Against All Odds   作:錫箱

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ウイポをやりましょう。




足下の硝子

 

 

 物置部屋での出来事からおおよそ三ヶ月が過ぎた、五月半ばの昼下がり。

 その事件はトレセン学園美浦寮の共用ダイニングキッチンで起きた。美浦寮の副寮長、ヒシアマゾンがガラスのコップを同時に二つも割ったのである。

 

「…………」

 

「ヒシアマゾン」といえば学園内でその名を知らぬ者はない。

 まず見た目が強烈である。身長百六十センチメートル少々、女性らしさを醸し出す丸みと猛々しく引き締まった筋肉が見事に共存するエネルギーに満ちた体躯。元々地黒らしい肌はよく日焼けして、女傑の印象をより深くしている。腰まである烏の濡羽色の髪も彼女のトレードマークとしてよく知られていることだろう。

 そして何より彼女を世に名高いヒシアマゾンたらしめているのは──競争選手としての卓越した力量と、豪放磊落として自然と同世代の生徒たちを惹き付けてやまない人となりであり、デビューから二年間強で重賞競争七勝・うちGIを二勝という輝かしい戦績と共に、畏敬をもって語られる「強さ」だ。

 

「…………」

 

 そのヒシアマゾンは現在、赤いタンクトップに黒のショートパンツ、その上に薄青のエプロンという出で立ちでダイニングテーブルの前に佇立している。赤褐色の目は大きく見開かれ、半開きの口はピクピクと痙攣していた。足元には麦茶の水溜まりがあり、周囲には先程までコップの体を成していた物体がいくつかのガラス片と化して散らばっている。

 

「あ……ア……アンタ」

 

 ようやく喉から出た第一声は極度の動揺を孕んでいた。落下音から優に十五秒が経過しているが、ヒシアマゾンの視線は哀れなコップの行方ではなく、ダイニングテーブルの向こうからこちらに歩いてくる制服姿の黒髪のウマ娘に向いている。

 

「ケガはない? なさそうだけど、動かないでね。踏んだら大事だ」

 

 黒髪のウマ娘はヒシアマゾンの足元に身を屈め、ガラスの破片を拾い集めて手近な椅子の上に乗せ始めた。その間も女傑は「驚きのあまりコップを落とした人のポーズ」で凝固したままである。

 

 目につく破片を広い終わった黒髪は立ち上がり、手のひらと指先を慎重に観察した後ダイニングをあとにした。ほどなく小さな箒とチリトリと布巾を持って戻り、未だ動かぬヒシアマゾンの足元に再度しゃがみこむ。

 

「……うーん、見た感じはもう大丈夫そうだけれど……掃除機はかけた方がいいか、なっ、と! こんなところにも飛んでる。危ない危ない──姐さん? もう動いても大丈夫だよ。ヒシアマ姐さん?」

 

 この声掛けは効果を発揮した。ヒシアマゾンは一つ肩を小さく跳ねさせると正気を取り戻し、その場から二歩ほど立ち退いて、

 

「悪かったね。情けないな。このアタシがこんな……マンガみたいなポカやらかすなんてさ」

 

 心なしか身体がしぼんでしまったようにすら見えるしおらしさでちょっと俯いている。

 黒髪のウマ娘はチリトリを持ってスッと立ち上がり、親愛と困惑のニュアンスを湛えた微笑みを浮かべた。

 

「ううん、ケガがなくて良かった。まぁ、私もこんな形で人をびっくりさせたくはなかったし、ちょっと唐突すぎたかな。まさかここまで驚かれるとは思ってなかったけど」

「……ああ……ああ、まったくだよ! いい加減にしてもらいたいもんだね」

「まあまあ、お詫びといっては何だけど、明日の十六時半からカフェテリアで発売される数量限定ドリンクメニューの無料券が姐さんのものさ。右の手のひらをご覧あれ」

 

 黒髪の劇がかった台詞を、ヒシアマゾンは唇を少し噛む逡巡の後に無視した。女傑が軽く握りしめた右手の中からわずかに紙切れが擦れ合う音がして、黒髪はバツの悪そうな顔になる。

 その愁いの表情すら絵画的に映る、精悍で中性的な顔立ちを擁する細面の少女だった。

 

「──掃除機、持ってきてくれるかい。玄関横の階段の下。取ってくるだけでいいよ。アタシがかけるから、アンタは座って待っときな」

「了解」

 

 ヒシアマゾンの操るサイクロン式掃除機の唸り声が細かいガラスの破片をすっかり吸い込んで、代わりに二人を包む行間を非常に騒がしい無で埋め尽くすまでにそう時間は掛からなかった。

 

 作業を終えたヒシアマゾンが掃除機のスイッチを切って顔を上げると、テーブルの向こうの席に黒髪が座ってじっとこちらを窺っていた。

 掃除機をキッチンの壁に立て掛け、女傑は黒髪の向かいの席についた。もう取り乱した様子はなく、かといって先ほどの無料券の時のようなピリついた空気もなく、その眼差しは穏やかな──『保護者』のそれへと変化している。

 静かな声で問いかけが放たれる。

 

「で、本気なのかい。『フジキセキ』」

 

 不自然なほどにはっきりと発音されたその名前の持ち主である少女は返事をする代わりに胸に手を当てて微笑んだ。

 爽やかに、朗らかに。かつて舞台上ですべての人々を虜にした笑顔とまったく同じ表情(かお)で。

 

「アンタは……」

「言った通りだよ。私はトゥインクルシリーズを引退する(降りる)

 

 静寂。

 窓から射し込む陽射しは午後三時の傾斜。ガラス越しのピーカン照りがフジキセキと呼ばれたウマ娘の顔を強く照らしている。

 ヒシアマゾンは静かに息をついて、目の前の少女が浴びてきた脚光をここ一年の目覚ましい活躍と共に思い返した。

 高名な舞台女優を母に持つ。容姿端麗眉目秀麗文武両道。稀代のエンターテイナー。十年に一度の素質。トゥインクルシリーズ四戦四勝。日本の次代を担うエース。

 数々の形容と称号がヒシアマゾンの脳裏を過っていく。

 

(……ダメだ。コイツのことまるで知らないんだね、アタシ)

 

 学年は一つ下。寮舎は違えども同じトレセン学園のトップ選手同士として、それなりに親しくはしてきたつもりだったが──ときにステージライトは──と彼女は嘆息せざるをえなかった。照明を落とし幕を引かなければ、演者の本当の顔は見えないのかもしれない。

 それにしたって引退とは! ヒシアマゾンは半ば憤然として目の前のお騒がせ屋を見やった。同時に、今こそこの友人の胸に人知れず落ちる影について知るべき時が来たのだと感じてもいた。

 

「それはそれとして眩しかないかい」

「うん。モロに陽射しが目に入ってるからどうしたものかと思ってたんだ」

 

 女傑はそそくさとダイニングキッチンのカーテンを閉めにかかった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 フジキセキ引退。

 この報が学園、そして全国を駆け巡るのはもう少し先のことにはなるが、それを抜きにした現時点でも日本のレースシーンには暗雲が立ち込めている。

 前年、文字通り圧倒的な強さでクラシック三冠に加え有馬記念までも制したナリタブライアン。

 彼女の故障が発表されたのは、春の大目標・天皇賞を目前に控えた四月上旬のことだった。前哨戦の阪神大賞典をニ着に七バ身の差をつける大楽勝で終えていただけに──いや、そのような文言など吹き飛ぶほどの衝撃が日本中を打ちのめした。

 

「ナリタブライアンは日本で最も強い現役ウマ娘である」という認識は、よほど捻くれた性根の持ち主を除いては完全なる共通のものといえたし、その中には少なからず「歴代最強かもしれない」との声も含まれていた。

 皐月、ダービー、菊、有馬、阪大。一年間を筆舌に尽くしがたい強さで駆け抜けてみせた彼女を待ち受けていたのはしかし、重度の関節炎という──気まぐれな神が吐いて寄越した唾であった。現在ブライアンは学園近くの病院で治療とリハビリを行っており、復帰は早くても冬になるのではないかとの噂だった。

 そこへ、追い討ちと呼べるほど苛烈なものではなかったが、日本国籍のウマ娘による海外遠征が活発化し、そして今のところいずれも失敗に終わっていることから来る無力感が襲いかかっていた。

 

 国際交流レース。

 レース競技シーンの本場であるとされる英・仏・愛をはじめとする欧州諸国や、新興国ながら強大な経済力をバックにここ五十年ほどでめきめきと実力を伸ばした北米。それら異郷の地で躍動する強者たちの映像と、英字で表記される名前は、いつの世も日本のウマ娘の闘争心をくすぐってやまない。彼女らの教育者たちにとってもそれは変わらなかった。

 しかしながらここ五十年で日本が国外で得た勲章といえば、わずかに三つ──障害飛越の英雄・フジノオーが半ば国内から追われるようにして向かった欧州で挙げた二つと、ダービーウマ娘・ハクチカラが十七戦という長期遠征のさなかに挙げた金星が一つ、これだけだった。

 五十年でわずかに三つ! ──この数字は海外遠征の困難とリスク・リターンの齟齬を象徴しており、同時にハクチカラ・フジノオー両者の卓越した力量と幸運を示し、また「日本のウマ娘の競争能力とトレセン学園の指導技術は、海外のそれよりも劣っているのではないだろうか」という実に卑屈なプレッシャーと化して選手や関係者の間に漂う病原でもあった。

 なにせあの【皇帝】(シンボリルドルフ)ですら、サンタアニタの美麗なトラックコースの上では天に見放されたのだ。

 

 それでも。

「シンザンを越えろ」「ルドルフを越えろ」「凱旋門に日本の旗を」と求めて止まない彼ら彼女ら(トレセン学園)の情熱は、往時と比べると幾分か老いて変質しつつはあるものの、決して衰えることのない炎として存在していた。

 

【ナリタブライアン故障。天皇賞回避、海外遠征も白紙】

【ヒシアマゾン、調整中に負傷しサンタアニタH出走を取消、帰国】

【クロフネミステリー三着惜敗。……米ニューヨーク州で行なわれたGIIディスタフH……】

【今年のケンタッキーダービー覇者はThunderGulch。……日本代表のスキーキャプテンは……】

 

 ──学園を行き交う人々の表情は一様に暗かった。しかし、実際のところその瞬間は確実に近づいていた。押さえつけられ、たわんだバネが解放の反動で空へ伸び上がるように、物事には必ず転機があるのだと誰もが知っていたのである。

 

 往々にして問題は、バネには自らが転機であるという自覚がないことなのだろう。

 

 

(提出者名【テイエムオペラオー】君へ:レポートを物語調に仕立てる必要はありません。出典一覧を確認しましたところでは、このように叙情的な記述はなかったように思われます。時折過去完了形と現在進行形がないまぜになっている他は内容の大筋に問題はありませんが、地方交流元年という概念についても触れたほうがよりよいレポートになるでしょう。現状の評価はBマイナスとします。再提出していただければ加点します。また、提出物に顔写真の添付は不要です)

 

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 美浦の一件と同時刻。

 

「出てけーっ」

「うわぁああーっ!!」

 

 実に熱のない棒読みの罵声と悲鳴に続き、グワンガラゴロガッシャーンというレトロな金属的破壊音が学園の一角に響き渡った。ところは体育館近く、トレセン学園に所属するレースチームの部室が密集している地帯である。

 どれも似たような佇まいのプレハブ小屋が並ぶ中、そのうちの一棟の軒先で事は起こっていた。

 小屋の入口には中年がらみの大男が腕組みをして立っている。分厚い脂肪とそれ以上に隆々とした筋肉で白い風船のように膨れ上がったカッターシャツの胸元には、学園から支給される指導員証明証であるところのトレーナーバッジが光っていた。ここでは便宜上太マッチョトレーナー氏と呼ぶ。

 男が見下ろす先には、地べたにうつ伏せになって倒れ伏す少女がいた。暗い栗色のボサボサショートヘア、学校指定のジャージウェアに身を包んだ小柄な身体。その周囲にはリュックサック、鉛筆、ノート、ドラムスティック、替えのジャージ(何故かきれいに折りたたまれた状態で地面に置かれている)、二百リットルサイズのドラム缶などが散乱していた。

 

 折しも放課直後。我先にと校舎から飛び出してきたウマ娘たちがこの状況を目の当たりにし、現場には小さな人だかりが形成された。迷惑そうに顔をしかめる者、半笑いで静観している者、携帯端末を取り出して写真を撮ろうとするも、傍らの級友にたしなめられて思いとどまる者など反応は多種多様である。

 

 そんな群衆も、太マッチョトレーナー氏があたりを睥睨しながら、その巨体に似つかわしくない甲高く若々しい声で「見ても面白いもんじゃないぞ。行った行った」とジェスチャーを交えて発するとゆっくりと解散していった。

 最後の一人が踵を返して去ったあと、太マッチョ氏はズボンのポケットから一枚のメモ用紙を取り出してボソボソと読み上げ始める。

 

「あー……部費の未納二ヶ月分……ラダーや牽引タイヤ、ハードルを始めとする備品の損壊が十一件。早朝に大声を上げながらドラム缶を叩いてグラウンドを行脚した日数は数知れず。不用意な発言でチームメイト同士の喧嘩を誘発した回数、四回……その他もろもろの所業は看過し得ないため、えー……本日付けでこのチームを除籍とする、と」

 

 大きく深いため息をついた。

 

「……これで満足かい」

 

 心底面倒くさそうなその声に反応し、死んだゴキブリよろしく手足を折り曲げて横たわっていた少女がピンっと跳ね起きた。元々色黒気味の満面の笑みに白い砂がまんべんなく張り付いて、砂糖がけの揚げドーナツのようだなぁと太マッチョトレ氏はチラリと思った。

 

「はい! ありがとうございました先生」

「トレーナーな。僕ぁ教官の方の免許は持ってないよ」

「いやぁ、一度やってみたかったんですよね。『追放』されるやつ!」

 

 少女は地面に散らばった自らの所有物を拾い集めてリュックに詰めながら嬉しそうに言った。太マッチョ氏は先程にも増して巨大なため息をついた。ほとんど「はぁ〜」と発声している。

 

「貴重な体験になったようで何よりだなぁ。次のチームではまっとうに振る舞ってくれよ」

「ご安心を! この『ハンマーソング』、受けたご恩と恨みつらみは決して忘れませんから」

「なんかこっちに若干非があるっぽい言い方何?」

 

 あっははは。

 と、自らをハンマーソングと称した少女は大きな口を開いて笑った。ウマ娘が笑うと花も恥らうというのが通説であるが、どうやらこの少女に関してはそうもいかないようだった。常に誰かを睨んでいるかのようにギョロついた目つきと、つくりの大きすぎる鼻や口、ちょっと異様なほどに痩せてバランスの悪い手足などは見る者に一種の恐怖すら与える原因となっているのだ。

 おまけに声が低くがさついて、中等部の女子というよりは柔道部の破れ鐘である。

 

「洒落です。ともかく、ご教授いただいたことは決して忘れません。必ずや糧にしてみせましょう」

「うん、二週間しかうちのチームにいなかったけどね。まだ基本のキも終えてないぞ」

「短い間ですがお世話になりました!」

 

 彼女が深々と頭を下げると、その足元から関節の鳴るような音がパキパキと聞こえた。太マッチョ氏は顔をしかめて、今度はなだめすかすような声を使う。

 

「うーん……なぁ、除籍はもう決まったことだし仕方ないが、必要ならお前さんの助けにはなれるからな? 一度離れたチームへの復帰も認められている。喧嘩のタネになったとはいえ、当人たちはもう怒っていない。だから……ほとぼりが冷めた頃にゃ戻ってきていいんだぞ」

「備品は」

「んなもん日常茶飯事だよ。良いことじゃないがね。そのために学園があるようなものだし」

「部費……」

「払えんなら学園に就学助成金申請して肩代わりしてもらやぁいい。ある程度学業成績がついてくれば返済の必要もない。子供は大人の考えた仕組みを食い物にして育つもんだよ」

 

 短い沈黙が二人の間に流れた。

 ややあって、ハンマーソングは両の頬を砂まみれの手で少し擦った。もう一度深々と頭を下げる。

 

「お世話になりました」

「おう。相談事ならいつでも聞くからな」

 

 少女は顔を伏せたまま、かすかに頷いたように見えた。リュックサックを拾って背負い、左手にドラムスティックを、右手にドラム缶を引きずって校舎の方角へと歩き出す。

 

「あ、いや、それは置いてけよ。備品だぞ」

 

 太ッチョ氏の声は固い地面とドラム缶が擦れるズザザザゴガガガガガという耳障りな音に掻き消され、当人以外の耳には届かなかった。一人残された彼は腕組みを解いてだらんと腕を下げ、鼻から特大のため息をついた。三回目である。

 

「……終わったすか」

 

 背後からの控えめな声。部室の戸口からウマ娘が一人顔を出していた。あっちこっちに跳ねた短い茶色の癖っ毛を、逆さに被った無地の黄色い野球帽の中に押し込んだ、まだあどけなさの残る少年のような顔つきの少女である。

 太チョ氏は「おう」とだけ応えてハンマーソングの去っていく方角を見つめている。校舎に近づくにつれて地面が砂地からコンクリートに変わったらしく、ドラム缶の喧騒は遠ざかりこそすれ更にけたたましいものとなっていた。

 野球帽のウマ娘は太チョ氏と並ぶようにして戸口に寄りかかり、小さくなっていく追放者の後ろ姿を一瞥して一言、「面白い人っしたね」とこぼした。

 

「面白さだけはあったな」

「ウチ、結構好きでしたよ。くっちゃべってると全身の力が抜けていい感じになるんで」

「ほっとくのも良くないと思うんだよなぁ。性格もだが……」

「身体すか。特に膝」

「あー、気づいてたか」

 

 渋面を作る太チ氏をよそにプレハブ小屋から二歩ほど進み出ると、首を二ひねり、腰を四ひねり、手首、膝、足首をくるくると解し、ジャンプスクワットを五回。野球帽の少女はそれらの動作を滑らかに行い、最後に帽子の穴から出た耳をピン、ピン、と二回動かした。

 

「ちょっとスポーツ勉強してれば誰でもわかるっしょ。アレはダメだって」

「……そう、だな」

 

 二人が思い浮かべているのは同じものだった。肋が浮き、膝や肘が不自然に突き出、腿や臀部の肉も薄く、おまけに身長は同年代のウマ娘と比べても十センチは低いその姿。ハンマーソングの肢体。ちょっと負荷がかかればすぐにでも破けてワタが出そうな、薄汚れた古い人形を思わせるそれ。

 腿上げからバーピージャンプまでこなしてついには連続宙返りまで始めた野球帽のウマ娘を驚嘆の眼差しで見つめながら、太チ氏は冗談半分といった調子で彼女に話しかけた。

 

「お前もここが気に入らんかったらいつでも切っていいんだぞ。一番実績出してるチームに紹介状書いてやる。留学でもいいぞ」

「結構す。ウチなりにここ気に入ってるんで。ド根性系の練習ないし、部室にいつでもリズンスターチップス(ポテチ)とコーク置いてあるし。トレーナーさんもなんだかんだ優秀だし。……怪我の処置や予防だってしっかりしてる」

 

 息を乱すこともなく宙返りを続けながら彼女は言った。太氏はごま塩頭をバリバリと掻き始める。

 一分以上に渡る連続宙返りを終え、若干ズレた帽子を被り直しながら少女は空を見上げた。五月晴れの四文字が相応しい空模様、ダービーウィークはもうすぐそこである。

 

「……残念すね」

「うん、残念だ」

 

 少女はポケットからガムを取り出して二つ包装を剥き、口に放り込んだ。トレーナーは首から下げたストップウォッチを手に取る。二人は無言のままプレハブ小屋をあとにして歩き出し、なすべきことを為しに出掛けていった。

 

 






注:リズンスターチップス
アメリカはルイジアナ州発のバターソルト味ポテトチップス。やたら厚切りでギザギザしちょるのが特徴。輸入品だが日本国内での人気は非常に高く、ポテチ界で5割近いシェアを獲得していた年もある。現在は国産の「ダイタクチップスマジしお味」にやや押され気味で、陳列されていないコンビニもちらほら現れ始めた。

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