ウイポをやりましょう。
「で、アンタこれからどうする気だい」
気を取り直して、といった感じの湯呑みがヒシアマゾンの手によってテーブルの上にコトンと置かれた。ところはまたも、美浦寮のキッチンである。
対するフジキセキはやや目を細めて湯気の香り立つ内容物を見つめながら「正直なところ、何も固まっていないんだ」と寂しげに微笑んだ。
「自惚れに聞こえるかもしれないけれど……皐月とダービーは頂戴して、その後の身の振り方は夏を使ってゆっくり考えるつもりでいたんだ。その二つを勝つことしか頭になかったものだから……怪我のことは受け入れたつもりでも、この空白ばかりはね」
「昨日も医者にかかってきたんだろう? どうだった」
「何も変わらないさ。日常生活には支障なし。運動強度は軽いウォーキングまで。完治までは最短でも一年、再発しないという保証もないってさ」
ヒシアマゾンは憮然として目の前の後輩を見やった。もちろん憤懣の行く手は「クラシック二冠までは自分のものだと思っていた」などという大言壮語としか思えない発言ではなく、その大風呂敷を夢へ、そして展望へと変える力を確かに有していたフジキセキの脚から未来を奪い去った何者かに向けられていた。
皐月賞を目前にして判明したフジキセキの故障は──長母趾屈筋腱の部分的な断裂と炎症だった。
この箇所の怪我はヒトとウマ娘で大きく事情が異なるとされていた。ヒトのそれは適切な治療と休養により完治させることが可能だが、ウマ娘の場合、一度破損したこの腱が元の強度を取り戻すことはほぼ不可能に近い。形ばかり元の形状に治癒したとしても、「彼女たちらしさ」を発揮しようとすれば即座に再発のおそれがあると言われるダモクレスの剣である。
しかし、受難に遭ったとしても、最高速度時速八十キロメートルで走行しようだとか、大生垣を飛び越えつつ四千メートルも走ろうだとか、数百キログラムではきかない重さのソリを引いてゴールを目指そうだとか、そういった道を進み続けること自体は個人の自由である。この剣は生命を奪わない代わりに、恐怖と焦燥をもって完膚なきまでに走者たちを打ちのめしてきた。
「一年……ねぇ」
「それだけの期間走ることから遠ざかってなお、第一線級に返り咲けるとは思ってない。それが簡単に可能だと思っているとしたら、今度こそ自惚れもいいところだからね。ああ、もちろん諦めたわけじゃないよ? けど──」
キセキは稀であるからこそ奇跡なんだよね、とその字を名に戴く彼女は言った。
「ここで『必ず奇跡を起こしてみせる!』なんて言わないところがアンタらしさってことでいいかい?」
「言うのは簡単さ。事実、怪我をした直後はそう考えてた。でも……ここ数週間、病院と自分の部屋を往復している間に私も色々考えたんだよ」
湯呑みを控えめに呷ったフジキセキはちょっと眉を顰めた。掃除機をかけているあいだじゅう放置されていた急須から注がれたそれはあまりにも渋い。
「まずは脚を治してから。本当に壊れてしまったら何も得られない。思うに今、私……フジキセキの真価が問われているんだろう。この学園生活で何を残せるか、何に生まれ変われるか、というね。姐さんこれ何?」
「こぶ茶」
「うーんいぶし銀」
女傑の方は早々に自分の湯呑みを空にして平気な顔をしている。
全く唐突に、フジキセキは自分の肌を円く包んでいる安寧に気づいた。それはレースのカーテン越しにキッチンを照らすクリーム色じみた陽光の印象であるようにも思われたし、目の前にいるウマ娘の醸し出す毅然・泰然とした鷹揚さに由来するものにも、例のこぶ茶の香気のようにも感じられた。
フジキセキは改めて美浦寮のキッチンを見渡した。彼女の所属している栗東寮と比べても特に設備やレイアウトに違いがあるわけではないが、部屋の纏う雰囲気は明らかに違っている。
(今日はこの辺を勉強して帰るとするかな)
もしかすると自分の行き着く先は既に見えているのかもしれないという予感と共に、年若き引退女優は観察態勢に入る。
とはいえ黙ってジロジロと部屋を眺め回すのもコミュニケーションとして破綻している。フジキセキは表面上穏やかかつ軽やかに話題を切り替えた。
「さあ、辛気臭い話はほどほどにしよう。本当のところ、今日はそれを渡しにきたのもあるけど」テーブルの上でくしゃくしゃになっている新作ドリンクの無料券を指す。
「休養中の身同士ちょっと雑談でも、と思って来たんだ。この間の合同授業で出た歴史の課題の話もしたくってね──」
どこからかドサドサと教科書やノートに筆記用具が登場してテーブルの上に並べられる。ヒシアマゾンは穏やかな笑みを浮かべながらため息をついた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
当年きって三十六歳と相成った畠山繁之という男にとって、「捨てる神あれば拾う神あり」などというありふれた慰撫的言い回しは、実に忌むべき言葉だった。
畠山が勤務する日本ウマ娘トレーニングセンター──毎朝、その学舎前に佇立する三女神像の前を通りかかるたびに、彼は「けっ」と小さく吐き捨てることを日課としてやまない。
「ここ数百年のあいだ神様は何も言いやしないが、黙っている間に人間どもがその口を借りて良いようにしてきた結果がこれだ。誰かが拾ってくれる、だ? 偉そうにしやがって。そうやって何万人の学生をこの学園から放り出してきたんだ? たかが
週末の酒の席、酔いが回ると彼は決まってそのようなことを喚き立てた。ただでさえ彼の舌は四六時中皮肉と刺々しい冗句の二重奏を垂れ流す厄介ものであった上にこれだから、職場では煙たがられ交友関係も狭かった。
主張に関しては的を射ている点も多い。この学園で結果を出せない者は去るしかない。シニア級一年目の秋までに一勝を挙げられているかどうかが最も有名な「線」だったが、それ以前にもそれ以後にも星の数ほどボーダーラインは存在した。引き際を自分で選べる者などごくわずかなのに、トレセン学園は学校を去っていく者たちのケアを入念に行っているとは言い難い。畠山が指摘しているのはその点だった。
「社会性を育てること、そして退学後の就職先、就学先の斡旋なんかをもっと手厚くやるべきなんだよ。夢追っかけて一途にここまで来た娘のやること、最後まで大人が責任持って手ぇ貸してやるのが筋ってもんだ」
面倒くさい、面倒くさい男であった。
ただ、こういった類の人間がある種の求心力を有しているのも世の常ではある。学園において彼を知る大人たちのうち一割五分ほどは「あいつのことを理解してやれるのは俺/私だけだ」とでも言いたげな態度で畠山の大回転を見守っていた。ともすれば同僚と衝突しがちな彼が、今まで大きな問題を起こさず十年以上この学園で勤め上げてこられたのは、ひとえに彼ら彼女らのフォローあってのことであろう。
そして、残りの八割五分は口を揃えてこう言う。
「彼のような人間にトレーナーバッジはふさわしくない」と。
畠山繁之はトレーナーであった。それも、指導者として彼が担当したウマ娘たちの戦績を見れば、誰もが驚嘆を禁じえないほどの領域に位置している。
それまで勝ちあぐねていた生徒を連勝街道に導くこと数知れず。重賞どころかオープンレースひとつ勝っていないクラシック級の生徒にいきなり有馬記念を勝たせたことすらある。ひとたび競争選手と向き合った彼は、どこまでも貪欲に、そして狡猾に──一人の少女を競走に勝たせる手段を創出し続けるマシンと化した。
畠山繁之はトレーナーであった。
彼は、トレセン学園の仕組みそのものを傲慢であると放言して憚らないまま、十年以上にわたりこの地を離れていない。「たかがかけっこ」で若人の人生を左右する世界に恨み言を吐き続けながら、一人でも多くの勝者をレース場へ送り出すため日夜励んでいる。
畠山は、彼自身を構成する多くの点においてはっきりと矛盾していた。あろうことか畠山はその矛盾をほとんど知覚しないまま、かくも振る舞っているのである。
その矛盾は刻一刻と臨界点に近づいていた。
◆◇◆◇◆
少し低くなった太陽の下、学園裏手の屋内練習場に続く逍遥道をずんずん歩く制服姿のウマ娘がいる。
彼女は──俗な言い方をすれば──美人美少女まみれのトレセン学園においても、衆目を集めるに足るビジュアルを備えていた。緩やかなウェーブのかかった明るい栗色の長髪も、猫のような黄金色の眼も、白磁にピンクの血の気が差した頬も、百四十センチ余りの小柄ながら華奢で均整のとれたしなやかな肢体も、もはや嘘のように少女的である。
そんなウマ娘が耳を最大限に絞って腕をブンブン振り、目を三角にして歩いているものだから否が応でも目立つ。全長二百メートルほどの逍遥道には他にも数十人からの人出があったが、誰も彼もがこの少女の行く手を事前に空けて歩いていた。
ずんずんずんどこ歩いていき、練習場の入口近くまで来て後ろを振り返る。彼女の刺々しい視線の先には、逍遥道を小走りにこちらへやってくる痩身長躯の男の姿があった。畠山繁之だった。
トレーナー連には珍しく、スーツの一揃えを常としている出で立ち。黒髪をオールバックに撫でつけた頭髪が整髪料を介して日にテカっている。色白かつ高い頬骨やすっと通った鼻筋など、顔のパーツ自体はどうやら美男子と言えないこともなさそうな雰囲気を醸し出しているものの、落ち窪んだ切れ長の眼光の強さやあっちこっちに深く刻まれた皺などが美点を半分は打ち消した結果、赤子のことごとくに泣いて拒絶されそうな怖いおじちゃんとして彼はそこに存在した。
畠山は自らを睥睨するウマ娘の前にたどり着くと、少々息を整えてから口を開いた。
「マヤさん、今日は何から始めようか」
革靴にスーツで走らされた後の壮年男性としてはなかなかの美声であったが、その声すらも気に入らないとでも言いたげに、マヤさんと呼ばれた少女はますますヘソを曲げた様子だった。返答の代わりに彼女は屋内練習場へ向き直り、まだあどけなさの抜けない声を精一杯に尖らせて吐き捨てた。
「ジュース!」
そのまま玄関横に設えられたベンチと自販機に向かってぷんすか歩いていく。畠山はあたふたとその後を追った。
「マヤさん」は色とりどりの飲料が並ぶディスプレイの前に黙って立つ。畠山がくたびれた財布を取り出して札を投入すると、間髪入れずに小さな指が伸びてきて「Dr.Fager ¥130」のボタンを押した。ガコンガコンと缶が受け取り口に落ち、コイン投入口の横に表示された小さなモニタで4桁の数字がでたらめにスクロールを始める。
9・9・9・9。電子音のファンファーレが鳴る。少女は眉一つ動かさず、すぐさまもう一回Dr.Fagerのボタンを押した。
「取って」
「……おう」
畠山が取り出した缶を「マヤさん」はひったくるようにして一つ受け取り、自販機横のベンチの端に勢いよく腰掛けた。釣り銭を回収した畠山がその横に座ろうとすると、
「もっと向こう行ってよ」
不機嫌を隠そうともしない。仕方なく彼は差し渡し二メートルほどのベンチの一番端に座った。一方の端に身長百八十センチメートル余りの不審男性を、もう一方の端にミニマムの美少女を載せた奇妙なオブジェが完成する。
ほどなくしてほぼ同時に缶飲料のタブを開ける小気味好い音がして、トレーナーとその担当生徒は無言のまま、わずかな時間と三百五十ミリリットルの飲料を消費しはじめた。
中等部二年、マヤノトップガン。
この名前が世界にとって特別なものになるのはもう少し先の話だが、この時点でも彼女は十二分に非凡である。ただしその非凡さの大半の要素は、負の側面において定義されていた。
現状の彼女は学園の授業の半分以上を欠席している半不登校児で、指導者たちとの軋轢も耐えない。問題児、不良生徒のレッテルがよく似合うともっぱらの評判であった。
「つまんないんだもん」
学業にもレースカリキュラムにも関心を示さない彼女に「何故」を問うても、この九文字以上の回答が返ってくることはなかった。周りの大人たちからすると呆れるほかはない。授業を半分サボタージュし、トレーニングにも姿を見せず、トレーナー間でたらい回しにされた結果ジュニア級はとうとう未出走に終わった生徒が──この学園の何を知っているというのだろうか。
匙を投げられるとまで行かずとも敬遠され、とうとう座学の単位数不足のために退学の話すら持ち上がった頃になって、この問題児を掬い上げたのがこれまた問題児ならぬ不良品トレーナーの畠山というわけだった。
彼のマヤノトップガンに対する入れ込みようは一通りではなかった。彼は去年の暮れから今まで半年間、ほとんどつきっきりでこの不貞腐れた悪童に根気よく向き合い続け、とうとう退学の危機から遠ざけることに成功したのである。
授業を欠席することはほとんどなくなった。自主的な姿勢こそ見せないが、放課後には必ず畠山の元に現れてトレーニング場に向かうようにもなった。URAの公式戦にも出走している。ダートの千二百メートル競走を六戦して一勝、半年前までの惨状を思えば十分すぎるほど順調な船出だった。
あくまで数字だけを見れば、の話である。
「……」
畠山は横目でチラリと担当生徒の様子を窺った。実年齢よりひと周り幼く見える──そして精神面ではそれよりもさらに未熟な──怒れるプレティーンが、これから有酸素運動を行おうという気のまるでない炭酸飲料というチョイスを呷っている。
確かに、今のマヤノトップガンはもはや落ちこぼれではない。
現在の二人の間にある距離感は、その「問題山脈」の縮図でもあった。
(どうしてこうまで嫌われたもんかね)
畠山はその卓越した観察力、分析力で今日の地位を得た男である。その彼の目をもってしても、マヤノトップガンが彼に師事しながらも「毛嫌い」の態度を貫いている理由は判然としなかった。
この二人がコンビを組むに至った経緯は今のところ空白のままにしておくが、一つ言えることは──畠山の自己分析能力は異常なまでに低いということである。
「マヤさんマヤさん」
「…………」
プルタブで空いた穴の奥を見つめているマヤノトップガンに彼は声をかけた。
「そろそろ着替えて始めないと。ほら、器材の順番とかもあるから」
「……ん」
彼女は缶を静かに握り潰して立ち上がると、即座にずんずん歩き出した。ただし畠山の予期していた方向とはほとんど真逆に。
「んあ、おいどこ行くんだよぉ」
畠山はどっこいしょと言う暇もなく立ち上がって彼女の後を追った。屋内練習場のエントランスの前を素通りして建物の側面へ出ながら、小さな気まぐれウマ娘は振り返りもせずに言った。
「昨日の宿題」
「……『ナリタブライアンの走行フォームとレーススタイルに見られる往年の名選手たちとの』……」
「そーいてんと共通点をナントカカントカー、でしょ。マヤなりにちゃんと考えてきたから、歩きながら話すの。行くよトレーナーちゃん」
「はいはい」
畠山は小さくため息をついたが、その表情は比較的柔和なものだった。
(そうだ、たとえ嫌われててもいい。
自分たちは一緒にけっこう遠いところまで行けるのではないか、と考えながら──これは、年端も行かぬ美少女を数歩後ろから付け回す不審男性の近影である。
注:Dr.Fager
ケミカル杏仁豆腐みたいな味わいの炭酸飲料。エナジードリンク版もあるよ
テイストとネーミングが微妙に似た飲料が存在するが、実はその飲料を販売していた企業と米国の有名競走選手が提携して開発されたのがこの商品。マヤノトップガンは「コーラやサイダーはなんかコドモっぽいから」という理由でこれを常飲しており引き際を見失っている。
インターネットに強い方はトレーナーちゃんのことを汚いシャニPだと思って読んでください。それとは異なる人物がイメージされた場合は耐えてください。