ソードアート・オンライン -The Dream of a Butterfly- 作:楪
都営地下鉄浅草線の、浅草駅から電車で十五分。大門駅A6出口からほぼ道なりに直進し、静かな小道を通り抜けたところで見えてきたのは、目的地である旧東京タワーだ。
既に日没を過ぎ、辺りは暗くなっていた。そんな中、ぱち、ぱちとオレンジ色の光が巨大な塔に灯っていく。
「わあ……!」
ちょうどライトアップの瞬間に立ち会えたことに、アスナが小さな歓声を上げる。暖かな色の光に照らされたアスナの表情は無垢な少女のように彩られ、この顔が見られただけでも来た甲斐があったと思った。
「ねぇ、早く行きましょ!」
「わっ」
繋いでいた左手をきゅっと引っ張りながら駆け出すアスナに、つんのめりそうになりながらついていく。チケット売り場に並びながら、俺は今更ながらとある懸念に思い当たった。
俺、階段登って大丈夫なんだろうか、と。
現状、俺は体育の授業に出られない程度には運動を制限されている。しかし、それは授業がたまたまマラソンだったから、というのもあるのだ。負荷をかけ過ぎない程度の運動ならやるべき、と聞いているので、未だに家から最寄り駅、駅から高校までの距離は徒歩で通学している。
幼い頃、外階段を登った記憶を辿ると、そこまで長いものではなかったはずだ。小学校低学年の足でも、十五分といったところか。
うーむむ、微妙なラインだなあと思いつつも、まだかなまだかなとそわそわしているアスナに「やっぱエレベーターで行こう」と言いたくはない。
ま、ここ最近なにも起きてないし、大丈夫だろう、と軽率な判断を下すのに、そう時間はかからなかった。
階段は暗いのではないかと多少心配していたのだが、ライトアップの一部になっているようで、思ったほど転倒などの危険はなさそうだ。階段に足を踏み出すのに若干躊躇していたのだが、踊るように階段を駆け上っていくアスナを追いかけて、俺も階段を登り始めた。
「そんな飛ばすと途中でバテるぞ」
「そのときは休めばいいじゃない。あっ、見て見てキリトくん、皇居が見えるよ!」
「おお……」
アスナが指さした先には、そちらもライトで照らされたお堀がよく見えた。波一つ立っていない水面にぼんやりと写る光は幻想的で、今度夜来てみようか、とアスナに提案したほどだ。
他にも、登っていく途中には明治神宮や恵比寿ガーデンプレイスなど、思い出すのに若干の痛みを伴うような場所も見えた。OS事件で、幽霊のような悠那に出会った場所に、アスナが記憶を失った場所だ。
思わず立ち止まり、もうあんなのはごめんだと思いを新たにする。知らず知らずのうちに力が入ってしまった手を、アスナがふわりと握った。
「そんなに力入れたら、傷になっちゃう」
アスナは慈愛のこもった瞳で、強ばった俺の指を開いていった。
「ね、次にあそこに行くときはさ、ちゃんと計画立てて、イルミネーションとか見に行こうよ」
「……うん」
「きっと綺麗だし、楽しいよ。みんなでワイワイ行くのもいいなあ」
「…………うん」
未来を楽しそうに語るアスナを、強いな、と思った。
あんな目に遭ったのはアスナなのだから、俺より余程、あの場所が怖いはずだ。なのに、アスナはちゃんと前を向いて、思い出をよりよいものに塗り替えようとしている。
もう大丈夫、を伝えるために、きゅっとアスナの手を握り返し、そのまま手を引いて歩いた。
俺が進むと、アスナも進む。立ち止まると、立ち止まる。カンカンという二人分の足音に、混ざるものは何もなかった。
不意に、どこまでも続いているようなつづら折りの階段に、強烈な既視感を覚えた。
これは、なんなのだろう。一瞬、セントラル・カセドラルの階段をひたすら駆け登ったあのときの情景が浮かぶが、具体的な形になる前に打ち消した。そうじゃない、もっと前の……
考えていた俺の視界の端に、ちかっと光がまたたいた。
「流れ星!」
嬉しそうに呟き、最寄りの踊り場まで階段を駆け上がったアスナは、目を閉じて祈りを捧げた。その横顔を見て俺は、ようやく先程の既視感の正体に気づく。
迷宮区の最奥、層の主を倒したときにのみ出現する、未来へと繋がるもの。旧東京タワーの外階段は、迷宮区タワーの階段に、少しだけ似ていた。
思い出すのは、第一層。青の王を倒したあと、第二層へと続く階段を独りで登っているとき、俺は考えたものだ。前を見ても後ろを見ても誰もいないこの道行きは、俺のこれからを暗示しているようだ 、と。
けれど──流星のような彼女のおかげで、俺は生きて現実世界に帰ってこられた。かけがえのない仲間たちと、愛する家族と共に。
なんだかたまらない気持ちになって、後ろからアスナを抱きしめた。アスナはそれを予測していたかのように、きゅっと俺の腕を抱いた。お互いの温かさを確かめるようにしばしそのままの体勢でいたあと、アスナをこちらに向き直させる。
なあに、と目で問うてくるアスナの前で、俺はごそごそとカバンをまさぐった。展望台に登ってからにしようと思っていたが、流星が流れたから。今、ここで渡すのがいいと、自然に思った。
「アスナに、プレゼントがあるんだ」
「え……でもわたし、この間誕生日プレゼントもらったばっかり……」
「うん。だけど、俺があげたかったんだ」
困惑するアスナに、二十センチほどの紙袋を押し付けた。開けてみて、という言葉に従い、アスナはそろそろと包みを剥がした。
しゃら、と軽い音を立てて出てきたかんざしをアスナの目が写した。イルミネーションに照らされた簪も、それを写すアスナの瞳もきらきらと光って美しい。
「きれい……」
ほう、と息をつくアスナに、どうやらお気に召したようだと安心してから、俺がそれを購入した理由を伝える。
「それ、ランベントライトみたいだろ」
アスナが、目を見開いた。手が震えて、トップの青い飾りが揺れる。
ランベントライト、それは、アインクラッドでアスナが使っていた優雅な白銀の細剣だ。むこうで口に出したことはなかったけれど、その優美で上品な美しさは彼女の気高さを引き立て、とても似合っていると思っていた。
「今の俺たちに剣はないけどさ、きっと、それがアスナを守ってくれる。……えーと、ホラ、アスナ髪長いし家で勉強するときとか髪まとめるだろ。便利かなーと思ったんだけど……」
感極まったように無反応なアスナに、だんだん恥ずかしくなって、なんとなく早口で付け足してしまう。アスナはくすっと笑うと、花がほころぶような声で言った。
「すっごく、嬉しい。それに、心強いよ。ほんとうにありがとう……ね、つけてみてもいい?」
「もちろん」
俺が返事をした瞬間から髪をまとめ始めたアスナの手つきは手慣れており、かんざしでどうやって髪を留めるのかわからない俺は、魔法のようにまとまってゆく栗色の絲をただ見つめていた。
「……どう?」
上目遣いで恥ずかしげに聞いてくるアスナに、白銀の髪飾りはとてもよく映えた。
「似合ってる。思った通りだ……」
笑いあって、どちらからともなく、唇を触れ合わせた。お互いの体温の交換は、これ以上ないほど、とろけるように甘かった。
*
「あーあ、今日がキリトくんの誕生日だったらよかったのになあ」
数分後、再び階段を登り始めて少ししたころ、アスナは突然そう言った。
「……その心は?」
若干疲れてきたらしく、咄嗟に反応出来ずに間抜け面を晒してしまった俺だが、少々考えてみてもイマイチ意味を咀嚼しきれなかったため、問い返してみる。
「すっごく嬉しかったけど、貰いっぱなしは性に合わないわ。わたしの感じた嬉しさを返すためには、一日中一緒にいて祝ったって足りないくらいなのに、平日だとほんとにちょっとしか祝えないじゃない」
それでも精一杯祝うけどね、と意気込むアスナに、なんとなくクールな
「それは、アスナの誕生日だって同じじゃないか」
アスナの誕生日は、俺の誕生日である十月七日からきっかり一週間前の九月三十日だ。よって、俺の誕生日が平日なら、自動的にアスナの誕生日も平日なのだ。かくに現実世界とは面倒なものであって、学生に平日とくれば学校というセットであり、アスナの誕生日は昼休みの僅かな時間で祝ったのだった。アスナは唇を尖らせて、そうなんだけど、と続ける。
「わたし、そもそもこの一週間があんまり好きじゃないのよ。キリトくんと二歳差になっちゃうもん……だからね、キリトくんのお誕生日は、わたしにとっても喜ばしいの。せめて日にちが逆なら、一週間だけ同い年になれたのに」
「あー……」
珍しくどうにもならないことに落胆するアスナに、思っているより歳の差を気にしていたんだなあ、と俺は思った。確かに、まだギリギリティーンエイジャーである俺たちにとって、二歳差というのはどうにも埋めがたい差に思えてくる。
しかし、それは肉体年齢の話だ。ふと思い浮かんだ仮説を、そのまま口に出す。
「でも、精神年齢では一週間だけ俺たちが同い年、ってことにならないか?」
「え?」
クエスチョンマークを飛ばすアスナに、しまった説明が足りなかった、と反省した。どうにもまとまらない思考を無理やり回転させて、言葉を紡ぐ。
「ほら、俺アンダーワールドで主観的には大体二年ちょいくらい過ごしてるからさ。こう、端数切り捨てで……」
実際は端数どころか二年八ヶ月を過ごしているので、どちらかと言えば四捨五入して三年。むしろ俺が一歳年上になってしまうのだが、こういうのは気分の問題だろう。アスナはそれに気づいているのか、ぷっと吹き出した。
「あはは、そっかー。一週間だけ、同い年かぁ……」
アスナは、初めは嬉しそうに笑っていたが、だんだん微妙な顔になり、いやでも、というようにまた笑い、また微妙な顔になり、と二つの表情を繰り返していた。
「……それ、どういう感情なんだ?」
百面相──というより二面相──しているアスナをこのまま眺めるのも一興かとも思ったのだが、いい加減気になってきた。無意識の表情変化だったのか、はっとこちらを向き直ったアスナは、恥ずかしそうにその長い髪をねじねじとしようとしたところで、髪をまとめているのに気づいたらしく、バツの悪そうな顔でえへへと笑った。
「同い年だ、って考えたらね、嬉しかったの。それは本当。でもね、その二年間には、わたしの知らないキリトくんがいるんだなあって考えたら……ちょっと、ね」
そこで言葉を切ったアスナの口元は、まだ笑みの形をしていた。しかし、醸し出す雰囲気には様々な色が混ざっていて──それゆえに、アスナを満たす感情が何であるかは推し量れなかった。
アスナは、俺にアンダーワールドでの話を聞こうとしない。そして、俺もアスナにアンダーワールドの話をほとんどしない。
というより、出来ないのだ。アンダーワールドの話をしようとすれば、『彼』の話は避けて通れない。未だじくじく痛む傷は、まだ血を流し続けたまま。空気に晒すことで乾くのかもしれないけれど、それと共に思い出が風化してしまうことに、俺は耐えられそうになかった。たぶん、アスナはそれに気づいて問い質してこないのだ。瞳の奥に、寂しさを抱えたまま。
いつか、『彼』のことを笑って話せる日は来るのだろうか。沢山、たくさん話したいことはあるのだ。俺の相棒、唯一の親友のことを──
「まあ、一年や二年くらいどうってことないわよね」
気分を切り替えるように、アスナは上を向いた。階段は、いつの間にかあとつづら折り一往復ぶん程になっていた。最後の踊り場で一旦停止して、アスナはこちらを見つめる。その瞳に、暗い色はもうなかった。
「わたしたちは、これからもずっと一緒だもの」
そうだよね、と繋いだ手を引っ張って、アスナが階段を登り始める。残り少なくなった道程を一気に駆けてしまおうという魂胆なのか、ペースは少しだけ早めだ。アスナに呼応するように、俺も足を踏み出した。なんとなくしんみりしてしまった空気を塗り替えるように、肯定の言葉を口に出そうとしたところで、それは起こった。
どくん、と心臓が跳ねた。アスナを見上げるために、上向いていた視界がブレる。まるで動力源が身体の中心の一箇所に集まってしまったように熱く、裏腹に手足の感覚が冷えて遠くなっていった。
「あっ……」
身体の制御がおぼつかなくなり、足の着地地点を誤る。ずる、という感覚と共に、襲いくる浮遊感。その刹那に俺が出来たことは、繋いでいた手を無理やり離すことだけだった。
「キリトくん!」
アスナが叫ぶのとほぼ同時に、ずだんっ、と大きな音が重なった。一瞬の後にやってきたそこかしこの身体の痛みに、階段から落ちたことを悟った。
「……っ……」
不幸中の幸いと言うべきか、登っていた階段自体は三段程度。翌日に痣が出来る程度の傷しか負っていないはずだが、中々立ち上がれない。
原因は自覚していた。いや、させられていた、と言うべきか。心臓が、ちろちろと火で炙られているかのようだ。そこから吐き出される血液はドライアイスのように熱いとも冷たいともとれず、身体を強ばらせるばかり。
「やだ、ごめん……ごめんね……わたしが急に走ったから……」
アスナが、胸のあたりをぎゅっとを抑えて悶える俺に、こわごわと手を伸ばしてくるのが見えた。震える声で謝るアスナに、ちがう、と言葉にしたかった。だが、微かに喉が震えるだけで、それが声になることはなかった。
*
それからどうやって家に帰ってきたのか、俺はあまりよく覚えていなかった。血の巡らない頭は映画のコマを切り取ったような映像を残すばかりで、靄がかかったようにずっとぼんやりしている。
着替えも済ませないまま、パイプベットにぼふりと沈み込む。思い浮かんでくるのは、とろけるようなアスナの笑顔と、泣きそうな声で謝る悲しげな顔だった。腕で顔を覆って息をついても、ぐるぐるもやもやした思考は、ひとつも形になることはなかった。
唇を引き結び、むくりと起き上がる。支度を済ませ、一刻も早く寝てしまおう。荒れ狂ったような感情も、明日には少しは落ち着いているはず。考えるのは、冷静になってからでなければならない。
……それは、紛れもなく逃避だった。
だから、きっと必然だった。逃れられぬときが、やって来るのは。
*
最初に感じたのは、微かな息苦しさだった。ふ、と意識が上昇し、目を覚ます。知覚出来たのは、殺風景な自分の部屋──ではなく、ただただ白い天井のみ。
「……?」
この場所で、アラームが鳴る前に目が覚めるのは初めてだ。あらゆる刺激がカットオフされるここでは、外的要因で目が覚めてしまう、ということはない。不思議に思って首を傾げるも、何故か頭が回らなかった。──いや、待てよ。何とか思考を紡ごうとして、かぶりを振る。
そもそも、頭が回らないこと自体がおかしいのだ。この空間は、現実世界の影響を受けない。よって、思考の回転は常にニュートラルに保たれるはず。
無意識に布団の一点を見つめながら考える俺の視界に、突然ノイズが走った。じじ、と揺らいだ景色の端に、赤いアラートマークが点滅している。どういうことだ、と思う間もなくノイズは広がり、砂嵐のように視界を塗り潰していった。
何かがブツっと切れたような音と同時に、天地がひっくり返ったような酩酊感。次に襲ってきたのは──脳天を貫くような、凄まじい痛みだった。
「……っぐ、ふぅっ……!」
唇を噛み、ぎゅうっと身体を縮こまらせて痛みに耐える。足に触れた布団の感触に、仮想世界から現実世界へ放り出されたのだと悟った。
だが、なぜ。俺の使っているアミュスフィアは機能強化されており、ちょっとやそっとのことでは切断などされないはずなのに。
──いや、ここまで来て、誤魔化すのはもう止そう。お守りのように枕の横に置いてあった頓服薬に、どうにか手を伸ばす。
今までは、多少苦しくても気のせいにして流していた。認めてしまったら、何かが終わってしまうような気がして。何度もPTPシートを取り落としながら、ようやく薬を口に入れる。
もう潮時なのだろう。こうしてアミュスフィアの自動切断機能が働いたということは、アミュスフィアではカットしきれないほどの異変が起こっているということ。詰まったように閉じてしまった喉を無理やり動かしている間に、溶けてしまった錠剤の味が口の中に広がる。
つまりは、俺の身体が限界ということだろう。ようやく飲み下した薬と共に浸透した現実は、吐き気がするほどに苦くて苦くてたまらない。未だ検査の段階。俺が家で寝ていられるということは、今日明日どうにかなることはない。
──けれど、五年後、十年後は?
分からない。三日前までの俺ならば、容易に描けていたであろう未来の予想図は、今は途方もなく遠く。
こんなんで、アスナを守れるのか?
──ダメだ。
こんな俺の人生に、アスナを付き合わせるのか?
──考えるな。
こんな身体じゃ、アスナを幸せにできやしないのに?
「……やめろよ……」
吐息と共に吐き出された言葉は、みっともなく掠れて、震えていた。薬が効き始めるまでの永遠のような数分間。思考の断片は、泡沫のように留まることなく結びついては消えていく。
最後に残ったのは、わたしたちはこれからもずっと一緒だもの、と俺の手を引くアスナの声。先導者のように輝いて見えたアスナの後ろ姿に、俺はついて行くことができなかった。
その時点で、俺の往く道は決していたのだろう。
「ごめん、アスナ……俺、一緒にいられないよ……一緒の時間を、生きられないよ……」
ぽた、とひとしずくだけの涙が、頬を伝って流れ落ちた。
*
多少動けるようになり、ベッドの端にぐったりともたれかかって息を整えていると、視界の隅で携帯端末がちか、と光った。半ば無意識で手を伸ばすと、表示されているのは『非通知』の文字。端末の右上を見れば、時刻は午前二時過ぎ。怪しいことこの上ないが、何故か無視する気になれなくて、通話ボタンを押した。
「もしもしキリトくん? 大丈夫かい?」
勢いよく耳元に飛び込んできた声は、甚だ遺憾ながらも、よく馴染んでしまったものだった。
「……菊、岡……?」
ひゅうひゅうと息は乱れ、吐息のような声で名前を呼ぶ俺に、菊岡は微かに息を飲んだ。
「大丈夫、ではなさそうだね。今からそちらに救急車を寄越そう」
「や、もう、落ち着いた……大袈裟にしないでくれ」
「大袈裟なものか。データを見させてもらったけど、今日だけで二回、心機能が低下しているね。特に二回目、先程の発作はもう見逃せるレベルではないよ」
菊岡は諭すように、淡々と話した。そして、言われなくても、そんなことは分かっていた。しかし、それでも俺は言い募る。
「……実験期間は一週間だったはずだろ。データの収集具合は、芳しくないんじゃないのか……?」
「強制切断が起きてしまう時点で、データの連続性がなくなる。実験として不適切だよ」
理詰めで喋る菊岡は教師然としていて、なんだか叱られているような気分に──いや、これは実際叱られているのだろう──なり、目の前に菊岡がいるわけでもないのに目を泳がせてしまう。携帯端末と点滅するルーターだけがぼんやりと照らす部屋の中、吸い寄せられるようにあるものが目に入った。ぱちん、と風船が弾けるように、考えが思い浮かぶ。
「……切断が起きなきゃいいんだな?」
「おい、君、何を考えて──」
「ナーヴギアの実験データ、欲しくないか?」
自暴自棄とも取れる俺の発言に、菊岡は言葉を失ったようだった。ナーヴギア。かつて一万人を仮想世界に閉じ込めた鉄の冠は、僅かな光を浴びて鈍く光っていた。まるで凶器を彷彿とさせるような輝きに足が竦む。事実、四千人の脳を焼き殺したそれは、しかしアミュスフィアよりも高性能なただのマシンであることに変わりはないのだ。
「……解らないな。君だって相当、身体がしんどいはずだろう。どうしてそんなに頑なになるんだ?」
聞き分けのない子供に根気強く言い聞かせる親のような言葉には、少しだけ苛立ちが混ざっていた。この人って怒るんだなあと場違いな感想を胸の内に抱きながら、考える。どうして、か。
俺の身体が悪いことも、それを誤魔化すのがそろそろ限界なことも、実験だなんだと言ってこの男が分かりにくい心配をしてくれているのも分かっている。
それでも、あともう少しだけ、と願ってしまうのは──
「……誕生日だから、かな」
「……は?」
この場の雰囲気に似つかわしくない言葉に、菊岡が怪訝な声を上げた。浮かんだ気持ちをそのまま話しているだけの俺は、構わず続ける。
「今週の水曜日、誕生日なんだ、俺。十月七日。十八歳になる」
「……ああ、うん、おめでとう?」
訳が分からない、といったふうな言葉に、思わず笑みが漏れる。
「どーも。それでさ、スグがもうあれこれパーティーの準備してくれてるみたいなんだよな。アスナも祝ってくれるらしいし」
何も言われていないが、リズやシリカ、メカトロニクスメンバーも数日前からこそこそと準備をしている気がする。俺はそれに気付かないふりをしながら、密かにこそばゆい気持ちになっていたのだ。最も、後者に関しては良くてチロルチョコ、悪ければパイ投げで馬鹿騒ぎ、みたいな感じだろうが。
「俺、こんなに誕生日が楽しみなの、初めてなんだ」
昔から、いまひとつリアリティを感じられなかった『誕生日』という日。しかし、今となっては俺が唯一思い描ける、明るく楽しい未来予想図。
「せめて、誕生日までは自分を誤魔化しておきたいっていうか……ちゃんと、『おめでとう』を受け取りたい」
きっと、暗い気持ちで受け取ったら、貴(とうと)い気持ちが濁ってしまうから。
この先、俺を待ち受けているのは、理不尽で圧倒的で、孤独な現実だろう。それでも、生きていかねばならない。大事な人たちからもらった大切な思い出を灯火にして。
「だから、頼むよ菊岡さん。……俺を、もう少しだけ、何も知らない子供でいさせてくれ」
黙りこくっていた菊岡は、俺の吐露を最後まで聞いたあとに、鋭く息を吸い込んだ。怒鳴られるかな、と反射的に身を縮めたが、菊岡は細長く息を吐いただけだった。
「……どうにも、弱いねぇ。ま、ナーヴギアのデータを取らせてもらえるというのは、こちらとしても願ったり叶ったりだ。OK、今回は見逃そう」
ほっとしそうになる俺に、ただし、と菊岡が釘を刺す。
「本来は自動切断機能のないナーヴギアでまで接続が維持出来ないような発作が起きたら、そのときは問答無用で病院行きだ。いいね?」
「……わかった」
「よろしい。じゃ、そういうことで。くれぐれもお大事にね」
再度念押しをして、菊岡は慌ただしく電話を切った。通話終了の音と共に、今度こそ息を吐いた。時間にすればほんの十分程度の会話だったが、密度が半端なかった。消耗を感じなからも、電話が来る前に比べ、体調も精神状態もだいぶマシになったことも自覚していた。もしかしたら、明らかに不審な電話を取ってしまったのは、誰とでもいいから話をしたい、という精神面の揺れによるものだったのかもしれない。そうすると、全ての事情を知っている菊岡は、案外ベストだったのでは、というところまで考えて、暗澹たる気分になった。
「……寝るか」
何が悲しくて菊岡なんぞに、という気持ちを振り払うように、携帯端末のライトを頼りにしてラックに手を伸ばす。無骨なデザインのナーヴギアはずしりと重く、長い間部屋のインテリアとなっていたことを抗議しているようだった。ヘルメット型のボディを、そっと包み込むようように抱きしめた。忌避感が消えたわけではないが、これからまた、この機械に世話になるのだ。コードを繋ぎ、電源を入れる。ところどころにある塗装が禿げた部分を撫で、ひとときだけの相棒に挨拶を告げる。
「……よろしくな」
無機物であるはずのマシンは、それに答えるようにランプを点灯させた。
*
ここまでが、俺が、曲がりなりにも前向きでいられた頃のお話。
現実から逃げつつつも、向き合う準備があった頃のお話。
しかし、どうやら、『運命』というものは、俺のことが大嫌いなようで。
ちっぽけな俺はまた、大きな流れに呑み込まれる──あるいは、自ら飛び込んでいくことになる。
*
ここ最近の常のように、ローカルVR空間にログインした俺が初めに目にするのは、目に痛いくらいの真っ白な空間である──はず、だった。
「なんだ……これ……」
俺の目の前に突如現れた、禍々しい入口。どこか見覚えのあるそれをくぐり、こわごわ中に入ってみれば、そこにあったのは完全な正六面体の真っ白い空間と、つるつるに磨かれた大理石でできた黒い直方体だった。
「……っ!」
稲妻のような衝撃が、俺の脳裏に走った。……見覚えがある、なんてレベルの話じゃない。
あれは、コンソールだ。GMがシステムに緊急アクセスするためのオブジェクト。消去されそうになったユイを助けるために、操作したもの。
そして──ゲーム内からの緊急アクセスを想定しなければならない旧SAO以外に、設置されているはずのないもの。
口が勝手に浅く早い息を繰り返すのを感じながら、壁に寄りかかってずるずると座り込む。
「はは……そういう、ことかよ……」
おそらく、このデータにアクセスするためには、ナーヴギアを使わなければいけないいのだろう──俺はそう直感した。
要するに、ファイルを解凍するために問題だったのは、ソフトではなくハードだったのだ。
それに気づかないのも当然だ、と思った。実に四千人もの殺人を犯した狂人のデータを、狂人が作った機械を使って見ようとするバカがどこにいるのだろう。ここにいたか、乾いた笑いを落として立ち上がると、自動的にコンソールの電源が点いた。
ぶん……という音と共に、いつか見たままの青いホロキーボードと、メッセージが表示される。
【IDとパスワードを入力してください】
一瞬の後に追加で浮かび上がったモニターに、文字数無制限の入力画面が浮かぶ。
さらに、視界の右端に二つのアイコンが上下に並んで表示された。六十から一秒ごとに数字を減らしていくものと、一という数字のまま動かないもの。おそらく、残り時間と試行回数だろう。
……どちらかを満たしてしまえばアカウントがロックされるなどならまだマシな方で、最悪データの即時消去もありうる。ホロキーボードに心当たりの英数文字を打ち込むか、俺は深く懊悩した。
理性的な部分が、やめろ、と叫ぶ。絶対に、ろくなことにならない、と。
だが、感情的な部分──予感、とも呼べるような感覚が、今すぐ打ち込め、と命令している。ここで打ち込まないと、お前は一生後悔する、と。
残り時間は、三十秒を切った。試してみるのなら、このへんがタイムリミットだ。何かに突き動かされるように、俺は猛然とキーボードを叩き出した。まずは、時間のかかるパスワードから。
数年前に聞いたきりの、それでも忘れていなかった複雑な英数文字の羅列を、刻み込むように埋めていく。ようやく打ち込み終わったところで、時間は残り十秒弱。急に強ばってしまった指を動かして、IDを打ち込む。Heathcliff──ヒースクリフ、と。キーボードを叩き終わった時点で、残り三秒。二、一と減っていく数字を、最後の抵抗とギリギリまで見つめてから、エンターキーを押した。
全ての音が消えてしまったような、一瞬の静寂。打ち込んだ英数文字が間違っていたのなら諦めがつく、ときつく目を閉じて待っていたが、瞼の裏から刺さるような光に包まれて、俺は正答を引き当ててしまったことを悟るのだった。
*
光の奔流に運ばれる最中、無機質なアナウンスボイスが聞こえた。
「生体情報が一致しません。一致項目のあるアバターに置換します」
「は!? ちょっと待て、色々説明してくれ!」
声の聞こえた方向に聞き返すも、返ってくる声はなかった。
輝きが徐々に掻き消え、俺のアバターが形成されると同時に、とん、と石畳の上に降り立つ。周囲は街路樹に囲まれ、瀟洒な中世風の街並みが広がっていた。正面の黒鉄宮を確認するまでもなく、アインクラッド第一層《はじまりの街》中央広場だとわかった。
アバターを検分してみれば、黒いコートと背中には二本の剣。現在の俺のより目線は低いものの、ゆえに間違いなく《黒の剣士》キリトのアバターだと察せられた。
「……まあ、やっぱりこうなるよな」
周りを見渡して、ポツリと呟く。旧SAO内にしか存在しえないコンソールを発見した時点で、半ば予期していた展開だ。流石に《黒の剣士》時代に戻るとは思っていなかったが──今考えると、ヒースクリフのアバターで動き回るのは癪なので、これで良かったかもしれない。
それから、俺がまずやったのはログアウトボタンの確認だった。おそるおそる右手でメニューを開き、ログアウトボタンがあるはずの場所をタップする。
「あった……」
無駄に薄目で確認してしまったそこには、ログアウトボタンが当然のように鎮座していた。肺の中の空気が空になるほど──この世界には肺も空気もないわけだが──安堵の息を漏らす。
こうなると、あとはデータの確認だけだ。今回の場合、旧SAOが再現されていることよりも、重要なのはそこにあるものたちだった。
ただの旧SAOのコピーであれば、そんなものALOにだってある。菊岡は落胆するだろうが、ほぼ価値のないデータになるだろう。
そうあることを期待して、周りを見回した。見渡す限り人はおらず、かつて安全エリアに留まる人々で賑わっていた場所は、奇妙なまでの沈黙に包まれていた。
気味が悪い、と感じてしまう気持ちを抑え、首を振る。何もいなければ、それで──
「……え……」
まるで、時間が止まったようだった。
黒鉄宮から人が出てくる。人数は五人。その装備は、それぞれ盾とメイスに短剣、長槍とクォータースタッフ、そして、盾持ちの片手剣。うそだ、と声にならない感情を、口の中で転がした。ありえない、絶対に、有り得るはずがない。
中央広場で立ち尽くしている俺に、人の良さそうな彼らが近づいてくる。一番前を進んでいた男は、俺が誰であるかを察したようで、顔を強ばらせると小走りで駆け寄ってきた。
「……キリト、だよな……?」
おそるおそる、といったふうに尋ねてくるのは、俺の目の前でその身体をアインクラッドの宙に踊らせたはずの男。
「ケイ、タ……?」
カラカラになった喉から吐き出されたのは、酷く掠れ、しわがれた声だった。
見間違いだと思いたかった。でも、ここまで近づいてしまえば、間違いようがない。
こんな狂った世界の中で、心配りを忘れない。ここにいたいと願った結果、俺が壊してしまったギルド──月夜の黒猫団が、あの頃のままの優しさで、存在していた。