ヨイトマケの唄
〽父ちゃんのためなら エンヤコラ
母ちゃんのためなら エンヤコラ
もひとつおまけに エンヤコラ
〽今も聞こえる ヨイトマケの唄
今も聞こえる あの子守唄
工事現場の ひるやすみ
たばこふかして 目を閉じりゃ
聞こえてくるよ あの唄が
働く土方の あの唄が
貧しい土方の あの唄が
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
その部屋が日本ウマ娘トレーニングセンター学園校舎のどこかに位置していることは確かだった。
しかしそこがなんという名称で、どの棟のどの階にあり、どのような役割を果たしているのかを知っている者は、生徒会に所属する数人の生徒と一部の教職員及び用務員に限られている。
なぜこの部屋の情報が一般に知られていないのか──なんのことはない。知る必要も理由も存在しないからだ。実際のところ、そこには古い移動式の黒板や歪んだパイプ椅子、薄汚れた長机にガタの来た書棚といった学園の老廃物が留め置かれているだけで、それこそ生徒会や用務員が行う雑事以外では立ち入る理由がないのである。
やさぐれた生徒の休憩所になるだけの素質くらいはあったが、そういう輩にしたって埃っぽい空気と、どういうわけかキツく漂っている消毒液のような匂いにやられて他の場所を探しにいくというのが常だった。
以下に続くのは、そんな辛気臭い物置部屋(仮称)で起こった出来事の一部始終である。
小雪の降る、身を切るような寒風の吹きすさぶ冬の日だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
一人の少女が部屋の戸口に立ち、目の前に置かれたパイプ椅子と長机の向こう側に座っている人物の顔をじっと見つめていた。
少女は──異相だった。目鼻立ちは不細工とまでいかずとも少々つくりが大きすぎ、特に切れ長の目は黄色く異様な光を放っていた。クセのある暗い栗色の髪は首筋あたりでざっくばらんに切り揃えられている。どう見ても理髪師や美容師の手によるものではない。
肢体も見るものに奇妙な印象を与える類だった。服の下であばらが浮き出ているのが容易に想像できる、脂肪どころか筋肉もほとんどついていない胸部。枯れ枝のような腕。脚は一見健常なように見えるが、横から見たならば少々膝の角度が妙であることに気づくだろう。重心を変えるたび、尖った膝小僧から小さくパキパキと音が鳴っていた。
身の丈百四十五センチメートル。擦りきれた黄色いスニーカーにグレーの男物シャツ、ダボついた子供用ブランドの黒い長ズボンの膝が破れて、テカテカした肌が露出している。
トドメに、顔が血塗れだった。額がぱっくりと割れて、新しい傷口からは赤黒い血が鼻筋を伝い、顎から床へと滴り落ちているのである。
総じて──とてもとても、名高き日本ウマ娘トレーニングセンター学園の校舎に存在してはいけないような姿。
唯一頭頂部で揺れる一対の長い耳のみが、彼女の「権利」を保証しているかのように在った。
ギラつく眼差しが暗い室内を睥睨する。古ぼけた標本棚やウレタン綿のはみ出たパイプ椅子、入り口の向かい側の窓からシャッター越しに射し込む弱々しい陽の光が作り出すシルエット。それらをゆっくりと眺めた後、少女のかさついた唇が開いた。
「今日は面接試験だけだ、と係員の方から伺ったのですが」
背格好の印象にまったくそぐわない、低くガラガラした音声だった。声変わりの最中という音色でもなく、どちらかというと聴く者に──少々煙草焼けした壮年の喉を思い起こさせるような声。
数瞬の静寂の後、少女に対面する人物が口を開いた。
「そうだね。今日は一般入試の最終日程で、君は先程その面接を終えたのだよね」
こちらの声はといえば、聴いていた少女が思わず眉を上げて耳をくるりと回すほどに麗しいアルトだった。
声の主は薄暗い中に射す窓からの光を背にして座っており、少女の立っている位置からは細かい人相まで読み取ることはできなかったが、大層な麗人に思われた。腰まであるとおぼしい豪奢なブロンドの長髪、ほっそりと長い手足。
かといって繊細な印象を発することはなく、むしろ筋肉質で覇気に満ちたボディラインがトレセン学園の制服らしいものの下から浮かび上がっており、威風堂々として才気に溢れる──影だった。
この麗人を目の前にしても少女は物怖じする風でもなく、むしろ旧来の友人に相対するかのような微笑と語調でもって語りかける。
「このような、あー……素敵なお部屋に招かれるということは、私の合格は決まったも同然のように思われますね」
「ふふ。自信満々だね」
「はい。天命は私と共にありますから」
影の頭頂で細長い耳がぴくりと動いた。
「天命? また大仰な」
少女の佇まいや言葉遣いには、年のわりにという言葉では表し難い猛烈な不和を感じさせる何かが内在している。今の言葉一つ──「天命」をとってみても、およそまっとうな人間の口から出る言葉ではないが。
「かつて空から来て、今はこの胸の奥にあります。確固たるものです」
「ふん? その天命とやらを通して、君は自らの行く先を知っているというのかね」
「いえ。未来とかそういうのは全然」
室内に低い笑い声が転がった。小バカにしたような失笑ではなく、少し苦み走ったような乾いた笑いだ。
「興味深いね。いや、君が去年提出した資料や内申書に目を通しているうちにちょっと話をしてみたくなったんだけれど、その甲斐はあったようだ」
影の麗人は机上から数枚の紙が留められているように見えるファイルを取り上げ、少女の方に振ってみせた。
「光栄です。えー……」
「合否についてかな? 実はこの段階の面接というのは、ほとんど形式ばかりのものでね。今日学園に集められているのは、すでに各種能力検定を合格している子たちばかりなんだ」
少女の目が一瞬大きく見開かれ、それから喜色を示して細められた。大きく吊り上がった唇の形と合わせて、たいそう恐ろしげな形相が形作られる。
「設問も当たり障りのないものばかりだっただろう」
「……ハハ。たしかに『友人は何人?』とか『競争選手以外で興味のある職業は?』などとどうでもいいようなことを問われました」
「うん。まあ極端に社会性に欠けていると判断されない限りは、一月ほど後に合格通知が届くというわけだね。ここでの回答が寮やクラスなどの管理面に生かされるという側面もあるけれど、いずれにせよ」
影は控えめに両の腕を広げてみせた。
「合格おめでとうって感じかな。結局いち生徒でしかない私が言うのもなんだが、学園は君を歓迎するだろう」
「恐悦至極に存じます」
少女が大げさなお辞儀をした拍子に額から血が数滴まとめて床に滴り落ちた。
影の麗人は手を引っ込めて顔の前で組み直す。
「ところで、その傷は?」
少女は顔を上げ──本人にとってのにこやかさでもって──再び笑顔を作った。もはや顔面の三分の一ほどが血や血の跡に覆われている以上、その表情は彼女が思い描いているであろう愛嬌とは対局の位置にあったが。
「恥ずかしながら、先程の面接では居並ぶ試験官の方々を前にして足がすくんでしまいまして。緊張を和らげるために、壁に額を思い切りぶつけてみたのです」
恥ずかしそうに頬を掻きながら少女はそう語った。
影は長いこと、長いこと沈黙していた。
「──それで、緊張は解れたかね?」
「てきめんでした。以降は淀みなく受け答えが行えたかと」
「それならよかった──しかし、そんなに大きな傷を放っておくのは考えものだろうね。この棟の一階、東の突き当たりに保健室がある。トレーナーか養護教諭がいるだろうから、手当してもらいなさい」
わかりました、と頷いた拍子にまた血がパッと散って床や少女のシャツを彩った。
「…………」
「…………」
「あの、もう行っても?」
「ああ。いいよ。本当はもう少し話していたかったけれど、その傷ではね。いやはや、つまらないことで時間をとらせて悪かった。大事な身体だ、養生するんだよ」
少女は頷き、傷口に触れまいと気をつけながら顔を手で拭った。血はかえって塗り広げられ、彼女の顔は輪をかけて酷い有り様になった。
「はい。お気遣いありがとうございます。あの、貴方もお大事になさってくださいね」
机の上の書類らしきものに筆を走らせていた影の麗人は、その言葉を聞いてピタリと動きを止めた。
床には血が滴り落ち続けている。
「そうだったね」
数秒ののち、意外そうな声色で影は呟いた。
「責務や衝動に心を囚われていると、時々自分が何者なのかを忘れそうになる。怪我や病気も含めての話だがね。ありがとう。私も今日はそろそろ休むとしようかね」
そう言うと麗人はひらひらと少女に向かって手を振った。
ここでの会話は終わったのだな、と少女も悟ったのだろう。今度は何も言わずに一礼だけを残して踵を返し、ドアを引いて部屋を退出した。
役者が退場した部屋にはその後もしばらく紙に万年筆を走らせる音が続いていたが、やがてその音もふつりと途絶えた。一つ残っていた蛍光灯の電光が消えれば、そこは埃とガラクタと、少女の残した血の痕のみが残る空虚な物置部屋が……
ウイポをやりましょう。