ウイポ!(言い訳
「ああ、そうだフジ、テレビつけてくれるかい?」
「
「あ、いやみどりの……バカにしてんのか!」
ヒシアマゾンが立て続けに三個投げつけたお茶請けの立方体ゼリー(祖母菓子)をすべて指の間で挟み受けながら、フジキセキはアハアハと笑った。キッチンの片隅、天井から提げられたラックの上のテレビが起動する。「みどり」はウマ娘のレースに関係する情報ばかり取り扱っている酔狂な有料チャンネルである。
【──日のGI・安田記念で五着のホクトベガ選手ですが、予定通り、来月十三日に川崎レース場で開催される伝統の一戦、キヨフジ記念エンプレス杯に出走するとのことで──】
「おっ、ドンピシャだね」
ヒシアマゾンは相好を崩して椅子を回し、テレビに体ごと向き直った。これは勉強会どころではないなと悟ったフジキセキも一旦シャープペンシルを放って画面を注視する。
「姐さんは本当にホクトベガさん好きだよね」
「美浦にあの人が好きじゃないウマ娘なんかいないね!」
「それはそうか」
画面には【女王の新たなる挑戦 ホクトベガ地方交流重賞へ】のテロップが踊るニュースショー風味のスタジオが映し出されていた。スタジオ中央のスクリーンにはいささかヒロイックに過ぎるエフェクトを合成されたウマ娘の姿。スクリーンの両側に控えているキャスターが視聴者に向かって語り続けている。
【一昨年のエリザベス女王杯の勝利以来、中央の芝中距離路線で一線級のパフォーマンスを見せてきたホクトベガ選手ですが、次の舞台はなんと地方レース、GIエンプレス杯──ダート二千メートルということになりました。『地方交流元年』と位置づけられる今年、異例の転進を図るホクトベガ陣営──これまでの歩みを振り返りつつ、今日はその思惑に迫ります】
【──『内でいっぱいになったケイウーマン、大外からはベストダンシング、ベガは中団! 前が開かないか──真ん中を割ってノースフライト! 真ん中ノースフライト! 最内ホクトベガ! ホクトベガ先頭に変わる! ここでやってきたベガ、しかし──ベガはベガでもホクトベガ! 一番のホクトベガです──』】
【一昨年のエリザベス女王杯を制し、名門・美浦寮のエースの一角として君臨するホクトベガ選手。マイルから長距離まで幅広い適性を持つ彼女が次に選んだ舞台は、地方GI『エンプレス杯』──】
「カッコいいねぇ」
普段の覇気が一切感じられないニコニコ顔に頬杖をついて画面の中のウマ娘を見つめているヒシアマゾンを横目でチラリと見やりながら、フジキセキもまた件の「女王」に思いを馳せていた。ただし、その思考は憧憬や尊敬ではなく再分析に近い。
現美浦寮長であり、学園有数の競走成績を誇るホクトベガ。学園の生徒たちにとってその名が持つ意味は、外から推し量られるより一回りも二回りも大きい。
「メジロラモーヌ以来のトリプルティアラにリーチを掛けていたベガから、最後の一冠を奪い取った」「ベガは線が細く笑顔の似合う少女で、ホクトベガは身長百八十センチもある褐色肌の大女」と書けば、ベガには悲劇のヒロイン、ホクトベガにはガサツな
というよりも、
(よく似てるんだよね、この二人。ちょっと荒っぽいところもあるけど、気配り上手でさっぱりしてて……)
寮の違うフジキセキの目から見ても、それは明らかだった。もちろん両者に共通する地黒の肌や卓越した成績がもたらすバイアスも存在する。しかし、もっと根源的な部分で二人はよく似ていた。
今年の春、美浦副寮長の大役に立候補したヒシアマゾンの背中を押したのは、他ならぬホクトベガ本人だったのだ。
「やりたいって言うからには生半可な気持ちで居るはずがないだろ? GI戦線張って、勉強もやって、その上で寮のことも見てやろうって自分から言い出すようなヤツの気概は大事にしてやっとくれ」
とまあこんな調子で他の生徒より五割ほど丈の長いスカートを翻しながら、生徒会を始めとした学園の主だったメンツに声を掛けて回っていたそうである。その甲斐あって、他の候補者が元より消極的だったことも手伝ってほとんど満票で誕生したのが美浦副寮長・ヒシアマゾンという存在なのだった。
たとえ両者の立場と年齢が逆だったとしても、まるで経過と結果は変わらなかったのではないか……というのがフジキセキの思うところである。高等部のヒシアマゾンが中等部のホクトベガの背を押しただろう。
(ただまぁ、見た目はこっちのほうが親しみやすいかな……)
ふにゃふにゃした表情でVTRを見ているヒシアマゾンの横顔と、そのモニターに大映しになっている精悍なホクトベガのご尊顔を見比べながらフジキセキはちょっと苦い笑顔を浮かべた。ヒシアマに身長を十八センチメートルばかり足して身体にさらなる厚みを加え、鼻を大きめの鉤鼻に挿げ替えて髪を肩の辺りで切り、最後に双眸から猛禽のような金色の眼光を放てばおおかた完成する容貌はシンプルにこわい。
初めて会ったときは二歩くらい引いちゃったなぁと思い返すフジキセキをよそにVTRは終了し、今度は見慣れたトレセン学園のグラウンドをバックにした一人の男の顔がアップになる。小柄な細身のパーマスタイル、常にニヤけた口元にほとんど糸のような細い目。ホクトベガの担当トレーナーだった。
『色々言われてるのはわかってるんですが、ことはそう単純ではないんでね。もちろん巷の噂通り気分転換とか実績欲しさという面もありますが……ああ、今ちょうど坂から戻ってきましたね」
カメラがスライドし、ダートコースを横断してこちらに近づいてくるウマ娘の鍛え抜かれた偉容を映し出す。少々息を切らせながら『お待たせしました』と勢いよく、しかし丁寧に一礼する様子に画面の前のヒシアマゾンはますますふにゃけたし、フジキセキは眉を上げた。
「ほんと、人は見かけによらずっていうか──あ、これ収録済みのやつだよね?」
「おー。よっかまぇにくるーがうちのりょーまであいさつにきたよぉ」
「姐さんしっかりして……」
だんだんと液状化しつつある副寮長をどうにかシャキッとさせようと腕を伸ばしかけたフジキセキだったが、画面の中のホクトベガがカメラに向けてエンプレス杯出走の意図について語りだしたので諦めた。どうせ格好のいいことを言うに決まっている。
『路線変更の話は去年の暮れあたりから
深みのあるアルトボイスがキッチンを席巻し、ついにヒシアマゾンの頬は落っこちてテーブルに密着した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「地方におけるウマ娘のレースシーンから中央のそれへの挑戦は、常にエンターテイメント性のあるコンテンツとして大衆に受け止められてきた。
南関東は大井で六戦六勝としてから中央に移籍し、皐月賞、NHK杯、宝塚記念などを制したハイセイコーの走りと歌唱は日本中を熱狂の渦に巻き込み、単なるスポーツという枠を越えた総合エンターテイメントとしての『ウマ娘レース』ブームの火付け役となったとされる。同じく大井出身のカツアール(宝塚記念)や、東海のヒカリデユール(サンケイ大阪杯、有馬記念)も同じように中央トレセン学園への途中転入組であった。
特筆すべきはハイセイコーの快進撃からおよそ十五年後、第二次レースブームの台風の目となったメンバーに二人の地方出身者がいたことであろう。有馬記念と天皇賞を勝った南関の野武士イナリワン──そして、【真の怪物】オグリキャップである。
地方から来た猛者が中央のエリートたちを打ち負かし、ついにはジャパンカップで世界を相手取るというストーリーは痛快そのものであり、また選手たちもその英雄物語のキャラクターに相応しい実力と個性を兼ね備えていた。行き過ぎた偶像化が招いたいくつかの弊害は、彼女たちがターフの上を去るに至るまで続く大歓声の前では些細な問題だった。
人々は第二のハイセイコーを、オグリキャップを渇望した。走者たるウマ娘たちもまた、新たな戦場を求めていた。
地方トレセンの生徒たちの中でも抜きん出た実力を持つ者たちは中央への下剋上を望んだ。中央の生徒もまた、まだ見ぬ強者たちとの交流を望んでいた。そこへ、中央では今一つ整備されきらなかったダート中長距離路線に対する需要が噛み合えば、オグリキャップ・フィーバーから五年を待たずして『解放』の日が訪れるのも至極当然といったところであろう。
その年、南関東へのグレード制導入とともに複数の地方大規模レースが『交流重賞』として装いを新たにし、中央勢を迎え撃つこととなった。同様に、中央のティアラ三冠、クラシック三冠に属するトライアル競走を含んだクラシック級の全競争が地方所属のウマ娘たちに門扉を開いた。これ以前に地方と中央を繋いでいた窓口は帝王賞とオールカマーのみ(更に以前には一年に一度開催されていた特設交流競走も含まれるが)であったところを、大幅に拡充した形になる。
この新たな回路を通った最初の矢は即ち、地方から中央へ向けて放たれた雷霆であったと言えるだろう。奇しくもオグリキャップのホームであった笠松から十戦十勝無敗の実績を引っ提げて乗り込んできたライデンリーダーが、三月のGII・桜花賞トライアル(芝千四〇〇メートル、現・報知杯クラシックウマ娘特別)にて三バ身半の完勝を収めたのである。
桜花賞を目前に、並み居る中央のクラシック有力候補たちをほとんど直線だけの強引なレース運びでまとめて撫で切ったこの勝利が中央トレセンに──そして世間に与えた衝撃は計り知れないものであったとされる。この日を境に、少なからず無意識に『挑戦を受けて立つ側』を気取っていた中央勢は、目の色を変えて打倒ライデンリーダーへ向けて気炎を吐くこととなった。
そうして迎えた桜花賞本番。ライデンリーダーは、中央の意地が結晶したかのような熾烈なマークに屈してついに進路を得られず、四着に惜敗した。
この敗北が世間でどう解釈されたかは読者の方々に想像して頂くとして──このライデンリーダーが残した鮮烈な印象に呼応するかのように、一人の競走者が奮起したのではないかとボク筆者には思える。
遡ること二年前のエリザベス女王杯覇者、ホクトベガ。二冠女王ベガのトリプルティアラ戴冠を阻止して以来はあと一歩で大舞台の頂点に手が届かない日々を送っていた彼女が中央の戦場を離れ、川崎レース場に足を踏み入れたのは同年の五月末。南関東GI・エンプレス杯(ダート二〇〇〇メートル)が『震源地』となった。
◆◇◆◇◆◇◆◇←オグリの頭に付いてるやつ
「──んで、筋肉の質の話に戻るわけだよ。引っ張って、戻す。全部この繰り返しだっていうのは説明したよな」
「ん」
「引っ張ってどこまでも伸びる柔軟性と、縮む時の力強さを両立させるのは難しい。マヤさんは自分がどっち寄りか分かる?」
「力の方」
「エクセレント。やっぱこれは蹴りの強さ、いわゆるギアの瞬発力に関係してくるよね。逆に伸ばす方に優れてるのは……最近の子で有名な例を挙げると、メジロマックイーンがすげぇ手応えのないゴムみたいな身体してたよ。これは持久力とバ場の軽重適応を支える要素で、ここに天性のスピード能力が備わっていたマックイーンはどんな条件でもレースを作る側に回れた」
「触ったことあるの?」
「整体の手伝いで、ちょっとな」
「キモー」
「あー?」
屋内練習場の横手まで来ると人影も絶える。三十路半ばのおっさんが十四の少女に垂れ流している蘊蓄を除けば、砂利を踏む音くらいしか辺りには雑音がない。
玄関口からここまで、マヤノトップガンは傍らを歩く自らのトレーナー──畠山繁之を終始半目で眺めていた。
今のところ彼女にとって欠片も尊敬しうる要素のないこの男は、同僚らとの会話は必要最低限に、しかも喧嘩腰でこなす割には、レースや身体作りのこととなると過剰に饒舌になった。思春期真っ只中のマヤノにとって、異性が理屈っぽい内容の早口言葉を詠唱しているというのはもうそれだけでアウトである。専属契約を結んだ経緯(ここではまたも後回しにされるが)もあって、彼女から畠山に降っている評価は
「キモー」
「ぁんで二回言うんだよ」
それに尽きる。正確には顔でプラス六十点、スタイルでプラス八十点、キモい語りでマイナス八百点、スカウトに至るまでの経緯でマイナス一億点といったところか。
しかしながら、キモいキモいと思ったり言ってみたり、一度なぞは出奔すらしつつも、彼女は最終的に畠山に師事することを選んだ。
後世そう評価されるように、レース場においてマヤノトップガンの右脚は「直感」で、左脚は「感情」で駆動していた。そして──競走という世界に身を置くにあたって、彼女の脚を司る二つの感覚は両方とも、畠山への師事を選び取ったのである。
むろん良識ある周囲の大人たちや、ときにはマヤノ自身の理性すら「このおっさんはやめとけ」と彼女を制止した。それでもクラシック級の五月下旬現在、コンビ関係は継続している。
「脱線したな。ブライアンのフォームの話に戻るか。マヤさんはアレ、オグリに似てるって言ったよね。二人ともネイティヴダンサーとダブるところがあって──」
「……スパートで身体がものすごく低くなる」
「だね。ストライドの広さはさすがに
少女は鼻を鳴らした。為にならないことはない話だが、着地点が見え透いている以上真剣に聞いてやる気はなかった。
畠山は要するに、マヤノにナリタブライアンを諦めさせようとしているのだ。
「柔軟性と推進力の両立が──」
(マヤには片っぽしかないって言いたいんでしょ)少女は唇の端を軽く噛んだ。
【怪物】ナリタブライアン。マヤノトップガンにとってのヒーローであり、そして──恐ろしいほどに非現実的かつ無鉄砲なことに──ライバル、であった。
かたや日の本に敵無しと謳われた無双の四冠王。対するは未勝利戦の沼を抜けたばかりのダート走者。選手としての格も違えば学年も違うため、当然といえば当然だが両者に面識はない。にも関わらず、
なんという身の程知らず──
栗東寮にあるマヤノの部屋には三枚の写真が飾られている。今をときめくハリウッド・アクションスターのブロマイド。二年前の有馬記念で有終の美を飾ってトゥインクルシリーズを退いたトウカイテイオーの等身大ポスター。そして最後に、先月発売されたスポーツ雑誌から切り抜いてきたナリタブライアンのキメ顔。
ブロマイドは未読のケータイ小説が並ぶ小さな本棚の上の写真立てに。クソデカテイオーポスターは四、五回しか使っていないエアロバイクの後ろの壁に。並の男どもよりもよほど男性的かつ美しいブライアンのご尊顔は、買ってみただけのメイク用品が乱雑に並ぶ化粧台の横に、それぞれ位置している。
そう、彼女はミーハーだった。無論、
「──マヤさん。マヤさん聞いてんの」
「聞いてない」
「あー?」
ところどころささくれ立ちながらも二人は歩いていた。所は既に屋内練習場建屋の裏手。薄暗く、どことなくじめっとしていて足元のコンクリートも緑がかっている。
唐突に、マヤノトップガンは足を止める。すぐ背後を歩いていた畠山は衝突を華麗に回避した結果として練習場のきったない外壁にスーツを擦り付ける羽目になった。
「のわ。どうしたよ」
マヤノが無言で斜め前方七、八メートルほどの地点を指差す。そこには外壁に沿うようにして、いくつかの古びたドラム缶が並んでいた。
「ドラム缶だな」
「うん」
我ながら間抜けた台詞だと畠山は思っている。だがそれ以外に言いようもないのだから仕方ない。
「えーっと……中身か? ロジンとか炭カルとか入ってるんだよ。屋根があるっていってもこう湿気た場所に置くのもどうかと思うなぁ──それが何なのさ」
少女は小首を傾げて答えた。
「一昨日来たときよりいっこ多いの。なんかピカピカだし」
数えてみると八つのドラム缶がそこにはあった。その中の一つのみが確かに、塗装も艷やかに自己主張していた。
この陰気なスポットは畠山・マヤノペアが練習前に行う散歩(?)でしょっちゅう通る道だ。当然これらの缶たちも日常的に視界に入ってきているわけで、今回の件に関してはマヤノトップガンの観察眼が鋭いというよりは、気づかなかった畠山が若干鈍いのかもしれない。
「ホントだなぁ。用務員さんが持ってきたんだろうけど……ちょっ」
言葉尻は慌てふためいた静止の一言に上書きされた。マヤノはトレーナーの制止を完全に無視して、というより制止がその形を成す前に怪しげなドラム缶に大股で近づき、両手で抱えて──ガバッと持ち上げた。
唖然とする畠山を前にして、地面に被さっていたドラム缶の中からいくつかの物品が姿を現した。縫い口のほつれたナップサック、栗毛のウマ娘を象った粗雑なつくりのぬいぐるみ、懐中電灯、キャンパスノート数冊。
そして、それらの品々に囲まれて座り込んでいる、痩せっぽちの少女。
驚きに大きく──大きすぎるほどに見開かれたその少女の目が、マヤノトップガンと畠山の視線と交錯した。初夏の僅かな草いきれに包まれた暗がりで、三人はしばしの間無言の彫像のように動かなかった。
「────ど、どうも?」
誰かがそう言った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
気合!