愛死て 作:そばです!
マルバツゲーム。そんなものを知らずに、忘れて生きる。
だから曖昧に暮らすことが出来るのが、五通結という青年の上手なのかもしれない。
五通結は、一言で語るならば、真面目な馬鹿である。一直線な愚。
だがしかし、本人はそのままでいいとは決して思っておらず、また家を留守にしがちの両親だって馬鹿な息子は嫌だった。
故に、結は学校だけでなく学習塾にも通わされるようになる。それも、最近のことではなく幼少の頃から同じ塾に、だ。
当然、今の今まで学習がろくに身についていない現実から、これまで長くそこに通っていた意味はないように思える。両親もそう考え、無駄金使いを止めようとしたこともあった。
けれども、結の諦めたら俺がもっとバカになるぞ、との言に結の塾通いは今も継続されているのである。
今日も結は自転車で暮れた道を十分通い、そうしてやたらと青い平屋の塾へと足を運ぶ。
できの悪い、でも宿題だけは毎度やってくる古株生徒として彼は先生に構われながら慣れたいつもの席に着く。
そして、殆ど間をおかずに教材やらノートやらを広げて予習し、やがて塾講師の話に傾聴するのだった。
そんな青年の当たり前のルーチン。その最後は何時ものように、この一言だった。
「うーん……分からん」
不明。全部は飲み込めなくて、一部がつっかかるようなそんな思い。それが嫌で勉強して、また引っかかって、それを繰り返すのが結である。
その様ははっきりと、不得意に挑む馬鹿。それでも学習が積み重なった分厚いリングテストを漁る五通結に心から呆れた表情をして、隣の少女が毎度のごとく嘲った。
「トーリ、あんたっていつもそればっかね。トーリには理解力ってものはないの?」
「理解しても、すーぐ忘れるんだよなあ」
「そんなの、最早覚える意味すらないじゃない。どんだけザルなのよ、あんたの頭」
「ま、ザルでも一度理解したら二度目覚えるのは簡単だから、やってはおかないとな。詰め込んで、忘れるのが普通でも諦める理由にはならん」
「はぁ、無駄な熱量ね。省エネなんて言葉、あんたの頭にはないんでしょうね」
「いやそんなの、忘れたほうが生きやすいだろ。全力で何が悪い」
「……悪いっての。なんかこう、あたしがヤキモキするわ」
「そっか」
隣で学ぶ自分もろくに見ずに、講師の雑談にも笑まずにただの復習タイムと考える結。塾に来れば彼を何時も隣にしながら、しかし視界から彼を彼女は逃せなかった。
少女、赤井まる、は眉根を寄せ、愛らしい瞳をつり上げこの愚かな青年を何時だって睨みつけている。
こいつは、顔はいい、性格も悪くはない。しかし、その態度がダメでムカつくのであると少女は考えていた。
結は一途だ。決して叶わない夢、賢くなりたいというものに対して以外に見向きもしない男である。
そのことが、どうにもまるは気に食わなかった。
「つーかあんた、ユータに聞いたわよ。トーリってなんか運動超できるみたいじゃない。中学の運動能力テストでやばい数値出したってホント?」
「んなの忘れたし、どうでもいいな」
「はぁ? 折角あたしがあんたの良いとこ見つけてあげたってのに。つうか、同中の国体出たらしい陸上部の成績全部越しといてどうでもいいって、そんな……」
愚かしさが、ただ只管に一歩進んで二歩下がっている。
そんな様子ばかりを見知っていたまるは、しかし己の長き黒髪で辺り全て見ること叶わないように、結の美点を人伝に聞いた。
それがどうしてか悔しくって、本人に怒りとともにぶつけて驚かせかったのに、凄いはずの彼の心はずっと凪いだまま。
なんでだろう、それが嫌だ。まるは、身勝手にもバカな少年が得意になってほしかったのに。
「そりゃ、俺が頑張った成果じゃない。全部、もらいもんの結果だ。なら、これっぽっちも要らん」
「なっ!」
しかし、いつも通り結は無力に辛そうなまま変わらなかった。
誰よりも速く長く駆け、大きく飛び跳ねて、そして力で群抜かして。でもそんな成果を痩身の青年は握りしめない。
青白く、不健康にも文字に触れて、時間とともに記録を落とし続ける。
その有様は、なんていう空虚。まるは、そんな青年の刹那な永遠があまりに気に食わない。少女の桜色の唇は勝手に動く。
「……あたし、トーリのこと、嫌い」
「そっかい。俺は、どっちかというとお前さんのこと好きだが」
「にゃっ!」
しかし、バカ真面目な青年は、嫌いと言われて好きと返してくる。
大いに可愛いとは言われる。異性に好きと言われないこともない。だが、しかしまさかこいつから好意を示されるとは思わなかった。
何しろ。
「んな、あたしの方なんて一度も見ないくせに、そんなの……」
そう、青年の目は学びに励むばかりで今日の一度たりとて、彼女を映してくれないのだから。
今だって、先達の誰かが語った言葉を文字にするために結はペンを走らせるばかり。
小さなまるの発言なんて無視をして。
「だってまるは良いやつだ。んなの、見なくても分かるだろ」
でも、決して聞き逃してはくれないのだった。
隣の少女の弱気に応じ、結が喋るのは恥ずかしいばかりの裸の感想。良い悪い。その程度の子供の判断。
そんな、バカげたものを、しかしどうでもいいとは出来ないのが乙女心。
とくん、と高鳴る胸元に口の端を噛んで耐え。
「何よ、もう……良いやつ、ってそんな……もうっ」
少女は今日も最後に彼の言葉に朱く、花の付かない丸を付けるのだった。
赤井まるは、勝ち気な少女である。
どうせなら一番になりたいと思うのが人の常であるけれども、ただの人にしては彼女は先頭になりたがった。
まるは子供の頃から背の低さは一等賞で先頭で腰に手を当てるのがお得意の少女であったが、それ以外にも得意にふんぞり返るのが好きでもあったのだ。
「一番が一番! でもあたしはどれで一番になろう?」
運動会で一等賞。それは、中々に難しい。別段運動神経が良いわけでもなく、また頑張ったところでもっと頑張れる人間が近くに居た。
ならば、他。次に可愛らしさではどうかとまるは考えたのだが、これも自分の可愛いと犬の可愛いの違いを図るものさしを見つけられずに、一番を諦めることになる。
「なら、あ……そういえばあたし、頭いいんだった!」
となると、と少女が思い出したのは、百点満点の答案に褒められた際に頭に添えられた手のひらの暖かな心地。
なるほど、これで一番になれば格好いいし、温かいでしょうと、そのあんまりなまでの険しさを知らず、勉学でのトップになろうとしたのだった。
「頑張ったら皆に天才って言われちゃうかも……えへへ」
井の中での天辺を取るのは、蛙でも出来ること。そして、どちらかといえば頭の出来の良い少女が勉学に励んだならば、そこそこ上位を取ることも可能だった。
だが、よーいどんで駆け出すのが早くとも、しかし効率も知らないままでは後発の天才には敵わない。
勿論、そうそう歴史に名を残すほどの天禀が近くに転がっていた訳でもないが、百点を取れなくなったまるは、抜かれることばかり気になるようになっていった。
「こんなの、つまんない……」
まるで頑張っても、全てが無駄になるよう。失意で先生の言葉を聞くのすらそぞろになって、更に成績が落ち込んでいく。
そんなスパイラルを断ってくれたのは、親のこんな提案から、だった。
「塾、かぁ……」
そう。これまで賢い娘にはまだ必要ないだろうと遠かった子どもたちが抜けるための学び場。
その中でも低学年でも学ばせられる、やたらと青い学舎の学習塾にまるは行くようになる。
「なるほどー」
最初は、右も左も分からない。けれども、それが分かれば後は簡単。定石に慣れれば良い。
そうすれば、簡単な小学のテストにおいては百点満点だって次々復活していくもの。すると、少女の自信も増して、満足感はたっぷり。
笑顔の少女は、久方ぶりに隣を向いた。すると。
「……分からん」
「何、あんたこんなのも分かんないの? 教えたげる!」
「ああ、助かる」
バカが隣で真っ直ぐ前を向いていた。気持ちが優しくなっていたまるは、当たり前のように彼を助ける。
それが、どこまでも無意味な行為であると知らず、彼女は彼に構い出すのだった。
おおよそ半分ほどしか丸を得られない三角な少年、結。整った彼に向かって偉そうにし続けるのは、意外と面白くって。
「……分からん」
「何、今度は何が分かんないのー? トーリ、あたしだってヒマじゃないんだよ!」
「いや、分からんのはお前だ」
「え?」
当たり前に隣にあって心地良い、見下し相手。それに見つめられることすらないことにも気づかずにまるはずっと居て。
知らず知らずに触れていた、そんな彼にこう言われたのに、少女は酷く傷つくのだった。
「どうしてそんなにお前は人を踏みつけたがるんだ?」
その問いに、楽しいから、と素直に返せれば良かったのだろう。だがしかし、当時のまるは真っ白白で、汚れが足りていなかった。
故に、自分の一番が、多くを踏みつける行為だと彼の言葉によって気づいた少女は驚愕によって。
「おぇ」
嘔気を催したのだった。
「優しいな、まるは」
「そんなこと、ないよ……」
その後、少女により床にばらまかれた吐瀉物を真っ先に片付けてくれたのは、驚くべきことに結であった。
きちんと、恥ずかしくなるくらいに丁寧に食べた残骸一つ残さず拭いて摘んで棄てた彼は、ここではじめて少女と目を合わせる。
薄暗い瞳が、茶褐色のまん丸を容れる。柔らかに歪ませてから、結は言った。
「俺は、他人を踏みつけたがる意味が分からない。それどころか、俺は、俺にすらなれていないからな。忙しくって他を見る余裕がないんだ」
「そう、なんだ……」
「でも、だからさ。痛くしてごめんなさいって、思えたお前はきっと優しい」
「うぅ……」
「泣くなよ。勝って笑ったほうが、お前は綺麗だ」
「っ!」
それは果たして、さっき読んだ本に乗っていた褒め言葉を拾って投げつけたばかりか。どうせ、この程度の慰め上手、彼は捨て去ってしまう。そんなのが得意なばかりの少年だった。
でも、まるはそんな言葉に驚いて、可愛いではなく綺麗という言葉に救いを見出してしまい。
「あたし、きれい?」
「ああ。そうだと思うぞ」
バカな少年はゲロで無惨に服汚した少女の殆どを目に入れず、頷いてしまうのだった。
少女の指先は、今日も悩ましげに動く。
「ああ、あたしは、あんたの一番の綺麗でありたい。だから」
それは、毎日に丸を付けるため。今日も良かった。でも、もし明日がバツだったら。
「トーリ。あたしがもし、あんたの一番になれなかったとしたら……」
きっと、好きはひっくり返って殺したいになって。
「あは」
あたしは彼と死にたくなるのだろう。