「ああ、パティかな、そのクリンクリン頭。夏にサォセンセのハウスでよく見掛けた」
暖炉のオレンジに照らされて、本から顔を上げたカノンが答えた。
「ハウス出身じゃないんだけれど、サォセンセの奥方の姪っ子……だったかな? その縁で、たまに手伝いに来ていた。世話焼きで、機織り機みたいによく喋る。そっか、そういえば、ユゥジーンがハウスを訪れた時は必ず現れていたなあ」
「ふうん」
リリは、無関心な感じで、固いチーズをナイフでガリガリ削っている。
「いいんじゃないの? ユゥジーン、早く嫁さん貰うべきだって、リリ、いつも言っていたじゃない」
「そうね」
また無関心風な返事。でも、ナイフをチーズに突き立てる手付きがそうではない事を語っている。
不揃いのゴロゴロのチーズをスープに放り込み、溶けて行くそれを睨みながらリリは言った。
「それでも、ノスリ様の心遣いを反故にして、女の子を追い駆けるなんて有り得ない。男の子って皆ああなの?」
「知らないよ、僕、女の子に誘われた事なんかないもの」
矛先がこちらに向きそうなので、カノンは頑張って話題を逸らした。
「いいじゃん、ユゥジーン、今が人生最大のモテ期なんだから。今を逃したら、それこそ一生お嫁さんに恵まれないかもしれないよ」
「それが分かんないのよ。何でいきなり今、その『モテ期』が、来ちゃう訳?」
「えっ・・?」
カノンはちょっと止まった。
しらばっくれているのか? 本当に分かっていないのか?
「えーと……え――と…… そもそもユゥジーンって、モテる要素満載じゃない。そうでしょ?」
「そぉお?」
「だっ、だってカッコよくない? 剣は強いし、背は高いし、足長いし、腹筋割れてるし、髪の色も綺麗だし」
「ふうぅ~~ん」
リリは、心底分からない感じだ。
カノンはそれ以上ヘタに喋らない事にした。
地雷が一杯な真っ只中に立たされている……
「女の子って、そういうの基準で男性を好きになったりするんだ? ふうぅん。じゃあ彼は、いきなりその、カッコよくなったの? 髪の色が綺麗なのなんて昔っからじゃない」
「ま、まあね」
カノンは慎重に地雷原を匍匐(ほふく)前進する。
「ぼ、僕、女の子じゃないしなぁ。記憶を失くして可哀想ってのが、母性本能をくすぐるとか?」
「ふううむ……そういえばパティって娘も、そんな事を言っていたわね」
そこで、カノンにとっての助けに舟の、時間を告げる鐘が鳴った。
「あら、もうお昼休み終わり? 執務室に戻らなきゃ。食べたら食器は拭いておいてね」
「リリは食べないの?」
「書類が溜まっているのよ」
御簾をくぐろうとする娘を、カノンは呼び止めた。
「あのさ、リリ」
「なあに?」
「……」
「なあによ、忙しいのよ」
「えっと、リリさ、ノスリさん達のそういう策略に、いちいち付き合わなくてもいいと思うよ」
「あら、味方してくれるの?」
「そうじゃなくて。それでなくても仕事多いんだからさ。昼食の時間がなくなって夜にバカ食いするのって、下半身デブ一直線なんだよ」
「う、うっさいわね! このデリカシー欠如男!」
堅パンをドプンとスープに浸けて一気に口に押し込み、リリは髪をひるがえして、執務室に駆けて言った。
残されたカノンは、泡立ったスープを見つめて、スプーンをチンとならす。
(結局怒らせちゃった)
モテ期もクソもない。
ユゥジーンは元々、男の自分でも見惚れちゃう位カッコよかった。
おまけに草原に名立たる剣士で、エリートが集まった執務室でもピカピカの有望株。本来、里の女の子がワァワァ騒いでもおかしくなかったのだ。
それが、何だって今まで女っ気の分野でシーンとなっていたかというと……
前にリリが二晩いなくなった時の、狼狽えまくった顔が目に浮かんだ。
そう、普段冷静沈着で合理的なくせに、いざリリの事となると子供みたいに我を忘れる豹変っぷりが、女の子を含む周囲をドン引きさせていたのだ。
だから、記憶と共にリリの存在が洗い流された今、ここぞとばかりに女の子達がアタックをかけて来るのは、至極当然であった。
「そんな事も分かんないなんて、変な風に抜けてんだよなあ、あの長娘」
カノンは、チーズでもったりしたスープを口に運びながら、うず高く積まれた書物を引き寄せた。
「やっと今日の分の書物が読める」
***
その日も、一瞬陽が射したりモヤが掛かったりの、はっきりしない天気だった。
「あーあ、久し振りに湿った床が乾くと思っていたのに」
見習いの少年は、ぼやきながら空を見上げて、ドロドロの玄関デッキをモップでこすっていた。
午前中せっかく綺麗に拭き上げたのに、今しがた焦って駆け込んだ二人のせいだ。
執務室の中で、大人達が険々轟々(けんけんごうごう)言い合っている。
普段穏やかで中庸なホルズが真剣な声で怒鳴っているのが聞こえて、とても中に戻る気になれなかった。
戸口が細く開いて、紫の前髪のリリがスッと出て来た。
小脇に手紙の束を抱えている。
少年と目が会うと、苦笑いして小声でささやいた。
「ちっとも集中出来ないの。そこの椅子で仕事してもいい?」
「ああ、勿論ですとも、どうぞ」
少年は慌てて、デッキの隅の小さなベンチに立て掛けていた掃除道具を片付けた。
「悪いわね」
リリは、トンと腰掛けて、何組かに分けた手紙を広げ直して集中し始めた。
この小さな女の子の姿をした女性は、本当は少年よりも年上だ。
文字が読めないけれど、集中する事でそれを書いたヒトの心を読んでいる……と、彼はホルズに教わった。
だから彼女が書類を睨んでいる時は、少年も物音を立てないように、緊張するのが常だった。
戸口の向こうで、ひときわ騒がしい声がし、リリは集中が切れた感じで顔を上げた。
また目が合ったので、少年は手持ち無沙汰に話し掛けた。
「どうなるのでしょうね」
「どうもこうも、本人にその気がないのなら、無理強いしたって仕方がないわ」
「ええっ? だって」
「駄目かもね、もう」
「リリさんがそんな事を言うなんて」
言ってしまってから少年は、怒鳴られるのではないかと肩を竦めた。
しかし女の子は、眉を一瞬吊り上げただけだった。
冬扉が跳ねるように開いて、憮然とした表情のユゥジーンが出て来た。
戸口にホルズやノスリが顔を見せるが、振り返りもしないで大股でデッキを横切り、坂を登って里奥へと姿を消した。以前は可愛がっていた少年にも、一瞥もなかった。
「リリ、こちらへ来なさい」
大机の方からナーガ長の静かな声。
リリは心底嫌そうな顔をして、仕事材料を抱えて室内に戻って行った。
入れ違いにホルズが出て来て、少年はホッとした。
今の時点で一番話しやすいヒトだ。
「いやまったく、参ったな」
外に向かって伸びをしたホルズは、珍しく眉間に縦線を入れいる。
「あの、ユゥジーンさん、本当に執務室辞めちゃうんですか?」
「うーん、本人がその気なら、こちらとしては引き留めようがないからな」
「そんな……」
記憶をなくしたユゥジーンが帰って来て一ヶ月余り。
執務室の仕事はまだ無理と踏んで、ノスリの親戚の鍛冶屋や牧場仕事を手伝っている。
しかし執務室の面々は、当然、様子を見て復帰させるつもりでいた。
記憶がなくてもユゥジーンはユゥジーンだ。最初は誰かが付いて色々教えればいいし、以前関わった物と接している内に、ひょんと思い出す事もあるだろう。
何より、彼は外の者に人望があるし、剣の名声だって執務室の財産だ。
それが、今日の昼いきなり現れて、執務室を辞めさせて下さいと言い出したのだ。 ホルズは言葉も出ない程驚愕し、少年は、用事で出ていたナーガ長やノスリを呼びに行かされた。
「どうもなあ…… 俺達がのんびり構え過ぎたのもいかんかったのだが、その間に付き合っていた連中が、どうもなあ……」
ホルズはさっきまでリリが座っていたベンチに座って、歯に物が挟まった言い方をした。
「まぁ、うちの親戚筋だから悪く言えんが。う――ん……」
「あたしは嫌です!」
大机の前で、リリはきっぱり叫んだ。
正面には困った顔のナーガ長と、傍らにノスリ。
「そう突っ跳ねるな、リリ。長殿がお前に命令するなんて、ほとんど無いだろう? 本当に必要な時しか命令しないからだぞ」
敬愛するノスリの頼みだって、今度ばかりは聞きたくない。
「嫌です。辞めたいって言うのなら、辞めさせてあげればいいのよ。何であたしがそんなヒトの面倒を見なきゃならないの!?」
前髪だけでなく後ろ髪まで逆立てる娘に、何か言いかけるナーガより先に、ノスリが正面に回って肩に手を置いた。
「ああ、まったくお前の言う通りだ。本当にすまない。しかし、俺は、奴が痛ましいんだ」
「何がっ? どうしてっ?」
「俺は、奴がまだ鼻ったらしのガキの頃から知っている。遊びたい年頃なのに、真面目に毎日執務室に通って雑用をこなし、青アザだらけになって二刀流を学んだ。学業だって苦手だったのを頑張って、長殿に認められるだけの成績を治めた。こんな事で見放したら、その頃の奴が痛ましいんだよ」
「…………」
リリは口をへの字にしたまま、ノスリから視線をそらせて俯いた。
「……いつ出発ですか?」
「明日にでも」
机の向こうのナーガ長が答えた。
***
こぼれ話・・カノンは誰も見ていない時を選んで、日課で腹筋運動をしています。