライブに参加した翼は、ぎこちない笑顔を浮かべ、時折暗い表情をする灯織を見て、衝動的にその場で手紙を書いて投函してしまった。
次の日、あまりにも冷静じゃない状態で書かれた手紙の内容を思い返し、頭を抱えた彼は記憶の奥底に封印することにした。
その後、彼の男友達経由で手紙の存在を知った円香に何度も追及されたが、彼が最後まで手紙の内容を明かすことはなかったのであった。