数年経った今でも舗装されず、ある意味自然の姿を保ったままの細い山道を明日奈は懸命に登った。
制服のままだから足元はローファー……いちを履き慣れた靴ではある。ただし今後自分の足で登る時は「やっぱりスニーカーにするわ」と決意をしつつ、それでもこの道を行く時はほとんどいつも幼馴染みで吸血鬼で番である和人に抱っこして貰っているからその決意はあまり意味がないかもしれない。
近くの幼稚園でもお散歩コースに選ぶくらい緩い傾斜道だがただでさえこの時間になると両脇の高い木々に日光が遮られ、平地より日暮れが早く訪れるのに天候予想アプリの曇天予報は大当たりで、そこかしこから闇が近づいてきて不安を煽る。
道は一本なので迷う可能性はないかわりに下から追ってくるだろう少年も確実にこの道を通るわけで、だから明日奈は自分の足音や枝葉に擦れる音などは一切気にせずただ早さを最優先に走った。
少年の言った嗅覚が本当なら下手な小細工は時間の無駄だ。
結局鞄も桐ヶ谷家に放り投げて来たまま、せめて端末だけでも取り出せていたら走りながらでも操作できたのに、と思ってみるが無い物は仕方ない。
いつもならこの道も和人に抱えられ、文字通り飛ぶように通り過ぎてしまうのだが、いざ自分の足で駆け上がるとなると思うように景色は流れていかず、加えて少し遠い背後からサクッ、サクッ、サクッ、と自分のそれより早い拍子で乱れもなく落ち葉を踏む音が聞こえてくればこみ上げてくる焦りと恐怖で足がもつれそうになる。
救いは若い吸血鬼なのに和人のような人外の身体能力を持っていないのが真実だった事だ。
和人だったら明日奈を両腕に抱えていても息ひとつ乱さず、水面に顔を出している飛び石を踏むような軽やかさで運んでくれるのだから……だから「今度この山に来る時は絶対和人くんと一緒がいい」と強く未来を意識する。
『和人くん、裏山行こ』と誘えば、呆れた笑顔で『何もない所なのに、明日奈、お気に入りだよなぁ』って言って一目がないのを確認してから軽々と抱き上げてくれるあの瞬間が大好きだから。
そんな『いつもの日常』を思い浮かべて自分を鼓舞し中腹の開けた場所に到着した時には既に汗だくになっていた。
息が上がっているせいで揺れる視界の端に街中方面に設置されている簡素なベンチを捕らえる。
初めて和人と話して、手を繋いでここまで連れて来てもらい一緒に座って花火を見たベンチ。
後になって、あの時切り傷を舐められた時に抱いた初めての暖かい感覚が『番い』に繋がる第一歩だったのだと理解してちょっと恥ずかしかったが大事な思い出に変わりはない。
幸せな思い出ばかりが次から次へと湧き上がりそうになる心に蓋をして山道を振り返るとちょうど柔らかそうな金色の髪が揺れながら現れた。
「はぁーっ、なんで逃げるの?、アスナちゃん」
それなりに息を切らしているところを見ると多少はダメージを与える事に成功したようだ。
ここまで来た目的はふたつ。ひとつは他者の目や耳のない場所に移動したいから……少年の外見は目立ちすぎる。加えてわざとなのか考えなしなのか普通にポンポンと「吸血鬼」だの「餐血」だの、果ては「血をちょうだい」などと言う始末。ご近所さんに目撃されても困るし通報でもされたら上手く対応出来る自信もない。
そしてもうひとつは当然時間稼ぎ。
異変に気付いてくれそうなのは和人しかいないが、明日奈が緊急事態だと伝わったとしても残念な事に少年とは逆で嗅覚がごく普通の彼がこの場所に辿り着いてくれるかどうか…それでもやれる事は全部やると決めて明日奈は少年と対峙した。
「私ね、和人くん以外の人に血はあげられないの」
「『番い』じゃないから?、少しでいいよ。ほんのちょっぴり」
簡単な事だと言わんばかりの自分勝手な笑顔になんだか不貞を唆された気分になって、唇がつんっ、と尖る。
「きみ、私をバカにしてる?…『餐血』の血なら少量の味見程度で満足できると思ってるのかもしれないけど、私の血は和人くんのものなの」
「うん、『番い』ってそうらしいね。でも『餐血』の血って特別なんでしょ。別に僕の『番い』になって、って言ってるわけじゃないし」
「当たり前でしょっ。それに『番い』の血って他の人には…」
「知ってるよっ」
苛つきの混じった声で明日奈を遮った少年は、今度こそと目を細め、一歩一歩獲物を追い詰めるように足を動かした。
「『番い』の血はその『番い』の吸血鬼にしか美味しく感じなくなるって。でもさ、それって大昔の話だよね。実証しようにも今って『番い』がいないし……だからアスナちゃんはとっても貴重な研究材料なんだよ。それに吸血鬼だって変化してる……『餐血』を吸血できるなら多少不味くても我慢できると思うんだよね」
僕、あまり吸血欲求強くないしさ、と今度は『良薬口に苦し』みたいに言われて「我慢ってなによっ」と眉が吊り上がる。
随分な言いように腹が立っているせいか、それとも会話が成立しているせいか、桐ヶ谷家での初対面の時よりは恐ろしさを感じないがそれでも距離を縮められれば無意識に足がズリッ、と後退した。
お読みいただき、有り難うございました。