なんで言葉が出ないんだ、俺は。
焦凍の頭を悩ませたのは素朴な疑問だった。
焦凍は滅理とより仲良くなることを望んでいる。
折角同じ高校に進んだのだ、向こうの交友関係が広まっていく様を見届けるだけというのはどこか虚しい。クラスメイトとは打ち解けてきたようだし、そろそろ我を通してもいいだろう。と。
そうなるためには行動しなければならないことを理解している。
火のない所に煙は立たぬと言うように、結果とは過程あってこそ。火起こしに自然発火など当てにはできない。ホトトギスは鳴かせる派である。
全ては滅理に恩を返すためだ。
幼少の頃から自分、延いては自分たち家族に良く働きかけてくれた恩人。義理を通さずにいられるほど厚顔無恥ではない。体育祭が始まる前に一つでもアクションを起こしておきたかった。
しかし現状、何も変わっていない。何もしていないから。
本当に言えることがそれだけで、わけを聞かれてもその二言に尽きるとしか答えようがない。
由々しき事態である。
漠然と、恩義を示すには仲良くなればいいと考えた自分を焦凍は咎める。
そうすればいざという時滅理の助けになるかもしれないし、持つべきは友という言葉もある。居て損はないだろうという浅慮に、今更後悔の念を抱く。
「はぁぁ………っ」
USJで見た腐れ縁は今までになく傷付いていた。
いくら負傷を自己修復できるとは言っても、それは身体に限った話。精神は別だ。
だから、過去に舐めてもらった傷の恩を返すなら今だと直感したのだ。
そうは言っても、何をどうすれば物事が思い通りに動作するのかまるきり分からないから、今はただ無我夢中に訓練を続けることでしか行動を起こせなかった。
登校が再開して、かれこれ2週間弱は経つ。これだけの期間を経たところで何かが劇的に変わることはなく、恨めしく思うほどいつも通りの挨拶を交わしていただけ。いつかの決心は停滞して生焼けのまま燻っている。
身にならない鍛錬は体に毒だと分かっていながら、そうでもしていないと身体が真っ二つに分裂してしまいそうだった。それゆえ炎の如く揺らめく心を今夜も氷漬けにして、焦凍は平静を保つ。明日も学校だというのに、個性柄寒さに強いとはいえ風邪をひいても不思議ではない。
「…もう終いにしねぇと」
カタカタと小刻みに震える右腕を取り押さえるように左手が掴み、熱を伝える。
体育祭は明後日に迫っている。いよいよ、滅理と焦凍は互いの甲乙を知ることになる。
だがこんな調子では、上位入賞どころか予選敗退すらあり得るだろう。仮にその事態が現実となれば示しがつかないどころではない。
視野を極限まで窄めてしまっているのだ。滅理1人に気を取られ過ぎている。ここは一旦私情を忘れて、目の前の受難に待ち構えておくべきだ。
取り戻した平熱に引っ張られて、多少強引な冷静さで思考する。
道場風の訓練室に残った氷を左半身の熱で蒸発させて、換気する。開け放った障子からは明後日の天気と地続きになっているような晴れの夜空が窺える。
春の心地良い常温が手伝って焦凍に汗は一筋もない。
程よく冷えた身体が眠気を生んだおかげか、意外にもぐっすりと熟睡に至った。
──までは良かった。
「…」
とうとう体育祭は明日に控えた。クラスメイトの熱気も盛んで、皆研ぎ澄ましてきた爪牙を見せびらかすように息巻いている。
一見して平常運転な滅理でさえ、その鉄仮面がひび割れるほどの凄味を放っていた。
当たり前だ。夢に続く大きな躍進、その一歩を踏み出す権利が与えられたのだから、一様にして奮い立つのは必然と言えよう。
比べて、自分のなんとみすぼらしく見えることだろうか。
純粋な熱気も、そうと錯覚してしまう殺気も、何一つ無い。
あるのは消極的な衝動だけ。既に起こった出来事に後から対応する、たったそれだけの火消しの性根。
個性なら、母と父から受け継いだ半冷半燃が物を言わせるだろう。しかしだ。
からっぽの精神で強個性を振りかざすなんてのは、
ヒーローは、その個性以上に心強くあらねばならない。
貧相な志で踏み出せるほど軟な道ではない。どうしようもない劣等感が居直り強盗のように、自覚した途端刃を向けて焦凍を苛んだ。
午前の授業で学んだことも、母が作った弁当の具も、今受けているヒーロー基礎学も、焦りが募ってまるで集中できなかった。
ここまで精神的に追い込まれたのは焦凍の人生において二つとない。厳しい訓練に苦しんだ幼少期すら、母という
強いて言えば滅理だが、その当人に対する悩みが祟ってこうなっているのだからお門違いだ。
──キーンコーンカーンコーン
「はい今日の授業終わり。黒板は最後にノート書き終えたやつが消せよ。じゃ」
担任の素っ気ない声も聴き慣れたもので、スタスタと気だるそうに教室を出る姿を見送ったクラスメイトたちが一息つく。普段なら授業への愚痴だとか、放課後の予定だとかの話題に走りそうなものを、今日は随分と大人しく帰り支度に勤しんでいる。理由は言わずもがな、体育祭だろう。
密かに羨望して、毎度の如く右後ろの存在を見やる。
焦凍の視線など構いもせず、かき集めるように荷物を纏めて滅理は席を立とうとしていた。
ふと思う。何をそんなに急ぐのかと。
「なぁ、滅理」
呆気なく。
今更確かめる必要など欠片もない英単語の綴りを見直すような無造作による一言。
それが口を衝いて出たことに、これといった驚きもなく返事を待った。待つことができた。
「? なんだ、焦凍」
そして、発言を省みる暇なく返ってくる応え。
「その、…。…放課後、いつも何してんだ?」
逡巡の後、やっとの思いで焦凍の口からは質問が飛び出た。いや、ポロッと抜け落ちただけかもしれない。
口にして、現実として、定着してしまえば。これまでの葛藤が滑稽に思えてくるほどの容易さで、彼の足は段数を一つ繰り上げていた。
行動を起こしていた。
「自習している。自習室で。学力に自信が欲しくてな」
「へぇ。そうだったのか」
雑談は続く。
もはや何を悩んでいたのか分からなくなってきて、焦凍は馬鹿馬鹿しくなる。
唐突に回り始めた歯車の滑らかさに困惑も感じないまま。その駆動の行き着く先がどうか正常であるようにと願うばかりで。
ごった返したこの心境を悟られないかという懸念の方が強くて、気が気じゃなかった。
「──あの、黒創さん、よろしければ勉学で私もお力になれるでしょうか?」
背を声が通過する。隣席の八百万のものだ。
「いいのか? 八百十。私に教鞭を執るのは骨が折れるぞ」
「八百万ですわ。ご心配なく、そう簡単に折れる気骨ではありません」
「ありがとう。テスト前は頼らせてもらう」
「えぇ。こちらこそ」
すんなりと話を付けた八百万に感心しつつ、一つ気付いた。
「そういやこの前の。あれ、自習時間短くなるのが嫌だったからか?」
「この前の? どのことですの?」
「丁度2週間前にあったろ、他クラスが廊下に集まったやつ」
「…あぁ、あの珍事ですわね」
あの時の鬼気迫る威圧感には驚いたが、話の文脈を読むにそういうことだと考えられた。
自習室に行きたいが道を塞がれ、挙句筋違いの文句を言われたとあっては、さしもの滅理も堪忍袋の緒はほつれるだろう。
視線を戻して、再確認するように目を合わせる。
「そうだな」
とだけ言い残して、これ以上の足止めは勘弁だと言わんばかりに教室を出た滅理。
「随分焦ってらっしゃるのね…」
「……
ひらひらと掌を振って見送った八百万の呟きに、つっかかりを覚えた。
確かに滅理の放課後は忙しそうである。誰から言われずとも自習に励む姿勢は尊敬したし、その向上心は焦凍が憧憬する美点の一つだ。
しかしながら滅理の様子は、“焦り”とは無関係のように思えた。
どんな時だってあの表情が弱ることはなかったのだ。運動も度胸も何一つとして欠落のない完全な者。それが焦凍にとっての、黒創滅理という人物像だった。
だったら今更焦ることなんて、あいつには何もねぇだろ。
いや。
違う。
俺とあいつの仲にある壁は、それなのかもしれない。
一瞬にして、僅かに高くなった視野から俯瞰した。
この崇拝とも言える過剰な尊敬と憧憬こそが、2人という腐れ縁を腐らせ壊死させた凍傷の正体なのではないか、と。
思えば、時々残念な所も見せるのだ。バス停で小躍りしだしたり、遊びに来るのが約束した日の前夜だったり、人の名前をすぐ忘れたり。
それらを見る度感じた口惜しさはきっと、理想とのギャップから来る理不尽な無理解への苛立ちだったのかもしれない。俗に言う“解釈違い”だろうか。
なんで気付こうとしなかった。USJでだって、あれは弱った顔だろうが。
導き出した解法を忘れない内に焼き付ける。
どうやら脳味噌にまで霜が降りていたようだ。左脳だけで物事を考えていたような気分である。
氷一辺倒も考えものだと、自戒混じりに焦凍は思った。
きょとんとした八百万の顔が、彼の目に映ることはなかった。
今日で分かった。己に何が足りないのかを。
冷静なだけでも、常温でも駄目だ。
ただ火照るな。熱を帯びるな。
覆う火じゃ、頂には届かねぇ。
あいつに暖を取らせる。そのためには強くならねえと駄目だ。
弱いヒーローの「もう大丈夫」じゃ安心なんてできねえ。
「母さん。ちょっと出かけてくる」
「あら……そう、明日に響かないようにね」
夜分遅くだというのに家を出る息子を、母は責めなかった。
拒むように睨むのでもなく、縋るように求めるのでもなく。
巣立ちゆく子鳥のような、母を顧みないその目が気に入ったから。
焦凍が訪れたのは、かつての忌地。
瀬古杜岳だった。
「フゥーーッ」
覆う火を捨てろ。火種としろ。
ずっと熱く、ずっと高温に。
近寄る他を許さず、全てを見下ろし薪としてくべ、燃え盛る業火の中核とならなくては。
もっと激しく燃えなくては。
「………!!!」
シュゥゥゥゥーッ…
その覚悟が足りないのだと、気付いた。
気付いたからには行動だ。思い立ったが吉日だ。
ただし、今度こそ正式に。
──ボウッ
「…っッ!!」
人里離れた山の中。夜闇が蔓延る森の中。
地を照らし続ける星の光には、一時にして一瞬の火花。
それでも。
「俺は左を…」
左掌に小さく収まる火の玉大の灯は。
「炎を」
焦凍の覚悟を表す狼煙であった。
だからこそ。
今正に起こった現実が、受け入れがたくて。
焦凍の頭を悩ませたのは。
「────ぁ」
取るに足らない、素朴な疑問だった。
『着差イズ圧倒的!! 序盤中盤終盤と尽く他を寄せ付けずゥ! その尋常ならざる力でフラッグをもぎ取ったトゲトゲ星人、次の種目も場を脅かしてくれるのかァッ!!?』
喧しい実況さえも耳に届かない、絶句。
言葉が出ない。というより、言葉を失う。
それは共に2着を争った2人のクラスメイトも同じだった。
但し、焦凍のそれは敗北のためではない。
義理を通すと宣っておきながら、結局は利己心しか持ち得ない自分を、責める言葉が見つからなかったからだ。
文字通り保身に走った自分自身に、失望したからだった。
『つぅか速すぎて解説追い付かなかったんで、何が起きたのかご説明をミイラマン』
『それやめろそういうヒーローだと思われる。…えー、第二関門以降は個性が上手いこと噛み合ったで説明のつくものなんだが……スタートダッシュのはよく分からん。近くから注視しない限りは』
『ってことでスロー映像を確認…と行きてぇが尺取り過ぎるのもアレなんで実況戻るぜ!!! 気になるヤツぁ録画見ろ録画!』
息も絶え絶えの2着以下3人とは打って変わって、涼しい顔で開始前と同じく棒立ちしている第一種目1位。
滅理。
いつの間にか前に居て、跡形もなく去っていた。
後塵に追い縋ることで精一杯だった。
全く、
間もなく入着してきた5位の選手が3人の様子にぎょっとする。
勝己は──ただでさえ忌み嫌う大差での敗北を、逆転という形で味わったことが許せなかった。
出久は──数十歩も離れた1位と2位の距離に、深い深い谷底を想起した。
焦凍は──その熱量に、圧倒された。
1位とそれ以外にはどうしようもない隔たりが出来ていた。あたかも、スタジアムに三途の川でも流れているのかと疑うほどに。
それだけの大敗だった。
圧勝だった。
「…」
硬直して俯いていた滅理が徐に面を上げる。
焦凍が凍りつく。
この期に及んで気付く。
見ているようで見ていなかった。尊敬する反面見下していた。
そんな矛盾にすら気付けていなかった自分と、そして。
滅理の表情。
その眼差しは。
遥か先を憎むような、冷たい眼をしていた。
1週にした。