家出   作:十六夜みやこ

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第1話

 忘れていたサヨナラは、伝えないままでよかった。一度口にしてしまったら、もう二度と会えないような気がするから。家出娘がなにを言っているんだ、と思われるかもしれないが、私はべつにみんなとの縁を切りたかったわけではないのだから、それで正解だったと思う。捨てたかったのは場所としがらみだけであって、友情や親愛はできることなら冷凍保存しておきたい。もっとも、権利はすべて相手方に委ねられているわけで、迷惑をかけている側の私が無理強いできることでは到底ないのだけれど。

 なんてポエミーな気分にひたっていても、身体を包みこむ不快感はやっぱり失せてくれそうにない。衣類やら教材やらを詰めこんだせいでずっしりと重いキャリーバッグが、引き止めるように私の歩みを鈍らせる。外は五月半ばとは思えないくらいに暑くて、緊張も相まってのどが渇いてしかたがない。2リットルのペットボトルを入れておいてよかった。いや、だからこんなに重くて、汗もかくわけか。ひどいマッチポンプだ、と肩を落としながら、私は府中駅の改札前に向かうエレベーターに乗りこんだ。

 

 

 

 家を──この場合は寮を──出ると決めていた時刻は、午前十時だった。クラスメイトは教室で現代文の授業を受けていて、私は体調不良のために寮で休んでいる、ということになっていた。ルームメイトが部屋を八時ちょうどに出てから二時間足らずでゼロからの準備を完了させたのは、めんどくさがりな私にしてはよくがんばったはずだ。

 とはいえ、寮生活なんてもともとたいした私物も置いておけなかったのだから、断捨離の手間はほとんどかからなかった。だいたい三十分くらいか。それから置き手紙を書きわすれていたことに気がついて、あわててルーズリーフに家出の旨を書きなぐった。これを忘れると、誘拐を疑った警察が全力で動いてしまうので、非常にめんどうなことになるみたい。これもおよそ三十分。

 GPS対策に普段使いしていたスマホを机の引き出しに入れて、かわりに中古ショップで買っておいた白ロムのスマホを鞄にしまう。帽子のなかに耳をしまって、ダボッとしたオーバーオール──誰にも見せたことのないやつ──で尻尾を隠蔽。

 これで準備完了。さあいくぞ。うーんどうしよう、やっぱり怖い。このくりかえしで一時間が消えた。

ものごとを決断するときには、余裕なんてないほうがいいのだと痛感する。あれだけ覚悟を決めていたつもりだったのに、時が経つにつれて一本、また一本と、脚に不安と恐怖の鎖が絡みついていく。

 身体は小刻みに震えていて、ほんとうに体調不良になりそうだった。それでいいかとも思った。だけど、ここで逃げてはいけないとも思った。そして私は苦慮のすえに、「逃げ」を捨てることにした。

 個性をひとつ失ったような気がしてちょっぴり寂しかったが、つづけて襲ってきた交感神経の昂りによって、それはあっさりと上書きされた。深呼吸をくりかえしても、鼓動はうるさいったらありゃしない。引きずって音を出さないようにわざわざ重たいバッグを持ち上げて歩いているのに、これじゃなんの意味もない。

 そっと聞き耳を立て、扉の前にだれもいないことを慎重に確認してからドアノブを回して外に出る。学園の人に出会ったら一発アウト、というわけではないのだが、言い訳するのもかったるいのでだれにも会わないに越したことはない。あたりをキョロキョロと見渡しても、それらしき人影は見当たらなかった。「これはチャンスだ」と、皮肉にもレースで磨き抜かれた私の直感が告げていた。

 駆け足のまま門を抜けて、振り返る。つい先ほどまで私を飲み込んでいたそれは、敷地の境界線をほんの一歩でも超えてみれば、ただの大きい建築物にしか見えなくなった気がした。

 

「ありがとうございました」

 

 無機質な一礼を寮に、そして角度を変えて校舎に。

 

「迷惑をかけて、ごめんなさい」

 

 誰に謝っているのかもわからないし、許されるとも思っていない。

 けれどなぜだか、そう言わなければならない気がした。

 理由を考えるのはやめることにする。少なくとも、いま時間を費やすことではないのだから。

 

 

 

 ホームのベンチに腰かけて、ようやく右腕がキャリーバッグの重量感から解放される。次に電車が来るのは五分後らしい。人身事故とかおこさないでね、なんてぼんやりと祈る。

 いまの私は正直に言って、家出をしているという実感はあまりない。だってこのまま寮にもどれば、またこれまでどおりの日常が始まるわけだし、学校を抜け出して電車に乗ること自体は遠征なんかでたびたび経験していたから。唯一ちがうのは、となりにトレーナーさんがいないということ。寂しいけれど、彼をまきこむわけにはいかないので、しょうがない。

 手持ち無沙汰になった私は、SNSでも見ようとポケットからスマホを取り出して、それにSIMカードが入っていないことを思い出し、またポケットにもどした。

 しみついた癖というものは、やはり簡単には抜けないものらしい。これからも似たようなことを何度もやらかして、そのたびに当時のことを思い出して暗い気持ちになるのかな。そうだったら嫌だな、とすこし憂鬱になる。

 

「……まもなく電車が参ります、黄色い線の内側に──」

「あ」

 

 いつもと変わらぬ棒読みのアナウンスが、電車の到来を告げた。

 その瞬間──私のなかの全細胞が、ゾワッと勢いよく沸き立つのがわかった。

 この電車に乗ってしまったら、私はほんとうに引き返せなくなる。

 先ほどまではどこか非現実なものにしか思えなかった出来事が、いま目の前まで迫っているのだと──最後の決断をしなければならないときが来たと、本能的に悟った。

 

「いやだ」

 

 無意識に口からこぼれた弱音が、車輪の音に吸い込まれていく。それが自分のものだと一瞬遅れて気づき、押し殺すように口もとを手で抑える。しっかりしろ。あれだけ下調べをして、腹を括って実行したんだろ。でも、いまならまだもどれる。電車が止まった。乗らなければいい。ドアが開いた。見送ればいい。乗らなきゃ。乗るな。乗らなきゃ──。

 

「うるさい、うるさい、うるさい!」

 

 出発のアナウンスが止むと同時に、私は周囲の目も気にせずに叫びながら、かけこみ乗車のごとく車内に身体をねじ込んだ。呼吸が落ち着かず、そのまま閉じたドアによりかかる。

 

「これでいいんだ、これで」

 

 自分に言い聞かせるように何度もつぶやく。勇気がいるのは最初だけ。すべては自転車とおなじで、いちど乗れるようになってしまえば余裕だ。最初の一歩は踏み出せた。今後のプランだってある。ここから先は、きっとなるようになる。

 三番線を発った新宿行の電車は、何も言わずに私を運んでいった。

 

 

 

 新宿駅で電車を降りてから、山手線内回りに乗りかえて品川駅へと向かう。ピーク時を過ぎた車内は比較的空いていて、重たい荷物を抱えた私にとってはありがたかった。

 端っこの座席に腰を下ろし、車窓からの景色をぼうっと眺める。マンション、マンション、ときどき川。なんの変哲もない景色ではあるのだけれど、これが東京で見る最後の風景になるのかもしれないと考えると、初めての景色でも不思議と愛しさがわいてくる。

 ふいに、ひらけた公園のベンチに座っている、ひと組の中学生らしきカップルが目に飛び込んできた。なにを話しているのかはわからないが、女の子のほうは手を叩きながら足をバタバタと上下に動かしているから、きっと面白い話なのだろう。

 

「……楽しそう」

 

 私と彼女のちがいはどこにあるのか。年齢も、背格好もほとんどおなじ。学校をさぼっていることも、おなじ。でも彼女には帰る家があって、恋人がいて、なによりとても幸せそうだ。

 私も地元の公立中学校に入学していたら、ああいうふうになれていたのかな。

 ウマ娘じゃなかったら、こんなに挫折して傷つくこともなかったのかな。

 "ふつうの女の子"だったら、幸せになれていたのかな。

 そんな私をなぐさめるように、涙が視界をにじませる。これ以上見ていても辛いだけだから、と。

 それでも、私は目を背けなかった。私の──セイウンスカイの現状がいかに異様なものであるのかを、心に刻みこむために。この先はふつうのレールを外れて生きていくのだと──それが私の選んだ道であると、決して忘れないために。

 電車は規則正しく時間ぴったりに、品川駅へと到着した。

 

 

 

「品川駅って、こんなところだったっけ?」

 

 記憶との相違に首をかしげつつ、私は新幹線のチケット売り場を探した。

 適当に散策をしていると、それらしき券売機を発見。画面の案内に沿ってポチポチとパネルを触っていると、うまくいったみたいで合計料金が液晶の隅に表示される。

 

「いちまっ……!? え、こんな高いの、新幹線」

 

 よく調べていなかった自分も悪いのだが、片道でこれかとショックを受ける。

 事前に予約しておけば、より安く済ませること自体はできた。しかし特定の手がかりとなるような行為は万に一つも避けなければいけないので、この判断に後悔はない。とはいえ、金銭的に痛手なことには変わりないのだけれど。とほほ。

 機械が吐き出したチケットを一瞥して、品川→名古屋の表記を確認し、ポケットにしまう。

 ところどころの壁に貼られた道案内に沿って歩いていくと、新幹線の乗り換え専用の改札を見つけた。

 そういえばこんなのもあったな、と軽く懐かしみながら、乗車券と特急券を重ねて同時に通す。名古屋行のホームがどこにあるかを電光掲示板でチェックしてから、そこに向かってまた歩き出す。今日は歩いてばっかりだと、心のなかで文句を言いながら。

 すこし時間をかけすぎてしまったのか、ホームに着くと同時に新幹線が到着した。まぁ、間に合ったのでよしとしよう。乗り遅れても、どうせ自由席だ。最悪、次のやつに乗ればいいだけ。

 

「……じゃ、出発しますか」

 

 バイバイ、東京。また会えたらいいね。

 私をすんなりと吸い込んだ鉄の箱は、今日も人々の夢や希望をのせて走り始めた。

 

 

 

 ひさしぶりの新幹線は思っていたよりもつまらなくって、窓に映る景色にもすぐに飽きてしまった。しかたなくスマートフォンに入れておいた電子書籍で暇をつぶしていたのだが、読むのを楽しみにしていた小説もこれまたつまらなくって、私はすぐに眠気に襲われた。誘われるままに目をつむり、しばらくして眠りから覚めると、そこはもう名古屋だった。

 

「はじめて来たなー、名古屋」

 

 ホームに降りてから人通りのないところまで移動して、軽く伸びをしながらつぶやく。

 観光のために訪れたわけではないから、その発言に喜びはふくまれていない。単なる感想だ。それに、ここはまだゴールではない。やることはまだまだ山積みなわけで。

 ほかの通行人についていくように進んでいくと、駅構内をぬけて外に出た。スッと目に飛びこんでくる陽光がまぶしくて、おもわず目をほそめる。ここからべつの路線に乗り換えるんだけど、そのまえにひと仕事。

 地図アプリ──行儀は悪いが、近くのカフェから一瞬だけWi-Fiを拝借した──をひらいて駅付近の公衆トイレをさがし、二番目に近いところへと向かって歩いていく。なかなか遠いところにあったけど、新幹線で体力を多少回復できたので、移動はそこまで苦ではなかった。ふつうに女子トイレのほうに入って、個室に鍵かけて。それから床に寝かせたキャリーバッグを勢いよくひらき、新品の洋服とズボンを取り出して着替えをはじめる。

 なぜこんなことをしているのかというと、防犯カメラにひっかかる確率をすこしでも下げるためだ。ほんとうは府中の駅につくまでにやりたかったことなんだけど、府中市なんてどこよりもくまなく捜索されるだろうと考えて、あきらめた。ここまで着てきた服は……さすがにこの場所に捨てるわけにもいかないので、ひとまずバッグへと押し込む。

 トイレから出たら、来た道を引き返して駅へともどる。案内に沿ってまた歩き、またもや重たいキャリーバッグを持ち上げながら階段を上り下りして、市営東山線の電車に。

 駅の乗換案内によると、伏見という駅で降りて、市営鶴舞線とやらにまた乗り換えるらしいので、素直にしたがう。

 乗り換えてもけっきょくは地下鉄なので景色は変わらず、やることもないのでひたすらに暇をもてあましていると、

 

「そんなでかい荷物持ってどこにいくんだい、お嬢ちゃん」

 

 と、左隣のつり革につかまっていた──おそらく五十代前半くらいの──背中の曲がったおじさんに声をかけられた。

 すでに捜索がはじまっていたのかと警戒するも、彼はおせじにもきれいな身なりとはいえないし、右手には赤丸がいくつもつけられた新聞紙がにぎられているので、警察の関係者ではないのはほぼ確実だった。

 きっと興味本位で話しかけてきただけだろう。おじさんには申し訳ないが、適当にあしらうことに決めた。

 

「地元の祖母が危篤なんです」

 

 あらかじめ用意しておいた嘘で答える。

 おじさんは疑う素振りもみせず、

 

「そうかぁ、そりゃ大変だ」

 

 と言った。罪悪感が、チクリと胸を突いた。

 おじさんはそんな私の様子に気づくこともなく、話をつづける。

 

「なぁ、お嬢ちゃん。おせっかいでわりぃけど、せっかくだし聞いてくれや」

「はい?」

「あんな、家族の、あぁいや、まぁダチでも恋人でもなんでもいいんだけどな、とにかく、大事に思ってる人とはずっと繋がってなきゃだめなんだ」

「……?」

 

 この人は何を言いたいのだろう。

 よくわからないままに、彼の話に耳をかたむけてみる。

 

「むかしの話なんだけど、おれ、すげえくだらねぇことで親父と大げんかしてな、そんときは実家暮らしだったんだけど、ありったけの貯金やら洋服やらをもって、逃げるように家から飛び出したんだわ」

「……え」

 

 おもわず驚きの声が漏れるも、電車の轟音によってそれはかき消される。

 状況こそちがえど、他人事ではないと思った。

 

「そんで、ずーっと日本全国、あっちこっちをフラフラしてさ。バカみてぇに安い宿に泊まりながら日雇いで食いつないだり、田舎のほう行って農家んところで住み込みで働いたりしてさ。若かったから、体力的にもそれでどうにかなっちまってたし、なんつーかこう、まわりのやつとちがう人生を歩むおれってカッコいい、とか思ってて。そんなわけねぇのにな。ふつうにがんばってるやつがいちばんカッコいいにきまってらぁ。んで、何年も経つうちに親父のことなんてすっかり忘れちまって、家を出たときに着信拒否した実家や親父の番号も、それの解除どころか存在すらおぼえてなくて。そしたらある日突然、ほんとに突然、地元の病院から電話かかってきたんだよ。『お父様が交通事故で亡くなりました』って」

「……っ」

 

 他人事ではない。私は心の底からそう思った。

 私が顔をしかめるのを見てしまったからか、彼はすこし申しわけなさそうな顔をしながら、掠れた声で気遣う言葉をくれた。

 

「ごめんなぁ、婆ちゃん危篤のときに縁起悪い話して。でもな、まぁなにかの縁だと思って、これだけは覚えておいてほしいんだわ。死に目に立ち会うのって、そりゃ辛いことなんだけど、ある意味すっげえ幸せなことなんだよ。おれみたいに、苦しんでる親父を応援してやることもできないまま、死化粧までぜんぶ終わって、ようやく顔を見るなんてことはあっちゃいけねぇんだ。親父、しわの数めちゃくちゃ増えててさ。身体もやせ細って、あぁもう年寄りだったんだなって思ったよ。思うのが遅すぎたけどさ。そんで通夜のときにお袋から聞いたんだけど、親父、死ぬ二年ほど前からは毎日おれの携帯に電話掛けてたんだってさ。電話番号を変えることもしないまま、同じ携帯で、同じ番号にずっと。おれに、会いたかったんだろうな。それでひと目みることもなく死んじまって、親父はどういう気持ちだったのかな、なんて考えると、いくら後悔しても足りねえんだ。それがショックでしかたなくて、心を病んじまって、いまもこのありさまさ。なぁ、お嬢ちゃん」

「……はい」

 

 おじさんは、潤む瞳をひとぬぐいして。

 

「これから先、どんなに家族と揉めても、ダチと縁を切りたくなっても、なにか理由があって、ぜんぶを捨てて逃げたくなっても、大事なひとと二度と連絡できないようにするのはやめておいてくれよ。まぁ、嫌になってちょっとのあいだ距離をとってしまうのはしかたねぇ。なにもずっといっしょにいろってことじゃなくてな、ヤバいときにつながる連絡先くらいは残しておこうって話だ。そうじゃないと、ほんとうに、ほんとうに辛いから。なぁ、覚えておいてくれねぇか、あんたはまだ若いんだから、いくらでもなんとかできるんだから、おれみたいにならないでくれよ、お嬢ちゃん」

「……わかり、ました」

 

 痛いほどに感情が詰めこまれたお願いをうけた私は、とぎれとぎれにそう返すことしかできなかった。

 気づけば電車は目的地についており、まもなくしてドアがゆっくりと開いた。

 

「すみません、私、ここで降ります。貴重なお話、ありがとうございました」

「いやそんな、こっちこそ、こんな不審者みたいなジジイの身の上話を聞いてくれてありがとな。婆ちゃん、良くなるといいな」

「……はい」

 

 私はキャリーバッグをすばやく持ち上げて、逃げるように電車から降りた。

 

「あの」

 

 それでもやっぱり、仮に偶然だったとしても、私にとって大切なことを教えてくれた彼をこのまま騙したまま別れたくはなくて。

 

「嘘ついてごめんなさい。私、ほんとうは、ただの家出少女なんです」

 

 ホームに降りたところでなんとか絞り出した言葉は、ドアの遮蔽音に吸い込まれて消えた。

 おじさんはガラス窓の向こうで、それを知ってか知らずか、頬のしわを寄せながらニコリと微笑んだ。

 

 

 

 目的地である八事駅に着いた私は、エレベーターもない不便なつくりの駅を右往左往しながら、果てしなく長く感じられた階段をのぼってどうにか地上に出た。

 この町には、トレセン学園を中退した私の友だちが住んでいる。私とおない年で、高等部への進学をやめて実家にもどり、しばらくして大学生になった。いまは一人暮らしをしていて、大変だけど毎日が楽しいらしい。そんな彼女に今回のことを相談したら、「しばらくはこっちに住まないか」と提案してくれた。私は一も二もなく了承をした。

 

「ごめん、おまたせ!」

 

 軽やかな足どりでこちらに向かってくる彼女を見つけて、ほっと胸をなでおろす。緊張せずに話すことができる相手とであえたのは、ずいぶんとひさしぶりだった。

 

「ううん、着いたばっかだから。それより、ほんとうに助かったよ。部屋貸してくれてさ」

「いいのいいの! セイちゃんには学園でいろいろとお世話になったし……それに、セイちゃんの辛さは、私もよくわかってるつもりだから」

 

 どこか儚げな笑みを浮かべながら、彼女が答える。

 私たちはある意味、自分に限界を感じ、挫折して。逃げるようにそこから消えていった同士だった。

 

「……そっか。それでも、ありがとう」

「もう、いいって言ってるのに。とりあえずいこ! こんな重そうなものもってここまで来るの、疲れたでしょ?」

「あはは、よくわかったね。腕もプルプルで、一秒でもはやく休みたかったり……」

「あとちょっとだけがんばってね。十分も歩けばつくから」

 

 そう言うと彼女はこちらに背を向けて、来た道を引き返すように歩きはじめた。

 雑談がてら、彼女はこの町についての紹介をしてくれた。

 

「あそこにデパートがあるでしょ? 基本的になんでもそろってるから、食料品も雑貨もいつもそこで買い物してるんだ。というか、ほかに選択肢がないってのもあるんだけど」

「そうなんだ」

「うん。だから、必要なものがあったらまずそこに行くといいよ。ほんとうは町の案内でもしたほうがいいんだろうけど、とくに観光地みたいな場所もないし。まぁでも、いいところだよ。歩道も狭くはないし、大学も近いしね」

「へぇ……」

 

 相づちをうちながら、首をこまめにふって周囲の景色をみる。

 失礼ながら、特筆すべきこともない平凡な町並み、といった印象をうけた。もちろん文句などではないし、むしろありがたく思っている。無個性な町のなかにまぎれているほうが、おなじく無個性な私にとっては落ち着くからだ。

 

「ところでセイちゃん。そのキャリーバッグ、なんか変な音しない?」

「え?」

 

 彼女の言葉をうけて、キャリーバッグが発する音を注意深くきいてみると、たしかに変な音──ガラガラ、ではなくガリガリと何かを削るような──がハッキリときこえた。

 その場で立ち止まり、それを頭上へと持ち上げてタイヤを見てみると、左前輪のローラーが潰れてぐしゃぐしゃになっていた。

 

「あちゃー、どうりで重いとおもったよ」

「これもうダメだね。どこかにぶつけちゃったのかな?」

「えーと」

 

 心当たりを探っていると、駅の階段をのぼるときに横着したせいで、バッグが段差にガンガンと音を立ててぶつかっていたことを思い出す。

 

「うん、そうみたい」

 

 取り繕った笑みを浮かべながら答える。

 思い返せば、私が遠征にいくときの荷物はすべて、トレーナーさんが運んでくれていたっけ。「スカイの負担をすこしでも減らしたい」なんて言いながら、いまの私みたいに腕をプルプルと震わせて。私のほうが力は強いのに、彼は頑なにゆずらなかった。そして私の荷物をどこかにぶつけることも、絶対になかった。

 私は人に頼ってばかりだったんだな、といまさらながら自覚する。

 

「そっか。でもこれだと、いろんなとこ移動するのに不便だね。こんど買い替えたほうがいいかも」

「……そうするよ」

 

 即答はできなかった。

 自分がこれからやろうとしていることが、正しいことである自信がなくなってきたから。

 私はこの家出を、心のどこかで気楽なものだと考えていた。

 現実がどうしようもなく辛かったのは事実なのだけれど、せっかくの機会なのだから日本中を飛び回って自分探しでもしてみよう、なんて浮ついてもいた。それにどうせ私がいなくても、むこうは問題児がいなくなってせいせいするだろうし、大切に思っている人たちは今日もかわらず元気に生きている。そう信じて疑わなかった。

 けれど、先の電車の件しかり、ひとりでは何もできないことをあらためて痛感させられたこの瞬間しかり。私がいまおこなっていることは、自分自身も含めてあまねくすべての親しい人たちに不幸をまきちらすだけで、そこに意味などは存在しないのではないか。

 私は、ひとりでは生きていけないのではないか。

 私がひとりで生きると、誰かと生きるよりも迷惑をかけてしまうのではないか。

 

「──ちがう」

 

 そんなことはない。最初だけだ。まだ慣れていないだけなんだ!

 雑念を振り払うように頭をふって、数秒前には歩きだしていた彼女のあとを追った。

 

 

 

 私の足が遅いせいで、家までは十五分ちかくかかった。

 こじんまりとしたマンションの、エレベーターを上がった四階の角部屋。そこが彼女の暮らす家だった。

 スペアキーをわたされ、「ためしに開けてみてよ」と言われた。鍵穴にそれをねじ込んで回し、ドアノブを引くと、ふわっとした──おそらくアロマか何かの──香りが私を包みこんだ。寮ではそういった文化はなかったので、少々驚いた。

 

「1Kだけど、大丈夫だよね?」

「もちろん」

「あはは、寮も二人一部屋だったもんね」

 

 彼女はそう言いながら靴を脱ぎ、つづくように私も脱いだ。

 キッチンを抜けて八畳の部屋にはいると──そこには寮の相部屋とはまったくちがう、きらびやかな世界があった。

 淡いピンク色をしたセミダブルのかわいいベッドの上には抱き枕が置かれていて、その近くには寮の部屋のスペースではまず置けないような、香水やらアクセサリーやらの小物が展示品のように並べられている専用の棚があった。折りたたみ式の広々としたテーブルが壁際に佇んでいて、その手前には白色のメッシュチェア。ここで勉強や食事をしているのだろうか。

 

「荷物はてきとうに置いていいからね。とりあえず、ご飯にしようか」

「あ、うん……」

 

 彼女はキッチンに向かうと、慣れた手つきで調理器具と食材、そして調味料を取りだして、手際よく調理をはじめた。作っているそれが親子丼だと気がついたのは、仕上げの卵を投入したフライパンに蓋をかぶせてからだった。いかに私が料理をしてこなかったのかを実感して、また苦しくなる。

 

「すごいなぁ」

「んー? なにが?」

「この場所で、ひとりで、ちゃんと生きているんだなって」

 

 私がつぶやくと、彼女はサラダ用の野菜を切りながら、

 

「セイちゃんだってできるよ」

 

 と、言った。

 私に同じことができるとは思えなかったけれど、「ありがとう」とだけ返した。

 

「おまたせ。簡単なものでごめんね」

 

 並盛りのどんぶりをふたつ運んできた彼女は、そう言って詫びた。

 お肉を切って、たまねぎも薄く切って。何種類もの調味料で味つけをして、火加減を調節して、並行して使用済みの器具も片付けて。それのどこが簡単なのか、私にはとてもわからなかった。

 

「ううん、すっごくおいしそう。泊めてもらうだけじゃなくてご飯までごちそうしてもらって、ほんとにありがとうね」

「だから、気にしないでいいんだって。さ、食べよ食べよ!」

「そうだね。いただきます」

 

 私は手を合わせたのち、鶏肉と卵と白米をまとめて箸先でつまんで口に入れた。ちょっとしょっぱいけど、やさしい味がしておいしかった。

 

「いつまでいるんだっけ、ここ」

 

 彼女が訊いてくる。

 

「遅くても三日以内には出るつもり」

「早くない? もっとゆっくりしていけばいいのに」

「いやぁ、そういうわけにもいかないよ」

 

 私はそう言ってから、麦茶をひとくち飲んだ。

 いつまでも彼女のプライベートを邪魔しつづけるわけにはいかない、というのも大きな理由ではあるのだが、家出をした未成年をかくまっていることが警察により発覚した場合、"本人の合意のもとでも"誘拐扱いになって逮捕されることもあるらしい。そのためになるべく早く、つぎの宿──予定では格安で長期滞在ができるホテルだが──に移らなければならない。

 さすがに学園だって、この時間ではまだ私が外出していることになんて気がついていないだろうし、仮に気がついていたとしても、せいぜいサボりに外へ出たとしか考えていないはずだ。それに……誰かと話さないと、寂しくておかしくなってしまいそうだったから。

 

「泊まるところはともかく、生活費はどうするの? やっぱりレースの賞金?」

「それが使えたらよかったんだけど、賞金のたぐいはお母さんが管理してるから。夜勤のコンビニバイトとか、住み込みのリゾートバイトでなんとかするつもり」

「そういうのって、家なくてもできるの?」

「だいじょぶでしょ。ホテル暮らしだとしたら、番地だけ伝えればいいわけだし。そもそも向こうだって、わざわざ家までは調べないよ」

「住民票は?」

「マイナンバーカードがあるから、コンビニで発行できる。親元をはなれて一人暮らししている学生だって珍しくないから、住所の不一致をあやしまれることはないはず」

「へぇぇ、めちゃくちゃしっかり計画立ててたんだね」

「まぁ、ね」

 

 彼女の言うとおり、計画だけは完璧に仕上げてきたつもりだった。

 それでも今日一日のあいだに、私の心は数え切れないほどに揺らいで。完璧に思えたプランも所詮は机上の空論にすぎなかったのだと、いやになるほど思い知らされた。いま彼女に伝えた計画ですら、どこでどうほころぶか検討もつかないわけで。

 

「それよりさ、大学生ってどんな感じなの?」

 

 強引に話題をかえる。これ以上考えていても、どんどん気持ちが沈んでしまうような気がした。

 

「うーん、まぁ、楽しいよ! 必修の授業はめんどくさいのも多いけど、興味あるやつを自分で選べたりもするし。でもやっぱり、学校の外のほうが楽しいかな。バイトでお金を稼いで、サークルの友だちとパーッと遊んで。洋服もコスメもたくさん買えるし、おいしいレストランにもいける。ほら、学園にいたときは、そんな余裕もお金もなかったから」

「……そうだよね」

 

 楽しげに話す彼女をみて、やはり学園をやめたほうが幸せになれる場合もあるのだと知り、安心する。

 

「でもね、セイちゃん」

 

 だけど、そんな陽気なテンションが嘘だったように、彼女はふいに目線を下げて。

 

「学園をやめて、よかったことばかりじゃないよ」

 

 静かに、重々しくそうつぶやいた。

 

「どういうこと?」

 

 私は尋ねる。

 

「……トゥインクルシリーズってすごいよね。全国のどんな場所にいても、重賞の前にはテレビとか、電光掲示板とか、友だちとか、SNSとかはその話題ばっかりで」

 

 彼女はポツポツと話しはじめる。

 

「そこで紹介されるウマ娘たちの背中を、私は入学してからずっと追っていたの。練習はきついし、思うように結果がでないとさらにきつかったけど、それでもいつかは自分だって花ひらくと信じることができた。だって私も──彼女らとおなじ、トレセン学園のウマ娘だったから」

「……うん」

「最終的には、あまりにレースで勝てないのがつらくてやめちゃったんだけどね。退学届が受理されたときは、いろんな重荷から解放されたような気がしてうれしかったよ。でもね、それは最初だけ。冷静になった私には、自分は敗北よりもずっとみじめな選択をしたという、あらがいようのない事実しか残らなかったんだ」

 

 敗北よりも、ずっとみじめな選択。

 彼女のこの言葉が、私の頭のなかでなんども反響する。

 

「私の場合は、大学に入ってあたらしい友だちができたり、バイトでの仕事ぶりが先輩とか店長にみとめられたりしてようやく、いまの自分を受け入れることができた。それでも、まわりがトゥインクルシリーズの話題で持ちきりになると、いまだに夢にでてくるんだよ。私がレースで一着をとった姿とか、逆にボロボロに負けた姿なんかが。そのどっちの夢でもね、私は『つぎのレースもがんばろう』って、希望に満ちた決意をかためて目をさますんだ。それで目が覚めたあとは、なんでだろうね、ほとんど泣いてるの」

 

 どこかあきらめたような顔をしながら、言葉を連ねる。

 

「ねぇ、セイちゃん」

 

 彼女はうつろな瞳でまっすぐとこちらの目をみて、

 

「セイちゃんは、私みたいにならないでね」

 

 と、言った。

 私はただ、黙ってうなずくことしかできなかった。

 

 

 

 夕食を近所のファミリーレストランですませ、ユニットバスのお風呂──もちろん家主である彼女のあとに入った──からあがると、彼女はノートパソコンのキーボードを一心不乱に叩いていた。つい先ほど「明日までの課題がおわってない」と嘆いていたので、おそらくそれに取り組んでいるのだろう。知らなかったとはいえ、忙しいときに訪ねてしまったことを反省する。

 

「あーセイちゃん。おかえ、り……」

 

 彼女はちらりと私のほうをみると、どういうわけか言葉を詰まらせてしまった。

 

「どうしたの?」

 

 私が尋ねると、

 

「う、ううん、なんでもないよ」

 

 と、答えた。

 彼女がそういうのなら、これ以上追求すべきことでもないのかと考える。

 まだ髪を乾かしていないから、おかしな髪形になったりしてるのかな?

 

「それよりさ、洗濯物。私のといっしょに回しちゃったけど、もしかして気にするタイプだった?」

「ぜんぜん。何から何までごめんねぇ。お金はちゃんと払うから」

 

 私がそう言うと、彼女は両手を前につきだして、

 

「いやいや、そんなのいいって! 私、悩めるセイちゃんの力になりたかっただけなんだから!」

 

 と、言った。そう言われても、金銭面の負担はさすがに申し訳ないと主張したのだが、彼女はかたくなに取り合わなかった。

 

「あ、ドライヤーは、どこでもいいから空いてるコンセントにさして使ってね。おすすめはキッチンの換気扇の真下かな」

「りょーかいでーす」

 

 うながされるままにキッチンへと足をはこび、それらしきコンセントにプラグをつきさして髪を乾かす。大浴場の備えつけに甘んじず、自分用のやつを買っておいてよかった。些細なことかもしれないけれど、何もかも借りてばっかりというのは申し訳ないと思った。

 

「きみとゆめをかけーるよー……♪」

 

 ドライヤーの冷風をあびながら、茹だった頭にうかんできたフレーズをなにげなく歌う。

 

「……セイちゃん?」

 

それがウイニングライブにまつわるものであると気がついたのは──彼女に呼びかけられてから、ようやくのことだった。

 

「え……あ、ご、ごめん……」

「いや、私はいいんだけど……大丈夫?」

「う、うん」

 

 しみついた癖というものは、やはり簡単には抜けないものらしい。

 府中駅のホームで考えていたことを思い出して、鳥肌が立った。

 

「きょうはもう寝たほうがいいよ。身体だけじゃなくて、精神的にもたいへんな一日だっただろうし。ゆっくり休んだらいいよ」

「……そうだね、そうさせてもらうよ」

 

 どうやらパジャマパーティーはお預けらしい。

 私はドライヤーをバッグにしまうと、入れ替えるように枕を取りだした。万が一、野宿をすることになってもいいように持ってきておいたものだった。

 

「あ、布団とかは押し入れにあるから、自分で持っていってくれる?」

「え、いいの? ふつうに床で寝るつもりだったんだけど」

「何言ってるの……そんなことさせられるわけないじゃん。セイちゃんだって女の子だもん」

「にゃはは。なら、ありがたく寝させてもらうね」

 

 押し入れの引き戸をあけて、下段の底に鎮座している布団一式をとりだす。枕の準備については杞憂だったらしい。慣れ親しんだ枕でなければ、寝られないというわけでもあるまいし。

 布団を敷き終わり、就寝前の歯磨きをしていると、後ろから「終わったー!」と歓喜の声がきこえた。どうやら、無事に課題を提出することができたようだった。私は「おめでとう」と一言返す。

 

「せっかくだし、私もそろそろ寝ようかな」

 

 彼女はそう言ってパソコンを閉じると、掛け布団とマットレスの隙間へとすばやく身体をもぐりこませた。

 

「あれ、いつのまに歯磨きしたの?」

「お風呂のなかで。もちろん、浴槽にはこぼしてないから安心して!」

「わぉ……なんというか、したたかだね」

「……そうかなぁ?」

 

 首をひねる彼女をみて、くすりと笑う。

 彼女はその疑問を引きずることもなく、枕元に置いてあったリモコンで部屋全体の照明を落とした。

 

「おやすみ、セイちゃん」

「うん。おやすみなさい」

 

 きょう一日は、いろいろなことが起こりすぎた。身体も心もすっかりくたくた。だけど、当初の不安とはうらはらにあったかいご飯もたべれたし、やわらかい布団で横になることもできた。きっとこのまま、泥のように眠ってしまうのだろう。

 

「……」

 

 ──そう考えてから一時間が経過しても、私はいっこうに眠りにつける気がしなかった。

 どうしてしまったのだろう、と考える。

 私、寝つきが悪かったことだけは一度もないのに。

 

「……セイちゃん」

「……!」

 

 ふいに背後から名前を呼ばれて、私の身体がピクリと跳ねる。

 

「セイちゃん、起きてるよね」

「……うん」

 

 先ほどまで寝息を立てていたはずの彼女が、確信をもった言葉で訊いてくる。

 ごそごそと、布団のなかで体制をかえていたのが耳障りだったのだろうか。ほんとうに、迷惑ばかりかけてしまって申し訳ないと思った。

 

「……ごめんね、うるさかったかな」

「いいんだよ。私が物音に敏感なだけだから。それよりもね」

 

 彼女はやさしい声色でそう答えたのち、

 

「──セイちゃんさ、学園にもどりなよ」

 

 と、至ってまじめなトーンで言った。

 

「え、え?」

 

 あまりにも唐突な──拒絶にも似た勧告をうけて、私の頭がぐるぐると混乱の渦に飲みこまれる。

 彼女はすこし前まで、私の力になりたいと言ってくれた。あれから、私がなにか気に障ることをしてしまったのだろうか。心あたりがなかった私は布団から跳ねおきて、とにもかくにも謝りつづけることにする。

 

「ご、ごめんね。私、やっぱり迷惑だったかな。なにか、変なこととかしちゃってたかな。だったらごめんなさい──」

「ちがうの! セイちゃん、きいて!」

 

 徐々に涙声へとかわっていく私を、いつのまにか目の前にいた彼女が、両肩をぐいとつかんで止める。

 人肌のあたたかみを感じた私はゆっくりと、ゆっくりと冷静さをとりもどす。

 

「セイちゃんのことがいやになったわけじゃないの。むしろセイちゃんとこのまま暮らしたら、毎日がすっごい楽しくなるとおもう。でもね、やっぱりセイちゃんは私とはちがうの。あなたは、こっちに来てはいけないウマ娘なんだよ」

「……?」

 

 言っている意味がわからず、呆然とする。

 彼女はそれを察したかのように、

 

「だってセイちゃん。ぜんぜん自由になれていないもん。私だって、学園をやめたその日はすべてから解放された気がしてぐっすり眠れたのに、セイちゃんは眠くなる気配すら見せないんだもの」

 

 と、説明をした。

 そうかもしれない、と思った。

 

「お風呂上がりに口ずさんでた歌もそうだし、そもそも退学じゃなくて家出を選んだことといい、セイちゃんは、まだレースをあきらめきれていないんだよ。こころの奥ではまだ、あの場所でがんばりたいって思っているの」

「ち、ちがう……」

「ちがう? なら、ならどうして──」

 

 彼女は、私の肩をつかんでいる手にぎゅっと力をこめて、

 

「どうしてパジャマの代わりに、トレセンのジャージなんて着ているの」

 

 と、言った。

 

「……は?」

 

 それは、私がパジャマの洗濯を忘れて着るものがなくなったときに、よくおこなっていた寮生活での習慣だった。

 脳天を、衝撃が矢になってつらぬいたような気がした。

 おもむろに真下をみると──私の身体は上下ともども、しっかりとトレセン学園のジャージに包まれていた。

 

「なん、で」

「……その反応をみるかぎり、やっぱり無意識だったんだね。ほんとうに未練を断ちきれていたのなら、捨てるとまではいかなくても、身につけようとなんて思わないよ。だってそれをみた瞬間に、つらい思い出がフラッシュバックしてしまうから。でも、セイちゃんはそうじゃなかったんでしょ?」

「それは……」

 

 否定の言葉を口にすることはできなかった。

 事実、私はトレセンのジャージをあたりまえのようにバッグへと詰めこんで、取り出して、身につけて。これだけ目にする機会があって、違和感を覚えたことは一度たりともなかったのだから。すべてがあたりまえのように、学園での日常からこの瞬間まで連綿とつながっていて──私はまだ、それにしがみついていたかったのだ。

 

「でも……でもいまさら、もどることなんて……」

 

 困惑のあまり口ごもる私をなだめるように、彼女は、

 

「もどりたいのなら、だれに遠慮することもなくもどっていいんだよ。迷惑かけてしまった人たちには謝らなきゃいけないけど、そしたらまた走りはじめてもいいの。それを止める権利なんて、だれにもないんだから」

「そう、かな」

「そうだよ。もし文句いってくるやつがいたら、私がぶっとばすから!」

 

 そう言うと彼女はふいに立ち上がって、シャドーボクシングのような動作をはじめた。

 

「……あはは、あはははは!」

 

 それがどういうわけかものすごく面白くって、私は目尻に涙をうかべながら、布団に倒れこむようにして笑い転げた。

 気がつけば彼女も、となりでいっしょになって笑い転げていた。

 笑いの力とはふしぎなもので、あれだけ私にまとわりついていた不安と恐怖も、涙といっしょにすべて洗い流されてしまったような気がした。

 大の字になって見渡す八畳間の天井は、とても広く感じた。

 

「……笑い疲れたら、ねむくなっちゃった」

「そっか。なら、このまま寝ちゃおっか。ちょっとスペースあけてくれる?」

「え、ここで寝るの?」

「こういうの、むかし寮ではやってたでしょ」

「いまもあるよ、その文化」

「ならいいじゃん」

「いいけどさ」

 

 彼女は押し入れから取り出した枕を私の枕の横において、そのまま掛け布団のなかに潜りこんだ。

 

「今度こそおやすみ、セイちゃん」

「うん。おやすみ」

 

 仄かな体温にじんわりと意識を溶かされながら、私たちは二度目の挨拶をかわした。

 枕をもってきてよかったな、と思った。

 

 

 

「セイちゃん、朝だよー」

 

 どこか間の抜けた起こされた私は、のそのそと立ちあがってから大きく伸びをした。

 彼女はすでに目をさましていて、ベッドのそばで何かの体操らしき運動をしていた。

 

「おはよう、よく眠れた?」

「おかげさまで。というか、なんで体操?」

「あはは……セイちゃんには偉そうなこと言ってたけど、私もこの習慣だけは抜けなくってさ」

 

 彼女は身体を前後に曲げながら答える。

 よく見るとそれは、ほぼすべてのウマ娘がトレーニング前に行っている準備運動とおなじものだった。フォームもまったく崩れておらず、彼女が学園にいるあいだ、いかに真面目にトレーニングに取り組んでいたのかをよくあらわしているようだった。

 などと考えているうちに、気づけば彼女の体操も終わりを迎えていた。

 

「ふぅ……ねぇセイちゃん。ここを出るのはいつ?」

「歯磨きをして、着替えたらすぐ。もう始発は走っているだろうし、なるべく早く顔をみせて謝らなきゃ」

「愛しのトレーナーさんに?」

「うっさい」

 

 ごめんごめん、と彼女は笑った。もう、私を引き止めることはなかった。

 私も歯磨きをすませて、着替え終わったジャージをバッグにしまっていると、ふいにやり残していたことを思い出した。こんどはリュックに手をつっこんで、底のほうから長財布をひっぱりだす。

 

「これ、受け取ってくれないかな」

 

 私はそう言って、抜きだした五千円札を彼女の目の前へと運んだ。

 

「えぇ! こんなに……じゃなくて、お金は受け取れないってば!」

「どうして? ビジネスホテルに一泊して、ちょっと豪華なご飯を二回ほどたべれば、これくらいになると思うけど」

「だから、私はセイちゃんの力になりたかっただけで!」

「なら、なおさらだよ」

「へ?」

 

 どういうこと、とでもいいたげに呆ける彼女の目をみながら、

 

「目覚ましのお礼くらい、させてほしいんだ」

 

 と、すこしだけカッコつけながら言った。

 だっていまの私には、これくらいしかできることがないのだから。

 大きなお礼をするのは、きっとこれからのこと。

 

「……もー、いつからそんな頑固になったの?」

「さぁ、いつからだろうね」

「ま……いつでもいっか」

 

 私たちは顔を見合わせて、くすくすと笑った。

 それから取りこんでもらった洗濯物をカバンにしまうと、あっというまに出発の準備が完了した。

 けっきょく使用する機会のなかったスペアキーを彼女に返して、エレベータで一階へとおりる。

 

「駅まで見送ろうか」

 

 と聞かれたが、

 

「一本道なので大丈夫」

 

 と答えた。

 

「がんばってね。セイちゃんは、私の希望なんだから」

「そっちこそ、私のぶんまで"ふつうの女の子"を満喫してよ。卒業したらまた、いろいろと話ききたいからさ」

「うん、もちろん。ありがとう、セイちゃん」

「こっちこそ、ほんとうにありがとう」

 

 彼女は、私の姿がみえなくなるまで大きく手をふってくれた。

 私もまけじと、人目も気にせずに、小さな手をせいいっぱい大きくふり返した。

 私は、壊れた車輪が付いたままの重荷をひきずりながら、学園をめざしてまっすぐ帰ることに決めた。

 さて、これからいろんな人に謝らなくっちゃ。

 あのとき忘れていたサヨナラは、伝えないままでよかった。

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