Against All Odds   作:錫箱

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屍山氷河/Narratageの亡霊

 

 

 畠山は待っていた。

 元来は短気な男であったが、「待つ男」という概念を彼は愛せるようになっていたので、現在はわりと忍耐強い(と、本人は思っている)。「待つ男」が好きすぎて、何らかのイベントに対して待機中であるところの彼は雑誌モデルのなり損ないのようなポーズで佇んでいることが常だった。

 

 トレセン学園の広大な敷地の北端に、破れかぶれのネットと錆びたフェンスで囲われた練習エリアがある。東西方向に長く伸びた長方形で、設備といえば外周に沿って点在するベンチと、それに付随したりしなかったりするトタンの小屋だけ。そんな寂しい空き地の中央に、申し訳程度に海砂を十センチほど敷き詰めたダートコースがある。一周わずかに六百メートル。それを囲む、一般的な小中学校の校庭よりも少し広い程度の練習場。数十年前まではダートすらなく、昼休憩や放課後に暇な学生たちが集まって球技をやっていたらしい。

 畠山は、そんな練習場の外周のベンチに座っている。彼の視線の先には、自分より一回りも二囘りも大柄なウマ娘たちにプレッシャーを掛けられながらトラックコースを走るマヤノトップガンの姿があった。

 

 一周六百メートルともなると、一般的なレース場とは比にならないほど窮屈な「かけっこ」になる。スタートから二百メートルも行かないうちに死ぬほど小さなコーナーがあり、二百二十メートルほどのわずかな直線を経てまたもコーナー。千二をやるのにもこれを二周するのだから、もはや「レース場」と名の付く場所で行われているスポーツとは別種のシロモノが繰り広げられている。

 

 先ほどバリアー式(電動ゲートなどあるはずもない)のスタート地点から駆け出したマヤノは即座に先頭を確保したが、右回りの第一コーナーに入る直前、左右から殺到してきた計三人のウマ娘に挟まれて一バ身ばかり後退した。すぐさまラチ沿いを確保しようとするも一瞬遅く、内側発走の相手が経済コースを確保。こうなるともう終わったも同然で、後は進路探しとコーナーへの対処、キックバックに四苦八苦しながら八人立ての外側五〜六番手を追走させられるマヤノを畠山は見守る羽目になる。ついでに、シビアすぎる進路取りの最中に肩やら肘やら胸やら尻やらが容赦なく接触する関係で、小柄な彼女が弾き飛ばされている様子も、幾度となく。

 現在のマヤノに、二周目の第四コーナーからゴール線までの百五十メートルという極短直線だけで抜け出せるようなキレはない。結局終始くちゃくちゃにされながら四位で入線と相成った。

 

「んんんー! もう一回!!」

 

 入線後、即座に半ギレ金切り声を上げてリベンジを要求するちっちゃな栗毛の美少女。

 

「うるせーよ、んははは」

「次はあーしの脇の下でもくぐってみる?」

「こいつ脇くせーからやめとけ」

「サイテー」

「んはははは」

 

 対して対戦相手のウマ娘たちは、特に嫌がるでも売り文句を買うでもなく彼女をゆるっと囲んでぺちゃくちゃ喋りながらまたスタート地点に歩いていく。ちょっと学園のメインストリームでは見られないような、ガサツな温情に溢れた集団だった。

 皆、未勝利戦を突破できていない。

 

「よう、天才(変態)

 

 鷹揚とした低い女性の声が、トラックコースを見つめて思案する男の耳朶を打った。声のした方を見れば、大きなクーラーボックスを抱えた深緑色のジャージ姿のウマ娘が畠山の座っているベンチの側に立っていた。ニスを塗ったように輝く樫色の頭髪と尾、額には見事な白い流星模様。佇まいとジャージの色からして学生などではないことは明白で、事実首からは非常勤トレーナーの立場を示す小さなカードが提がっている。

 

 いかつく肩を聳やかしながらつかつか歩み寄ってきた彼女を、畠山は労いを込めた視線で出迎えてみた。それに応える素振りもない女は無遠慮にクーラーボックスをベンチの上へ設置し、自分は畠山の座っている端とは逆の端に足を組んで腰掛けた。鋭い目が百メートルほど向こうのマヤノトップガンらの背中を捉える。

 

「アレらと遊んでくれて助かる。うちのヤンチャ共の相手はああいう……良い意味で純粋なお嬢さん(ガキ)でもねぇと噛み合わない」

「こちらこそありがとう。マヤさんの力量はもうちょい秘密にしときたいんだよね」

「ウチは秘密のドッグランか何かか? はん、お互いにその辺の地位がお似合いかもな」

 

 畠山はここ一ヶ月ほど、暇を見つけてはこの非常勤トレーナー女史の元に教え子を預託していた。彼女がトレセン学園に指導員として着任してから三年ほど。門下生からは三勝クラスを突破した者すら出ていない。而してそれは、決して彼女の無明を表すものではないと畠山は信じている。

 

「卑下せんでよ。君のダービー、今でもうちの生徒にお手本として見せてたりするんだ」

「そりゃどうも」

 

 

 彼の隣に座っているのは十年前のダービー覇者である。名をシリウスシンボリと言った。

 

 往時を知る者がその名に抱く感想は複雑だ。人を人とも思わぬ尊大で傍若無人の振る舞いで衆目を集め、その驕りに相応しくクラシック最強の栄冠を戴いた。そうして満を持して敢行された一年半に渡る欧州遠征を終えた彼女を待ち受けていたのは──まばらな「おつかれさま」の言葉であった。

 

 十四戦十四敗。価値のあるものと見なせるほど理性的な者は少数派だった。

 

 世間から差し出される、失望・徒労感・嘲笑を添加された苦杯。それらを事もなげに飲み干したシリウスシンボリという女は、その後も何食わぬ顔で学園生活を送った。

 顔と気風の良さにまかせて無垢な下級生を引き連れ、レースに出走しては敗北を重ね、しまいには「飽いた」と言い残して高等部のトレーナー養成課程へと引っ込んだその姿を、大部分の者が旧世代の敗北者として定義した。折しもオグリキャップ・フィーバーの最中であったがゆえにその向きは更に強まることとなり、現在に至る。

 

 灰色のシンデレラが駆け抜けたドラマを経て、明確に潮目が変わった。URAが開催するレースの観客動員数はうなぎのぼりに上昇し、日本中の興業施設にデフォルメされた名選手たちを象るぬいぐるみが並び、潤沢な資金と世間の理解を得たトレセン学園の設備やトレーニングメソッドは格段に進歩し、海外遠征も以前より活発に行われるようになった。

 時代は変わった。シリウスシンボリは変われなかったからこそ今日の立ち位置に甘んじているのだ、と訳知り顔で宣う人間は掃いて捨てるほどいる。しかしながら──往時を間近で見た者からすれば、彼女の変質に気づくのは容易であった。

 

(目がさ、本当に優しくなっちゃったんだよな)

 

 畠山の数メートル横で頬杖をついて教え子たちを見守る彼女の眼差しは、かつて広く知られたダービー覇者の肖像よりもずっと柔和なものだった。慈愛と厳かさに満ちていて、そうして十人並みに何かを恐れている。確かに変わったのだ。シリウスシンボリという、善悪を超えた地点に独り立つ者ゆえの美を備えていた一匹狼は……もういない。

 本当に変わらないのは──畠山はなんとはなしに、南の方角に小さく見える学園の本校舎の最上階あたりを見やった。

 本当に変わらない者は、あそこにいる。

 

「おい野良犬ども! さっさとそのガキ潰さねぇと褒美はナシだ!」

 

 当のシリウス本人はクーラーボックスに手を突いてそんなことを叫んでいる。それにしても先ほどから登場人物に対する代名詞が野良犬ども(教え子)変態(畠山)ガキ(マヤノ)とは本当にひどい言いようだ。この辺りの上っ面が変わっていない以上、人格を誤解されても仕方がない。

 

 スターター係や時計係も一緒になってスタート地点でくっちゃべっていた集団に向けて放たれた大音声の効果はてきめんだった。たちまち枠順が決定してバリヤーが貼り直され、ものの一分で地面に置かれたスピーカーからゲートの開く音が再生された。殺気立って飛び出していく八人。マヤノトップガンは一番外からの発走だ。

 

「……何だありゃ。またやる気失くしたのか?」

 

 横でシリウスが眉を顰めるほどに勢いのない出足だった。先団争いに加わらないどころか、コーナーへ突入するため内に切り込んでいく他七名をよそに内周の線から十メートル以上離れた位置で七番手を走っている。ただでさえ小さな身体が遠近法でより小さく見えた。

 そのままコーナーに入る。外も外をぶん回していたところから入ってくるから入射角がとんでもないことになった。ほとんど直線を描くようにして第一・第二コーナーを通過したマヤノは、一周目のホームストレッチに入る頃には三番手まで押し上げていた。相変わらずバ群には加わらず、一人外側を走っている。

 畠山としては苦笑せざるを得ない。いつか披露してやろうと思って温めておいたとっておきのネタを天然でこなされてしまったのだ。

 横から舌打ちが聞こえてきた。

 

「そういうことかよ。ウチの犬どもも随分ナメられたもんだ。だが、あそこまで変則的なスパートで千メートル戦をやろうってのは結局甘い」

「だろうね。あの子には最終的に千メートルの間仕掛け続けるレースをしてもらうつもりだけど、それは少なくともクラシックディスタンス以降のラスト千メートルの話だし」

 

 二周目の向正面を通過し、三・四コーナーでもマヤノトップガンは同じことをした。ここまでのロスした距離は五十メートル以内に収まるかどうかも怪しい。それでも彼女は二番手で直線まで回ってきた。一瞬右後ろを振り返ったかと思うと、内ラチ(柵はないが)に向かって突進し始める。内側の進路を締めてイン差しを封じようとしているのだ。しかしながら残り百五十メートル。

 

「まあ、頑張ったな」

 

 呟く天狼星どの。斜行して相手の進路を塞ぐマヤノの目論見は、既に内ラチ沿いで先頭を走っていた一名の行く手を阻むまでには至らなかった。半バ身ほどの差で二着。

 入線後、彼女の頬が遠目からでもわかるほど膨れ上がるのとシリウスが立ち上がり、声を張り上げるのはほぼ同時だった。

 

「全員集合! ──駆ーけーあーしーだ! ダラけんな」

 

 叱りつけながら自らも教え子とマヤノの方に歩み寄っていく背中を見送って、畠山はあとに遺されたクーラーボックスの蓋をちょっと開けてみる。いつものように──そこにはアイスキャンディーが山ほど入っていた。大部分は色とりどりの細長いチューペットとかいうやつだ。

 数百メートルは離れているチームルームからこれを徒歩で運んできたダービーウマ娘の姿を想像するだけでおっさんの口元は緩んでいる。チラっとダートコースにいる集団の方を窺う。ほとんど誰も畠山の方には注意を向けていない。唯一こちらを睨んでいる栗毛のちっちゃいのに向けてしっしっと手を振り、彼はミルク色のチューペットを一本手に取って二つに折った。その瞬間、

 

「あ、昔食べたことありますよこれ。ミユピ〜はママの味〜」

 

 変声期手前の男子児童のような変な歌声が急に耳元で再生された。

 完全に不意を突かれた畠山は座った姿勢のまま五センチばかり空中に跳び上がった。その拍子に声の主は畠山の肩で顎を打って背後にひっくり返ったらしい。軽い衝撃音が聞こえた。

 

「脅かすなや! というか遅いけん!」

 

 ジャンプスケアに抗議する心臓の音を聞きながらベンチの後ろを見ると、果たしてそこには昨日門下に加わったばかりの新入生、ハンマーソングが五山送り火よろしくわざとらしい大の字にひっくり返っていた。

 

「あいへへへ。ひはをかひまひは(舌をかみました)。アイス食べたいです(ネイティブ)」

「四十分遅刻してきた奴が開口一番それなん?」

「まあまあトレーナーさん。そうカリカリしてると……ほら、アイスも機嫌を悪くしちゃうよ?」

 

 今度は歯がひとりでに浮き出すほどの美声が、またも至近から発生した。ギャグ漫画だったら俺は一メートル上のひさしに頭をぶつけてるな、と畠山は「びっくりする自分」を知覚しながら見事たまげた。落下中に見えた新たな声の主はひと目見ただけで男女問わず体温が五分は上昇しそうな黒髪碧眼の美少女である。どうやらハンマーソング君に気を取られている間に死角から彼の隣に着席していたらしい。

 

「あーもう何なんだよえーっ」

「本当にごめんね畠山指導員。私がついていながらこんなことに……」

 

 あまり誠意のこもっていない笑みを浮かべながら軽く会釈しているのは、無敗のまま朝日杯ジュニアステークスと弥生賞に優勝した──その強さと少女歌劇団の男役じみた美貌によって日本中の誰もが知るところの──フジキセキである。

 現在負傷療養中と伝え聞く彼女がどうしてこのような場所に……と困惑するのもつかの間、コンマ数秒で畠山の極彩色の脳細胞が答えを導き出す。

 地べたで「アイスアイス」と垂れ流しながらひっくり返っている新入生を昨日放り込んだ先は栗東寮だった。役職にはついておらずともフジキセキが寮内で多大な信頼を得ていることは想像に難くなく、つまり彼女は栗東の寮長なり寮母なりからこのトンチキの面倒を見るよう依頼されたのだろう。

 

「ご苦労さま。同じ寮だし仲良くしてあげてね、程々に。えーっと……アイス食べる?」

「食べます食べます食べます」

「うわっハンマー君には聞いてない。あげるけど」

「やったあ」

「あはは。私も遠慮なくいただきますね」

 

 目の前にいるだけで敗北感が凄まじいな、と畠山は内心で既に白旗を上げていた。もっとも、この麗人の前で自分が惨めに見えない者の方が珍しいだろう。スタアというものはそういう存在である。

 はて、自分が右手に持っていたのはグレープ味だっただろうか。さっきまで白いのを持っていたはずだが。

 

「おいガキども。断りもなく他人のチームの菓子分け合って楽しいか? あん?」

 

 そうこうしているうちに天罰が下ろうとしていた。半笑いでこちらに近づいてきていたシリウスシンボリはともかく、その後方に立って流し台のカビでも見るような目でこちらを捉えているマヤノトップガンのことが何よりも恐ろしい。

 

「すみませんでした」

「えっ? これ食べちゃだめなやつなんですか? ごめんなさい右に倣って土下座します」

「これは失敬。畠山指導員から頂いたので、てっきり」

 

 シリウスは土下座している二名をとりあえず無視してゆっくりとフジキセキの顔を眺め、普段よりやや低い声で「食ったら帰りな」とだけ言った。そのままクーラーボックスを回収して踵を返し、トラックコースの傍らで待機中の教え子たち十数名の元に戻っていく。途中で取り出された黄色いチューペットがすれ違いざまにマヤノトップガンの手元にトスされる。

 受け取った不機嫌ガールは相変わらず畠山を睨みつけていたが、その傍らに座っている麗人の正体に気づくと今までつけていた仮面を全部吹っ飛ばす勢いで破顔し駆け寄ってきた。

 

「わあー! フジキセキ『さん』だ! えーどうしよ!」

 

 念のために述べておくと、マヤノトップガンとフジキセキはれっきとした同期入学組であり、何なら所属する量も同じである。マヤノが人一倍カワイイとカッコいいに敏感な性質であるとはいえ、フジキセキの名はもう既に「その領域」にまで達していることを畠山としては痛感せざるをえない。

 偶像としての領域に。

 

「やあ、お邪魔してるよ。マヤノちゃん」

 人差し指と中指を揃えて額の前で翻す、世界上位〇・五パーセント以内のイケメンですら許されざるジェスチャーが周囲の人間に直撃し、凡人二人はまたもひっくり返った(この二人は先ほどから土下座したりひっくり返ったりと忙しい限りである)。マヤノは黄色い悲鳴を上げながらも耐えた。

 

「覚えてくれてる! えっどうしよ〜! あのあの、マヤもしかしてサインとかもらえちゃう?」

「うーん……私なんかのサインに価値があるとは思えないけれど、君が望むなら……どこへ書けばいいかな」

「じゃ、じゃあここ! おねがいしまーす!」

 

 なんとか現世に復帰した畠山の「ジャージに他人の名前書かせるのはやめろ!」という一言でその場は事なきを得た。後日マヤノ・ルームにちゃんとした色紙が届けられることになったそうな。

 

 そこからはしばし緩やかな時間が流れた。梅雨入り前の束の間に咲いた爽やかな昼下り、見るからに凸凹した四人組がトタン屋根の下で歓談に興じた十数分である。話題は先ほどのマヤノの走りと本人の感想戦、畠山の垂れ流す纏まりのないレース理論を噛み砕いてマヤノとハンマーソングに解説するフジキセキの的確なアシスト、向こうで教え子に整理体操などさせているシリウスシンボリの噂話などの間でさまよう。

 

「私コーナー曲がれないんですよねー。特に左回り。めちゃくちゃ膨れるかめちゃくちゃ減速しちゃって後ろの子に怒られちゃったりとか」

 

 ハンマーソングが三本目のチューペットの残骸をガジガジ噛みながら悲しそうに言った。彼女がアイスキャンディーを十本近く引っ掴んでから土下座したおかげでフジキセキにもここに留まる免罪符がある。

 

「だいじょーぶだよきっと。マヤもちょっと前までそんな感じだったけど、シリウスさんとこの人(トレーナーちゃん)に教わった体幹トレーニングやってるうちにすぐコクフクできたもん」

「脚と『なんとなく』の傾きだけで解決しようとすると難しいからね。シリウス先生も畠山指導員もそのあたりはしっかりしたノウハウをお持ちのようだから、君たちも安心して頼るといいよ」

「はーい」「はーい」

「なんだ、僕の評判もなかなかいいんだなぁ。フジさんとこは……布野Tか。ちょっと気になるんだけど、あの人って僕のことどう言ってたの」

「『一般にトップ指導員だと言われている岡澤や奈瀬、吉良に対する評価の仕方とは別の判断基準を用いることになるが、学園で一番巧い。が、絶対近寄るな』ってさ。ふふっ、そんなこと言われたら、ね?」

「トレーナーちゃんその顔ダサいからやめて」

「え、ハタケヤマさんってそんなにすごい感じのトレーナーなんですか!? 私なんかが師事させてもらっていいのでしょうか!?」

 

 言葉のわりには大して不安げでもなさそうなハンマーソングに「だいじょぶだいじょぶ。袖振り合うも多生の縁」などとフォローになっているのかも怪しい前置きをしつつ、誰もが認める(要出典)敏腕(諸説あり)トレーナーは少し身を乗り出した。

 

「そう、今日ここに呼んだ理由とも若干繋がってるんだけどね。君はまだ入学して二ヶ月くらい。まずは中央でやってけるだけの基礎を作る時期だ。けど、今僕が受け持ってる生徒はかなり少なくてね。マヤさんといいもう一人の子──明日オークス出るんだけど──その子といい、一個年下の君といきなり併せるにはまだ早いだろう。君のための練習環境が用意しづらい状態なんだ」

「はあ……」

「トレーナーちゃん本番前日なのにパフュームちゃんと会えないの。おもしろくない?」

「うるさい。んで、代わりに──そうだな、一ヶ月くらいの間かな──この練習場で、シリウスシンボリ先生の下について練習してほしいんだ。ここなら、君と同じく入学間もない子から面倒見のいい上級生まで色んなタイプの相手がいるし、小回りのトラックコースで周回の基本のキの字から教えてもらえる。あ、もちろん僕もできるだけ時間を作って指導はするよ」

 

 途中までピンとこなさそうな顔をしていたハンマー君も、眼前に広がる日本人小学生の原風景じみたグラウンドと畠山の顔、それから遠くで体操の指導をしている元ダービーウィナーの姿を見比べているうちに浮足立ってきた。

 

「定番の下積みパートですねぇ。しかも師匠は引退した超実力者! 王道のやつ!」

「う、うん。そんじゃ改めて挨拶しとくか。マヤさんシリウス先生呼んできて」

「ジブンで行けばいいじゃん」

「しゃーねぇなぁ……」

 

 よっこいしょと三十路はベンチを後にして歩いていった。

 

「ええと、マヤノちゃんって畠山指導員のこと……」

「キライ。キモいしうるさいし」

「そっか……」

 

 困惑しっぱなしのフジキセキに「清潔感はあると思いますけどね?」とフォロー未満の発言で茶を濁すハンマーソングのジャージはここにいる誰より清潔感に欠けている。そもそも臙脂色の学園指定ウェアではなく黒地に青いラインが入った私物である。袖はほつれ放題、膝は擦り剥けてツルツルだった。

 マヤノが畠山の悪口を数センテンスほど語ったところで渦中の人はシリウスシンボリを伴って戻ってきた。

 

「ちゅうわけでこちらがハンマーソング君です。よろしく」

 

 畠山の紹介に合わせてお願いしまーす、と腰を折る痩せぎすの少女。シリウスは改めて、といった調子で彼女の全身を眺め回した。

 

「──ああ、引き受けた。早速で悪いが、向こうの連中(犬ども)ンとこに行ってアップしてきてくれるか。さっきの模擬競走で発走と計時記録やってたのが五人ばかしいてな。そいつらがこれから千メートル走るから、どうにかして追走しろ。ポジション取りが終わったら、中間の二ハロンは十四・十四で流せと言ってある。残りはまあ、好きにやりな」

「ふぉ、ふぉーてぃーん・ふぉーてぃーんですか。大丈夫かなぁ……私、砂はすこーし苦手で」

「難しいことは考えるな。砂被るのが嫌なら外回しても構いやしない。自分の一番落ち着けるポジションで回って来い」

「んん、わっかりました! いずれ米国三冠王者と戦う私の実力、とくとお見せしましょう!」

 

 () () () () ? 

 発言者以外の全員の頭上に特大のクエスチョンマークが出現し、静止した。

 止まった刻の中を、膝をパキパキ言わせながら立ち上がったハンマーソングは下手くそなスキップを弾ませてベンチを去っていった。

 

 

「…………」

「…………」

「…………おい畠山。なんなんだアイツ。どこで拾ってきた」

「わかんない。拾得先は体育館裏。まあ忘れよう。忘れろ。んで天狼星さん。見立て、どう?率直なところで」

 

 まだフリーズしているマヤノとフジキセキの間で、シリウスシンボリはゆっくりと額に手を当てた。ちょうど彼女の競走名の由来にもなっている大きな流星のあたりである。

 

「──あそこまで全部が酷いのは中央じゃ見たことねェな。骨格、筋肉のつきよう、関節の挙動、姿勢、歩様。今のところどれを取っても大幅な矯正対象だ。益田や足利でも嫌な顔をされるだろうよ」

 

 畠山はどっかりとベンチに腰を下ろし、短く息を吐いた。そう、彼女は誰がどう見ても、酷い。例えるなら不格好で骨ばったマリオネットがグネグネ歩いているような、痛々しさと一抹の不気味ささえも感じてしまうような。

 ダートコースの傍らでシリウスの門下生らに見守られながら屈伸運動をしていたハンマーソングがバランスを崩して後ろにひっくり返る様子を、ベンチに座っている四人は黙して眺めた。府中ウマ娘トレーニングセンター学園の生徒がそのような動作でエラーを起こす場面を、四人とも見たことがない。

 

「解せない。あの身体能力で、一体どうやって中央の実技能力検定をパスした──?」

 

 シリウスシンボリの疑問は、畠山のポケットから鳴り響くスマートフォンの着信音に半ばかき消された。

 一言断って席を立ち、ベンチから十分離れてから待受を開く。心拍数が少し上がるのを感じた。

 

【駿川事務員】

 

 知り合って数年、呑みの連絡に二回使ったきりの個人携帯からの着信だった。二つ呼吸をしてから応答キーを押す。

 

「──どうされましたか?」

『あ、畠山トレーナー。駿川です。突然申し訳ありません。ええと、彼女について少々予想外の情報が見つかりまして。他の書類をお渡しする前にお知らせしたかったんです』

 

 電話口の相手の声はたっぷりの不安と焦燥にまみれていた。畠山は唾を飲み込む。

 

「と、言いますと?」

「後期一般入試の二次試験、実技項目で千メーター戦を行いますよね。ランダム抽選された八人で競われるレースです」

「ああ……」

 

 彼が入試の試験官を最後に務めてから五年が経過しているが、さすがにその試験の光景はよく記憶していた。ワンターンの右回りで行われる千メートル戦。午前にダート、午後に芝の二回に分けて行われ、着順はもちろんのこと各区間ごとの通過タイム等も精査され点数がつけられる、実技試験の中でも最も点数配分の大きい領域である。

 学力考査や面接試験などと違って「隣の奴に勝った・負けた」ということがその場で明確にわかってしまうために試験中の受験生たちが味わう重圧は苛烈を極める。加えて、前期・中期の試験で実施される坂路四ハロンの単走とは条件が違いすぎる上に、なぜか実戦形式。今まで学校や地域の小さな競技場でしか走ったことのない小学六年生たちに課すには過酷といっていい試練だ。畠山にはこの形式の試験を廃止し、代わりに六百メートルの単走で実施する案を提出してにべなく却下された過去がある。

「後期」試験のニュアンスを、忸怩たる思いで睨まざるを得ない。

 

『──ハンマーソングさんの午後の試験競走で、妙な数値が計測されていたんです』

 

 このような迂遠な言い回しにも普段の駿川たづならしさがない。畠山は電話口に吹きかからないように少し加減して鼻息を吹いた。

 

「……遅すぎればおそらくハンマー君はこの学園にいないし、速かったなら彼女の名前はトレーナーたちの間でもっと話題になっているはずです。何がおっしゃりたいんですか」

『その……彼女の出走した試験で電動ゲートのトラブルがあって、再走になったそうなんです。それで、中止になった試験で出た数値も採点対象としては採用されませんでした。データ自体は破棄されていなかったのが幸いですね……取り急ぎ、彼女の通過タイムと最終着順だけスクリーンショットを撮ったので送信します』

「承知です。駿川さん、落ち着いて。三時になったら僕も上に上がりますんで、そのときにもう一回話しましょう」

 

 ややあって『申し訳ありません、では後ほど』と聞こえて通話は終わった。即座にSMS機能からの通知が届き、三枚の画像が到着したことを示す。

 

「やれやれ、これはいよいよ香ってきたぞワトソン君」

 

 そう呟きながら彼は画像を確認した。一枚目はいくつかの数字と単語がそっけなく並んでいるだけのメモ画面だ。

 

【二月十五日 一般 後期選抜 二次試験】

【午前の部 D1000m 稍重 15.5-14.3-14.4-13.8-14.3 8着(−2.8秒)】

 

 いきなりずっこけそうになった。ここで全力を出さねばこの先の機会がないのは分かっていただろう。その上で、これだ。

 ……どこを取ってもうだつの上がらない時計ではあるが、短距離で後方待機策を取ってなお最後はバテているらしいのが特に酷い。試験コースに起伏一メートル以上の坂はないため、純粋にスピードと持久力が不足しているのが一目瞭然だった。

 

「でもコーナーで減速した感じじゃないな。苦手じゃなかったのか?」

 独りごち、畠山は二枚目の画像をズームする。これも一枚目と同じく数字と数ワードの列だ。

 

【午後の部 T1000m 良 13.0-12.9-13.1-13.0-12.6 1着(タイム差なし)】

 

 今度は唸り声が出た。もっといいタイムでこの手の試験を走破した合格者などいくらでもいるが、しかしながらハンマーソングという子供が──あくまで今年の二月、芝の短距離レースにおいては──とりあえず及第点のスピード能力を発揮できることは示されてしまっていた。試験委員はこの結果を以て彼女のパスを認めたのだろう。彼女を担当することになってしまった畠山の身としてはホッとしたいところだが、同時にますます膨れ上がる黒い感情もある。

 やはり、あの身体つきと不器用さでこんな結果になるはずはないと感じてしまうのだ。

 練習場の向こう側で数人のシリウスガールたちとスタートの準備をしているハンマーソングを改めて観察する。一枚目のラップタイムから思い描けるような、満足に追走すらできていない有り様の方がまだ想像しやすかった。

 

 再度画面に目を落とした。まだもう一枚残っている。駿川を斯様に動揺させるほどの何か(レターボム)が秘められている画像が。

 ダートコースの方から「出ろー」という間延びした合図の叫びが聞こえ、ゲートの開く音がスピーカーから再生されるのを聞きながら過ぎた数瞬、逡巡。彼は画面をスクロールして最後の画像を表示させた。

 

 

 

【午後の部 T1000m 良】(当該生徒が発送機内で想定外の行動を取ったことにより、ゲートの開放が他より1.2秒遅れる不具合が発生。競走を中止)

 

 

【9.0】

 

 

 

 鼓動だろうか。

 どこか遠くから聞こえる、青春とやらを「ただのかけっこ」に擲つ少女たちの脚が大地を蹴る音。聞き慣れたそれが、今は畠山の耳の奥の血流を雪崩のように掻き立てていた。

 鳴り止まない。

 彼は、つい昨日から幾度か胸中に存在していたテキストを何千回も反芻していた。

 鳴り止まない。

 

 

【こんな子が中央にいるのは、おかしい】

 

 

 ──んー。わかんないけど。『ダメだな』って思ったの

 ──ダメってのは……放っておけない、みたいな? 

 ──ううん。ダメなの。なんか、あそこで声掛けてなかったらね、ダメだったの

 ──何がダメになるの

 ──わかんない。でも、危ないトコだったと思う

 

 今なら、マヤノトップガンの言葉の意味の一端を理解できる気がした。

 

 畠山繁之はゆっくりと【9.0】から顔を上げた。耳朶の奥の雪崩はだんだんと遠ざかり、代わりに正常な周囲の音が彼の感性に蘇っていく。次の瞬間に彼が遭遇したのは、おおよそ次のような光景だった。

 

 トラックコースの第一コーナーに突入しようとする数人の少女たち。口々に何かを叫んでいる。

 そのはるか前方の、コースから三十メートルは離れた場所で、砂煙と悲鳴を上げながら転げ回っている物体。

 たぶん、ハンマーソング。

 凍りついた練習場の空気。

 

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 だから、あの子がコーナー手前で転んだ時は心底ホッとしました。ああ、まだ大丈夫なんだなって。

 なんでそう思ったのかもよくわかりません。「引っ張られてるみたい」って思ったのも、私の感覚の中での話ですから。

 あ、もういいですか?じゃ、また今度。あなたは忙しいのかもしれませんけど、あの子からは目を離さないほうがいいと思います。

 だって、かわいそうじゃないですか。またあんなふうに転んじゃったら。

 

 

 

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