「シンザンを超えよ」
かつて二十年近くに渡って選手たちの悲願であったそのキャッチフレーズも、「ルドルフを越えろ」へ置き換えられて久しい。競走の技法は、選手たちの能力は日々進化し続けている。三十年前の栄冠よりも、十年前の勝利の方が、到達点──価値ではなく──としては、上にある。かのシルバーランドが日本で始めて二千メートル二分フラットの壁を破った際に他ならぬシンザン自身が認めた文にも、およそ同様の一節がある。
ゆえに選手たちも、指導者である我々自身も、そう信じて疑わない。というより、疑ってはならない。我々は前進しており、加速しているのだ。
しかしながら、ただ速ければいいというものでもないのは、読者諸氏もご承知の通りであろう。我々トレーナーが追い求めるのは単純な速度のための鍛錬ではなく、勝利に繋がる全ての要素を複合したメソッドである。パートナーを鍛え上げ、コースを究め、バ場を知り、相手関係を探り、天候を読み、満を持して送り出した教え子たちは、しかし──勝てない。
競走とは、上記すべての要素を無数にクリアし続けた道程の末に、フルゲート十六人の中から一人の勝者を定義する行為である。ふるい落とされるのは、「惜しいやつ」と「てんでだめなやつ」。頑張ったけど、とでも冠に付けておけばなお正しいだろう。人事を尽くしてなお、彼女たちは、我々は敗北するのだ。
山のような
最後のピースを無限の努力や天運と定義できればどんなに楽だったろうか。
私がトレーナーとしてここに至るまでに費やした十数年が、もはや若さを完全に失った脳髄が、こう囁くのである。
答えはないはずだ。
それは逃避。
究極の解答を発見してしまうことへの恐怖。
私は天海肇を恐れていた。
【指導員・畠山繁之(退職済み)の未発表原稿から抜粋。本文書が含まれるファイルは個人ストレージの「青駿用原稿」と題されたフォルダに所在。当該指導員の経歴及び能力を鑑み、本プロジェクト向けにアーカイブ化の是非を問う稟議が進行中】
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
『──続いてはスポーツです。先月の宝塚記念で負傷したライスシャワー選手、残念ながら先ほどトゥインクルシリーズからの引退を表明しました。会見VTRをご覧いただきます』
空調の効いた盛夏の正午。弛んだ空気感に、その放送は弱い電流を走らせた。
ラウンジに居た誰もが壁際のテレビに目を向ける中、ひとり一心不乱に新聞のナンプレゲームを解きながら昼食のザルソヴァを搔き込んでいる女がいる。一時間寝坊して飛び起きたらそもそも本日は練習がなかったヤツことハンマーソング嬢である。
ハンマーソングには骨折がわからない。ついでに言うなら現在画面の中で柔和な微笑みを浮かべてカメラのフラッシュに晒されている小柄な黒髪の少女とも面識はない。
ウマ娘は人間の数倍スーパー強いのに骨折で引退とはどういうことだろうか。よく知らないが、ギプスをつけてぷらーんと天井から包帯で吊ったり、松葉杖を突くのが骨折であろう。めちゃくちゃ痛いとは聞き及ぶが、おんぼろ軽トラックくらいならがっぷり四つに組める陸上最強生物のウマ娘がちょっと走ったくらいでポッキリ行くものだろうか。でもライスシャワーという名前はとても有名なので、その人が引退するくらいなのだからきっとオオゴトなのだろうな、などと思いながら紙面に顔をくっつけて足し算をしていた。
無知とはかくも恐ろしいものである。
隣のクロスワードまで解き終わる頃には残りわずかな蕎麦もノビ切り、薄く微温くなった麦茶と一緒に一人ラウンジに取り残されている。パズルの残り数行を埋める間に周囲の生徒たちは学友に呼ばれたりトレーナーに招集を掛けられたりして次々と去っていったのだが、あいにくこの宿泊棟にはハンマーソングを引っ張ってどこか面白い場所に連れて行ってくれるような関係の者はいない。畠山は朝九時にこの棟へ来て彼女の脚の湿布を剥がしたり引っぱたいたり貼り替えたりした後「全休!」とだけ言い渡してマヤノと共にどこかへ行ってしまった。
ラウンジを出、テラスから海を望む。うごめく灰色の雲の下、重い風鳴りを孕んだ波のうねりが、名前の思い出せないこの海岸に何十里にも渡って押し寄せ続けている。
仕方なかろう。散歩にでも行くしかあるまい。悲しき岸辺が、風雨の気配が彼女を呼んでいる。
ということでこのバカは畠山に休めと言われた事実を軽やかに無視し、さらには朝礼で全員に申し渡された「雷雨注意報が出たら海岸に出てはいけない」という指示もあざやかに忘れ去って出かけていくこととなった。
無人となったラウンジに、本日幾度目とも知れない防災無線の音声が流れ始める。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
いつものように缶だけ持ってロッジを出、丘を下って海岸に出る。時刻は午後一時過ぎ、昨日まではいつ見てもウマ娘の集団で塗りつぶされていた景色も、今は暗灰色の空の下で陰鬱なクリーム色の顔を横たえていた。
誰もいない、と表現すると嘘になる。少し離れた浅瀬の波と浜の間を、ウェットスーツ姿のサーファーとおぼしい中年男性三人組が入れ替わり立ち代わり行き来しているのが見えるからだ。波乗りのこともハンマー君には解りかねるが、とりあえず畠山より彼らのほうが手練であることは間違いなさそうだった。
こういうのを「いい波」と称するのかどうかはさておき、結構な強さの波濤が来ている。風もオデコ丸出しになりそうなくらいには吹いている(実際には針金のような毛質を持つハンマーソングがオデコ丸出しになることはまずない)し、先ほどから数分おきに少量の雨が降ったり止んだりを繰り返している。そんな荒天一歩寸前みたいな空模様の下で、ハンマー君はしばし海岸道路下の防砂壁沿いに缶を誂えて腰掛け、三人のサーファーが波を割く様子をぼうっと眺めていた。
よく読んでいる伝奇物や漫画などでは、こういった「他の流派」とか「自然の造形」とかいうものから強くなるためのヒントを得たりしているので、何か盗めるものはないかと観察してみたりもするのだが、それも数分と保たない。かかりっぱなしの脳内BGMが彼女を脇道へと、出口のない常磐の密林へと引きずり込む。
勇壮なオープニングテーマ──せっかくの夏合宿編、修行パートだというのに、やっていることといえば砂浜散歩と軽度の運動程度である。それも二日に一度くらいのもので、あとは宿題を眺めたり数少ない知り合いにちょっかいを出しに行くくらいしかやることがない。
陰鬱なアルペジオパート──同級生たちの中にはメイクデビュー戦を終えている者もいる。自分は練習すらさせてもらえない。唯一の「答え」とされたアマミハジメについてはそもそも誰なのかすらわからない。案外スマホで検索でもすれば出てくるかもしれないが、あいにくハンマー君のスマホは「メイクデビュー終わったら買ってあげるね」という畠山との約束の彼方である。
アマミハジメ。「奄美」だろうか。「天海」だろうか。ハジメ、は男性名っぽくはあるが思い浮かぶ変換候補が多すぎる。
奄美にせよ天海にせよ、ものすごく夏の海にうってつけの響きだ。なんだか夏合宿中に会えそう。ランダムイベントというやつだ。TVゲームなどこの学園に来るまでプレイしたことはなかったハンマー君だったが、夕ごはんを我慢して工面した百円で引き換えた中古の攻略本なら家に何冊もある。ついでに「あま」とか「み」とか「め」とか、雨天だとなお遭遇率がアップするやつに違いない。
雨?
彼女がふと気がついた時には、断続的に吹き付けていた雨風が連続性のある強風と雨にランクアップしていた。
「えー? ……あー! やばい! びしょびしょ!」
今少し時間を巻き戻せば、この雨が急に強まったわけでもないことや、サーファーのおじさんたちが怪訝そうな素振りでこちらを見ながら砂浜を立ち去って海岸道路に上がっていく様子を観測することが出来ただろう。しかしこのリアクションからわかる通り、今のハンマー君に真っ当な知性というものは存在しない。
慌てて立ち上がり、しばし軽いパニック状態で辺りを見回していたハンマーソングはやがて、最も彼女らしい行動を取った。
すなわち、ドラム缶を引っ被ってしゃがみ込んだのである。
◆◇◆◇
暗闇。
一般的なサイズのヒト型にとっては少々狭すぎる、高さ九十センチ直径六十センチ足らずの円筒。
その底面の砂地に三角座りをした少女は、安堵の息を深く吐いた。いざという時に外界の悲惨から彼女を守ってくれるのは、やはりこの迷彩コクーンだけである。
豆鉄砲一斉掃射のごとき激しい雨音と哀鳴のような風を聞きながら目を閉じる。何より、見えないのがいい。見さえしなければこの世につらいことなど何もない。
「このまま止むの待っちゃおうかな」
ディスカッション中。それも悪くはない。あと十数分のうちに雨脚が弱まる気配が見えさえすれば、だが。濡れそぼったジャージの袖を絞りながら、今日の天気予報を確認せずここまで来てしまった事を今更悔いるハンマーソングである。まあ、たかが雨だ。意を決してひとっ走りすれば済むことで────
…………ピシャッ…………
突如の襲来。それが空の裂ける音だと気づいた次の瞬間には、五臓六腑を震撼させるあの衝撃が少女の総身を打った。
「──!!」
少し叫んでしまったかもしれない。
稲光はもちろん見えていないが、音の質と衝撃からして相当近いところに落ちている。そこまで把握したところで、もう一発。
自前のシェルターがビリビリと震える。実に心もとない。彼女は一層強く、小さく身を縮こまらせた。
次はいつ来る? すぐそばに高い防砂壁があるとはいえ遮るものの少ない砂浜で、金属製の缶が落雷の着弾点に選ばれる確率はどれほどだろうか? やはり意を決して砂浜からコテージまで逃げるべきか? などと考えている最中にも、
三。
四。
五。
やがて少女は、四分音符のように折れ曲がった姿勢で数え、祈るだけの管と化した。見さえしなければこの世につらいことなど何もない。
彼女はそのまま夏が終わるまでそこにいた。
〜Against All Odds、缶〜
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
こんな感じの悲劇妄想も暑すぎて限界に達する頃合だった。
「もしもーし。とんとんとん」
外から音と声がするではないか。指かなんかでハンマー君のシェルターをトツトツ叩く音と、比較的高音でなんだかフワフワした、それこそ十代前半の女の子のような声である。
その前にそもそも雷鳴も雨音もすっかり止んでいる。どれほど時間が経ったかは定かではないが、缶の中がいい加減暑すぎるなぁと思い始めるまでに止んでしまったとあれば、先ほどの雷嵐も大した規模ではなかったに違いない。
「とんとんとーん」
「そっとしておいてください!!」
「!?」
とりあえず小さく叫んでみた。汗が頬から滴り落ちる。
「カミナリで危うく死ぬところだったので、そっとしておいてください!!」
そう、今の自分はかなりかわいそうな状態であるとハンマーソングは自負している。ひとりぼっちの、嵐の海岸で、誰にも知られ得ずに落雷で死ぬところだったのだから。缶の外にいるのが何者かは知らないが、こちとら大丈夫ではないので、そっとしておいてくれたほうが絵になるのだ。
「えーそっか。じゃあ、さようなら?」
「はぁい」
……
音声の主はどっかに行ってしまったらしい。
なんだかものすごく癪である。そこは前フリを汲み取ってもう少し粘るところではないのか。
「ってことで、そろそろ開けるね」
え?
反応する間もなく、周囲の地面からパッと光が差し込んで視界が開けた。不意を突かれ、彼女の最後の砦はいともたやすく持ち上げられたのである。
そして目の前に広がったのは──といっても長らく暗闇の中にいた彼女が目のくらみを乗り越えるまでにたっぷり十秒は要したが──先ほどまでの曇天荒天雨模様がウソのような、白くギラつく昼夏の海岸の風景だった。泡波立つ青い海に白い入道雲。どこからか聴こえてくるアッオウアッオウというゴキゲンな海鳥の囀声。
見渡す限りの夏のただ中に包まれて、眼前に女が一人立っていた。
背丈はハンマー君よりほんの少し高いくらいだろうか。ちょっと古風に見えるフリフリの白いブラウスに、これもちょっと当世風とは言い難いゴツめのジーンズ、そんでもって靴は浜辺に似つかわしくない革靴という、なんだかチグハグな出で立ちである。
でも顔立ちはかなり可愛らしい気がする。今にも綻びそうな咲きかけの丸い花のような、という比喩がぴったりの、色白ベイビィフェイス。色恋沙汰から一等遠い位置にいるハンマー君をして、「世の男性はだいたいこういうのが好きなんじゃないですか?」という感想を抱いてしまうほどの、自然体テンプテーション。
ああ、あんまりハンマー君がポカンと突っ立ったまま観察しているものだから向こうは首を少し傾げて微笑んでいるではないか。ものすごい敗北感だ。夏色の風を楽しむようにボブだかロブだか知らないサラサラの黒髪がなびいている。
「押さないで、って言われたら、押さないとダメなんでしょう? コウくんから習ったの」
「そ、そうですか」
「身体はわたしの倍もあるのにハートはちっちゃいコウくん、知ってる? きみが学園の子なら、会ったことあるんじゃない?」
声は瑠璃色の風鈴のようだった。欠点を挙げるとするならば発話内容の飛躍っぷりが酷い。コウくんってなんやねん。しかしながら、口ぶりから目の前のこのワンダー系プリティー少女がトレセン学園の関係者であることが確定してしまった。教師、教官、トレーナーのいずれにも該当しなさそうなヒトミミが、である。
「コウくん、ですか? うーん、デカくて『コウ』なのは……うーん、うーん。ごめんなさい、たぶん知らないです」
「あら、残念。でも会ったらきっとわかるわよ。百メートル離れてたって、一目で。あの子だって」
「体長百メートルもあるんですか!?」
「えー? うん、ふふふ。そうかも?」
お互い会話が成り立たない上に様子のおかしいアンダー百五十センチメートルの二人にとっては、あるいは百九十センチも百メートルも似たようなものなのかもしれなかった。この場にもう一人、たとえば例の帽子ガールでも居合わせていれば、「コウくん」の正体をハンマー君にサジェストしつつ会話の軌道修正を成し得ただろう。それは叶わない。既に、永遠に。
コウかフコウか、さしあたってハンマーソングは岡澤某の下の名前を覚えていなかった。
「ていうか、トレセンの人なんですねぇ」
「あら。わたしこれでも、トレーナー? っていうの、やってるのよ」
え──────ー?
目の前のかわいいやつはスゴイカワイイ微笑みを浮かべ、先ほどまでハンマー君が立て籠もっていたドラム缶に腰掛けて脚をぷらぷらさせている。一方のあんまりかわいくないのは「えー?」を六秒くらいのロングトーンに引き伸ばしながらその周囲を高速周回した。
「嘘ですよね?」
「ホントでーす」
「嘘だ〜! だって──」
「足の親指」
「はい?」
彼女は革靴の右足を軽く持ち上げてみせた。
「足の親指と、付け根の出っ張り。その二点を使って、砂をつかまえるの」
「今ですか?」
「歩きながらやるのよ」
ちょっと歩きましょうか、と彼女はブラウスの裾を翻して優雅にターンした。ハンマー君としてはぶっちゃけ走って逃げてもいいタイミングではあったが、なんと向こうはドラム缶を引きずったまま歩いていく。これではついていく他はない。
ハンマーソングはおっかなびっくり第一歩目を踏み出した。
「ああ、掴んじゃダメよ。指を開いて、地面を掴まえに行くの。でも、握らない。指の順番は……人差し指が最後かな? うん──自然なままでいいわ。たまにだいぶひっくり返っちゃってる子がいるけど、きみは大丈夫」
一歩目でフリーズしたままハンマーソングは思った。
この女はヤバい。
一つも振り返らないまま、こちらの足の指が靴の中でどのような動きを取っていたのか、余さず把握している。
(い、言われてみればそうかもってだけで、自分の指がどうなってるかなんて全然わかんないですけどぉ!)
「続けて。左足はね、掴まえた地面から弾みをつけて逃がすように、普段より一拍ぶんだけ遠くへ!」
「訳わかんないですよ!?」
その後も数歩を踏み出すごとに奇妙な指示は続いた。足裏の接地する面積のコントロールに始まり、腿を上げる際に脳内へ抱くイメージ、頭部から臍へ向かう意識の形成など──
夏色の浜を白波に向かい、珍妙なフォームとリズムで練り歩く哀れなハンマー君を、自称トレーナーの少女は一瞥もすることなく先導した。指示の合間に時折その透明な声で途切れ途切れのハミングを振りまきながら、彼女は心の底からの喜楽を表している。
防砂堤から波打ち際までは五十メートルもなかったが、たったその距離を歩かされただけでハンマー君はヘトヘトになった。半ば前方へ崩折れるような格好で砂浜に四つ足でしゃがんでいると、背中の一点に小さく温かい指が添えられるのを感じる。
「あ、歩いただけなのにめっちゃ疲れました……マッサージとkアイタタタダダダ」
マッサージどころかツボ押しと呼ぶのも憚られるような勢い(と、ハンマーソングには思えた)で幾本かの指が背中の筋を穿った。クソ痛い。カニの身に箸でも突っ込んで雑にほぐしているかのような無造作さで背中の肉がかき分けられている。「トレーナーだか教員だか知らんがもうぶっ飛ばしたろか」と暴れんとしても、腰の上に跨っていると思しい自称トレーナーの身体を跳ね除けることはできなかった。五体の自由がほとんど利かず、できるのはただ痛みに耐えながら首から上をみっともなくガタガタ言わすことくらいだ。
「ヒョアア! これって本当にマッサージなんですかァ゙」
「んーん。壊してるのよ?」
痛みとは別種の感覚が被験者の肌を泡立たせた。が、それはそれとして痛い痛い痛い。生きたままヒラキにされ、露出した背筋を和琴に見立ててペンペン爪弾かれてもこんなに痛くはあるまい。人の命をなんだと思っているのだろうか。ペンペン。さっき会ったばかりの見た目だけはいい女の口車にまんまと乗ったのが過ちだった。こんなに惨い思いをするくらいなら雷に打たれて死んでしまえばよかったのだ。ベベベン。これは三味線である。
「……あの、さっきから何をピタピタ跳ね回っているの?」
「そんなの痛ぇからに決ま──アレ?」
何分くらいそうしていたのかわからない。が、いつの間にか背中の上にいたはずの殺人マッサージ師はハンマー君の傍らにしゃがみ込んで何食わぬ顔をしていたのだった。
息が整うまでに一分くらいかかった気がする。未だに逆らっている尻尾の毛(普段からボサボサだからあまり変わらない)を撫でつけながら、被害女性は砂にカニさんの絵とか描いて遊んでいる加害者を恨めしげに睨みつけた。
「……ひでぇことしやがりましたね?」
「ひどいのはきみの身体の方よ。こんな状態でよくも夏合宿に来ようと思ったわね」
笑顔のままそんなことを言われてぐうの音も出ないハンマーソングである。自分では結構イケてる方だと思っていた身体能力も、トレセン学園の門を跨いでからはボロクソ言われまくっていい加減現状把握はできつつある。
皆、自分より数十センチも頭を低くして、一メートル以上も遠くへストライドを運ぶ。矯正しようにも、脚がこれ以上開かない。伸びない。
柔軟性に著しく欠ける──畠山や岡澤に限らず、出会う指導役全てから指摘され続けてきた問題点だ。
「うー、頑張ってほぐしてるんですよこれでも。事実! 今週はなんと長座体前屈で指がですね。足首に」
「はいはい。じゃあ立って」
「へい」
考えるより先に立っていた。すると不思議なことが起こった──ただ立ち上がっただけなのに、勢い余って後ろにひっくり返りそうになったのだ。慌てて前へ踏ん張る。雨上がりとは到底思えない陽射しが眩しい。
「おとと。アレ?」
同時に猛烈な違和感が全身を余さず撫でた。
「……私の目線ってこんなところにありましたっけ。それで、背中と肩が簡単にくねくね動いて……腰ひねってもあんまり痛くないし……?」
自分の身体なのに、動作のイメージと実際の挙動が微妙に異なる。込める力を意識すると、数センチずつ、数度ずつ余計に動いてしまう。例えるならそう、重たいドラム缶を長時間持った後に軽いカバンか何かを持ち上げた時のような、拍子抜けた感覚。
「あの、いや、ほんとに何したんですか……?」
やたらディテールの細かいカニさんの絵(二メートルくらいある。怖い)を描き終えてその横に同じく指で「牡」と書いていた殺人マッサージ師改め肉体改造博士は、なぜか怪訝そうな面持ちでハンマーソングの顔を見つめ返した。
「わかんないわ」
「わかんないんですか」
「うん。でも、多分それできみは次のレースには勝てると思うの」
意味もわからない。
ハンマーソングが黙ったまま次の言葉を待っていると、相手はふっと微笑んで地面の文字を書き足しはじめた。やたら複雑で、とうてい指と砂浜向きの仕事には思えない。
「わたしね、勝たせるのはけっこう得意なのよ?」
「で、でもご自分が何をしたのかはわからないんですよね?」
「うん。わかんない」
「んー、だいたい、『次のレース』ってなんですか? 私まだデビューもしてないですし、それがいつになるのかも全然」
「小倉レース場芝二千メートル」
「……へ?」
堰を切ったように。
「開催終了間際の週、小倉レース場芝二千メートル右、天候雨、バ場状態重から不良、気温二十八度から三十一度、外枠発走から道中は新バにしては速いペースを最後方追走。二コーナー手前から向正面いっぱいを使って一見暴走気味に押し上げ中団に」
「ちょっちょっ、あの」
「──あ。なぁに?」
「何の話をしてるんですか一体」
自称トレーナーは首を微かに傾げた。浮かぶ笑みはこれまでの咲花のような印象とは異なり、寂寥や困惑のような負の感情が見て取れる。
「──そういう条件なら勝てるっていうお話よ。きみの勝ち筋がある条件は他にも……うん、八通りくらいは思い浮かぶわ。聞く?」
「結構です……」
困惑したいのはこっちである。
確かにこの女が施した謎の施術によってハンマー君の身体はずいぶん様変わりしたようだが、それとこれとでは話が違う。パキパキとインスタントに能力を強化し、適切なレースに出せば勝てるなんて、世の中がそんなテレビゲームのような仕組みではないことくらい、彼女にだってわかるのだ。
ふと気がつくと、先ほど砂に書かれていた「牡」の横に何やらもう一つ文字が増えている。数秒掛かってようやく読み取れた。「蠣」。そう、カニの横に牡蠣が完成している。殺したろか。夏の白昼、海岸のどこかでアホーウアホーウバカ◯ねと海鳥も鳴いている。
「うー、なんかバカにされてませんか私」
「んーん、安心して。わたし、教え子を見捨てたりはしないから」
「……」
「そりゃ、痛覚刺激も含めて色々使って、きみの身体を意識の根底から作り変えたりは……無断で……しちゃったけど。きみが何かに勝ちたいって思う気持ちを後押しする。そのつもりでやったことなのよ。ふふっ」
「さっき自分で『何やったか自分でもわかんない』って言ってたじゃないですか……」
「ふふふ」
ひとしきり笑って、ふいに彼女の口からため息が一つこぼれた。
「いつだってそう。自分が何をしでかしたのか、わかるのは全部終わってからなのよね」
「……」
「たぶん──わたしは答えを捏造して、計算式をでっち上げているんだと思う。それで、わたしの子供たちはみんな勝つわ」
「……」
「いつも、笑ってごまかすの。こんなふうに──」
言葉のかたちとはあべこべに、彼女はハンマーソングから顔を背けた。みどりの海を跨いで向こう岸からやってくる白波だけが、浜に座り込む二人の影を洗いながら此岸を眺めているに違いなかった。
「えーと……あ、私も自分が次に何をやっちゃうのか予想もできないです! 先生やトレーナーや生徒さんに迷惑かけ通しです! それから、あのー……」
「うんうん」
「そ、そういうところがあるヒトって少なくないですよ! 代わりに尖った才能があるって話もよく聞きますし! だから……」
「そうね」
「だから、その涙もすぐ止まりますよ。えと、そうだ。『技が心を作る』って、私のトレーナーさんも言ってましたから。あなたにはスゴい技があるじゃないですか……なんだかよくわかんないですけど」
「うん……」
ゆっくりと、幾度も、震えるように頷く後ろ姿。
自分の陳腐な共感と稚拙な慰撫が、果たしていかほどこの可憐な少女を縛る自縄に届いたのか。ハンマー君には確かめる術も願う由もなかったが、今や一つの確信が目の奥と胸を熱く焦がしていた。
「──アマミハジメさん、ですよね?」
最後にして最初の天才は、両の手で顔を覆った。