Against All Odds   作:錫箱

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なんと、出来上がった次話を3ヶ月くらい投稿するのを忘れていました。申し訳ないです。

とりあえずウイポ2026の体験版DLしてください。次回分ももう仕上がってるので明日とか明後日くらいに投稿します。




シガン

 窓外の雷雨がまた一段と勢いを増す。

 なるかみのくだくとひにも……と手元のノートの隅に書き散らしたところで実際にどかーんと一発鳴った。先ほどから落雷のたんびに両隣のチームメイトがイヤーとかグワーとかンモーとか言いながらビッタリ密着してくるので、【通称】帽子ちゃんとしては難儀しているところである。

 ところは或る宿泊棟の娯楽室。前日に宣言されたとおり、岡澤軍団は本日の練習メニューを全て取り下げて学生の本分に励んでいた。割り当てられた自室でやれと言われたにも関わらず、昼食休憩終了から一時間もしないうちに娯楽室で涼んでいたトレーナー達の元に生徒が集って結局二十人規模の集団と化している。

 

(あづ。なんかセンパイたちベトついてるし。群れててエアコン効きづらいし扇風機も肉でカットされてるし)

 

 湿気でいつにも増してクルクルしているクセ前髪と筆記用具とスマホの角を順不同で間欠的にいじくり回しながら内心では軽めに悪態をつく。かくいう彼女も岡澤に菓子でもタカりつつ国語の課題をコネてやろうと画策してここに来たのだから若干ジゴジト気味ではある。一流の集いなのでみんな考えることは同じなのだ。

 肝心の岡澤はというと、こっちはこっちで若手のトレーナー連中四人に囲まれて談笑に興じている。多分に彼らが占拠しているアレは卓球台だったと思うのだがすっかりバーカウンターテーブルの様相である。

 

「岡澤さんアサデンコウのダービーってリアタイしてました?」

「んー、体育大の競走指導課程の同期全員で見てたよ。今の御時世だったら止めてただろうなぁ。パドックの時なんか晴れ間もあったんだけど、返しン時にゴロゴロ言い出してね……」

 

 ジジイが昔話を始めたので帽子ちゃん(除湿モード)は視線を切った。クソ土砂降りと落雷で有名な件のダービーといえば三十年も前の話であり、その時代の日本競バは今とスポーツの種類が違いすぎてほとんど参考にならないというのが現時点での彼女のスタンスだ。

 その時代の映像を覗いてみると、中央の重賞なのにそれこそあのカナヅチちゃんみたいに全然鍛えてないガリガリの中坊が混じっていたりする。グレード制導入のはるか前、分厚いシューズに重い蹄鉄を打ち、勝負服の上からでも分かるほど過剰なハンデを腰に巻いてガシガシ走っている昭和のスタアたち。

 小さい頃こそ彼女らの勇姿が収められた名勝負集DVDを飽かず観ていたが、今では疎遠の仲である。決してリスペクトがないわけではなく。煉瓦やチェーンを持ったストリートファイトの兵とフェザー級のチャンプを同列に並べて語る意味を見いだせないだけの話だ。

 

 なつやすみ課題を屠る手は久しく止まったまま。取り留めのない思考がアメリカのハンデ戦に及ぼうとした瞬間に、視界の端に娯楽室の前の廊下を横切る男の姿が映った。アレ、今の誰だっけと意識をそっちに持って行った時には当然かの男は去っており、戸口には誰もいない。

 

(キラセンじゃん。合宿で見たの、初かも)

 

 キラセンというのはトレセン学園でも指折りの指導実績を持つトレーナー……兼、高等部の数学教諭という異常な肩書を持つ男の異称である。本名吉良英明。ヒデアキではなくエイメイ。厳格かつ苛烈にして辛辣な物言いで学生からの第一印象が最悪なのはどこぞの奇才(畠山)と共通点しているが、他の部分は正反対と言っていいほど似ていない。

 

 つまり、吉良は人格者で常識人で、さらに本質的にはお節介焼きなのである。あとついでに「否」寄りの賛否両論ある某奇才と違ってこちらは万人が認める当代風の高身長美男子であった。ついでに。

 

 帽子ちゃんとしても入学前から現在に至るまで大変お世話になっている。夏合宿への切符、推薦をくれたのも吉良が最初だった。チーム選びの際も岡澤(実績は僅差でこちらが上)との二択でずいぶん迷ったものだ。最終的には「顔が良いから」という理由で吉良からの指名を拒否した経緯がある。

 

(ウチ、そういうのいいんすよね。ホントに)

 

 左右のセンパイに「辞書忘れたんで部屋戻ります」とか適当なことを言いながら立ち上がる。頭を一回切り替えたかったのが第一。キラセンにもういっぺんお礼言っとくか、というのが第二。第三に──

 ほんのちょっと、気になっていることがあった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

「センセ、こんちはす」

 

 廊下をしばらく行き、突き当たりの宿泊施設的木目自販機の前で帽子ちゃんは彼を捕捉した。劇画じみた横顔、切れ長の目がこちらを捉える。刹那、眉間に閃いた険しさは瞬時に融解した。

 

「……君か。時間は有意義に使いたまえよ」

 

「たまえよ」とくる。こんな奴漫画にしかいねぇよと噴き出しそうになる内心の愉快を必死に宥め、帽子ちゃんはどうにか無表情で軽く一礼した。

 

「その節はほんと、ありあとした。この夏使って可変ピッチにも取り掛かってますし、肺活量もガッツリ上げてるんでご心配なく」

「よろしい。それで、用件は?」

「んー。や、大したことじゃないのかも、すけど」

 

 この名前を岡澤の前で出さなかったのは、移籍を匂わせたくなかったから。

 この問いを適当に他のトレーナーで消化しなかったのは、自分で探るうちに垣間見えた違和感ゆえに。

 学園で五指に入る実績のある(吉良)ならばと。

 

 

アマミハジメって、なんなんですか」

 

 

 吉良は、身じろぎ一つしなかった。

 こちらを真っ直ぐに見据えたまま動かない。

 直感的に理解する。これは、この名前は、属性として。

 禁忌、なのかもしれない。

 

 何故。

 

 耳の奥の脈動を遠くに聞きながら、破戒者はジャージの尻ポケットから携帯端末を取り出した。指が、関節が、こわばっている。何故。

 

「ネットにPDFで上がってる教職員名簿。遡って十年分しかなかったんすけど、全部見てもアマミハジメ、て読む名前はなかった。地方校も大きいところは見ました。でもやっぱりそんなヒトいない。『凄腕トレーナーのアマミハジメ』は存在しないんすよね」

居たとも

 

 わずかに、息の擦れる音が吉良の口の端から漏れ出たような気がした。構わない。

 

「て、確認して。ウチの知り合いの勘違いだって、確定させて終わるつもりだったんすけどね。これ。相当センシティブな話なんすね、どうも」

「──その名前は」

 

 彼が常々誇っている深く、朗々とした声は今、瘡蓋に覆われたようながさついた惨めさを呈していた。

 

「感情の──感傷の向こう側に、ある──」

「……」

「すまない」

 

 吉良の手が口元を覆うように顔を這うさまを、帽子ちゃんはある種の感嘆と畏れのないまぜになった感情でもって見つめた。学園随一の頭脳が、一の提起に十の反駁でもって制圧するような理詰めの学者が、どうやら過去の出来事に囚われ震えてすらいるのだ。

 悲痛さに耐え、難題を睨むような重たい静寂が際限なく広がり続け、もはや逃げることもできない身となった彼女はひたすら吉良の次の言葉を待った。

 

「──誤りだった」

「はい……?」

 

 どこか遠い思念の泥海から浮上してきたとおぼしい吉良の第一声を、思わず問い返す。

 

「君は先ほど……『アマミハジメとは何か』と、そう設問したな。『誰なのか』ではなく」

「……」

「それが僕の現時点での解だ。アマミハジメとは、僕が今まで観測してきた中で最も巨大かつ──致命的な、誤謬だった」

 

 余韻と疑念は、廊下にびっしりとひしめく窓外からの雨音に圧倒されてなお無傷だった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本籍・住所・氏名不詳、推定年齢十歳から二十歳代の■■■女性、身長百四十七センチメートル、着衣は黒色ジャージ、白色靴下、青と黒色スニーカー(サイズ二十一センチメートル)。

 上記の者は、■■■■年二月一日、■■■市■区■■■番地海岸沿いで発見されたものです。

 遺体は火葬に付し、保管してあります。

 心当たりの方は、当市生活福祉課まで申し出てください。

 

 ■■■■年三月十九日 ■■県 ■■市長

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 目の前の女がなぜ泣いているのか少女には今ひとつ理解できていない。でも、泣いている人を放っておくなんて、ヒーローの生まれ変わりである彼女には到底できないことだ。

 だから彼女は手のひらについた砂を擦り落とし、女の──アマミハジメの涙を覆う指に触れた。

 

「大丈夫ですよ」

 

 何が問題なのかすらわからない状態で、何が大丈夫なのかという一切の保証もなく、彼女はお得意の明るいダミ声で呼びかけた。

 

「大丈夫」

 

 応えはない。

 

「あのー、ほら! 今まであなたが笑顔にしてきた人のこととか、そういう、良かったことだけ考えたらいいですよ。中央で勝つのってとっても難しいんですよね? 生徒会の人も褒めてましたよ! アマミハジメは本当に凄まじいって」

「……」

「答えを捏造? っていうのがどういうことかは、わかんないですけど」

 

 小さく鼻を啜り上げる音が聞こえる。

 

「あなたが一つ勝利をもたらすたびに、それとリンクした何千人もの人たちが喜んでくれると思うんです。生徒さん本人、ご家族、お客さんも。絶対、得たもののほうが大きいですって」

 

 断片的な相手の情報と、未熟な語彙を繋ぎ合わせた、ありきたりな繕い。けれどもハンマーソングの知っている物語のヒーローたちは皆、こんな感じの言葉を頼りに戦い続けていた。愛と信頼と勇気は何よりも強いのだ。彼女は一番大事な事を知っているつもりでいた。

 押し寄せる暗黒より億人を救った前世(セッテイ)から、ずっと。

 

「少なくとも私は今めっちゃハッピーですよ! こんなに身軽にしていただいて、嬉しくってほら! 今ならバック宙だってできちゃいそうです! できます! 三、二、一、ハイッッッ」

 

 道化と虚勢は彼女の大得意である。けたたましい鳴き声と共に一メートルばかり飛び上がったハンマー君は、空中でカップ麺の乾燥エビのごとく反り返った後、頭頂部から砂浜にグサッと突き立った。

 

「あ────ー!!!!」

「……んっ、んふっ」

 

 笑われている。いやさ、直前まで泣いていた人を笑わせることに成功したのだ。

 

「さかだっち」

「……?」

 

 追加したギャグが下痢便のごとくビチビチと不発に終わったところで重力と背筋力の限界を彼女は知った。仰向けの大の字にばったりと倒れ、高天を仰ぐ。

 

「はー。……心配しないでくださいね。私はハッピーエンドにたどり着くって、そう決まってるんですから。ブァーっとシンデレラロードを駆け上がってですね、三冠ウマ娘をバチーンとやっつけて、みんなをしっぽり救うのが私の持って生まれた天命なんです」

「……素敵ね」

「でしょー? 達成の暁にはアマミさんも超絶功労者ですよ。何万、何億というヒトビトを助けることになるんですもん」

 

 ダ・ヴィンチのアレよろしく手足をバタバタさせ始めたハンマー君の傍らに佇む気配は、もう泣いてはいないらしい。こんなに青く玻璃のような夏空の下で悲しんでいる人がいてはならない。その一心で吐き続けた大言壮語の甲斐があった。

 

「わー動きが軽い。うちのトレーナーさんに見せたらびっくりするだろうなー。拷も……施術前と全然違いますよこれ」

「いま拷問って言った?」

「いや肛門をですね。トレーナーさんに」

「さっき押したツボの一つには下ネタを言うと身体が爆発する副作用があるの。ごめんね」

「拷問前と全然違いますよこれ!!!! やだ! 爆発したくないです!!」

「ぜーろ♡」

 

 天才の所業にはタネも仕掛けもないことの証左として、ハンマー君は体内から爆破された。直後の補足によれば件のツボの主作用は「消化を助けること」であったそうだ。

 ともあれ、強制的にでもこの場に笑顔が戻ったのは喜ばしいことであった。なにせハンマーソングはこれまでも、これから先もずっと、

「皆の幸福のために粉骨砕身すべし」と導く星のもとにあるのだから。

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 8,8,8,8。

 

「おっ、またアタリかぁ。マヤさんほんとすごいね」

 

 濡れそぼった髪としとやかな肌をジャージとタオルで包んで自動販売機の前に立ち、背後からの声に無視を決め込むマヤノトップガンは、コイン投入口の横のディスプレイをしばし黙視した。

 今日までの幸運が確率の収束における一側面でしかないのなら、いつか報われる日々が来るのだろう──おおむねそんな感じのコトを考えて眠れなかった日もあるにはある。

 

 でもしょうがないじゃん。マヤはとってもラッキーなんだから。

 そういう星がツイてきてくれてるのかもしれないし、毎朝スマホで占いのサイトを見てラッキーカラーとラッキーアイテムを把握しているおかげかもしれないし、六年も前にママがくれたクローバーのブローチの護りなのかもしれない。

 

 ごめんネ、今週の十二位は山羊座だよ。水関係のトラブルが近づいてるかも。大事なものをなくさないように注意してネ。

 

 マヤノは勢いよく自販機の中段左側のボタンを押下し、ガコンと落ちてきた天然水(600ミリリットル)のペットボトルを背後にいる山羊座の男にトスした。「くれるの? アリガト」とか言ってニヤけているオッサンの横を通り抜け、薄暗いエントランスホールの片隅にあるプラスチックのベンチを目指す。

 ここがどこなのかといえば、合宿場の海岸から内陸に一キロメートルほど入った郊外の市営体育館である。怪しいトレーナー(三十代後半独身男性)の招集に応じて集まった十数人の生徒と一名のサブトレーナーから成る集団が午前中からボールを投げたり引っぱたいたり蹴飛ばしたりしてレクリエーションに興じていたこの場所は現在、自動ドアのガラス越しにもはっきりと分かる爆裂豪雨の脅威から身を守るセーフハウスの様相を呈し始めている。

 とりあえずマヤノはモモ・ジュースの缶を片手にベンチに腰掛け、このつまらない状況をオトナどもがどう打開するのか観察することにした。

 

「暑。水原(ミズ)、空調復旧いつ?」

「事務所はなんとも。まあ一回停電してトンじゃって、ほしたら再起動に時間かかる機種だったーってだけらしいんで辛抱ですわ。明けたら最寄りのスーパーで間食買わせて直帰で?」

「それでよろしく。オレぁ一応留守居組に電話しとくわ」

 

 今週最下位の畠山が話している相手はアフロヘアのチンピラのような若い男である。どうも畠山とは旧知の仲、かつ実績ある若手トレーナーらしいがパッと見後者の属性に関してはそんな感じが全然しない。なんせアフロヘアだ。あらゆる意味でマヤノのタイプからは外れているので今までろくにコミュニケーションを図ったこともない。

 暑いし、バレーボールもフットサルも飽きたし、トレーナーは二人ともダサいし、それに加えてこの雨である。考えうる限りサイアクの正午だ。

 雨! マヤノはとてつもなく降雨がキライだった。たまの休みにスゥィート・マイ・ホームに帰ってくるパパとのデートを、何度雨のせいでキャンセルされたことか(たぶん2度くらいなのだが2度もあれば十分である)。きちゃない水は肌にも髪にも尻尾にも悪影響だし、濡れた靴下はどうあってもクサい。

 学園では雨天でも結構強制的に走らされたりするのだが、走り心地や汚れをさておいてもタイムがガツンと落ちるのが本当によくない。おまけに雨天時に負かした相手がたいてい「まあバ場悪かったし? これが私の実力じゃありませんけど? あなたもよね?」みたいな顔してるのが最高にアンチ・キラキラだ。少なくとも最強のナリタブライアンや神ドルのトウカイテイオーちゃんだったらそんな言い訳はしない。

 

【マヤノさんは重とか不良とかって得……】

 

 少女は全身のすべての動きを停止させた。脳裡へ鮮明に顕れたその声は、記憶から浮上したものではない。

 そうだ、あれはもう一ヶ月以上前のことだった。しかし、憶えているはずがないのだ。今この瞬間までは。何十日も前の、何気ない、特に印象深いわけでもない会話の一片が、完璧な「体験」として甦ることなど……少なくともマヤノにとっては経験のない感覚だった。

 しかも、なぜ彼女(ハンマーソング)なのか。雨にまつわる思考ならば他に山ほど縁があるというのに、なぜ今、彼女なのか。

 

 顔を上げる。ホールの反対側、自動ドアのガラス一枚を隔てた外で降り続いている灰色の雨。じわじわと何かが胸の奥に染み入ってくるのを感じる。僅かに浅い呼吸と心臓の突き上げるリズムに、マヤノはそれが焦燥の侵入であることを悟った。思えばハンマーソングという存在はずっと、弱い危機感のようなものであった。

 

「もっと──」

 

 しっかりと捕まえておくべきだ。

 あるいは「だった」のかもしれないと、天賦の少女は予感していた。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

「……たぁい……」

「痛かった? でももう少しの辛抱だからね。んもう、なんて頑固な半月板なのかしら」

「フルーチェ食べたぁい……」

「えいっ」

「ふ゛る゛ぅ゛」

 

 中断を経、長い長い施術が終わった。暴虐の徒はとどめにハンマー君の薄いケツをひっぱたいて「おしまい!」と宣言した。砂浜によく落ちている海藻と砂がへばりついた流木と大差ない風貌の患者を見下ろすその表情には、もはや先に見せた涙の名残もない。

 

「帰ったら蛋白……の前にシャワーね。顔、いろんな汁ですごいことになってるもの」

「もともと顔すごいってよく言われます」

「そういうのはいいの。足が速ければみんな『ちゃら』よ。それに、わたしはきみのこと結構チャーミングだと思うわ? オバキューみたいで」

「ズゾ」

「えっ」

 

 世代柄オバキューとバキュームの区別がつかない現代児によって哀れな砂浜の砂が百グラムほど唾液まみれになったシーンは外伝映像をご覧戴くとしても、尺の都合上そろそろ宿に帰らねばならないな、とハンマーソングは思い立った。ほんのちょっと歩かされて整体を受けただけなのに、二台のヒノノ二トントラックに牽引されて綱引きでもされたかのような痛みが全身にある。死にそうだ。死ぬほど苦しい練習なんぞしたことがない彼女にとっては想像力の領域だ。目指せ身長百七十センチ美少女。尺というのは現実五尺に満たぬ己のちんちくりん哀歌でもあり、おやつ食いながら見たい夕方の番組群へのカウントダウンでもある。

 

 砂を巻き上げながら起き上がり、生まれ変わったかのごとき新鮮な身体感覚にまたもバランスを崩しながらも一礼する。

 

「ぺっぺっぺっ。ありがとうございました。おかげさまでぺっぺっぺっ」

「砂吐きながらお礼言われたのは初めてかも……どういたしまして。かえるの?」

「はい。おなかすいたので。あと、早くトレーナーに見せたいんです。新生──ニュー・スーパー・ドラム缶工──」

「? まぁいいけど。ちなみに、きみの担当さんって誰? 見た感じ、蹄鉄の削り方がわたしに似てるのよね。こんなに内側を彫り込む人って他にいたかしら」

「あ、畠山さんです。よく知らないですけど、天才? らしいです。蹄鉄は借り物なのでよくわかりません!」

 

 海鳥の声と太陽にのみ彩られた奇妙な間があった。

 ハンマー君は立ち上がった際のヒアウィーゴー的配管工ポーズを解除してアマミハジメの様子を窺った。

 

「──そっか」

 

 どこか胸の奥で、風鈴が鳴った気がした。

 そういう声だった。

 

「──ねぇ、お願いがあるの」

 

 ハンマーソングはゆっくりと姿勢を正した。

 

「かえったら、畠山──彼にこれを渡してくれる?」

 

 差し出されたのは、比較的新しそうな合皮表紙の手帳だった。群青色で、ニセ真鍮のボタンがついている。500円くらいで買えそうなやつだ。

 

「尻ポケットに入れてたんですか?」

「はっ倒すわよ」

「ちょっとやってみてもいいですよ」

 

 砂浜に頭から埋められたハンマー君の股間あたりにアマミハジメは語りかける。

 

「さいごまで書こうと思ってたんだけど、やめたの。ここから先は彼が考えるべきだなって思って。それにね」

「…………」

「わたしはもう、王国を見てしまったから」

「…………?」

 

 砂浜にみっともなくV字型に芽生えた脚とそれを司る股間がどうやってそうしたのかは定かではないが、ハンマー君は確かに大きな疑問符を浮かべた。ただでさえこの暴力的ふわふわ女の言うことは抽象的だったのに、今の発言はすべてが意味不明瞭である。いったい件の手帳に何が書かれていて、どれだけアマミハジメがトンじゃってるアタマの持ち主だったらば、こんなワードセレクトが行われるのだろうか。この近辺の王国なんぞナス動物王国とデズニーランドしか知らない。どちらも赤貧にして行かず。

 ハンマー君はとりあえず何か訊こうとして口を開こうとしたが、そもそも砂に埋まっているため呼吸ができない。思念波でも送ってみれば会話できるだろうか。

 

(あの、何言ってるかよくわかんないです。あと助けて欲しいんですけど)

「大丈夫よ。またいつでも助けてあげるから。それじゃ、彼によろしくね」

 

 あろうことか気配はハンマー君のもとから立ち去っていく。ハンマー☆テレパシィが通じたのも驚きだが、この状態のいたいけな少女を放置してどっか行くのもメチャメチャに驚きである。今助けろつってんねん。

 嘆いていても何も始まらないどころかこのままでは生命活動が終わってしまう。酸素の足りない血液をしこたま送り込まれた脳が悲鳴を上げている。十数秒間に渡って滅多矢鱈に手足を振り回し、最終的にはブレイクダンスのヘッドスピンの要領で砂から頭を引き抜くことに成功した。

 

 顔中の砂を擦り落とし、辺りを見回す。

 誰もいない。

 重たく立ち込めた曇天に、灰色の浜に、ハンマーソングは一人立ち尽くしていた。

 踵の後ろに何か落ちている。屈んで拾い上げた。汚らしい手帳だ。湿った砂を拭うと、もはや元々何色だったかすら曖昧な鈍色の合皮が幾分か崩れて指先に付着した。

 不具の少女はだまって手帳をジャージのポケットに押し込んだ。今にも不安と緊張に破れそうな水平線から浦へと寄せ来る荒い波濤、唸る風に千切れる雷雲、それらが彼女のまなざしの先にあった。

 帰らなければ、と彼女は思った。一瞬でもその方角を迷った自分が、今は少し悲しかった。

 

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 雨は止んでいた。

 じめっと暗い午後の宿泊所、誰もいない食堂の椅子にひとり俯いているのは、膝の上に野球帽を置いた少女である。スマホを弄るでもなく、テーブルの上に誰かが放置したらしい新聞のクロスワードを埋めるわけでもなく、窓の外の灰色に沈む梢をぼうっと眺めている。

 

「アマミ、ハジメ……」

 

 低いつぶやきがまろび出た。

 ほんの数十分前までただの没個性な固有名詞に過ぎなかったこの名前は、今や彼女にとって、未知の言語で織られた呪詛のように不安を惹起させる音韻となっていた。

 

「それは学園の歴史上最大の誤謬であった」

 

 ──数学者のその言葉は、批判や弾劾の類ではなかった。後に続いたいくつかの告解は、それが「敗北宣言」であったことを表し、修飾する内容であった。

 

「言うなよあんなこと……収拾つかないじゃん……」

 

 恨み言のようにそう呟き、テーブルに長く上体を横たえる彼女の背後に近づく者があった。

 

「え、私なんか失言しましたっけ」

「んー? あー、カナヅチちゃ……うわ、てか汚な」

 

 歩く失言メーカーみたいな奴の声が聞こえてきたので振り返るとそこには果たしてハンマーソングがおった。黒い安物のジャージや焦げ茶の尾に砂や藻屑が付着しており非常にきちゃない。屋内に存在していい風体ではない。

 

「この天気で外歩いてたんすか? 朝礼でゆーてた雷雨時の外出禁止令とかご存じない?」

「ない」

「存じ上げろよ」

「でもおかげさまで素敵な出逢いがございました! なんとですね」

 

 ばしっ、とピースサイン。

 

「会えたんですよ! 例の人に!」

 

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 

「きっとね、住んでる世界が違ったんですよ」

「揶揄や批判じゃなくて、純然たる感想です」

「まあ、つまり。変な子でしたよ。本当に。やー、あの学園の飛び抜けて上の方って、まー変な子しかいないんですけど。ご存じでしょおけど。競走やってなかったら何してんだろなって感じの。芸能人とか? 配信とか? ──あの子に関しては、そっち系の『変』じゃなくて」

「ん、見た目や話し方に個性があるとか、尖ってるとか、そんなのとは別の話です」

 

「どっかのタイミングで、何かが決定的にズレたんだなって思いました」

「一年生の夏だったかな。会話の詳細は省きますけど、なんかの間違いかウソかなんかじゃない? って感じのことを言われたんです」

「そういうこと自体はいくらでもあるじゃないすか。誰だって勘違いとか、気の迷いとかはあるんで。でも、あの子がそれを言った瞬間、私ね、何もかもすっ飛ばしてこう思っちゃったんですよ」

 

「この子は何があっても叩き潰して、殺して、歴史から名前を消さないとダメだって」

 

「変、でしょ。はは。うん、今でも友達だと思ってますよ」

「向こうがどう思ってるかはもうわかんないすけどね」

 

「ところで、乙名史さんはアマミハジメって知ってます?」

 

 

 ──駿栄社刊『ハンマーソングを待ちながら』(著作・畠山繁之/乙名史悦子、二○XX年)より抜粋

 

 

 

 






その次回はバラバラのモロ間章みたいな感じでぶっちゃけ資料集です。設定集ではない。


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