学校の屋上。立ち入り禁止のそこの鍵を、何故か彼は持っていた。
そういう不思議な事は日常の事だったので、今更気にする事の一つにも数えられない。
その屋上で彼と一緒にぼーっとしている時、いつも思っていたことがある。
この落下防止の手摺りは、まるで鉄格子のようだ。
それを彼に言うと、大体はこう返された。
「ただの手摺りだろ」
でも、それは違う。違う気がするのだ。
この手摺りは、ただの手摺りではない。
これを仮に越えたところで、実際飛び降りることなど出来やしない。そうしたら、これはその役割を果たして僕たちを囲む牢獄と化す。
僕たちを外へと逃さず閉じ込める、何処までも高く、空へと繋がる鉄格子。
彼はそのてっぺんに寄りかかり、僕はその足元に座り込んで、鉄格子にもたれかかる。二人で、講義をさぼり雑談をしていた。
隣から空気中を漂い降りてくる紫煙に僅かに眉を顰める。
銘柄など知らないが、煙草の匂いは大抵嫌いだった。
彼はジッポともまた違うライターを愛用していて、確かそれはデュポンという。昔買ったばかりの時、自慢げに見せてきたという記憶が脳の片隅でうずくまっていた。
「また煙草変えたの?匂いが強い気がする」
そう彼に言うと、呆れたように返される。
「だいぶ前からずっと、ラキストのまま。変えてねーはずだけど」
変わっていなかったらしい。
やっぱり、良く分からない。
あんまり興味はないので良いんだけども。
何処かのタイミングで一本ぐらい、吸ってみるのも良いかもしれない。
こういうことを、二ヶ月ぐらい前からよく言っている。
未だ十九歳の自分には、やはりそういう勇気はなかった。
そこから夕暮れまでスマホを弄ったり、適当に駄弁るなりして時間を潰した。
それは日によって違うのであったが、屋上の扉が開いているとき。その時は僕たちが二人そこに居るときだった。
夕暮れになると、その後はまま違う。
そのまま何処かの大型ショッピングモール、そういうところに行って買い物をすることもあったし。また、食事に行ったり、当てもなく街をぶらつくこともあった。
ただ、この街はあんまり治安が良くない。何より、彼は有名人だったから、たまに絡まれることもあった。
そういうとき、僕は少し離れて、彼が矢面に立った。
彼が有名人たる理由を存分に発揮している最中、僕は物陰にいた。
かさこそと隠れるように、路地裏からちょっと出た表道の近く。その店の看板の横で、スマホを触っていた。
22時がタイムリミット。大抵その時間が終わると、車で彼の家まで送る。
僕は車の免許を取っていたが、彼は免許を持っていなかった。
たまにバイクに乗ってくることもあったけど、バイクの免許を持っているとは一度も聞いたことがなかった。
休日、講義がない日は一緒に家でゲームをする事が多かった。
彼は対戦ゲームが好きで、僕の家でよくそれをした。
いつも僅差で勝負がつくんだけど、僕は大体手を抜かれている気がした。
彼はいつも何でもできる人間だったし、僕はゲームでも追いつけていなかったんだろう。
その日の夜、車で山に来るよう言われた。
地元では大きな方の山で、彼はあまり山登りでもする柄ではないけれど、多分そういう気の変わりがあったのだろう。
気にせず、自分のアパートから出て、白のワゴン車を出して行った。
なんとなく、今日は空気が変な気がする。
そう思いながら、憂鬱な気分で山の麓の駐車場まで行った。そもそも、僕はあまりアウトドアが好きなわけではなくて、むしろ嫌いだったために憂鬱だったのだろう。
車を停めて、彼のバイクが無かったことに驚きつつも呼ばれた場所へと歩いた。
それなりに登ったところを指定されていて、それも不思議だった。
こういうことの経験はないが、大抵は麓から登るのが魅力なのではないのかと。まぁ、彼が良く分からないのはいつもの事だ。
運動不足だったのもあって苦労したが、暫く電話を交わして場所のやり取りをしながら、三十分ほど歩いて目的の場所に着いた。
そこに着くと、あったのは。
地面に突き立てられている二本のスコップと、倒れている大柄なスキンヘッドの男。それと、彼だった。
え、あ、と出ない声を必死に震わせ、声帯に鞭を打って空気を絞り出した。
「これは、どうしたんだ」
全く状況に対する理解こそ追いつかないが、何があるのかは理解できる。
死体と、埋めるためのスコップだ。
「あぁ、うん。説明してなかったな、すまん。今日、こいつに喧嘩売られてさ。ヤクザらしいんだ、こいつ。だから、余計なことになっても後が面倒だし、殺そうと思って。刺したナイフもあるから、一緒に埋めよう。一人だと、大変だから」
言ってることは理解できる。だから、より恐ろしかった。
こんな簡単なトーンで、口にしていいものだったか、人の生き死にとは。目の前に、死体があるというのに、ナイフもあるというのに。そんな簡単に、殺した、なんて。
信じられない。彼は、こんな、こんな。目の前にいるのは、最早友人足り得る人間であったか、到底僕には確信をもって信じられるような気はしなかった。
「ごめん……ごめん。僕には、無理だ。警察には、言わないよ。だから、帰る。帰るから……」
その後、何を言おうとしたのか、何を言う気でもなかったのか、分からない。
ただ、山の土地は直ぐに岩盤に辿りついて、人を埋められるほど深い穴が掘れるような場所ではない、という事は知っていた。あるいはそれを言おうとしていたのかもしれない。結局、何を言うのも出来ない程、憔悴していた。
「……分かった。俺は埋めてから、帰るよ。気を付けて、帰りなよ」
少し彼の口調が変わっているようだったが、僕にそれに気付くほどの注意力も、聴力すら残っていただろうか。
その後どうやって帰ったかも覚えていない。
じとり、じくり。自分を責め立ててくる罪悪感と、何かから常に見つめられているような、感覚に。その晩、ずっと苛まれていたのだけは、記憶にある。
翌日、一睡もできないまま、朝を迎えた。
何もする気になれずに、ただ部屋のベッドで横になって、目を見開いたまま、いた。
大学に行って、珍しく講義に出席した。中身は何も頭に入ってこなかったが、何か気を紛らわせていたかった。
終わったのは昼過ぎだったが、腹は全くと言っていいほど空いていなかった。
昨日の事は、何か悪い夢ではなかったか。そう思って、屋上へと階段を上って行った。その先にあるものが怖かったが、確かめずにはいられなかった。
足が重いような、だけど、軽いような。全く分からないが、とりあえずは動いた。だから、登った。
扉の前について、いつものように、ドアノブを捻った。
ガチャ、という音を立てた。
扉は、開いていなかった。
次の日も、その次の日も、開いていなかった。
三日も開いていないというのは、おかしい。
彼に、きっと何かあったのか。そう思って彼の家へと行った。
あまり綺麗でない見た目の、安アパートに彼は住んでいた。
寝るに困るか、食うに困ったら来いよ、と合鍵を渡されていたが、思えば彼の家に来るのは最初に紹介された時以来の事だった。
鍵を刺して、ドアノブを回す。
ガチャ、という音を立てて、扉は開いた。
中は、ゴミ袋が数個置いてある以外は普通の部屋で、強いて言うならば灰皿が二つほど満杯になっているぐらいのもの。ただの大学生の部屋だった。
真ん中に置いてある机の上には、その灰皿が二つ。
それと、白い箱。あと、彼がいつも屋上の扉を開けるときに使ってる鍵のみが置いてあった。
箱は大体iPadの箱くらいの大きさで、だけど無地だった。
蓋を取って開けてみると、中にはパーラメントと書かれた煙草が一箱。それに、金属製のライターが置いてあった。
このライター、何処となく既視感があると思って記憶を探ってみると、一月ほど前に見せてくれたものだった。
スマホで彼が僕に見せてきた物で、銀と金の二つがあり、どちらがいいかと聞いてきたのだ。
金は少し悪趣味すぎやしないか、と言って、銀の方を選んだ。そのライターだった。
カルティエというブランドのライターと、このパーラメント。
パーラメントにしたって、常日頃僕に『吸ってみるといい、似合うから』とおすすめされてたもの。
今日は、そう、その日だった。
暫く箱を前に泣いて。窓から差し込む陽が橙の色を付けてきたころ、ようやく動き出して、学校に向かった。
アパートの駐車場は、見なかった。
学校について、真っ先に屋上に向かった。
ちょっと不安だったものの、鍵を刺すとすんなりとそれは回って、扉を開けて中に入る。
たった三日程とはいえ、酷くその景色は懐かしく。それでいて、全く違く見えた。
それはきっと、僕がここに来るときには必ずいた彼が居ないからだった。
酷く、切なかった。
太陽の方を向いて少し、歩いて。それに背を向けるようにして、鉄格子にもたれかかった。
座りこみ膝を組んで、100Sと書いてある煙草の箱を開けて、一本取り出した。
ポケットから真新しい銀の細長いライターを取り出し、蓋を開ける。
やすりが横向きについている。見慣れたものよりはるかに小さいそれをチャッと擦って、火を付けた。
あぁ、思えば。彼がいつも美味そうに煙草を吸うのは決まってこんな太陽の日だった。
それでいうと、煙草日和。そういうやつなのかもしれない、そう思った。
彼の煙草よりも長い、自分の口に咥えたものの先端に火を近づけ、一息に吸う。
火種が紙に移って、煙が肺の中に入ってゆく。
瞬間、雑味が口腔を満たして、喉は辛みと苦みに支配された。
げほっ、ごほっ、と。
僕は咳き込んだ。