ソードアート・オンライン -The Dream of a Butterfly-   作:楪 

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初投稿です。諸々拙いとは思いますが、よろしくお願いします!


第一話 異変

『黒の剣士』の悪名を象徴する漆黒のコート。

 

自分だけを生かすための剣。

 

それだけが、俺を構成する『何もかも』だった。

 

 

「……っ、うぁ……?」

 

パチリ、まるでシャボン玉が弾けるように俺は突然目覚めた。横たわったまま電波時計に目をやると、時刻はまだ丑三つ時。不可解な覚醒にざわつく胸を落ち着かせるように、深呼吸をした。

 

「……っこほ、けほっ……」

 

不意にのどがザラついた感覚に耐えきれず、小さく咳が出た。この時間帯に直葉を起こしてしまったらどうなるか。怒られるならまだいいが、心配を掛けてしまうのは避けたい。必死に止めようとするも、落ち着くまでには数分を要した。

 

「……参ったな、風邪でも引いたか?」

 

どういうわけかやたら重苦しい胸を擦りながら、ポツリと独りごちた。昔から引きこもり気味ではあったものの、俺は相当な健康優良児であるはずなのだが。あまり風邪など引いたことはないし、ましてや最近は特に無茶な生活もしていない。

もしかして、気分の問題なのだろうか。唐突な目覚め前の記憶はほぼないが、なんだか夢を見ていた気がする。牡丹雪のように思い気分から察するに、きっと悪夢だったのだろう。

 

どうせなら、痕跡ごと綺麗に消えてくれればいいのに。とろとろと眠りに溶けていく思考の片隅で益体もないことを考えながら、もう一度目を閉じた。

 

 

……いちゃん、お……ちゃん

ぼんやりと聴覚が起動し始めたのを感じて、覚醒が近いのだな、とどこかで思った。

 

「ぅん……あと五分……」

 

もにゃもにゃと口を動かしてそれだけ言ったが、数瞬後、それが間違いだったと悟った。

 

「何言ってんの、起きなさーい!」

「うぉわ!?」

 

がお、という効果音が付きそうな声と、ベリっと布団を剥がされるという暴挙に、俺はたまらず目を覚ました。

 

「おはよう、お兄ちゃん」

「お、オハヨウコザイマス」

 

にーっこり。直葉の表情自体は非常に晴れやかなものだったが、陽炎のようなオーラがそれを裏切っていた。

──怒っている。ものすごく、怒っている。

 

「お兄ちゃん、今何時かな?」

「えーっと、七時……あ"っ」

 

それに気づいた途端、頭を掻きむしりたい気分になる。今日は俺が食事当番だった。それなのに寝坊して、挙句直葉に起こされてしまうとは。

 

「ごめん、スグ。腹減ったよな……夕飯は頑張るから」

 

SAOから還ってきてからとみに思うのだが、直葉は思いのほか食事の時間を楽しみにしているようだった。特に剣道の朝練に精を出す彼女にとって、朝食は別格なのだろう。彼女がここまで怒っているのも、さもありなんと言うわけだ。

俺の答えを聞いた直葉は、ふんす、と息をついて、先行ってるから、と部屋のドアに向かった。全面的に俺が悪い、とそれを甘んじて受け止めようとする俺に、去り際の彼女は悪戯な笑顔でこう言った。

 

「東京駅の駅ナカスイーツで、手を打ってしんぜよう!」

 

 

「きりーつ、気をつけー、れーい」

 

気だるげな声に緩慢に動きを合わせ、お辞儀をした。いつの時代も、なぜ授業というものはこんなにもかったるいのか。今日はアスナに会えない日なので、その無味乾燥さもひとしおだ。

 

「カズー、早く着替えねえと置いてくぞー」

 

思考を飛ばしてしまっていた俺に声をかけたのは、ヒロことクラスメイトの吉田裕之だった。彼は同じエレクトロニクスコース選択者であり、選択授業もほぼ被っている。そのためか、なんとなくつるんで行動するのが日常になっていた。

悪い悪い、と声をかけて着替えを開始する。よくある、更衣室は女子用しかないというパターンだ。元SAOプレイヤーたる学生が通うこの高校では、女子など雀の涙ほどしか居ないのだが。

 

「今日の体育、なんだっけ?」

「体育の日のマラソン大会に向けてマラソンだと」

 

その返答に、思わずうへぇと声を漏らしてしまった。言ったヒロも同じような顔つきをしている。もやしっ子が集まったような学校で、マラソンが好きな奴などあまりいないだろう。

しかしヒロは、俺の答えにぱちくりと目を瞬かせた。

 

「……お前、身体鍛えてるんだし五kmくらい余裕だろ?」

 

ヒロの疑問に、あー……と目を泳がせる。確かに、夏休み前の俺ならそう答えていたかもしれない。

夏休み前。梅雨明けの時期に重なるようにして、暫く俺は学校を休んでいた。表向きは風邪をこじらせた、ということになっているが、実際はラフィン・コフィンの残党であるジョニー・ブラックこと金本に襲われ、寝たきりとなっていたのだ。今は見た目はほぼ以前通りに戻っているが、筋肉などは当然のように落ちてしまっている訳で。筋肉の付きにくい体質の俺は、その事に気づいたときに小一時間ほど落ち込むハメになった。

 

「じ、授業のマラソンと自力で鍛えるのはまた違うだろ、ウン」

 

ヒロの視線が、こいつ夏休み暑すぎてトレーニングサボったんじゃね? という胡乱気なものになっている気がする。甚だ遺憾であるが、本当のことを言うわけにもいかないので、黙殺することにした。

 

「ま、カズのトレーニング事情なんてどうでもいいけどさ」

 

ほれ、とヒロは、いつの間にか取りに行っていた俺の分の体育用シューズを投げ渡した。サンキュ、と受け取りながら捉えた彼の目には、本当になんの含みもなかった。

 

「俺、お前のそういうさっぱりしたとこ好きだわ」

「どうした急に。やめろ気持ち悪い」

 

少々引きつった顔のヒロを見て、思っていたことが口から零れていたことを自覚する。マジか、うわあ恥ずかしい。

しかし、こういうときに照れてしまっては言われた側も恥ずかしいのだろう。なんとなく居心地の悪い空気を変えるように、そうだ、と思いついたようヒロが言った。

 

「今ならカズに運動で勝てるかもしれないのか。タイム勝負しねえ?」

「……言ったな。大差つけてやる」

「げっ……ハンデくれハンデ」

「勝てるかも、って言ったのはどの口だよ」

 

言いながら、コロコロと笑う。打てば響くような軽口の応酬に快さを感じながら、俺達は並び立ってグラウンドに向かうのだった。

 

 

前へ踏み出す脚が重い。肺が酸素を求めて喘ぐ。横隔膜がズキズキと存在を主張する。

 

「きっっっつ……」

 

マラソン中盤、既に俺はバテ始めていた。五kmってこんな疲れるもんだったか? そう考えた時点で今の自分の体力を把握しきれていないことに気がついてしまい、二重にげんなりする。

幸い、前半飛ばしたおかげでヒロは遥か後方である。もう力を抜いて適当に走ってもいいかな、と思うものの、大差をつけると言ってしまった手前、ギリギリの勝ちを狙いにいくのは、勝負に勝って試合に負ける気がする……!

って、あれ? 試合と勝負逆だったか? ……やばい、自分でも引くほど頭が回っていない。少々豪腹だが、意地を張っていないでペースを落とすべきだ、そう判断を下す直前だった。

 

「……ぁ?」

 

チカ、と一瞬太陽が眩しく輝いた気がして、まずい、と思ったときにはもう遅かった。手足から感覚がなくなり、頭が真っ白になっていく。耳の奥でごうごうという音がして、血の気が引いていくのがぼんやりと分かった。

 

「なんだ……これ……酸欠か……?」

 

掠れた声で呟いて、道を塞がないよう校舎の柵を背もたれにズルズルと腰を下ろした。

動悸が激しい。なのに、いくら息を吸っても酸素が回っている気がしない。それどころか、喉の奥でひゅぅひゅぅと嫌な音がする。ザラついた喉からは今にも咳が飛び出しそうで、でも一度それを許してしまえば止まらない予感がして、必死に耐えた。

 

「おーい、大丈夫かそこのお前……カズ!?」

「ヒロ……? ……っこほ」

 

うわ言のような響きを纏った言葉と共に零れた咳は、あっという間に激しさを増した。げほげほと咳き込む俺と背中をさするヒロに、後ろから走って来た男子生徒が体育の教師を呼びに行こうとしたが、担当教諭が少々苦手な俺は、それを手で制した。

 

「だい……じょぶ、さんけつ、と、むせた、だけ……」

 

男子生徒は逡巡していたが、大事にしたくないという俺の意思を汲んでくれ、無理すんなよ、と走っていった。

 

「っごほ、ヒロも、もう行って、」

 

いいぞ、と続く言葉は、デコピンによって強制終了させられた。鳩が豆鉄砲食らったような顔をしているであろう俺に、ヒロは呆れたように、そして若干の怒りを含ませた声で言った。

 

「カズがあの先生苦手なのは知ってっからいいけど、それ自分の顔色分かって言ってんのか?」

 

言い切ったヒロの顔には、純粋な心配が滲んでいた。そんなに酷い顔をしているのだろうか。ぺたぺたと自分の顔を触る俺に、ヒロはハァァァァと特大のため息をついた。

 

「お前、もうちょい自分に頓着した方がいいぞ」

 

うぐぅ、この体たらくでは何も言い返せない。ほんとうに、最近は無茶してないんだけどなあと思うものの、比較対象がおかしいことは薄々感じていたのだ。

 

「ほら、立てるか?」

 

落ち着いてきただろ、と手を差しのべるヒロに甘えて、肩を貸してもらった。その温かさに、随分冷えきっていたのだと気づく。

 

「……悪いな、ほんと」

 

「お前を保健室に放り込むまで安心できないからな。俺の自己満足でもあるんだ。それに、俺も授業をサボれる」

 

ニヤリ、と口の端に笑みを浮かべるヒロに、随分と救われたような気がした。

 

 

たっぷりと乗せられた果物の一つ一つが、色とりどりの宝石のように光るフルーツタルト。

一筋の皺もない絹のような滑らかさで、繊細なつくりを窺わせるレアチーズケーキ。

豪奢なパニエにベルベットのドレスを重ねた可憐な少女を思わせる、ベリーのムース。

目移りするようなケーキたちが所狭しと並べられたショーケースを尻目に、俺は途方に暮れていた。

 

直葉さん、駅ナカスイーツと言っても、俺こういうの専門外なんですが……

 

何しろ、一番最初に目に付いたところに飛び込んだだけでこれなのだ。止まっていても仕方がないと歩き出してはみたものの、専門店街はちょっとしたゲームのダンジョンよりもダンジョンらしい。ケーキのに限っても、どこが区切りか分からないほどに多種多様な店がズラリと並んでおり、スイーツにまで範囲を広げれば、それこそ一日で回りきれないほどだろう。

 

最も、直葉は俺がこうやって迷うことすら勘定に入れて、『駅ナカスイーツ』を指定したのだろうけれど。「どれがいいんだ?」とお伺いを立てたメールへの、「一番美味しそうなやつ!」という返信を思い出して、俺はそれを確信した。

 

つまるところ、『駅ナカスイーツが食べたい』というのは俺を許すための、そして俺が許されるための口実なのだろう。分かりやすい条件を設けることで、俺が気にしないように、という直葉なりの気遣いなのだ。

 

不器用なことだ、お互いに。SAOから帰還してから、俺達はそんじょそこらの兄妹には負けないくらい仲が良いという自負はある。しかし、SAOに囚われる前のわだかまりの後遺症なのか、喧嘩が少々下手くそなのである。まあ、双方ともALOで相手に殺されようとしていたあの頃よりは、マシだと思いたいが。

 

「……よし」

 

つらつらと考えながら漫然と歩いていた俺は、小さく声を上げることで気持ちを入れ替えた。不格好でも何でも、直葉の気遣いに応えられるような、最高のケーキを探すのだ。

気分はまさにトレジャーハンター、そんなときだった。

 

「ケーキなら、あの店のがオススメだよ」

「うわぁっ!?」

 

いきなり背後から話しかけられ振り向くと、そこには黒いマスクをした長身の男がいた。白のトレーナーにジーンズと、これ以上ないほど周りに溶け込んだ様子の男は、わざとらしくひらひらと手を振った。

 

「いやあ、驚かせるつもりはなかったんだ。こんにちは、キリト君」

 

白々しくそう言う男の目には、ニヤニヤとした笑みが浮かんでいた。珍しいものを見た、とでも言いたげだ。

 

「……アンタこんなとこにヒョイヒョイ出てきていいんですか」

 

死んだことになってるハズでしょう──人の多いこの場で流石に飲み込んだ言葉を察したのか、男──菊岡誠二郎は、得意げにこう言った。

 

「ちゃんと変装してるだろう?」

 

確かに、今日の菊岡の格好は、トレードマークのビシッとしたスーツや、逆に悪趣味な柄シャツなどとは違い、正に木を隠すなら森の中ならぬ、人を隠すなら人混みの中、といった出で立ちだ。一見スマートなトレーナーの、ローマ字ロゴを読まなければ。

 

「何だよ、墾田永年私財法って……」

 

半分独り言のつもりでボソッと言う。トレーナーの真ん中には、ローマ字で『KONDEN-EINEN Shizainohou』とデカデカとプリントしてあった。ご丁寧に『Since 743』と年号つきだ。自衛官クビになったから中学受験でもするつもりなのだろうか。その格好で受験会場に行ったら、放り出されること間違いなしである。

 

「いいだろう?これ。僕としてはこの、『your rice field』ってところが端的に法の要旨を表していて、最高にクールだと思うんだ。キリトくんも一着どうかな?キリト君にはこの色違いの黒とか、似合」

「結構です」

 

突っ込み待ちだったのか、菊岡はトレーナーについて嬉々として語り、遂には俺の分の注文のためスマートフォンをいじり出した。このまま放っておくと、帰ったら墾田永年私財法トレーナーが家に鎮座ましましていた、という事態になりそうだったので、言葉の途中でばっさりと切り捨てる。

 

「つれないねぇ……あと、いつも言ってるけど、敬語やめてくれないかな? キリト君に持ち上げられると、気味が悪い」

 

前半は大した不満も無さそうだったが、後半は割と本気のようで、大げさに二の腕を掌で軽く擦っていた。随分な言われようだが、今回は驚かされたことに対しての意趣返しを含んでいたので、ある意味正解である。

 

「じゃ、お言葉に甘えて。それで、なんだってアンタがここにいるんだ?」

 

まだ答えを貰っていない疑問を口にすると、菊岡は思い出したようにああ、と言った。

 

「安岐くんに、キリト君のエスコートを仰せつかってね。体調悪いんだろう?」

「げ」

 

本能的な回避反応で、思わずジリっと一歩後ろに後退する。

そう。保健室に担ぎ込まれ、保険医に早退を命じられた俺は、安岐さんに連絡を取ったのだ。サッサと家に帰り、何食わぬ顔で直葉と約束した夕飯を作ろうかとも考えたのだが、まあ……ヒロの言葉に、少々思うところがあったので。

誰に言い訳をするでもなく思考を飛ばしていた俺を、菊岡がくつくつと笑った。

 

「ひどいなあ、その反応。僕は誠心誠意、病院までエスコートするつもりで来たのに」

 

お手をどうぞ、とふざけて差し出してくる手を要らんわと弾きながら、俺は内心汗をかいた。

安岐さんに連絡したときには、いつか菊岡にも連絡が行くだろうとは勘づいていたが、まさか即日とは。

なんとなく、菊岡には弱みを見られたくないのだ。間違いなく、ロクデモナイことになるだろうというのは目に見えている。

コネを使っている時点で何を言っているんだという話だが、情報だけ行くのとその場を見られているのはだいぶ違うだろう。こう、気持ち的に。

そんな俺の心情を知ってか知らずか──まあ間違いなく察してはいるだろう──菊岡はその胡散臭い笑みを薄めた。

 

「ただの風邪ならいいが、もしもキリト君に何かあったら、こちらも困るからね。君のカノジョに怒られる、というのも含めて」

 

冗談めかした言葉尻とは対照的に、腹に一物抱えた声で菊岡は言った。もはや見慣れたその態度は、何か企んでいるということをもう隠す気はないのだろう。何を企んでいるかという所までは見せないのが、また小憎らしいが。

 

「……それに、君の身体に何かあるとしたら、その責任の一端は、確実に僕にある。だから、その責任を取らせてほしい」

「……その言い方はズルいぜ、菊岡サン」

 

少々迷ったように間を置いて吐き出された言葉は、一片の真実を帯びている気がした。考えてみれば、自衛官を辞めたとはいえ、俺も菊岡が守りたかった日本国民の一員なのだ。その俺が、菊岡の持ってきた死銃事件の余波で死にかけた挙句、治療目的で連れてきたオーシャン・タートルでラースのゴタゴタに巻き込まれたのだ。内心は忸怩たる思い……なのかもしれない。

 

「違いない。僕は、狡い大人だからね」

 

行こうか、と歩き出す直前、細いフレームレスの眼鏡の奥の瞳が、微かに揺れていた気がした。

 

 

東京駅のロータリーで待機していたタクシーに乗り、すっかり元の調子を取り戻した菊岡による御成敗式目Tシャツはどうだろうか、というプレゼン──逆になぜそれならいけると思ったのだろうか──を躱しながら十数分。俺たちは、安岐さんの務める病院に到着した。

 

「桐ヶ谷くん、久しぶり……でもないか。一ヶ月ぶりくらい?」

 

なんと手続きまでやってくれるという菊岡さんを見送り、入れ替わりに俺を迎えてくれたのは俺が連絡をした張本人、安岐ナースだった。安岐さんは相変わらずざっくりと結んだ三つ編みを揺らしながら、先導して歩き出した。

 

「こんにちは、安岐さん。いつもすみません……」

 

あまり病院で使いたい表現ではないが、SAO時代から死銃事件、UWのゴタゴタにまで付き合っていただいているので、こう言うしかなかった。安岐さんも、君の顔を見るのは最後にしたいかな、と苦笑している。

 

「あれから調子はどう? ……って、良くないからここにいるんだよね。失敗失敗」

「あー……多分ちょっとした風邪とかだと思うんですけど、まあ一応というか」

 

そっか、と笑う彼女は変わりなく、俺はふうっと息を吐いた。

身体のことで困ったことがあったらいつでも連絡してね、と連絡先を渡されたのは、死銃事件の後だった。しかし、なんだかんだで俺から連絡を取ることはなかったし、今となってはその行為は菊岡の指示だと思われるので、迷惑だったのではと若干不安だったのだ。

 

「それより、出来れば勝手に菊岡さんに連絡入れるの、やめて欲しいんですが」

 

半分諦めているが、安堵ついでに少々苦言を呈することにした。案の定、安岐さんはうーんと悩む素振りを見せるものの、返事はキッパリととしたものだった。

 

「ごめんね、それは無理かな。なんと言っても元上官どののご命令なので」

 

今はニートだけどね、とカラカラ笑う安岐さんに、この件をこれ以上追及するのは諦めた。ラース組織内──ことによれば、自衛隊及び政府組織内──がどうなっているのかは分からないが、俺はそちらの事情に首を突っ込む気はないのだ。今後は連絡するような事態にならないよう、気を付ければいいだけのことではあるし。

そんなこんなで和やかな会話をしつつ、ぺたぺたと音を響かせながら歩いていた安岐さんの足が止まったのは、ある診察室の前のソファだった。

「中に入る前に、熱測ってこの用紙に記入してね」

 

既に電源が入った状態の体温計を脇に差し込みつつ、用紙にざっと目を通す。病気で病院にお世話になった記憶はごく小さな頃にしかない俺は、こういったものを書いたことはあまりなかったので、なんだか物珍しい。ピピッと鳴った体温計に表示された数値は、至って普通の三十六度五分。記入事項をさらさらと埋めていくと、ほんの数分ほどで用紙は埋まった。

 

「うん、抜けはなし。じゃ、どうぞ中へ。先生がお待ちです」

 

用紙をチェックし、満足そうに頷いた安岐さんは、そのまま扉をノックし、診察室の中へ入った。俺はその後をついて、失礼します、とこわごわ入室した。待ち構えていたのは、白が頭髪面積の過半数を占める初老の男性だった。彼は柔和な笑みで、どうぞ座ってくださいと椅子を促す。

 

「はい、じゃあ喉見せて」

 

そこから先は、よくある検診だった。喉を見て、胸と背中にひやりと冷たい聴診器を当てていく。変わったことといえば、胸に聴診器を当てたときに医師の眉がピクリと持ち上がったことくらいだろうか。地味にビビって心拍数が上がりそうなので、出来ればポーカーフェイスでいて欲しい。一通り検診が終わり、医師は俺に向き直った。

 

「風邪っぽいって書いてあるけど、診た感じ風邪ではなさそうです」

 

医師は回転椅子をくるりと回転させ、カルテを参照すべく、マウスを動かした。

 

「肺のほうからちょっと雑音が聞こえたので、喘息の可能性が高いね。喘息ないって書いてあるけど、ほんと? 小児喘息とかなかった?」

「はい……たぶん、そのはずです」

 

少なくとも記憶にあるうちは断言していいし、母さんもそんなことを言っていたことはないので、ほぼ確実と言っていいだろう。医師は悩ましげに、頭をがりがりと掻いた。

 

「小児喘息にしても、成人喘息にしても、発症時期が微妙すぎるんだよなあ。なんかストレス溜めてたりする?」

 

俺はぷるぷると首を振った。最近の生活は平穏無事そのものだ。だからこそこの体調不良を怪訝に思ったというのもあるのだから。医師は、スマートフォンのバイブ音のような低い声で唸った。言うべきか、言わざるべきか。そんな様子でゆらゆらと揺れていた医師だったが、心が決まったのか短く息をついた。

 

「実はね、喘息よりもありえないなって思ってるんだけど、ちょっと迷ってる病気があるんだ。だからね、一応ね、……血液採ってX線と心エコー、行ってみようか」

 

 

──果たして、医師の判断は正しかった。

 

「桐ヶ谷くん、今すぐご家族の方に連絡取れる?」

 

待合室で待っていた俺に、ぱたぱたと近づいた安岐さんが声を掛けた。いつになく焦った様子に、嫌な予感が身体中を駆け巡る。

 

「ええと……ちょっと厳しいです」

「どうしても?」

 

色よい返事が返せなかったことに、安岐さんが間髪入れずに問い返してくる。とはいえ、オヤジはアメリカ務めなためデフォルトで家にいないし、母さんは例によって編集所に詰めている。担当している雑誌の編集作業が大詰めを迎えているようで、ことによると今日は帰ってこないかもしれない。俺はこくりと頷くことしか出来なかった。そっか、と頷く安岐さんは、難しい表情だった。俺の身体に何かが起きていることだけはもう確かで、全身を巡る血が針になってしまったような心地がした。

 

「それって、僕でもいいのかな?」

 

凍りついてしまった空気を破ったのは、安岐さんの後ろから歩いてきた菊岡だった。安岐さんは、逡巡している様子だった。薄くルージュの引かれた唇を噛み、眉根を寄せる。

 

「結果聞いた俺を落ち着かせる目的、とかだったら菊岡さんで大丈夫ですよ。菊岡さんに無様な姿見せたくないですし」

 

どうせ、後から菊岡にも結果は伝わるのだ。俺が動揺するのを見られたくはないが、お世話になっている安岐さんが困っているのなら、そんなことは瑣末事だろう。助け舟を出すつもりの言葉が功を奏し、安岐さんは俺と菊岡を伴って先ほどの診察室に入室した。どうぞ、と椅子を進める医師の表情は、先ほどとは打って変わって固かった。

 

「うん、じゃあ単刀直入に言います。なるべく深く呼吸して、落ち着いて聞いてね」

 

カルテに目を落としたままだった瞳をこちらに向けたのは、せめてもの慈悲だったのだろうか。それとも──

 

「心不全の、可能性があります」

 

事実を突きつける、為だったのだろうか。

 

「心不全、って……」

 

じわじわと浸透してきた単語に、頭が真っ白になる。

それは正に、死銃事件の、そしてUW事件の象徴。サクシニルコリンによる心不全で、四人もの死者が出て、俺自身も死にかけた。

 

「しかし、何故今になって。彼は一ヶ月前と少し前に検査をクリアして退院したはずです」

 

言葉を発する余裕すらない俺に代わって、菊岡が疑問を述べる。

 

「それはですね……『心不全』というのは、病名ではなく、心臓の機能が低下して、血液を送り出すポンプとしての役割が充分に果たせていない、という状態のことなんです」

 

医師は一度言葉を切り、別のカルテを表示した。その日付は一ヶ月ほど前のものだ。

 

「サクシニルコリンによる心不全は、急性心不全。原因も分かりきっており、ヤマを超えてしまえばあとは『心不全』としての心配はありません」

 

ですが、と医師はカルテを閉じた。最初の画面に戻ったそこに記されているのは、今しがた検査した項目。つまり、今日のカルテだ。

 

「今回疑われているのは、慢性心不全……信じがたいことですが、桐ヶ谷くんの心臓の働きは、高齢者並に衰えているのです」

 

心臓が、大きく脈打つ。心拍数はどんどん上がり、耳の奥でドクドクとうるさい。俺の心臓はこんなにも力強く動いていると実感できるのに、心臓が衰えているとは、一体なんの冗談なんだろうか。医師はあくまで淡々とした口調で、話を進める。

 

「この若さで慢性心不全は、基本的にはあまりない。検査ミスも疑いましたが……桐ヶ谷くん、君には、他にはないほどの特殊性がある」

 

そこで初めて、医師が言い淀んだ。その表情を見て、医師が感情を表に出さないように今まで努めていたのだと察せられてしまった。だって、それは、紛れもなく───同情と、哀れみだったのだから。

 

「君は、SAO事件の被害者だ」

 

一際大きく、心臓が跳ねた。

SAO──俺の人生を決定的に変えたあの世界が、また、俺の人生に爪痕を刻むのか。

 

「成長期に二年間の寝たきり生活……それだけでも身体に相当な負荷があったはずだが、さらにサクシニルコリンで追い討ちをかけてしまった。そんな経緯を辿れば、君の心臓がボロボロなのにも納得がいくんだ。残念だけど……可能性は高いと見た方がいい」

 

言いたいことも聞きたいこともたくさんあるのに、言葉が出てこない。口をはくはく開いたり閉じたりする俺を気遣うようににチラリと見やり、医師は、それでね、と続けた。

 

「可能性を確定させるため……そして、原因を探るために、今日にでも入院してほしい」

「ぇ……それは、困り、ます」

 

反射的に声が出た。びっくりするほど掠れた、うわ言のような声だった。

 

「今日、スグにケーキ買って帰る約束で、夕飯も作らなきゃいけなくて、だってこないだみんなに心配かけたばっかりなのに、」

 

くわんくわんと頭が回って、思考が纏まらない。ガンガン耳鳴りがして、なんだか視野が狭くなってきた。これではまるで、アミュスフィアの自動切断(ログアウト)機能の働く直前のようだ。現実が、遠くなってゆく──

 

「キリト君!」

「……ぁ……」

 

菊岡に、両肩をガッと掴まれる。全身がビクッと痙攣し、いつの間にか手放しかけていた意識が戻るような感覚がした。

ゆるゆると顔を上げると、焦点の合っていなかった視線が肖像を結び、菊岡の瞳に写る俺を捉えた。息は口から、浅く早く。唇は色を失い、酷い顔をしていた。

次いで、菊岡の顔が目に入る。珍しく嫌らしい笑みの欠片もない表情だ。そういえば、俺はこいつに精神安定剤として着いてきてもらってるんだった、と不意に思い出した。……既に手遅れな気がするが、俺の中のプライドがちり、と燃えた。息をなるべく深く深く吸い込み、ゆっくりと吐き出す。

 

「……すいません、取り乱しました」

 

落ち着いて言ったつもりだったが、語尾は少し震えてしまっていた。

 

「いや……僕の方こそ、気遣いが足りなくて済まなかったね。顔色が悪いから、そこの待合室で、少し休んでくるといい」

「……はい」

 

すっかり萎えてしまった足に力を込めて、なんとか立ち上がる。これ以上、一時もこの場に居たくなかった。逃げるように診察室を後にした俺の後ろで、スライドドアが閉まる滑らかな音だけが重く響いた。

 

 

それから、どれくらいの時間が経ったのだろう。待合室の窓際でぼーっと外を見ていた──実際は景色など目に入っていなかったのだが──俺の頬に、何か熱いものが当てられた。

 

「あっつ!?」

 

思わず飛び退いた俺に差し出されたのは、宇宙人のCMで有名な缶コーヒーだった。

今ここにいる人間で、そんなイタズラをする奴は一人しかいない。

 

「あはは。今日は驚くキリト君が二回も見られたなあ」

 

菊岡は、最後に見た表情とは裏腹に、いつも通りの胡散臭い笑みを浮かべていた。

 

「今の俺を驚かすの、割とシャレになんないぞ」

「それもそうだね、以後気をつけよう」

 

気をつける気など微塵もなさそうな声で、菊岡は言った。その手から缶コーヒーを奪い取り、蓋を開けた途端、香ばしい香りが漂う。ゆっくり口に含み、こくり、と一口と飲み込むと、その温かさにほう、と息が漏れた。

 

「……落ち着いたかな?」

「おかげさまで。それと、……ありがとな、色々」

 

言いながら、手にした缶コーヒーをこくこくと飲み干す。何故か、菊岡は固まっている。

 

「……今度はこっちが驚いた。君って普通にお礼言えるんだねえ」

「失敬な」

 

はは、と俺が乾いた笑みを漏らしたのを見て、レンズの奥の瞳が、ほんの少し和らいだ気がした。ほんとうは、分かっているのだ。菊岡が俺を安心させようと、普段と同じように振舞っているのも、なんだかんだ心配してくれているのも、──その気持ちは、やはり純粋な厚意ではないということも。

 

「……で、本題はなんだ?」

 

空になった缶を、ゴミ箱に向かって投げ飛ばす。缶は綺麗に放物線を描き、ゴミ箱に収まった。ガコン、と待合室中に音が響く。

 

「おー、ホールインワン、流石だね。そういうとこ、ほんと可愛げ無いなあ」

「言ってろ。それで?」

 

そういうとこ、に何が含まれているかはあえて踏み込まず、続きを促す。

 

「……僕と取引をしないかい、キリト君」

 

缶の行方を見守ってから振り向いた菊岡の表情は、窓から差しこむ光が眼鏡のレンズに反射して、見えることはなかった。

 

「……内容は」

「一週間『これ』のテスターになってもらうこと、そして──『これ』のデータ解読だ」

 

菊岡が待合室のソファにあった鞄から取り出したのは、小さなSDカードと大きな黒いボックスだった。ボックスの方は恐らく外付けHDDだと予想されるのだが、イマドキちょっとないくらいのサイズで、かなり使い込まれた形跡がある。菊岡は、指先でSDカードを摘み上げた。

 

「これはね、パッチ……と言えば、君には分かりやすいのかな。アミュスフィアの機能制限を解除、及び機能を効率化し、強化するソフトが入っている」

「な……」

 

何を言ってるんだ、と俺は愕然とした。アミュスフィアは、『絶対安全』を謳い文句とし、ごく微弱な電磁波しか発生しない設計となっている。その理由は──SAO事件の直接の死因となった、脳を灼き切るような出力のマイクロウェーブを発生させないためだ。

 

「ああ、勘違いしないで欲しいんだが、この機能強化をしても、アミュスフィアはナーヴギアには遠く及ばないよ。致死性のマイクロウェーブを発生させるには、ハードの設計からしなおさなきゃならない。君は知っている筈だろう?」

 

死銃事件の前散々討論したじゃないか、とカラカラ笑う菊岡を、不満を込めてじとっと睨む。

 

「……さっきから悪趣味だぜ、菊岡サン。要点をまとめて話してくれ」

「おや、なるべく順を追って分かりやすいように話していたつもりだったんだが。お気に召さなかったかい?」

 

喉の奥に苦いものを突っ込まれたような錯覚に襲われ、思わず唾を飲み下した。……まずいな、菊岡のペースに乗せられている。

 

「それじゃ、ご期待にお答えして簡潔にいこう。これが強化する機能はね、ズバリ感覚信号の読み取りと、体感覚のキャンセルだよ。ゲームで活かそうとしても、ちょっと動きが良くなる程度のものだ。でもね……医療的には、大きな意味がある」

「……それは、まさか、」

「察しがいいね。そう、これはメディキュボイドの簡略版機能を、家庭で使用できるようにしたものさ」

 

メディキュボイド──この世界を駆け抜けていった、鮮やかな女剣士が頭を過ぎった。

 

「なるほどね……つまり、ちょうどよく病気になった俺を、実験台としてテスターにしたいと」

「実験台とは人聞きが悪いなあ。こっちには、メディキュボイドの基礎設計者が居るんだよ?神代博士によればだね、」

「いや、そっちは納得したからもういいよ。だけど、そっちの外付けHDDっぽいものはなんなんだ?」

 

またもや冗長になりそうだった話をぶった切る。正直、本当に疑問だったのは外付けHDDのほうなのだ。ラースは、人体工学のエキスパートである凛子先生を擁しているとともに、天才エンジニアである比嘉さんがいる。

 

「比嘉さんに解読出来ないものが、俺に解読出来るとは思えないんだけど」

 

率直な感想だった。ちょっと電子機器に詳しいだけの子供が、大学院まで出た研究者に勝てる道理はない。

しかし、菊岡はふるふると首を横に振った。

 

「いいや、逆だね。これは、君に解読出来なければ誰にも解読できない。なんといってもこれは……」

 

菊岡は、細い指で眼鏡を直しながら、その事実を告げた。

 

「かの、茅場晶彦の遺物だからね」

「……ッ!」

 

あの男の、遺物だと──!?

茅場晶彦。若き天才ゲームデザイナーにして、量子物理学者。ナーヴギアの基礎設計者であり──SAOを、遊びではないゲーム(デスゲーム)にした男だ。

 

「やっと鑑識からこちらの管理下に移してもらえたんだが、大量のデータが入っているのは確かなのに、開き方が分からないんだ。パスワードの入力画面すら出てこない」

「……そんなもの、俺にだって開けるわけが……」

「本当かい?茅場晶彦をして天才と言わしめた『英雄』キリト君?」

 

菊岡の視線と、俺の視線がかち合う。探るような視線に、どこか後ろめたさを抱いた。

……自分の気持ちに素直になるなら、俺はこの箱の中身が気になっていた。

未だ謎が多く、どんな感情を抱いたらよいかすら分からない相手。しかし、これからも俺の人生に深く関わるだろうという予感がある。そんな人間のことを知りたい、と。

だが、それはできない。

だって、きっと──この黒いボックスは、パンドラの箱だ。開けてしまえば、災厄が吹き出すだろう。与えられた情報量に溺れながらも、それだけは直感していた。

興味本位で俺が巻き込まれるならまだしも、UWの件のように、アスナやユイ、リーファやシノン、リズ、シリカ、クライン、エギル……他にも数え切れないほどの、親愛なる仲間たちを巻き込んでしまったら──そう思うと、とても頷く訳にはいかなかった。

 

「菊岡さん、悪いけど……」

 

依頼は受けられない、そう告げるのを遮るように、菊岡はそうそう、と言った。

 

「報酬の話をしていなかったね。もし君がこの取引を受けてくれたら、今日は家に帰してあげよう。治療費も、僕が……というか、ラースが持つよ」

「……は……?」

 

呼吸が、止まった。あまりにもさらりと告げられた報酬は、しかし今の俺が最も求めてやまないものだった。

 

「さっきの医師に話を聞いてきたんだけどね、入院して行う検査って、君の心臓にインプラントされてるチップと、メディキュボイド化したアミュスフィアで行えるんだ。もちろん、それ以外の時間にもモニターはさせてもらうけど……この話を受ければ、君はお家に帰れる」

 

不意に、愛しい家族の顔が浮かんだ。たった一人の妹である直葉が、腹を空かせて待っている。今日は帰ってくるかわからないけれど、もし帰ってきたとき飯が何も無ければ、母さんはあからさまにがっかりした顔をするだろう。オヤジは今日も、あの生真面目な顔をして家族のために働き、家族を思いながらベッドに入るのかもしれない。

 

「正直に言うとね、これはただの時間稼ぎだよ。決定的瞬間までの猶予が、一週間延びるだけだ」

 

窓の外から、西日が差し込んでいた。赤く染まった壁が、夕暮れ時を示す。だいぶ日が落ちるのが早くなったなあ、とぼんやり思った。

 

「それでも、その時間が、君には必要だろう……?」

 

さあ、どうする、と問うような菊岡の表情を、自動点灯したLED照明が照らした。俺には、頷く以外の選択肢などなかった。

ああ、本当に──こいつに弱みを見せると、ろくなことがない。

 

 

自分の部屋に入り、後ろ手にドアを閉めて、ふう、と嘆息する。どうにか、直葉に怪しまれずにやり過ごせただろうか。

菊岡の提示した『取引』に応じてから早数時間。あのあと菊岡に軽く機器の扱い方のレクチャーを受け、急な発作に備えた頓服薬を出してもらうと、もう時刻は午後六時を回っていた。

急ぎ駅で目に付いたケーキと惣菜を買って帰宅した俺を、直葉はじとーっとした目で、おそーいと出迎えた。そのとき胸を焦がした感情を、言い表す術を俺は知らない。どうにか笑顔を作り、ただいまと返すことしかできなかった。

それからすぐに、買ってきた食事に舌鼓を打った。俺には味なんてとても分からなかったけれど、直葉のご満悦顔を見るに美味しいものだったのだろう。たわいない会話と共にその顔が見られただけで、妙に満足だった。

部屋の隅にあるパイプベッドに、顔からどさりと倒れ込む。風呂上がりに肩にかけていたタオルが宙を舞い、パサリと俺の隣に落ちたのを感じた。

……今日は、なんだか疲れてしまった。数日前に厚めのものに変えた布団に包まれて、このまま眠ってしまいたい衝動に駆られた。

しかし、まだ俺にはやることがある。少々勢いをつけて身体を回転させ、そのまま起き上がった。そして、PCデスクの上におざなりに置きっぱなしだったオーグマーを起動し、最愛の娘に声をかける。

 

「ユイ、いるか?」

 

すると、数秒もしないうちに視界の隅にぽんっ、とナビゲーション・ピクシー姿のユイが現れた。

 

「おかえりなさい、パパ! この時間にオーグマーから私を呼び出すのは珍しいですね?」

「ただいま、ユイ。今日はちょっと、アスナに伝言があってさ」

 

俺に会えたのが嬉しくてたまらない、といった様子のユイに告げるのは心苦しいが、俺はその要件を口にした。

 

「今日は用事ができちゃって、ALOにはログイン出来ないんだ。明日会えるのを楽しみにしてる、って伝えてもらってもいいかな?」

 

ユイは一瞬悲しそうな顔をしたが、すぐに笑顔を作ると、了解しました、と視界から消えた。

 

「……ありがとう、ごめんな、ユイ」

 

数秒後、完全にユイがこちらの世界から去ったのを確認してから、届かない言葉を呟いた。

アスナに伝言をしたかったのも、娘に一目会いたかったのも本当だ。しかし、あえてメールではなくユイに頼んだことの一番の目的は、ユイをこの部屋から離しておくためだった。

帰ってきてからクロゼットの中に隠しておいた紙袋を取り出す。菊岡から受け取ったSDカードと外付けHDDのセットアップをするのを、彼女に見られたくなかった。

ユイは、俺のプライバシーを大切にしてくれる。見覚えのない機器が増えていようとも、俺がいいと言わない限りは、ユイは調べたりしないだろう。いつでもアクセス出来るからこそ、そういうものを大事にしたい、というのが本人の談だ。本当に、よく出来た娘である。

そんなユイの気持ちを利用しようとしてしていることに、俺の胸はちくりと痛んだ。

だが、そんなことをしてでも、ユイにバレる訳にはいかなかった。ユイに伝わってしまえば、彼女自身にショックを与えてしまうのは勿論のこと、連鎖的にアスナにも伝わるということを意味するからだ。

……俺は、菊岡の依頼に応えたことを、アスナにだけは何があっても伝えないと決めていた。

俺が受けた依頼の内容をアスナが知れば、『絶剣』ユウキのことを思い出させるだろう。

ユウキに出逢えたことは、アスナにとって幸福なことだったというのは間違いない。

しかし、その思い出は楽しいだけではなく、悲しみも鮮烈に色付いているはずだ。

そして、メディキュボイドというのは明らかに悲しみのほうで──あまり、思い出したくはない類のものだ。

少しでもアスナを悲しませるかもしれないことを、俺はしたくなかった。ゆえに、このことは、俺の胸の中だけに留めておくことにしたのだ。

つらつらと考えているうちに、二つの機器のセットアップが終わっていた。

少々逡巡してから、アミュスフィアの電源を入れた。ぱち、ぱち、ぱち、と準備完了のライトが灯っていく。

 

「リンク、スタート」

 

異世界への扉を開く魔法の言葉は、今日ばかりは喉の奥に詰まって中々出てこなかった。

それでも銀色の円環は健気にそのコマンドを認識した。こんなに中途半端なコマンドをアミュスフィアが認識できたのは、SDカードによる機能強化済だからだろうかと益体もないことを思った。

あらゆるノイズが遠ざかり、代わりに虹色の光が視界を駆け抜ける。メニュー選択画面に移り、馴染んだ妖精達の世界のアイコンをタッチしたくなるのをぐっと堪えてローカルVR空間を生成。そこに外付けHDDのデータをドラック&ドロップし、展開する。

これで準備は整った。転移結晶を思わせる光が俺の身体を包み、データの展開された空間に誘う。さて、鬼が出るか蛇が出るか……光が徐々に薄くなっていくのを待って、瞳を開くと───そこには、目が痛くなるくらいに、何もない空間が広がっていた。

 

「えぇー……」

 

見渡す限り白い空間。見た限り壁すらも見当たらず、どのくらいの広さなのか検討もつかない。

 

「これは、比嘉さんも音を上げるわけだ……」

 

何しろ、なんのヒントもない。だだっ広い空間が広がっているだけの場所に解読もクソもないだろう。なんだかどっと疲れてしまい、その場に倒れ込んだ。頬に触れるひやりとした感触は、大理石のようだ。もう、今日はこのまま寝てもいいんじゃないだろうか。お世辞にも寝心地がいいとは言えないが、所詮VR空間での話だ。寝違えるなんてことはない。

これ以上動くのが異様に億劫で、俺はそのまま目を閉じた。

 

海に潮が満ちるように、眠気はひたひたとやってきた。




サブタイトルを付けられ続ける気がしない。
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