ソードアート・オンライン -The Dream of a Butterfly- 作:楪
小さい頃には神様がいて、願いを叶えてくれるんだそうだ。少なくとも、そんな思い込み、万能感は、誰しも感じたことがあるだろう。
出来るはずだって、夢を見た。
優越感に浸って、守れたような気持ちになって。
俺は、あと何回叶わない夢を見るのだろう。
かみさまに、自分に、何度裏切られれば満足できるのだろう。
*
ピピピピッと甲高く存在を主張する、典型的な目覚まし時計の音で俺の意識は浮上した。
あと五分……とこれまたありがちな思考を辿り、一旦アラームを止めてからスヌーズを起動させようとベッドをまさぐるも、目覚まし時計が手に当たることはない。おかしいな……と考えたところで、ここが仮想空間であり、この音は俺の脳内にだけ響き渡っているのだと思い当たった。
ALO、あるいは他のザ・シードパッケージによるゲームと同じように、左手の二本指で空中をフリックし、メニューのアラーム停止ボタンをタップ。ようやくけたたましい音が聞こえなくなり人心地ついてから、なんら意味が無いことは理解しつつも、凝り固まったと感じられる身体で伸びをした。
菊岡の『取引』に応じてから、早くも三日が経過した。だだっ広いだけだった空間に現実世界の俺のものに似たベッドを置いたからかもしれないが、寝落ちによる自動切断機能が働かないことに未だ違和感を覚える今日この頃である。
その間は現実世界においても仮想世界においてもなんら問題が起きることもなく──強いて言えば、また体育を休むようになった俺に、体育教師が微妙な顔をするくらいか──かと言って何かが進展することもなく、淡々と日常が過ぎていった。三日前の診断は誤診だったんじゃないか、という疑問が頭をもたげてくるほどだ。
ひとつかぶりを振り、幻想を振り払う。考えても詮無きことだ。
そのままの勢いでログアウトボタンを押すと、ブゥンという排気音と共に、身体のコントロール権が戻ってくる。
ベリっとアミュスフィアを剥がし、先程と違い本当に凝り固まっている身体をぐりぐりと解した。アミュスフィアの体感覚キャンセル機能ゆえ、昨日寝たときから一ミクロンも身じろぎすらしていないハズだが、エコノミークラス症候群とか大丈夫なんだろうな……と不穏な考えが頭を過った。そういうのも含めて実験台なんだろうか。……うん、怖くなってきた。考えるのをやめよう。信じてますよ凛子先生……!
ともあれ。シャッと軽やかな音を立ててカーテンを一気に空け、差し込んできた爽やかな日差しに目を細める。
前もって調べておいた天気予報によれば、本日の最低気温は十五℃、最高気温は二十一℃、降水確率は十%程度で、少々肌寒くはなりますが一日中晴れて心地よい日となるでしょうとのことだった。
つまりは──二〇二六年十月三日、絶好のデート日和である。
*
本日の待ち合わせ場所である雷門は、東京メトロ銀座線浅草駅の一番出口から徒歩一分程度の場所にある。
真面目なアスナは五分前行動を規範としており、俺は待ち合わせは時間きっかりに着くもの!と真面目なんだか不真面目なんだかよく分からない信条があるため、待ち合わせ場所にはアスナが先にいることが常だ。
しかし、何事にも例外というのはあるもので、今日は俺の方が先に待ち合わせ場所に着いていた。なんのことはない、楽しみすぎて早く着きすぎてしまった、という小学生のような理由によるものだが。
待ち合わせ時間まで、あと十分程度。ということは、アスナがここに来るまであと五分ほど。そのくらいの時間なら、景色でも眺めていればすぐだろう。寄り道をすることなく人混みをかき分けて、赤い提灯の左下辺りの場所を陣取った。
ぼうっと前を眺めていると、会話を束ねて不明瞭になったノイズや景観に配慮された色合いの建物、同じような服を着た人々が通り過ぎていくのが目に入った。
最近、真っ白であまりにも刺激の少ない世界に入り浸っているからだろうか。情報量の多さに頭がくらくらして、俺は目を閉じた。
──そういえば、アスナと話したことがあった。現実世界と仮想世界の違いは、情報量の多寡だけだ、と。
ふ、と笑みが漏れる。自分を
なら、現実世界の情報量に疲れている俺は、一体どこで生きてるんだろうな……
ぼんやりと過ぎった感覚には覚えがあった。これは、久しく感じていなかった──この人は一体誰で、どこを生きているんだろう、という漠然とした不安だ。長らく俺なんかと向き合ってくれようとする人間に向けられていたその感情は、今は俺自身に向けられていた。
ばかばかしい。俺は、『どこで生きていようとその人に変わりはない』という答えを見つけたはずではなかったのか。そう思うけれど、一度生まれた感覚は簡単には消え去ってくれない。それどころか、冷え冷えとした感触を伴って四肢に伝わってゆくようだった。
座り込んで自分の身体を掻き抱きたい衝動に襲われたその瞬間──後ろから、細い腕がきゅっと俺の腰のあたりを包んだ。
思わずびくりと硬直した俺に、鈴の鳴るような声がかけられる。
「……えへへ。こんにちは、キリトくん。待たせちゃった?」
ぱっと顔を上げ、悪戯が成功した子供のように微笑んだのは、愛しい俺の待ち人だった。
「いや、全然。今来たとこ。……こんにちは、アスナ」
「うわ、声が掠れてるよ……もしかして、ほんとに長い間待ってたりした?」
途端に顔を歪め、原因は違うが冷え切った俺の手を温めようとさすってくれるアスナに、俺は慌てて首を振った。
「待ってない待ってない! ……なんていうか、ちょっと驚いただけなんだ」
なおも心配と怪しさを半分ずつブレンドして、じとっとこちらを見つめるアスナの視線が痛い。こう、別に悪いことはしていないのだが、警察が来るとなんとなく縮こまってしまうような、そんな気分だ。
「というか、俺が驚いたのはアスナのせいだぞ。……随分と大胆な行動でしたね?」
どうにも旗色が悪いので、冗談めかしてアスナをからかうことにした。案の定、アスナの頬がぽんっと紅く染まる。
「もう、からかわないでよー。キリトくんがスリープモードだったから、珍しく驚かせられるかなと思って、つい……」
火照った顔を冷ますように、ぱたぱたと扇ぎながらアスナは言った。この間の菊岡といい、俺を驚かすのが流行っているのだろうか。解せぬ。
「まあ、いいけどさ……でも今後はやめてくれよ?今回は本物だったからいいけど、もし違う人だったら危ないだろ?」
「あら」
少しだけ真面目な顔を作った俺に、アスナがくすりと妖艶に笑いかけた。どきりと鼓動が跳ねて立ち尽くす俺の頬に、アスナの白磁のような手が添えられる。美しい指を控えめに飾る指輪がちかっと光って、少し眩しい。
「わたしが、キリトくんを見間違えるわけないじゃない」
言い切った彼女は、どのような宝石よりも凛として美しく、それでいて花のように可憐で。
俺は、降参デス、と小さく両手を上げることしか出来ないのだった。
*
「今日、本当にお弁当なくてよかったの?」
雷門から仲見世通りを抜けて、浅草寺に向かう途中に、アスナが切り出した。
本日のデートプランは、俺の発案である。普段ならアスナに弁当だけは頼んでおくのだが、今回は自粛していた。
「ああ。今日は気楽に食べ歩きしようぜ。というか、……学校に持ってきてくれる弁当も、無理しなくていいんだぞ」
正直本当に、ほんっっっとうに残念ではあるので、言い出すのが遅くなってしまったが、元々、そろそろアスナの厚意に甘えるのはどうなのかと思っていたのだ。
「……もしかして、わたしのお料理飽きちゃった……?」
「わあ、違う違う!」
なるべく平気な顔で言おうという痩せ我慢は功を奏したようだが、みるみるうちにアスナがしょんぼりしてしまったので、急いで訂正する。
「アスナ、今年受験だろ……? あんな時間も手間もかかる弁当作ってもらうの、申し訳なくてさ」
俺とて、料理をしないわけではないのだ。アスナの弁当が、どれだけ丁寧に作られているかは分かっている。こう言うのが正解なのかはわからないが、うちの高校は新設校だ。当然、推薦などという制度はなく、アスナは一般の受験生として挑むことになる。ただでさえ長距離通学の彼女に、要らぬ負担を強いているのではないか、という疑念は、どうしても拭えなかった。
そんな俺の心配とは裏腹に、アスナは目に見えてほっと息を吐いていた。
「なんだ、そんなことかー。気にしなくていいのに」
「そういう訳にいかないだろ。ただでさえアメリカ行きやめたりして迷惑かけてるんだから」
彼女のことだ。アメリカに着いてきてくれると言ったからには、既にいくつかプランがあったであろうことは想像に難くない。ラースに就職したいと心が決まってから一番最初にアスナに報告したのだが、時期は既に八月を過ぎていたこともあり、俺に見せないところで相当な苦労があったであろうことは察して余りある。特に厳しい京子さんとの間ではどんな熾烈な戦いがあったことか……
当のアスナはそんなことは微塵も勘づかせず、いつものほわんほわんとした笑顔だ。
「あんな世界見ちゃったら、キリトくんなら追いかけちゃうだろうなあって思ってたから。それに、私もあの世界の行く末を見守りたいし……」
アスナは一度そこで話を切り、感情の読めない深い瞳で俺を見つめた。
「わたしね、最近、色んなことが運命だったな、って思うの」
「運命……?」
短く問い返す俺に、アスナは頷いた。
「そう、運命。わたしたちがアインクラッドで出会ったのも、アルヴヘイムで、アンダーワールドで沢山の出会いがあったことも……ぜんぶ、大きな流れみたいなものの中にあったんじゃないかって」
オカルトだって笑う? と苦笑するアスナに、俺は首を横に振った。
「いや、俺もそう思うよ。……きっと、俺はその運命ってやつに魅了されてるんだろうな……」
考えてみれば、アスナにとっての『運命』──俺とっては『予感』としか言えないことは、度々存在した。
第一層の迷宮区でアスナに出会ったときも。
死銃事件の調査に、GGOにコンバートしたときも。
ソウル・トランスレーターに何らかの可能性を見出したときも。
あるいは──フルダイブ技術そのものを知ったときから、俺はその『予感』と共に在ったのだ。
……酷いことも辛いこともたくさんあった。それでも、予感を放り捨てられなかった。きっと、俺はいつになっても、この感覚を追いかけるのを止められないのだろう。
「そう……だね。きみ、巻き込まれ体質なところもあるけど、基本的に自分から巻き込まれに行ってるからなあ」
「ヴッ……いつもお世話になっております……」
俺が巻き込まれることで連鎖的にアスナを巻き込むことになってしまっていることは重々承知しているので、素直に頭を下げた。
「まあ、たまには穏やかな日々を過ごしたくはなるけどね。でも、そんなキミだからこそ……」
くすくすと笑っていたアスナだったが、不意に表情に影が差した。
「アスナ……?」
どうかしたのか、と問いかける前に、霧が晴れたようにその表情は消えた。
「……ううん、なんでもない。それより、お弁当のことなんだけど」
「は、ハイ」
先程の表情も気になるが、アスナの弁当の有無は俺にとって死活問題である。悲しいかな、俺の意識はそちらに釘付けになってしまう。
「わたし、お弁当のメニューを考えたり、作ったりする時間が好きなの。だから、キリトくんが良ければ、これからも作り続けたいんだけど、どうかな?」
「ぜひ! 喜んで!」
勢いづいて即答する俺に気圧されたように、ぱちくりと瞬きするアスナ。そのまましばし見つめ合い、どちらからともなく笑いあった。
「ふふ……キリトくんそんなにわたしのお弁当楽しみにしてくれてたのにあんなこと言ったんだ……気遣ってくれてありがとね?」
「そんなに笑わなくても……アスナの料理が美味いのが悪い」
「作り手冥利に尽きるわね。……あ、そろそろ着くみたい。お参りする前にお手洗いに寄りたいから、ここで待っててくれる?」
「おう」
短く答え、アスナを見送る。ちら、と便所を見ると、入口から少しはみ出す程度に人が並んでおり、これは時間がかかるだろうな、と予想された。
「……うーむ……」
ここで待ってて、と言われ返事したのはいいが、これだけ店が並んでいると童心が疼く。『和風』がテーマだと言われていたアインクラッド十層でも、目抜き通りで大いにはしゃいだものだった。
もう一度ちらりと便所を見る。列の進みは微々たるもので、ほんの十分程度ならいなくなってもなんら問題なさそうである。
「……面白そうなところがあったら、案内するのが俺の役割だよな、ウン」
言い訳をするように呟いてから、ふらふらとその場を離れた。
直感に従って、通りの中では少々うらぶれた道に進む。昔ながらの駄菓子屋、煎餅屋、なんだかよく分からないおもちゃを売っている店など、非常に興味は湧いたものの、俺の視線は一箇所に吸い寄せられた。
「かんざし……?」
何故普段アクセサリーに興味などない俺がその店に惹き付けられたのかは分からない。しかし、商品はかんざしという古いものながらもモダンな雰囲気を感じさせる店内に、俺は思わず入店していた。
店員は、いらっしゃいませー、とにこやかに俺を出迎えた。ひやかしと思われるかと若干身構えていたので、ほっと息をつく。
店内には、所狭しとかんざしが並べられていた。とんぼ玉からちりめん細工、果ては電柱モチーフなどというよく分からないコンセプトのものが置いてある中に、それは鎮座していた。
「あ……」
なんの変哲もない白銀の軸に、円形にカットされた青いクリスタルと小さな十字架がぶら下がったかんざしは、しかし強烈に俺の目を引いていた。それが何故か気づいたとき、俺は値段も確認せず、思わずこう言ってしまったのだった。
「すいません、これください」
*
無事アスナにバレることなく合流するミッションをこなした俺は、アスナの寺うんちくを──いつも思うけど、勉学というより雑学みたいなその知識はどこで手に入れてるんだろう──興味深くふんふんと聞きつつ、浅草寺の境内に足を踏み入れた。
日曜日だということもあり、参道の石畳は人で賑わっていた。
はぐれたらまずいな、と繋いだ手をきつく握り直すと、同じタイミングでアスナの手にも力が入った。くすくすと二人で笑いながら、本堂前右側に位置する、なんか手を洗う場所──
「なあアスナ、アレなんて言うんだ?」
「
──手水舎にたどり着いた。
するりと抜けた右手に若干の寂しさを感じつつ、アスナの見よう見まねで柄杓を使う。桐ヶ谷家は近所の寺の檀家なので、普段はお参りなどもそちらで済ませてしまうのだ。そのため、こんなに大きな寺に来るのは実に小学生の修学旅行ぶりなのである……と自らの不勉強に蓋をしつつ、程よく冷たい水で口をゆすぐ。
「次はあっちだね」
アスナの指さす先には、中華風の屋根の下に巨大な線香立てが鎮座していた。
「おぉー、これがあの有名な煙出るやつ……」
「
「へぇ……SAOじゃバフついたりしたけどなあ」
「あー、あれすっごい役立ったよねえ……」
アスナも覚えていたようで、しみじみといった顔で頷いた。その層のボスはやたら確率の高い呪い攻撃をしてくる奴で、受けるダメージ量が倍になるその状態異常には大いに難儀していた。これはボスを攻略するためのキーアイテムがあるのではないか? と攻略組による昼夜を徹した調査が行われていたのだが、攻略組きっての不真面目生徒である俺が、ここは神頼みでもしてみるか、と何やら怪しげな神社に入った際に、呪い耐性アップのバフがかかるそれをたまたま見つけた、という逸話がある。
「そう考えると、やっぱりご利益ありそうな気がするね」
そう言うとアスナは、俺の手を引いて常香炉の前に立った。少々考えるようにそのおとがいに手を当ててから、両手で煙を包み込むようにして、頭にかける。
煙は淡く広がり、空気に溶けようとする。薄くく白い布のように拡散したそれは、俺にある儀式を想起させ──
「……ちょっとキリトくん、なんで煙じゃなくて私に手を伸ばすのよ」
「あっ、いや……そのぅ……煙がヴェールみたいだなって……」
さらに言えば、結婚式みたいだ、と思ったのだ。あまりにも恥ずかしすぎて、口には出せなかったけれども。
もっとも、アスナは言外にそれを察したようで、顔を真っ赤にして口をパクパクさせていた。
「……も、もう! わたし先に行ってるからね!」
二人して頬を赤らめたこそばゆい空気に耐えられなかったのか、アスナが小走りに駆け出した。俺は煙をおざなりに自分の身体にかけてから、アスナを追いかける。
その後ろ姿に、温かな幻惑を見た。
いつか本当に、アスナが結婚式をするのなら。
純白のドレスか、それとも白無垢かは分からないけれど、衣装に身を包んだアスナはそれはもう綺麗だろう。
そして、会場いっぱいに集まった友人や、両親たちに囲まれて、きっとこれ以上なく美しく微笑んでいるのだ。
その隣にいるのは俺だといいな、と、そう思った。
胸を鋭く刺す痛みには、気付かないふりをして。
*
おわんくらいの銀の皿に、想定より多めに乗せられた具材を、出汁が零れないよう綺麗に鉄板に載せる。薄く広げたあと、『閃光』時代もかくやという速さで、ヘラで細かく切っていく。キャベツがしんなりしてきたところで、具材はコンパスでも使ったかのように綺麗なドーナツ型に整えられ、いわゆる『土手』が完成する。
「……あの、どうかした?」
少々不審そうな顔で問うてくるアスナに、俺は自分が具材とヘラを両手に片方ずつ持ったまま、アスナの手つきに見とれていたことを思い出す。
「いやぁ……アスナって、もんじゃ焼けたんだなーって」
レクトの元CEOの娘がもんじゃ。少なくともアンバランスであることは間違いない、と思いながら自分の分のもんじゃ──こちらはアスナのものよりもさらに具材の乗った海鮮デラックスもんじゃである──を焼き始める。
「わたしのことなんだと思ってるの……と言いたいところなんだけど、あながち間違いではないんだよね……」
土手の中に出汁を流し込みながら、非常に微妙な顔でアスナは言った。
「うちって、母さんがあんな感じだから東京都民なのに中学生になるまでもんじゃ食べたことなくって……中学生になって、兄さんにせがんで連れて行ってもらったのよ」
「……浩一郎くんって、案外不真面目だよなあ」
『ソードアート・オンライン』の初回ロットを入手したり、秘密回線を用意したりと、京子さんにバレたら大目玉を食らうだろうに、中々アグレッシブな人である。
「ふむすっ……そうね、そうじゃないとうちみたいな家ではやっていけなかったんじゃないかな、って今なら思うわ」
遥か彼方を眺めるように、郷愁に浸るアスナ。そこだけ見れば、家族への理解を深める大変良いシーンであるが──
「……なあ、いいかげんお兄さんの呼び方に慣れてくれないか」
一番最初の怪音が、それを台無しにしていた。
そもそも、人を『くん』付けで呼ぶのに若干の気恥ずかしさを感じているのだ。それに加えてアスナに毎回笑われるとなれば、いたたまれなさ倍増である。
そんな俺に、アスナさんは非情な宣告をするのだった。
「しばらく無理ね」
「さいですか……」
そうこうしてる間に、アスナのもんじゃが完成に近づいてきた。未だ土手すら出来ていないこちらのもんじゃをちらりと見たアスナに、焦げちゃうから先食べて、と視線で表す。アスナは丁寧に手を合わせると、いただきます、と食べ始めた。
「……というか、わたしとしてはキリトくんがもんじゃ焼けることの方が意外なのよね。もんじゃって東京以外だとあんまりないじゃない?」
アツアツのもんじゃをはふはふ冷ましていたアスナは、思い出したようにそう言った。
「ああ、俺の住んでるとこって、世にも珍しい『小江戸』だからな……じいさんがそういうの好きでさ」
ちゃかちゃか俺のほうのもんじゃをかき回しながら、俺はアスナにかいつまんで思い出話をした。
俺がまだ剣道をやっていたころ、数ヶ月に一度ほど小さな大会があった。そのころから直葉は数歳年上の子供たちに混ざって上位入賞することなんかもあったわけだが、俺はその辺はからっきしだった。ともあれ、大会が終わるとお疲れ様会と称し、よくもんじゃ屋に連れていかれていたのだ。まあ、俺が剣道を辞めてしまってからめっきりなくなってしまったものだが。
「意外と覚えてるもんだなあ……」
ぽつりと零す俺に、アスナが微笑んだ。
「そっか、じゃあもんじゃってキリトくんの思い出の味なんだね」
「そんな大層なもんじゃないけどな」
もんじゃだけに、とにやりと笑う俺に、アスナが最大限の呆れ顔を作った。
「色々台無しだよキリトくん……お互いに思い出の味だなって思ってたのに」
「ごめんごめん。……んー、こんくらいかな」
ある程度粘り気が出てきたところで完成と判断し、俺ももんじゃをぱくつき始める。
「……これを『完成』と定義した人、いったい何を考えてたんだろう……」
「わたしもそれ、考えたことある」
もぐもぐごくん、と一口食べてから口をついた疑問に、アスナが同意する。それから、たわいもない会話を繰り広げつつ、食事を楽しむ。
「ふぅ……お腹いっぱい……」
一足先に食べ終えたアスナが、満足げにお腹をさすった。浅草寺でお参りをしてから、メロンパンやメンチカツ、抹茶ジェラートなどを気ままに食べ歩いたり、何故か漬物を試食して買ったり──店員のおばちゃんに押し付けられたポイントカードにめちゃくちゃスタンプを押された──していたので、俺もだいぶ腹が膨れていた。
「……実はこれからノープランなんだけど、どっか行きたいとこあるか?」
時刻は現在午後五時。早くもないが、ここで解散というには惜しい時間だ。
「あれっ、そうなの? 浅草まで来たから、スカイツリーに行くのかと思ってたんだけど」
アスナが不思議そうな顔をして尋ねるのを、俺は焦げた食パンでも食べているかのような苦い気持ちで聞いていた。正直、俺も浅草を提案したときはそのつもりだったのだ。しかし、少々──いや、かなりかっこ悪い理由で、その予定をキャンセルせざるをえなかった。
「……キリトくん?」
黙り込んで目を逸らす俺に、訝しげに声をかけるアスナ。ニュアンス豊かな視線で察してくれないかと試みてみるものの、逃がすつもりのなさそうな表情に、俺は観念してひとつ嘆息した。
「……苦手なんだよ、高いところ」
「……えっ、ええ!?ALOで、あんなにびゅんびゅん飛んでるのに……?」
長いこと言葉の意味を咀嚼してから驚いたアスナは、うっそだあとでも言いたげな顔だ。
「ホントホント、ああいうのは平気なんだけど、エレベーターとかが苦手でさ」
「えぇ……そんなの今まで聞いたことなかったよ……?」
なおも怪訝な顔のアスナに、どう説明したもんかな、と思案する。なんというか、色々な意味で詳細に語りたくないエピソードが絡んでいるのだ。
「……UWでちょっと色々あって……ビルの八十階くらいの高さから落ちかけたんだ」
「えっ……」
相当ぼやかした言い方ではあったが、アスナは二の句を継げない様子だった。しばし固まったあと、勢いよくこちらに詰め寄る。
「そ、それ大丈夫だったの!?」
UWは痛みのある世界なので、それを気にしたのだろう。アスナを落ち着かせるように、俺はしっかりと頷いた。
「うん。ギリギリ落ちはしなかったんだけど、あのときのパニックを思い出すみたいで……どうも、自分でコントロールできない浮遊感が苦手みたいなんだ」
実は俺も、このことに気づいたのはほんの数日前である。学校の帰りにメカトロニクスクラスの奴らと駅ビルの本屋に寄り道した際エレベーターを使ったときに、急に心臓が早鐘のように鳴り出し、ざっと血の気が下がったのだ。顔色も悪かったらしく、周りの奴らに随分心配されてしまって申し訳なかった──などと回顧していたが、アスナが額を抑えてため息をついたことでこちらに引っ張り戻される。
「……なんか、アインクラッドでもこんな話聞いたわね……」
「う。いやでも、今回の場合俺に非はないぞ。不可抗力だ」
「うん……それについては疑ってないんだけど……ほんと、気をつけてね?」
「ハイ……」
心底心配そうなアスナに情けない声で返事すると、よし、という返事が返ってくる。その言葉と裏腹に、若干元気がないように見えるのは俺の話のせいか、それともスカイツリーに登れなかったせいなのだろうか。
たぶん両方なのだろうな、と思う。アスナは綺麗な景色を見るのが好きなので、かなりスカイツリーから見る夜景を楽しみにしていたのかもしれない。正確に言えば、俺は高いところではなく登るときの浮遊感がダメなだけなので、例えば階段で直接登るタイプの展望台などがあれば──と考えたところで、ひとつのアイデアが浮かぶ。
「そこで、提案なんですが」
ぴっと人差し指を立てて言う俺に、アスナが首を傾げる。
「そんなに遠いわけじゃないし、旧東京タワーに行きませんか」
「えっ……でも、あそこも充分高いよ……?」
「そりゃそうなんだけどさ。でも、あそこなら俺行ったことあるし。それに、エレベーターを使わなくても大丈夫だし」
そこで、アスナの瞳がきらっと輝いたのを、俺は見逃さなかった。どういうこと、と雄弁に問うてくる目に応えるように、続きを口にする。
「あそこ、外階段で登れるんだ。登りましたって認定書みたいなののオマケ付き」
こんくらいの、と指で示すと、アスナの瞳はますます煌めきだす。この人も随分わかりやすくなったなあと思いつつ、一応、どう?と最終確認をした。