桐ヶ谷家の二階にあがり和人の部屋まで案内された明日奈は思わずベッドに駆け寄った。
血色が悪く張りのない肌、パサついた黒い前髪が閉じられた瞼に覆いかぶさっている。乾いた唇の隙間から薄い呼吸が思い出したようなタイミングで繰り替えされていた。布団の上に乗っている腕も自分の意思ではなく翠が脈を取るためにそうなっているだけで置物みたいに生気が無い。
寝ているのだろうか、それとも瞼を持ち上げる気力すらないのか、見極めかねて明日奈は小さく「和人くん」と口にした。
その声を捕まえたいのか、もどかしげに和人の指が彷徨うのを見て明日奈は咄嗟に両手でそれを挟み込んだ。
「…っあ゛、すな」
震える瞼が細く開いて現れたうつろな黒い瞳と吐息にまざる掠れに掠れた声。
息子が三日ぶりにどうにかこうにか発した言葉が実は母親の知らない所で随分と交流を深めていた隣の家のお嬢さんの名前である。
翠は泣いた、心の中で、色々な意味で。
「和人くん、早く元気になってね。君とお喋りできないの、寂しいから」
うん、うん、と息子が懸命に頷いている。
「和人君はこれから病院なんでしょ?」
翠に言われた事を覚えていた明日奈が「だからもう帰るね」と早々に別れを告げようとすると、今度はイヤ、イヤ、と首を横に振っている。
ちょっと呆れモードに入った翠が「はぁっ」と息を吐いて猶予を設定した。
「私は病院に行く準備してくるから、明日奈ちゃん、それまで和人の傍にいてやってくれる?」
自ら「ちょっとだけ」と和人との面会を望んだ明日奈だったが嬉しそうに「はいっ」と応えるとベッド脇にあるリンゴに目を向ける。
「このリンゴ、和人くん用ですか?」
「え?、ああ、そうよ。すりおろそうと思って」
「私が作ったら、食べる?、和人くん」
またもや、うん、うん、の息子を見て、はいはい、と諦めたように手を振り「明日奈ちゃん、果物ナイフ使える?」と問いかけた翠は「家でやっているから大丈夫です」と自信ありげに笑う少女に任せて部屋を出たのだった。
「じゃあ、ちょっと待っててね」と言って明日奈の手の温もりが離れてしまったのは残念だったが、それでも頭を横にすればすぐ近くに自分のためにリンゴの皮を剥いている姿がぼんやりと見えて、和人は温かな幸福感と同時にとてつもない空腹感に襲われた。三日前、突然身体中の力が抜けてしまい声を出すことすら出来ず、なんとか頭を動かして是非のみを伝えるだけの間は食欲は全くなくて勝手に口に流し込まれる少量の液体をなんとか飲み込んでいたのに、今は喉が渇いてたまらない。
自分が何を欲しているのかわからないまま、早く、早く、と身体が訴えてくる。
「あ、すな…ちょうだい」
「うん、待って。今、すりおろすから」
「はやク…もう、オレ……」
和人がすりおろしリンゴを待っていると焦ったからだろう、それとやはり家で使っている果物ナイフとは別のせいもあったのか、リンゴを切り終わった明日奈の指先にうっかりナイフの刃先が当たった。
リンゴの香りを押しのけて一気に別の芳潤な香りが和人に吸い込まれる。和人の目の奥底から金色が這いだしてきて黒を侵食し始めた。枯渇感が急激に増していく。
……それガ…ソレガ、ホシイ……他ノハ、イラナイ……他ノジャ、ダメダカラ……ハヤク…ハヤク……
左手の薬指の指腹にぷくり、と極粒の真っ赤な血の玉ができて明日奈がハンカチを取り出そうとするよりも早く和人が上体を起こし手を伸ばしてきた。
「えっ?!、和人くん!?」
指を動かすのがやっとだった和人が今は明日奈の手を掴み飢えた獣のような目で薬指を見つめている。
肩で息をしながら大きく一回唾を飲み込んだ。衝動を堪える為に震える身体を片手で押さえ込む。切れ切れになった理性をかき集めて明日奈の指先から無理矢理視線を剥がし、泣きそうな顔で許しを請うた。
「明日奈、いい?」
いいも何も意味がわからない、理解ができない、もちろん納得なんてしていない、だけど多分、今、和人はもの凄く巨大な何かに抗って明日奈の心を尊重してくれている……だったら大好きな男の子の為にしてあげられる事はただひとつだ。
「いいよ、和人くん」
その瞬間、和人は明日奈の薬指を咥え込んだ。
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