ソードアート・オンライン -The Dream of a Butterfly- 作:楪
かたん、かたんと揺れる電車に、二人並んで座る。一番端の席に座った和人は、力尽きたようにコテンと眠ってしまっていた。耳元に響く静かな寝息に、知らず知らずのうちに明日奈の肩に入っていた力が抜ける。
階段を落ちてからしばらく、和人は震えていた。その背中をさすり続けて数分後、やっと顔を上げた和人の表情に滲んだのは、深い恐れのような、複雑な色合いもの。たとえ数段程度であっても、落下にトラウマのある和人にとってはそれほどの恐怖を刻むものだったのだろう。謝り続けるアスナに、首を振って大丈夫だ、と笑った和人の顔色は紙のように白く、逆に痛々しかった。
ぽすん、と和人の肩に自分の頭を載せ、体重を預ける。明日奈は、和人の体温や心音が感じられるこの体勢が好きだった。和人も、明日奈が無垢なる信頼を寄せているのが伝わるような、この体勢が気に入っているように思う。
しかし、明日奈には一つだけ不満があった。首の角度を変え、和人を見上げる。その頭は、座席の壁にもたれかけられていた。
───わたし、ちゃんとキリトくんを支えられているのかなあ……
瞼を閉じて考えるのは、近ごろふっと過ぎる疑問だった。
周りの人たちをみんな笑顔にできるような生き方、疲れた人をいつでも支えてあげられるような、そんな生き方をしてみたい。ユウキと触れ合っていくうちに見つけた明日奈の大切な夢が一番に向けられているのは、紛れもなく和人だった。しかし、こうして寝ているときですら、和人は自分を頼ってくれない。座席の壁と長めの前髪が隠してしまっている和人の表情に、明日奈は忸怩たるものを感じていた。
和人は、人を頼るのが苦手だ。忌避している、と言ってもいい。彼は、大切なものを亡くしすぎたのだ。いつか商店の二階で聞いた、大切なギルド。アンダーワールドで喪ったらしい、大切な友。そして、明日奈もその責任の一端を担っていた。
アインクラッドでの最後の戦い。そこで明日奈は、一度和人を置いて逝ってしまった。あんなに自分に関わった人を喪うことに怯えていた和人と、わたしは死なない、と約束したにも関わらず。
あそこで和人を庇わないという選択肢は、明日奈にはなかった。明日奈にとって、『キリトを守ること』は自分の命よりも優先されることだったからだ。だが、結果的には、和人の心を守ることはできず、深い傷を残してしまった。
大切な人が傷つくくらいなら自分が傷ついたほうがいい、と考える和人にとって、それらの出来事は耐え難い苦痛だっただろう。彼は自分のことを『ちょっと電子機器に詳しいだけの子供』『ただの虚弱なネットゲーマー』などと卑下するが、その気になれば大概のことを一人でこなせてしまう
それらが合わさった結果が、死銃事件だ。あのとき明日奈はなにも教えられず、和人が危険に身を投じるのを安全圏でただ眺めていることしかできなかった。
だから、元ラフィン・コフィンのジョニー・ブラック──金本敦に襲撃される前、アメリカについてきてくれと和人に言われたとき、明日奈は報われたような気がしたのだ。ようやくこの人は、自分を巻き込んでくれるようになったのだ、と。
電車がガタンと大きく揺れ、前髪で隠されていた和人のかんばせが露わになる。の揺り椅子で船を漕いでいるときと同じはずの表情は、今にも消えそうなほどに儚く見えた。
明日奈は、膝の上に投げ出されていた和人の手をぎゅっと強く握った。そうしないと、隣にある質量がぱしゃんと溶けてなくなってしまうような気がした。不意に、かつて肩に載せていたカメラの重みと、そこに確かにいた彼女の声が蘇る。
気をつけたほうがいいよー。あの人も、ボクとは違う意味で、現実じゃないとこで生きてる感じがするから。
結局あのときは、ユウキの言葉の意味は分からずじまいだった。
しかし、今はなんとなく分かる。分かってしまう。最近、和人がふっと掻き消えてしまいそうな雰囲気を醸し出すことがあるのだ。
今日の待ち合わせだってそうだった。最初は目を閉じた和人を、すこし驚かそうとして後ろから近づいたのだが、その背中がとても小さく見えて。薄く薄く、どこまでも希薄化して、掴めなくなってしまいそうな感覚がした。そんな恐怖に駆られ、明日奈は思わず後ろから和人を抱きしめてしまったのだ。
次の停車駅を告げるアナウンスが、明日奈の耳に届いた。和人の乗り換え駅であるが、彼は微塵も目を覚ます様子がない。一瞬、このまま彼を起こさずに行けるところまで行ってしまおうか、という気持ちが芽生えるが、かぶりを振って打ち消した。離れがたい気持ちを押さえつけ、頭をもち上げる。
──強くなりたい、と思った。自分が強くなければ、誰かを支えるなんてできない。それは明日奈の母である京子の言葉であったが、今や明日奈自身の信条にさえなっていた。
とても強くて、どこか脆いところのある和人を支えるというのは、簡単なことではないだろう。
だが、明日奈は引き下がる気なんかないのだ。何よりも愛しい、彼のために。そして、彼を愛した自分のために。
次回、『邂逅』