ソードアート・オンライン -The Dream of a Butterfly- 作:楪
本来ならば、人間が立ち入ることは許されない0と1の世界。電子のたゆたう空間の狭間に、その男は立っていた。
「おや……?」
首を傾げ、即座に電脳世界の走査をする男が纏うのは、白いシャツにネクタイ、そしてとうに必要のなくなったはずの白衣だった。常人には理解できないような言葉の羅列を呟き、情報を整理していくさまは、もはや人間ではない何かに変貌してしまったようであったが──
「……ほう」
呟いて、にやりと唇を歪めた表情は、皮肉にも彼に人間らしさという
*
どうして、なんで。頭の中でぐるぐると、意味のない言葉だけが回り続けている。
半ば呆然としているうちに、メイス使いのテツオに背中を押されて降り立つことになったのは、アインクラッド十一層主街区《タフト》だった。
異国情緒溢れるレンガ造りの街は、
「……本当に、俺が入っていいのか?」
硬直してしまった俺に、ひとまず落ち着けるところで話そうと招待したのは彼らだった。
漫然と、言われるがままについてきてしまったけれど、あのギルドホームに俺が立ち入っていいわけがない。固辞しようとしたところで、短剣使いのダッカーが俺の肩をドンッと押した。
「はぁ? 何今さら気ぃ遣ってんだ、よっ」
「わぁっ!?」
たたらを踏んで入室する俺に続いて、ダッカーが入ってくる。最後に部屋に入ったサチがぱたん、と扉を閉めたところで、逃げられないことを悟った。
部屋には小さなローテーブルと、それ囲うようにソファが配置されていた。それほど高価なものではないようだが、よく手入れされた家具は、誇らしげな光沢を放っている。
「まあ、そこ座ってよ。お茶淹れるからさ」
慣れた動きでキッチンへ向かうケイタと、それに付き従うサチ。座ってよと言われても、と逡巡してからソファの端に浅く腰掛けたが、お前は真ん中だろ、とダッカーにぐいぐいと体を押しつけられた。テツオの方を振り返るも、彼は笑って見守るばかりだ。
「……よかった、とりあえず落ち着いたみたいだな」
キッチンから戻ってきたケイタは、カップを俺に差し出しながら、無邪気な瞳で微笑んだ。
……まるで、真綿で首を締められているかのようだった。
月夜の黒猫団のリーダー、ケイタ。
胡散臭いソロプレイヤーを、気心知れた部活仲間で結成していたギルドに入れるような、人の善い男。しかし、その最期には──仲間を全員死なせながら、一人生き残った俺を憎しみ、死んでいった。
俺のエゴが、彼の善良さをも歪めてしまったのだ。
だが、いくら待っても、彼の顔には侮蔑も嫌悪も滲むことはなかった。
──このひとは、いったい誰なんだろう。
遠い昔と同じような態度の彼に、慣れ親しんだ虚無感が、俺の胸を満たした。
「……なあ、キリト。もしかして、なんだけどさ……」
そこまで言うと、ケイタは一度言葉を区切った。
話しにくそうにしているのは、何の反応も示さない俺に困っているのかと思っていた。けれど、聞きたいこと自体がそもそも言い出しにくいことなのかもしれない──覚悟を決めたかのごとく、俺を真っ直ぐに見据えた瞳は、そう思わせるに足るものだった。
「……きみがここに来たのは、さっきが初めてか?」
瞬間、ぴしりと張り詰めた空気に、考えが間違っていなかったことを悟る。
「お、おいおい。そりゃねえだろ」
「そうだよ、最後にこっちに人が来たの、二年近く前だったじゃん」
身を乗り出して反駁したダッカーとテツオが、なあ、と縋るように同意を求めてくる。
──これか、と直感した。
俺の知らない世界の欠片。不和を埋めるピース。
虚無感の答えはきっと、ここにある。
「……そうだ。『初めて』というのが、いつの間にか《はじまりの街》に居たことなら──俺は、初めてここに来た」
慎重に言葉を選んだ返答は、一滴のインクが水に滲むように広がり、重い沈黙に取って代わった。
「……やっぱり。僕達に出くわしたとき、幽霊でも見たような顔してたもんな……」
片手で顔を覆ったケイタは、細長い息を吐きながら、ぽつりと呟いた。
……『幽霊』という単語に、一瞬身が竦んでしまう。その刹那を縫って、彼は言った。
「なあキリト、僕達が死んだのは知ってる……んだよな?」
「──っ!」
「その様子だと、知ってるみたいだね」
核心を突く話が、無造作に提示される。
思わず息を飲む俺に対して、ごめん、そんな顔させたいわけじゃないんだ、と、労るように彼は言った。
『どうして』と叫びたくなるような気持ちでケイタを見つめると──彼は、静かに微笑んでいた。
「キリト。もし、……もしも、きみも実は死んでるんだ、って言ったら、信じるか……?」
「……は……?」
わななく唇から
「……やっぱり、お前も覚えてないか」
「なに、を……?」
「あの世界で、死んだときのこと」
あまりにも荒唐無稽な話に、くらくらと目眩のような感覚がした。
そんなこと、ありえるはずがない。だって、俺は現実世界からログインしていて、ログアウトボタンだって確かにあって──でも、それを言うなら、目の前の彼らの存在はなんだ?
NPC、ではないだろう。彼らの感情表現は自然すぎる。なら、ユイのような特殊AI?──それも考えにくい。死んだ人間をそのまま再現するなんて、……かのSTLでも不可能だ。最新に最新を重ねて煮詰めたような技術に、古びたHDにしまい込まれていたデータが勝てるとは思えない。
つまり──この場には、ありえないことしか、なくて。
信じられるものなんて、もう、どこにもなくて。
ひたすら目を逸らし続けていたことを真正面から見つめてしまい、心臓がドクドクと嫌な跳ね方をする。ぼやぼやと視界が狭くなって、思考が霧散していって──同時に、この感覚が、覚えのあるものだと気づいた。
この感覚はまるで、あの日、医師に病気を告げられたときのようで。
ふ、と自嘲の笑みが零れる。なんだ、現実と変わらないじゃないか──ありえないことなどないと、俺は知っていたはずなのに。
「……少しだけ、待ってくれないか?」
そう言って、数度深呼吸をした。仮想空間での呼吸に意味はないけれど、身体に馴染んだ感覚が、段々と焦燥を落ち着かせてくれる。
ひとまず、わからないことは置いておこう。思考を停止してなあなあのまま進むのは得意なはずだ──彼らとずっと、そういう付き合い方をしてきたように。
「……お前も、っていうのは?」
とりあえず、違和感のあるフレーズを口にした。その言い方は、まるで。
「僕達も、死んだときのことは覚えてないから」
割合あっさりと言い放ったケイタに、俺は言葉を失った。
彼は苦笑し、どこかに切なさを感じさせる声で言った。
「ほんとうに、何も知らないままだったんだな……それじゃあ、僕達の思い出話をしようか」
*
──この世界に初めて来たときさ、一番最初に、あれ、なにやってんだろ僕、って思ったんだ。
ギルドホームの購入手続きが終わって、さあ宿屋に戻ろう、ってとこで、僕の記憶は途切れてたから。
みんなもそんな感じ……だったよな? 朝、宿屋にいるとこまで記憶ある? えっ、ダッカーは前日の夜までの記憶しかないのか? お前、ほんとテツオたちと一緒に来られて良かったな……
あっごめん、キリトは分かんないよな。なんの嫌がらせなのか、僕だけここに来るまで時間差あってさあ……チュートリアルもなしにはじまりの街の中央広場に放り出されて、涙目だったよ。ちょっとあっちの世界の始まりを思い出す唐突さだったし。
でも、すぐに人が迎えに来てくれて、黒鉄宮に案内してくれたんだ。で、これは一体なんなんだ、ってその人に聞いたんだよ。
そしたら、まず言われたんだ。「君は死んだんだ」って。
……最初は、信じられなかったよね。だってさっきまで圏内に居たんだ。どうやって死ぬんだよ、って思った。
きっと、ここに来たばかりの人はみんなそうなんだろうな。ちょっと見ててくれ、って慣れた感じで
ちょっとしてから助け起こされて、お礼を言うべきなのか詰るべきなのか迷いながらその人の顔見たら……なんと、さっき死んだ人でさあ。
もっかい腰抜かすくらい驚いて、一瞬、SAOがただのゲームに戻ったのか、って思った。けど、その人に言われるままメニュー開いたら、ログアウトボタンはやっぱりなくて。それから、この世界のことを説明されたんだ。
と言っても、実は分かってることなんてほとんどないんだけど。
この世界ではことはないけれど、ログアウトすることもできない。装備やレベルはむこうで死んだときの引き継ぎで、何故か、この世界に来るほとんどの人が自分が死んだことを忘れている、って、そんだけ。
ほとんどの人、って言い方をしたのは、忘れてない人がごく稀にいるからなんだ。それが、僕を迎えに来てくれた人──ギルド《ノーブルハーツ》の人達。
僕達がこの世界に来たときよりよっぽど混乱が大きかったときに、記憶を持ったままこの世界にやって来た《青の騎士》が作ったギルドなんだよ。彼らのおかげで、この世界に秩序がもたらされたと言ってもいい。
彼らの一番大きな仕事は、新たに向こうからやって来る人にこの世界を説明することだったんだけど……二年前くらいに急にこの世界にやって来る人が増えたと思ったら、そのあとはぱったり途絶えてね。半年間、誰もこの世界に来ることがなくなった時点で、《ノーブルハーツ》は解散になった。でも、《はじまりの街》は彼らの拠点になってたから、今でもあまり人が立ち入ることはないんだ。蘇生ポイントに設定されてるから、どうしても行っちゃうことはあるんだけどね。
……ちょっと話しすぎちゃったな。僕、《ノーブルハーツ》に憧れてたんだ。こうして、キリトに《ノーブルハーツ》の真似事をしちゃってるくらい。その在り方は、僕の理想そのものだったから、さ。
まあ、それは置いといて。
その説明を聞いて、僕はようやく納得したんだ。
なんでかは分からないけど、あの世界で僕のHPは空になって、死んでしまったんだなって。
黒鉄宮から解放されて、僕は途方に暮れたよ。もう現実世界に戻ることはできないのに、消えることもできなかったんだ。行くあてもなく足を動かしていたはずなんだけど、気づいたらあの日買ったはずだったギルドホームの前にいて……扉の前で、黒猫団のみんなが座りこんでたんだ。
それから、人目も気にせず、みんなで抱き合ってわんわん泣いたよ。帰りたい、ってさ。
今にして思えば、ホームの中入ってからやればよかったんだろうけど、とてもそんな余裕なかった。泣いて泣いて、泣き続けて──ようやく落ち着いたとき、みんなで誓ったんだ。
この世界で、ちゃんと生きていこう、って。
*
「……これで、僕達の話は終わりだよ」
長い長い話を終えて穏やかに笑っているケイタを呆然と見つめながら、俺は、疑問がとろりと溶けていくのを感じていた。
何故、彼は──月夜の黒猫団は、こんなにも温かく俺を迎えてくれたのか?
……それは、彼らにとって俺が、『途中加入の片手剣使い』でしかない存在に戻ったからだ。
ギルドホームを買いに行くケイタを待つ間に、狩りに出かけたことも。
そこでトラップを引っ掛け、俺以外の四人が死んだことも。
宿屋に帰った俺の話を聞いて、『ビーター』と罵りながら自殺したことも。
全て、彼らの中には残っていない。
放置されていた茶を飲み干し、ケイタはこちらを見つめた。
その瞳が言っていた。今度は、キリトの話を聞かせて欲しい、と。
……彼が求めているのは、きっと、あの世界の顛末だ。
二年前──ゲームクリアのあの日から、こちらの世界に移住する者はいなくなり、彼らは直感したはずだ。
SAOが、クリアされたことを。
しかし、今日初めてここに来た、という俺の存在が、彼らの認識を危うくしている。
……本当は、全て洗いざらい話すべきなのは分かっていた。
俺が彼らを殺したことも、SAOをクリアしたことも、本当は俺が生きていることも。それが彼らに対する、せめてもの誠意だと。
しかし、喉は凍りついてしまったように、何一つとして言葉を吐き出すことができなかった。
──怖い。
俺のしたことを知って、彼らにもう一度、軽蔑の目を向けられるのが。
俺が生きていると知って、異物だと決定的に排除されるのが。
あのころと変わらない、自己中心的な考えに嫌気がさす。結局、俺は本質的なところで何も成長していないのだと、思い知らされる。
「なあ……もう、いいんじゃないか?」
行き詰まった空気を揺らしたのは、今まで静観を貫いていたササマルだった。
「確かにさ、俺だってあっちの世界がどうなってるかは知りたいよ……けどさ、こんな雰囲気にしてまで聞きたいことじゃ、ない」
彼は、思い返すように目を伏せる。
「俺さ……キリトにはじまりの街で会ったとき、ちょっと薄情だなって思ったんだ。タイムラグがあったとしても、こっちの世界に来てたのなら、二年間も会いに来ないなんて、って……でも、それは違ったんだ。キリトはこっち来たばっかりで、また出会えた。だったら、またゆっくり話す機会くらいあるよ」
声にこもった感情の色が、痛くて痛くて仕方なかった。
しかし、そんな俺の欺瞞に気づけるわけもなく──ササマルが顔を上げ、噛み締めるように言う。
「キリトだって、ギルドメンバーなんだから」
──それだけは否定しなくてはならない、と思った。
その気持ちに報いれるものは、俺の中にはない。どころか、彼らに対して俺は、裏切りしか重ねていない。
だから、そんな──春の陽だまりのように優しい気持ちを、もらうわけにはいかない。
「……ごめんなさい……」
一瞬、それは俺の口から出てきた言葉だと本気で思った。ぐちゃぐちゃの思考の中から、口をついて出てきてしまったのがそれだったのか、と。
「サチ……?」
けれど、ケイタはサチの名前を呼んだ。そこでやっと、先ほどの言葉は彼女の発言だったと気づいた。
俺と目が合うと、サチはびくりと身体を強ばらせた。他のメンバーにはない反応に、ひとつの仮説が導かれる。
──もしかして、サチは俺がしたことを覚えている……?
考えてみれば、《はじまりの街》で出会ってから今まで、サチは一言も喋っていなかった。それは、俺と同じような違和感を抱いていたからではないだろうか。
そう気づいた瞬間、ある感情が去来した。
ああ、だったら──俺を裁くのは、彼女がいい。
最悪のクリスマスの日に希求したものが手に入ると、俺はそのとき、本気で期待を抱いてしまった。
……だから。
「ずっと、言い出せなかったんだけど……私、その人のこと知らない……」
その言葉を理解したときの俺の感情を表す言葉は、この世のどこにも存在しないだろう。
ウソだろ、と誰かが囁いた声が遠くで聞こえた。
サチはふるふる首を振って、怯えた──知らない人を見る目で、俺を見た。
……頭の中で、何かがぷつん、と切れた気がした。
ゆらりと立ち上がり、踵を返す。キリト、と呼びかける声を振り払って、俺は扉の外へ駆け出した。
周りなど省みず、ただただ足を動かす。
走って、走って、息が引き攣るような感覚がしても走り続けて、辿り着いたのは──あの日の地下水路だった。
「は、は……」
夕暮れ時の茜色が届かない水路の中、吐息なのか嘲笑なのか自分でも分からない呻きを零しながら、その場で膝を抱える。
……サチは、俺の罪どころか、俺の事すら覚えていない。
その事実が、圧倒的なボリュームで絶望を奏でていた。
彼女が俺を恨んでいないことなど、とっくにわかっていた。
アスナを通じて、伝えてくれていたから。きみが、幸せだったと思ってくれていたこと。
けれど。
俺は、俺自身はきっと──その言葉を、どこかで受け入れられずにいた。
守りたかった。
そばにいたかった。
幸せだ、と、今も笑っていてほしかった。
……それが許されないのであれば、せめて。
彼女に断罪された上で、赦しがほしかった。
断罪を恐れながら断罪を望むのは、矛盾している。だからこそ、神様はこんなに皮肉な罰を与えたのだろう。
メニューを開いて、ログアウトボタンを押しながら、俺は痛烈に実感していた。
俺と絆を紡いだ少女は、永遠に喪われた。
俺が彼女に謝る機会は、もう二度とないのだと──
次回、『惨憺』