その話を聞いて血液の味の善し悪しなど分からない明日奈だが、そこまでひどい物を提供しているのかと微妙な視線になると苦笑いの菊岡は「いやいや」と否定した。
「他の吸血鬼達には概ね及第点をいただいている代物なんだ。けど、和人くんは今まで明日奈くんの血しか味わってないだろう?」
例えるなら生まれてこのかた刺身と言えば漁獲地限定の超高級マグロしか食べていない舌の持ち主と言ったところだろうか。血族の味も疑似血液の味も知らずその身に取り込んでいるのが『餐血』のみという、長い吸血鬼の歴史の中でもかなり希有な状態の和人はその能力の全てを自身ですら把握しきっていない。しかも十代初期に『あの方』の緋目を前にしても明日奈を守るために動いたくらい自分の『番い』への情愛が深いのだから、もし彼女に何かあればどうなるか……止められるのは『あの方』くらいだろうが、万が一そうなっても傍観者を貫くのは目に見えている。
一方、守られるだけの存在に見える明日奈もその身に巡る血は吸血鬼を屠る絶対的な力で、もしこの二人が物騒な方向へ動いたら、と憂虞する上層部の、少数ではあるが、二人に対して過激な提案を押さえるためにも菊岡は定期的に会いに来ているのだった。とは言え吸血鬼に敵対するような兆候がないかを観察するのは名目だけで、本音は今後二人の他に『番い』が誕生したり、『餐血』が見つかった場合の対応参考と、単純にこの二人がこれからどうやって共に歩んでいくのかに興味があるからなのだが……雲の向こうのにあるはずの太陽もそろそろ地上から姿を消す時間、すっかり穏やかな顔つきで気を失っている少年を担ぎ上げた菊岡はその重さに「う゛っ」と唸った。
「ところで、僕、この子抱えてさっきの山道を降りなきゃいけないのかい?」
助けを期待して和人を見るが、彼の今は真っ黒に戻った瞳にはひとりの少女しか映っていない。
「あれで明日奈の美味しさがよくわかった」
「そ、そうなの?…でも、その言い方は…ちょっと……」
「いつも美味しいと思ってるけど、明日奈は本当にどこもかしこも美味しい」
「だからっ、そういう言い方はっ」
似たような会話を今朝したばかりだと言うのになんだか随分遠い事のように思えて、それでもまたこうやって言い合えるのが本当に嬉しくて、咎めているはずなのに明日奈は顔がほころぶのを抑えきれなかった。
「なんで?、本当のことだろ」
「もうっ、本当でもダメなのっ」
へたり、と座り込んだままの明日奈の前に跪き、触れ合いそうなほど顔を寄せて、自身の率直的な発言によって色づいた眉目を見つめる和人は本当に楽しそうで、完全に存在を忘れられている菊岡だったが「仕方ないか」と少年を抱え直す。けれどやっぱり少年と体重と自分の腕力やら脚力やらその他諸々を加味してあっけなく決意を撤回し「…和人くーん」と情けない声を発すれば、呼んだはずの名とは違う彼の最愛が「菊岡さん?」と反応を示した。
少年をなんとか背中に負ぶったものの今にも潰れてしまいそうな菊岡を見て「和人くんっ」と視線を促してくれたのに、当の和人はちらり、と見ただけですぐに明日奈の身体に両腕を差し入れ、枕でも持ち上げるみたいに軽々と立ち上がる。
「明日奈、足も痛めてるんだ。そこの考え無しのせいで」
まぁ、間接的ではあるが間違ってはいないので大人しくしている明日奈に菊岡は何度目かの「申し訳ない」を弱々しく発した。
その謝罪に、ふん、と鼻を鳴らしてからすっぽり腕の中に収まってちょっと申し訳なさそうにしている己の番いの額にかかっている長い髪を自分の頬ですりっ、とはらい「この足は風呂で温めないとな」と間近で囁けば、大好きなお風呂というワードに浮かれる瞳と、その風呂が桐ヶ谷家の物である事を察して素直に喜べない唇がアンバランスに配置されて何とも言えない表情の明日奈が出来上がり、そぉっ、と自分の足首に目をやっている。
痛みはもちろんあるが、それを我慢しても誤魔化しきれない腫れと赤み。
明日奈の思考を読み取って和人が追い打ちを掛け始めた。
「今日の夕飯、明日奈だし」
「う゛っ」
「チキンソテー、楽しみに放課後の居残りも頑張ったんだけど」
「う゛ぅっ」
「それに今夜は泊まってくんだろ?」
「……うん」
「オレならその足首、治せるしさ」
「……お風呂、いっしょに入るの?」
おずおずと問いかける明日奈の目の前には当然と言いたげな和人の笑顔がある。
「で、でもっ、治してもらうだけだからっ。治してもらったら晩ご飯作るしっ……だから和人くんはお風呂沸かしている間、菊岡さん達運んであげて」
明日奈がそう言い出すとわかっていたのか、最初からそのつもりだったのか、異議を唱えることなく、それでも不本意を強調したくて「はぁっっ」と大仰な溜め息を吐いた和人に、やりとりを聞いていた菊岡は「えっ?」と鳩が豆鉄砲を食った顔だ。
「皮膚の損傷以外も治せるなんて聞いてないんだけど……和人くん?…ねぇ、和人くん?」
呼びかけを空気のごとくさらり、と流し、明日奈をいわゆるお姫様抱っこで運んでいた和人は菊岡達の前で一旦止まると「少し待っててくれ」と言い彼女を改めてしっかりと抱きしめた。明日奈の方も「それじゃあ菊岡さん、失礼します」と簡単に挨拶の言葉だけを伝えれば慣れたもので隙間なく和人の首にしがみつく体勢をとる。
菊岡が返す前に、とんっ、と地を蹴る軽い音からは反則と思える程に二人の姿が高く伸びやかに遠ざかって行き、次の着地点は確認出来ないままあっけないほど簡単に木々の中へと消えていった。
この分では二人にはとっくに当たり前になっている事でも自分が知らない事がまだまだたくさんあるらしいと気付かされた菊岡は背中にかかっている重さ故ではなく「あぁぁ」と真下に息を吐き、小さく「僕は今日も一人で風呂なんだけどなぁ」とぼやいたのだった。
最後までお読みいただき、有り難うございました。