急がないとウイポが2024になってしまう…
今世紀前半までは確かにウマ娘レースのメインストリームであったはずの競走形態【マッチレース】が何故、今日ではまったくと言ってよいほどに見られなくなったのか。多くの人がこの問いに対してこう答えるだろう。
「Ruffianの一件があったからだ」と。
十戦十勝、伝説的な大差勝ちの数々。無敗のニューヨーク・ザ・トリプルティアラ・ウィナー、Ruffian。確かに、彼女の死が悲しみと怒り、そして恐怖をもって米国レース界を震撼させたのは事実だ。しかしながらRuffianの直接の死因はFoolish Pleasureとのマッチレース中に発生した重度の開放骨折では当然なく、その後の緊急手術中に発生した術中覚醒が引き起こした不運な医療事故であったのもまた、万人が知るところである。
結果として、Ruffian対Foolish Pleasureの一戦以降、強豪同士のマッチレースは行われなくなった。しかし、そもそももっと根幹的な部分でマッチレースは衰退してしかるべき存在であったとされている。
まず、娯楽としての柔軟性に欠けるという点。
欧米諸国では普遍的に行われている、ウマ娘レースの結果に金銭を賭ける行為(本邦での
「どの選手に賭ければ儲かるか」は、レース場を訪れる人々の関心の中でも大きなウェイトを占めている。この流れにマッチレースは不向きなのである。強豪同士の一騎討ちは一見、レース界最大のエンターテイメントとなり得るように見える。しかしながら博徒にとって、マグレもまぎれもない一対一のレースは端的に言って「不味い」のだ。実力が近いからオッズが膨らまない。そもそも勝者は二人にのうちどちらかなのだから、予想するにしても幅がない。
新聞からラジオへ、ラジオからテレビへ、そしてインターネットへと通信網が発達するに従い、直接レース場に出向いて投票券を握り締めること以外のルートも増えた。対決カードの豪華さが必ずしもレース主催側の利益に──直接的には──繋がらなくなってしまったことも一因と言えるだろう。
さらに、最大の理由として、この種のレースは選手の身体に多大な負担を掛けるという点が挙げられる。
多人数でのレースには「展開」があり、「流れ」が形作られる。各々の思惑と脚質によって隊列が組まれ、道中での順位の入れ替わりが落ち着く時間帯が必ずといっていいほど存在する。よほど特殊なバ馬とコースの条件が揃わなければ、二千メートルのレースで全出走バが前半千メートルを五十九秒未満で通過するようなことにはならない。
実力者同士の一対一のレースとなると、これがあり得てしまう。
そこで繰り広げられるのは、徹頭徹尾、わずかな内外差と足運びのミスがそのまま勝敗に直結する、死力を尽くした潰し合いである。展開などない。真横にいる選手を追い比べだけで負かさねば勝ちはない。他の選手たちが邪魔になって相手がスピードを発揮しきれないということもない。
そんな、決闘なのだ。
この決闘のために、無敗のトリプルティアラ・クイーンであったRuffianは散った。そう世間では解釈されたと言われる。
……近年の傾向として、かつてレースシーンにあったような過酷(に思われる)な競技性を極力排除しようという動きが強まっている。一日に何度も四マイルのレースを行うヒート制レースがイギリスの協会に禁止されてから百数十年は経つし、歴史ある英国の障害競走・グランドナショナルは障害の難易度緩和が幾度となく行われているにも関わらず「過度な負担を若者に強いている」とする声は日に日に増すばかりである。
本邦のローテーション一つ取ってみても、例えばかのハイセイコーが春に踏破したような【弥生賞→スプリングS→皐月賞→NHK杯→日本ダービー】というローテを当世にて発表しようものなら使い詰めの誹りを免れないであろう。オールカマーから始動して三ヶ月で六連戦したオグリキャップの陣営に対する世間の非難も記憶に新しいところだ。
これらの批判は決して謂れのないものではない。大舞台を一戦走るだけでどれほどのダメージが身体に刻まれるかは、この学園に通う諸氏ならば理解してくれることと思う。マッチレース、連闘、高低差2m近い水壕障害。いずれも確かに、ウマ娘の身体を走行不能なまでに破壊しうるだろう。
時代はおそらく、良い方向に変わりつつある。我々の健やかな成長のために。
だからもう──娯楽としてはストイックに過ぎ、スポーツとしては苛烈に過ぎる──マッチレースなどあってはならないのだと。それが世間の総意なのだろう。
最後に、史上最大のマッチレースと称される米国での一戦を紹介して締めさせていただく。いま一度この映像を見て、マッチレースが廃れた理由、そして確かにそこにあった狂熱を体感してほしい。
(提出者:テイエムオペラオー君へ
タブレット端末を用いた課題とはいえ、外部動画サイトのリンクをそのまま貼る行為はいかがなものかと思われます。該当のレース映像「War admiral VS Sea biscuit」は学内ネットワークの動画ライブラリに保管されていますので、こちらのパスへの誘導をお願いします。また、提出物に似顔絵の添付は不要です)
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とんでもない話である。
確かに、新入生の中には夢見がちな者も一定数はいる。テレビやウェブ配信で見た憧れの先輩たちと同じように、自分も華麗な衣装を身に纏ってレーストラックを駆ける日が来る──重賞で活躍して脚光を浴びるまであと一歩なんだ──と信じ込んでいる少女たちが。
そんな彼女たちも、入学して一ヶ月もすれば現実を直視することになる。
シニア級一年目までに未勝利戦を抜けられるのは、数千人を数える生徒のおよそ三割から四割。三段階ある条件戦を抜け、OP競走まで辿り着ける者となるとすでに全校生徒の五パーセントにも満たない数字になっている。この上重賞、特にGIの常連としてお茶の間に知れ渡る名前が如何に少ないかは言うまでもない。
それでもって。三冠ウマ娘と、それもマッチレースをするときた。ドン・キホーテの名を借りるのも先方に失礼なレベルである。
「実に運のいいことに」現在トレセン学園には現役のクラシック三冠ウマ娘が存在する。日本全体で毎年数万人は誕生するとされるウマ娘に、十数年に一度のペースでしか現れない三冠の器が、幸運にも。
(とんでもないのを引き受けちまったなぁ)
それも、二人目だ。
改めてそうぼやく畠山茂之の視線の先では、トレセン学園が擁するいくつかの練習場のうち、最も外周の小さい芝コース──一周一三〇〇メートル──が、弱々しくなった夕暮れの陽射しに冥冥と浮かび上がっていた。
彼は今、その練習場の金網フェンスに寄り掛かって、ちょうど向こう正面に当たる直線を駆けてゆくマヤノトップガンを眺めている。つい一分半ほど前、畠山は準備運動を終えた彼女に「テンはちょっと飛ばしてもいいけど、千メートルは六十六秒くらいでいいわ。軽めに回っといで。カドも無理にキュッと曲がらんでもいいよ」と伝えて送り出した。
左回りで第三コーナーを回ってホームストレッチへ駆けてくる夕焼け色の少女がハロン棒の前を通過した瞬間に、畠山は右手に握ったストップウォッチのタイマースイッチを押した。
六十四秒九。内心、頭を振る。
(力感は良い意味で感じられないし、息にも上体にもまだ余裕がありそうなのはこれまで通り。けど……)
こういう時は遅いくらいがちょうどいいんだわ、と彼はやはり胸中でぼやいた。バ群の中で走っているわけでもないのに、指定したタイムを一秒以上……しかも速い方向に違えているようでは到底、マヤノトップガンが到達すべき地点には手が届かない。
先に述べておくと、畠山は本気でマヤノの夢──ナリタブライアンを倒すという目標を叶えさせてやるつもりでいた。ジャパンカップか、天皇賞か、有馬記念か。必ずや、ブライアンが主戦場とする芝中長距離GIレースの舞台に、今はまだ一介の一勝ウマ娘でしかないマヤノトップガンという生意気なはねっ返りを送り出してやろうという気概を強く持っていたのだ。
デビューも身体作りも遅れてしまったが、ウマ娘ひと夏会わざれば刮目して見よということわざがある(ない)ように、決して遅すぎはしないと彼は信じていたし、その根拠も数多く持っていた。
(菊花賞だ。必ずや菊でマヤさんを入着させて、ブライアンへの挑戦権を握らせる)
そのためにはお互い焦りは禁物……と、彼は右手の数字を強く意識しながら自分自身に言い聞かせた。そうして、スッと一呼吸して。
左手のストップウォッチを止める。
「…………」
七十二秒六。
畠山の遠い視線の向こうで、マヤノトップガンと一緒に併走させるつもりで送り出したハンマーソングが、大きく、大きく離されて……スタートから千メートルを示すハロン棒を通過するのに要した時間であった。
「畠原さぁぁぁぁぁぁぁぁんんん!!」
破れ鐘のような汚い声がゴール板前から畠山の前に届いた。
「畠山!!!!」と怒鳴り返すと、訂正の絶叫の後にハンマーソングはこんなことをほざいた。
「お腹が痛いですぅぅ!!!」
「…………あたりめーだろ!!!」
つい先程彼女が食堂で平らげた多量のカレーライスのことを畠山はすっかり失念していた。
(じゃあ何で併走したいですー、なんて言い出したんだよ!)
とはいっても腸捻転でも起こせばコトである。畠山はハンマーソングに落ち着くまで外周をゆっくり歩けという旨を指示し、一コーナーあたりで特に二人の会話に絡むでもなく夕焼け空の飛行機雲を見上げてポケっとしていたマヤノにはそれに付き添ってやるよう頼んだ。
珍しく素直にてくてくハンマーソングの方へ歩いていく反抗期を見送って、一つ深い息をついた時だった。畠山の側面から声が投げかけられる。
「おうい。二本でいいからちょっと使わしてくれんか」
ややトーンの高い、鷹揚とした好青年を想起させる声。振り返ると、果たして右方向十五メートルの地点に声の主はいた。ただし、音声のイメージにはまるでそぐわない──巨大な筋肉と少々の脂肪で構成された丸太のような大男が、汗のテカテカ光るごま塩頭に手をやりながらこちらへ歩いてきているのだった。
畠山は何事もなかったかのようにスムーズな動作でポケットからハンカチを取り出して額を拭い、少々鋭い声で問い返した。
「使用許可は!」
顔まで熊じみた大男はふにゃっと笑った。
「取ってない。三十分くらい、いいだろ」
「また
「ちょうどここに追いかけっこの志願者がいてな」
その言葉に合わせて、パッツパツに膨れ上がった紺色のチノパンの後ろからひょこっと顔が出てきた。トレセン学園学園指定ジャージの上下に黄色い野球帽。ゆったりと揺れる長い尾と耳は髪と同じ暗い茶色。赤みのない皮膚と動きの少ない表情筋は、どうやら生来のものであるらしいポーカーフェイス。
「す……」
「あ、どうも。元気?」
「お陰様でボチボチす」
巨漢トレーナーと栗毛の野球帽ウマ娘。そう、冒頭でも登場したあの二人である。
こいつを担当できるのが誇らしくてしょうがないといった楽しげな顔で大男がこちらに歩いてくる。体積にして半分もなさそうな栗毛を見ながら、畠山は精一杯の露骨さで苦々しい顔をしてみせる。残念ながらこの相手は小細工で退いてくれるような神経をしていない。
「こっから寮まで千六百メートルってとこだろ。入学して二ヶ月の生徒があの姉ちゃんから逃げ切ったら伝説になるんじゃないか」
「それはそうですが」
畠山の見立てでは、逃げ切れる確率は五分五分といったところだった。
つまり、目の前でガムの包み紙を弄りながらこちらをチラチラ見ているこの少女はそれほどの逸材なのである。
「……小回りのここを使いたい理由を教えてください」
「朝日杯想定。まあ、この子も小回りには若干不安があるって毎回言ってたし、そろそろコーナーでやる脚の使い方も触れとこうと思ってな。お前さんこそ……えーっと、マヤノトップガンだろ、今ゾッコンなのは。ダート短距離の。芝コースで何やってんの」
「小回りが苦手なら緩い放物線から直線にしちまえばいいって話を進めてたんですよ」
「相変わらず尖ってんなぁ」
野球帽が思案顔で暗いグレーの眼差しを上空に向けた。
「ん、ワンターンのマイル戦でコーナー不器用なコが外枠引いたらどうせワンチャンしかないし、全然アリなんじゃないすかね。ゲートでダッシュ付けばの話すけど」
「師匠と違って物分りがいいね君」
「あっお前変なこと吹き込むなよ。こいつは王道走ってりゃちゃんと勝負になるんだから」
悪影響だ悪影響、と言いながら巨漢は仕草で野球帽の少女を芝コースの方向に促した。サッと駆け出していく後ろ姿に「見とくから、とりあえず九分の力でコーナー回ってみな!」と声を投げかけ、彼は畠山の隣に立ってフェンスに寄りかかった。ガッシャンギシギシと金網が不平の声を上げる。
「存外あれはお前さんの方が気が合うかもしれんな。僕にゃ正直過ぎたる……って、もしかしてあそこにおるのはハンマーソングか?」
今更芝コースの先客の正体に気づいた巨漢トレーナーが脱力したような、それでいて素っ頓狂な声を上げるので畠山は思わず忍び笑いを漏らしてしまった。
「ご名答。あんたんとこを追放された可哀想なハンマーソング君ですよ」
「どこで拾ってきたんだ」
「屋内練習場の裏です。それよりあの子、入寮手続き未完のまま構内で寝泊まりしてたらしいですけど。気づいてやれなかったんですか?」
「……しまった。だから時々ドラム缶に湯沸かしてたのか」
「何だって???」
彼らの視線を横切るように、早くもトラックコースを半周して向正面に到達した野球帽が「快速」としか表現のしようもない鏑矢っぷりで駆け抜けていく。
「速ぇー」双眼鏡とストップウォッチを手に巨漢が嘆息する。畠山は何か悔しさというか嫉妬のようなものをどうにかこらえて平静を装った。
「あれは目標物が無くても強いタイプですね。レース運び以前にそもそも足が速い。飛びも、この時期でもうあんなに整ってるとは」
「うん。坂も強ぇし、今のままでも東京千八みたいな単純なコースはまず間違いないと思ってる。カドをこなせれば敵無しよ」
径の小さな第三・第四コーナーに差し掛かる。一瞬、ラチに身体がもたれかかるほどの過剰な傾斜を見せた身体はすぐさま適切に近い角度まで立て直され、力強く伸びた右足がラチから二メートルほどのラインへと彼女の身体を導いていく。
「すげー、ミエスク嬢みたい」
それはさすがに言い過ぎでしょ、と言いつつ畠山はトラックコースの反対側あたりに二人してわだかまっている自分の教え子の方を見た。片方は地面にうずくまって脇腹を抑えながら芝生を食べているし、もう片方は早くも介助に飽きたらしくダンスの練習をしている。
マヤノトップガンに関しては、完成するのは秋を越した頃だろうと畠山はアタリをつけていた。先ほどこの筋肉ダルマ野郎は彼女を「ダート短距離の」と称したが──成熟しきっていない彼女の脚に過度の負担をかけずにレース勘を養わせるための準備期間がそう呼ばれているに過ぎない。
トレーナー・畠山茂之のビジョンが描くのは、「春の天皇賞ウマ娘・マヤノトップガン」であった。他のトレーナーたちが拾いあげられなかったこの原石は、いずれ間違いなく翼を得るだろう。
もう片方はどうだろうか。彼自身が拾い上げたのではなく、たった一時間少々前に手のうちに転がり込んできたこの石ころは。
一流の彫刻家は材石を目の前にすると石そのものが持つアーキタイプのようなものを見て取れるという。今、畠山の脳裏には立派なマヤノトップガン像が建立されているが、こちらの石ころは彼を途方に暮れさせていた。無を削っても無に還るだけだ、という言葉が脳裏に反響するほどだった。
「……ップタイムが全然波打たないわ。カド以外全部十二秒半ばでさ。おーい! 一回戻ってきてくれー! よかったらお前さんからもなんか褒めてやってくれよ。畠山くん。あれ? 畠山? 聞いてる?」
「俺はデヴィッド・ボウイです」
「お前はデヴィッド・ボウイじゃねぇよ。戻ってこい」
大の大人が二人して混迷を極めているところに、少し頬を上気させている以外は走り出す前と何も変わらない様子の野球帽少女が尾を振りながら小走りに駆け寄ってくる。さっきまで千二百メートルを一分十五秒少々で走っていたのにもう息が戻っていた。
「どーすかね。通ろうと思ってたとこにちょっと足が回んなくて、三、四コーナー中間点で立て直すのに二秒くらいロスした気がするんすけど」
「いやいや、初コースなんだから十分すぎるくらいだって。な、畠山先生」
「……レースじゃ二秒あれば簡単に前が塞がるんでね。ロスを少なくするのももちろんだけど、いざ想定外の展開に遭遇したときに、どれくらい割り切ってコース選択できるかが……」
我ながらガキっぽいなと畠山は自分を評価している。入学して二ヶ月のジュニア級生徒に対してつついていい重箱の隅ではない。お前ねぇ……と半分白い目で見やる巨漢、それでもキリッとした表情で畠山の言葉に頷いてくれる有望株ちゃん。
「学年でやってる模擬レースでも、小回りの大人数で一回負けたことがあります。ロスそのものに気を取られすぎて、外に出すのが遅れまし──」
彼女の言葉がピタッと静止し、視線が大人二人の背後の一点に固定された。それも一秒に足らずの刹那、唐突に野球帽は彼らに背を向けて走り出した。脱兎のごとく。思わず顔を見合わせる二人。そうしてゆっくりと背後を振り向く。
白いブラウスと黒いタイトなパンツに身を包み、トレセン学園のロゴが入った地味なスポーツキャップを被った栗毛、いやさ茶髪の女性が、いつの間にか彼らの背後に位置取っていた。
「お二人とも、お疲れ様です」
「わぁ」「わぁ」
人好きのする笑顔から繰り出されるのは、何かキャビンアテンダントかツアーガイドのような印象すら受けるハキハキとした綺麗な声である。蛇に睨まれた蛙のような面のままフリーズしてしまった巨漢と来訪者の間に無理やり割り込むような格好で「お疲れ様です!!」と半分がなりながら畠山は前に進み出た。
「駿川さん、もしかしてもう持ってきてくださったんですか? いやあ助かるなぁ!」
「はい。理事長や学生部の承認は後回しにして、取り急ぎ生徒会と栗東寮の管理会社と寮母さん、それと、電話越しですが
「駿川さん」から手渡されたバインダーに挟まった数枚の書類を大げさにめくり、中身をろくに読みもせずに大きく頷く畠山。要は、ハンマーソングという野良存在をとりあえず栗東寮に放り込んで、経済や家庭の問題は追々詰めていこうという話だ。面倒くさい手続きを端折るために畠山が用意したエージェントが、この、学園が誇るスーパー事務員の駿川たづなだった。結果的に背後で縮こまっているルール違反指導員の元に彼女を誘導してしまったのは完全に事故である。
「今後、どうなりますかね」
「ご家庭との連絡が取れないことには……先ほどご実家の番号に掛けてみましたが、ご不在のようでした。いずれにしても、登録されている住所から学園の最寄り駅までは電車でも片道二時間弱を要する計算ですので……」
「入寮は必至に近いかあ。いや、お手数おかけしました。ありがとうございます」
「いえいえ〜。あ、岡澤さんにもお渡しする書類が」
「へぇ……」
肩に掛かっているレディースバッグから今度はクリアファイルが出てきた。中身の一枚が「岡澤」と呼ばれた巨漢(今は萎縮して見る影もない)に手渡される。
「先週の件も含めて記入漏れということにしておきましたので、明日以降また事務までご提出をお願いします。器具やトラックコースを使うときは事前に申請してくださいね?」
「はいっ。すんませんでした」
実を言うと畠山自身、かの有望株とこの事務員──異常に脚が速い──の追いかけっこを見たいという欲はあった。しかし考えてみれば今回ルールを破ったのは指導員の岡澤であって生徒ではない。畠山は野球帽の少女が走り去っていった美浦寮の方角を眺めた。完全な骨折り損の逃亡劇である。変に疲れを残さないといいが。
「では私はこれで。ここの消灯は十八時半ですから、それまでには撤収してくださいねー」
一礼して踵を返し、校舎の方へ向かおうとした駿川の背中を見ながら、畠山はふとある噂のことを思い出した。問いただすなら今だなと口を開いてみる。
「あー駿川さん、来年から理事長付きになるってマジです?」
「え? あぁ、そうみたいです。もしかして露木理事からお聞きに?」
「いえ、何も。しかしあの人が来るとまあ、毎回ひとりでに煙が立ちますから」
「ふふっ、観念したほうがよさそうですね。委細が固まり次第正式に皆さんにお知らせします」
今度こそ校舎へゆっくりと駆けていく駿川事務員の後ろ姿を見送る二人の男。そのうちデカい方が額の汗を拭って呟いた。
「……露木理事も人が悪ぃよな。別に秘書役くらい雇い直せばいいのに、なんで事務から引っこ抜くかなぁ」
「アレの考えを読むのはもう五年くらい前から諦めてます」
「中学生くらいのトシにしか見えねぇ女のコがやっこさんの口利きで理事会に入った時も驚いたが、それを即座に理事長の座に推すんだもんなぁ。わかんねぇよ御曹司の考えることは」
「……さて、あんたの大事な秘蔵っ子は逃げちゃいましたけど、どうします? 俺はハンマー君を寮に連れてった後、マヤさんに低酸素マスクつけてトレッドミルですけど」
「お前さんとこと違ってうちは大所帯なんだ。坂路に六人待たせてるから帰るよ」
畠山は周囲に響き渡るほどの大きな舌打ちをし、それから声を張り上げてハンマーソングの名前を呼んだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「あ、そうだフジ。カップスープいるかい? 賞味期限切れそうなやつが二袋あるんだ。それともコーヒーもう一杯行っとく?」
「ありがとう姐さん。でも夕食も近いし、コーヒーも二杯目は流石にね」
美浦寮の一棟、薄暮に耐えかねた蛍光灯の明々と灯るキッチンに、フジキセキとヒシアマゾンという二人のスターは居た。相変わらずフジキセキは教科書とにらめっこしているし、ヒシアマゾンはテレビを見ながら時折相方のノートを覗き込んでいる。前回と違うことといえば、もはやこの部屋にいるのは彼女たちだけではなく、練習や補習を終えて引き上げてきた数人の生徒たちがめいめいに冷蔵庫やオーブントースターの前で談笑していることだった。
んじゃそれ私たちで飲んでいいですか〜? とちょっとクネクネしながら近づいてきた相部屋らしい二人の中等部生徒に快くポタージュスープの箱を渡しつつ、ヒシアマゾンは何の気なしにリモコンのチャンネルキーをポチポチ押した。もうホクトベガ特集も終わってしまったし、みどりのチャンネルもこの時間帯はローカルのウマ娘タレントがご当地スイーツをダッシュ混じりに食べ歩く他愛もない番組をやっているしで特に引力がない。
地上波、国営放送の児童向け番組から民放のバラエティ番組へ、そして衛星放送に切り替えていく。
唐突に、赤いヘッドギアをつけたタンクトップ姿のウマ娘がリング上でファイティングポーズを取りながらステップを踏む映像が映し出された。一発、二発、対戦相手の青いヘッドギアのウマ娘に手痛いボディーブローを貰って肢体がくの字に折れ曲がる。
総合格闘技の試合でもやっているのかと思ったが、すぐにやたら接写の多いカメラアングルと煤けた照明、比較的少人数の観客があげていると思われる怒号混じりの喚声が引っかかった。どうやら映画らしい。
「何だっけこれ?」その方面にはとんと疎いヒシアマゾンでも、微妙に覚えのあるシチュエーションだった。
「あ、アレじゃないですかぁ。【あるウマ娘の伝説】! もうテレビでやってるんですね」
IHヒーターの前で湯が沸くのを待っていた中等部の生徒が声を上げた。タイトルを聞いてヒシアマゾンの脳内にもおぼろげながら像が形成された。四年ほど前に公開されたいわゆるハリウッド映画で、何十年も前に実在したアメリカの少女のサクセスストーリーを描いた作品だったはずだ。本邦でもそこそこにヒットし、一時期はデパートやショッピングモールの掲示板をこの映画のポスターが席巻していた。
「アレかぁ。そういや見たことなかったねぇ。これ始まったばっかり?」
「だったと思います。貧しい主人公がデビューする前、レースへの登録料を稼ぐために出場した賭けボクシングで目を怪我しちゃうシーンですから」
「録画しとくかー」
「すっごい面白いんで、よかったら実家からブルーレイ持ってきますよ」
「おお、たの……ヤカン沸いてる沸いてる!」
「うわー!」
液晶の中でテンカウントが告げられ、ノックダウンした少女の青痣にまみれた顔を対戦相手の足が踏み躙る。血と無念に彩られた虚ろな眼が時空を越えて美浦寮の一室を見下ろす。その眼差しを正面から受け取ったのはただ一人、勉学の手を止めてテレビを見上げたフジキセキのみであった。
マッチレースんとこはめちゃくちゃ適当こいてます。史実をちょっと勉強したって擬人化世界との差異をこじつけるには力量が足りない!