昼食休憩が終わる頃合いになって、いつもより皺の少ないパリッとした背広で決めた畠山がマヤノを迎えにやってきた。なんでも明後日、中京レース場で行われる条件戦に出走するのだという。マヤノが。
「ということでマヤさんは午後から公休取って愛知行きです。ハンマー君もよかったら応援したげてね」
「愛知県って恐竜みたいな形してますよね。お気をつけて!」
「がおー!」
「ウワァー!!」
さっきまで無表情だった美少女が急にノってきたので不細工はシンプルに驚いて恐怖の叫び声を上げてしまった。マヤさん楽しそうだね、と微笑ましい感じでまとめようとしていた畠山が足を踏まれたところで予鈴が鳴り、三人は二人と一人に別れてカフェテリアを去ることとなった。
◆◇◆◇◆◇◆
午後最初の授業はダンスレッスンだ。
いったいどうして競走選手たちが踊らねばならないのかという世間からの疑問は絶えない。何なら生徒たちの間にも少なからず「やってられるか」という態度の者は存在する。トレセン学園の持つ「パフォーマー養成スクール」としての側面は、まだまだ小さいとはいえ、既に在学生たちには無視できないほどの影響を日常に及ぼしていた。
恨むなら「ダンス・モーションの訓練はまず始めに選手の体幹、次に瞬発力・持久力を強化するための良質なメソッドを含み得る」などと言い出したカナダの名選手にして名コーチのノーザンダンサー女史と、彼女のパフォーマンスにシナプスを灼かれて教本を書きまくったE.P.テイラーという名のトレーナーを恨め、というのが畠山の意見だった。
『それより気に入らねぇのはウイニングライブ目当てでレース場に来てる客なんだよな。かけっこなんかに興味ない、可愛いコが見たいって放言しちゃうタイプの奴ね。んなもん見たけりゃ家で寝っ転がってグラビアでも眺めてろって言いたい』
全然関係ないフェイズでやっぱりそう放言してしまうタイプの、ものすごくめんどくさいあの男の言葉を思い出しながら、大きな鏡を前にリノリウムをキュッキュ鳴らしながらハンマーソングは講師というより前の生徒の動きを真似ている。
彼女自身はさほどこのレッスンを苦にしているわけではなく、日常では絶対にやらない動きでもって脳を活性化させるプロセスとして素直に受け入れていた。これは前トレーナーの岡澤に教わったスタンスであり、自身の感覚とも噛み合っている。
ただ──ここまで散々描写されてきたように──ハンマーソングが繰り出す動作は、悪い意味で衆目を集めてしまう代物であった。
初動の素早さときたら、始めて目の当たりにした外部講師が思わず「痙攣」と形容してしまうほどに衝撃的な速度。ステップは彼女の気分に合わせて「地団駄」「古武道」「足で虫とか潰すときのやつ」「四股」「喜劇王」のどれかから抽選されているかのごとく。ターンはろくろと称され、手足の末端の表現は普通にキレがないと言われて懸命な矯正が行われている。
「あなたって実はニジンスキー(註1)の生まれ変わりだったりするのかしらね」
去る日の夕暮れ、いくら教えても手本の五割も再現できないハンマーソングの補習を担当した補助講師の口からポロリと漏れた一言である。それに対して彼女が返した言葉が、
「いい線行ってると思います!」
であったというのは教師陣の間で若干語り草になった。
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その日のレッスンは教本に載っている動きを二コマ使って反復することに終始した。本日の授業はこの二時限をもって終了となる。
帰ってきた生徒たちを教室で暇そうに待ち構えていた担任教師の監督の下で簡単な清掃が終わり、終礼と称して連絡事項の伝達が行われた。再来週からぽつぽつと開催される、今シーズン最初のメイクデビュー戦の初期登録がそろそろ締め切られること。一週間ほど滞っていた副教本の頒布が再開されること。
「あ、そうそう。日曜のダービーね。バスの席、まだ三つくらいは空いてるよ。今日ならまだ間に合うからさ、申請してないけど気が変わったー、観戦したいー、って人がいたら私に教えてね。五時まで職員室にいるから。それじゃさよなら」
「起立、礼」を完全にスキップして担任はピューと教室を出ていった。いつものことなので誰も気にしていない。この学園にいる者には、もっと他に気にするべきことが山ほどある。
学友たちが談笑などしながら教室を後にする中、ハンマーソングは自席で漫画本を片手にボケっと座っていた。
最後まで残っていた学級委員の去り際に「ハンマーさん電気消しといてね」と声を掛けられて「ふぁーい?」と気の抜けた返事と共にようやく正気を取り戻した彼女は、大きく伸びをして辺りを見回した。もう誰もいないし、窓の外からは各々の練習場所へ向かう生徒たちの声が聞こえてくる。
自分がどこへ向かうべきなのか、彼女は顎に親指と人差し指の股の部分をあてがって考え始めた。今日の四時半から、シリウスシンボリとその郎党は屋内プール棟を貸し切って二時間ばかり泳ぐらしい。来るかどうかはお前の判断に任せると
熟慮の末ハンマーソングは行かぬと決めた。小学校の頃はゴーグルも水着も帽子も買ってもらえなかったのでえらい目を見た。この学園では何らかのレンタルサービスがあろうが、もう何年も泳いだことがない彼女にとっては何もかもが億劫に思える。どうせ、ハンマーだし。カナヅチだし。
となると寮の夕食提供が始まる時間(いまは四時半だから、あと一時間半もある!)までどこかで時間を潰さなければならない。自室に戻ってもよかったが、今度は短慮の末に教室をあとにして部室エリアへと駆け出した。前に岡澤から「いつでも頼っていいからな」と言われたのを思い出したのである。途中で駐輪場のドラム缶を回収してどんがらどんがら引きずりながら走っていく。
とことん、距離感がおかしい。
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とはいえさすがに気が引けたのか、岡澤のチームルームが入っているでかいプレハブ小屋(周囲の部室と比べても一・五倍はある気がする。家すらも家主と似てくるのだろうか)の周囲を二周ほど歩き回ってから出戻り女は門扉を引いた。
菓子鉢の乗ったテーブルを囲むようにして配置されている人工皮張りのふかふかソファー三脚とか、その前の壁面に掛かったやたらにでかい薄型TVモニター(とりあえず、モニターは持ち主に似るらしい)とか据え置きゲーム機とか、奥の方に設えられたホワイトボードの横に並んでいるバカでかい冷蔵庫(略)と菓子棚と電子レンジとか、部室というよりは小金持ちのリビングダイニングもどきにホワイトボードをぶち込んだだけとでも言うべき謎の空間が眼前に広がった。
誰もいない。モニターがむなしくセピア色のレース映像を垂れ流し続けている他に動くものの気配はない。
と思いきや、戸口に背を向けて置かれているソファーの背もたれからひょいっと顔が覗いた。くるくる栗毛の癖っ毛ショートボブに猫のような緑色の眼。
「うわ。なんか用すか」
「ど、どうも〜……」
実はハンマー君の同級生であり、元・チームメイトであり、世代トップクラスの有望株であるところの──あの、野球帽ちゃんが、野球帽オフの状態の頭部をソファーからにょきっと生やして、闖入者を半目で見ていた。
「み、皆さんは? トレ……岡澤先生はどちらに?」
「トレさんはチムメン半分連れて映画。残りはノーラン調整だから……あ、今日はウェイトすね。
「相変わらずここのチームってあんまりガッツリ走りませんよね……帽子さんは何を?」
「帽子サンて」
ソファーの陰から生えてきたのは数学のワークノートだった。
「映画、見たことあるやつだったし。ウェイトはそもそも秋までやるなてぇ言われてるんで、宿題と海外のアーカイブ鑑賞」
「リボー(註2)見せてくださぁい。あとハイペリオン(註3)もぉ」
「ジブン五億回見たでしょ……」
図々しくも既に靴を脱いで上がり込んでいたハンマー君は野球帽抜き野球帽ちゃんの二つとなりの席に腰掛け、据え置きゲーム機──最新型で、ワールドワイドウェブはもちろん学内ネットワークにもリンクしている──のジョイ・コンを不器用に握って操作しだした。
「だーもう今一番見たかったナナナナのサンクルー大賞なんすから最後まで見せろて」
「にっくきウォーアドミラル(註4)めぇ! 今日こそ三冠を阻止してやりますよぉ!」
「±百年」
「百年早い上に百年遅いって言いたいんですか!?」
しばしコントローラの奪い合いになる。こうなると器用で俊敏な方の勝ちだ。数秒後にはピムリコの砂塵ではなくサンクルーの霧に烟る芝の色がスクリーンを席巻した。
この二人の関係性は意外にも悪くはなかった。同じチームに在籍していた期間は非常に短かったが、一定の距離感を保ちつつの交流は頻繁に存在した。こうした往年の海外レース映像のシェアであったり、ストレッチの相方であったり、ドラム缶の奪い合いであったり。
そう、いつぞや語られた早朝のドラム缶演奏行動を中断させるのは決まってこの栗毛ちゃんであったのだ。グラウンドを行脚しているハンマーソングから缶を無理やり奪って全力で部室に駆け戻る。缶ひとつ分のハンデが両者の速度差をうまいこと調整する役割を果たしていたのか、千メートル以上走って寝起きの岡澤の元にたどり着く頃になっても大して着差は広がっていなかった。
マヤノトップガンとの関係にも言えることではあるが──ハンマーソングの、一体どのあたりが、この天才を謳われる栗毛ちゃんにとってフックとなり得たのだろうか。友人というでもなく嫌うわけでもなく、ただギリギリ互いの手が届かない距離をおいて座っているような、そんな関係性である。先ほど起きたような醜い掴み合いは除く。
結局、この日の夕暮れをハンマーソングはソファーでせんべいなど食いながらビデオを見る倦怠行為で浪費した。真っ当にレース展開や各選手のポジション取り、フィールドバイアス等を分析しながら見ていたお隣さんと違って、自分のお気に入りのレースだけ選り好んで再生しながら「すごい」「カッコいい」「つよい」「マーベラス」以上の意味を持たないような感想ばかり述べていたのだから、浪費という他にない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
日もとっぷり暮れた頃になって、そろそろ岡澤らが帰ってくるというのでハンマーソングはそそくさと退散することにした。持ってきたドラム缶は岡澤家から来た者とは別缶なので返さない。
夕飯は当然寮に帰って食べる。缶を自室の窓の下に置いて駆け込んだ食堂は暖色の照明と様々な主菜の醸す良い香気が織りなす素敵空間と化していた。
席をほぼ埋め尽くす生徒たちの喧騒の向こう、例の囲炉裏スペースでひときわ大きな体躯とひときわ大きな笑い声で巌のように目立っている、艶やかな黒髪に朱色の簪を挿した少女。あれが現寮長であるということくらいしか知らないハンマー君には気安く座れる席がない。意を決して入り口付近に座っている「無」の表情をした先輩(と思われる生徒)に断って相席を貰う。
「問題ありません」
「ありがたぁーす」
「それはフィンガーボウルではなく私のお冷やです」
「新しいの汲んできまぁす……」
「了解。右端の給水器はめんつゆを提供するように改造されている点に留意を」
そのイントネーションは機械音声じみていた。もしかすると学園が開発したチュートリアルロボットなのかもしれない。
この時間帯に「半額」シールの貼っていない食事を食べる行為には、少し奇妙な感覚が伴う。今目の前にあるハンバーグや焼きそばも、まだ温かいという点以上に「半額」との違いをありありと感じる。果たして話しかけてよいものかとやや迷った末に、感じたことを目の前の先輩に伝えてみると、彼女は3Dモデルじみた無機質な美貌にいくらかの困惑を浮かべた。
「……? 私から提示できる関連情報としては、酸化した油分が消化器系に与える負荷についての実体験が挙げられます。過去の食生活を省み、貴方の今後のヘルスマネジメントプランへの有意なサジェスチョンを」
「な、なんでもないです! 忘れてください」
「いわゆる書き換えや消去などを含む記憶領域への複雑な干渉は、現行人類の技術力を以てしても難しい課題といえます」
「ぬへへ……さようで……」
「はい」
この会話内容をして、どうやら、先方はこちらを馬鹿にしているのでも怒っているのでもないらしい。先ほどに増して困惑と哀愁が漂う声色で「カンバセーションを中止……」と呟いたきり黙りこくってしまった。
色んな人がいるんだなぁ、と思い知らされるハンマーソングである。小学校の頃クラスで一番のボケ役を勤め上げていた実力も、どうやらこの学園では通用しないらしい。
修行せねばなるまい。先輩が去った後もだらだら飯を食いながら彼女は決意した。結末が既に周知されているストーリーでどう笑いや涙を取りに行くかというのが、今後の学園生活を送るにあたっての最大の課題である。
入浴については割愛する。一号棟には「すみれの湯」なる共同の大浴場があるのだが、脱衣所に入った瞬間「カポーン」という謎の音とともに大物演歌歌手の登場を予感させるレベルのスモークもとい湯気が洗い場の戸口から流出してきたため、急いで退散した。もしかすると中に火山でもあるのかもしれない。
「ただいまー。ダライラマ……」
ついに帰ってきた自室。シャワーで洗体を済ませ、湯上がりの身体をベッドの上に投げ出すように横たえる。思わずにやついてしまうくらいにはひんやり心地よい。その体勢のままナップサックからワークブックを取り出して宿題とかしちゃうのだ。ちょっと首が痛い。
英文センテンスの書き取りを終え、余白に「このグローバル化の時代にあって、私はあえてTHIS IS A PENと書きたいのです」と走り書きをすれば今日の課題は終わりである。
壁掛け時計を見やると、すでに最終消灯時間が近い。この部屋にはなんと小型のテレビがあるのだが(しかも薄い)、消灯時間が近づくとレコーダー以外の機能が停止するカラクリになっているのでもう点かないだろう。しばし部屋の中をぐるぐる歩き回ったハンマーソングは、やがて就寝しない理由を完全に見失うと、窓下のドラム缶に水をやってからベッドに入ることにした。
とその前に、ナップサックに手を突っ込み、底の方で教科書やノートの下敷きになっていた何らかの物体を引っ張り出す。
あの、粗末なつくりのぬいぐるみだ。黒いビーズの瞳、栗色の毛糸でできた髪、大きく「H」と刺繍されたダサくて赤い洋服、ズボンは四角。
頭頂に突き出た一対の耳……らしき切れ端と、麻糸の尻尾を目の当たりにしてようやく「あっ、ウマ娘か」と先日の畠山に言わしめた逸品である。特筆すべき点といえば、半日ナップサックの底に封じ込められていたわりにはしゃっきりと原型を留めた姿勢でベッドに座れていることだろう。きっと、モデルになった少女と同じ不屈の魂を持っているのだ。
「今日も一日頑張りましたよ。いい夢見られますかねー?」
物心つく前からずっと、ずっと彼女を見守ってきた黒いプラスチックの瞳が無言で応えてくれた。
全然なんも頑張ってない気もするけど、大丈夫。誰かがきっと見ていてくれる。だから安心して目を閉じようね。
部屋の明かりが消えたのはそれから三十秒後のことだった。ほどなくして軽い、規則正しいいびきが少女の屋根の下を満たしていく。歯磨きしろよ。
註1:ニジンスキー
ここではロシアの舞踏家・振付師であるヴァーツラフ・ニジンスキー氏と、後年その「生まれ変わり」を自称したカナダ出身の競走選手・舞踏家・スポーツ指導者であるフレイヤ・P・エンゲルハード女史の双方を揶揄的に指す。
註2:リボー
イタリア出身の競走選手。伊・英・仏で走り十六戦十六勝、凱旋門賞連覇などの成績を残した。小柄な体格と奔放な人柄で知られる。
註3:ハイペリオン
イギリス出身の競走選手・冒険家。英ダービー・英セントレジャーステークスなど。引退後は冒険家に転身、三度に渡る単独大西洋横断飛行に成功するなど再び名を成した。
註4:ウォーアドミラル
アメリカの競走選手。第四代米国三冠ウマ娘。