夜通しダラダラ降ったり止んだりの雪は、朝になっても変わらなかった。
馬繋ぎ場に馬装をした馬が二頭並び、竜胆(りんどう)色の小柄な若紫の前には、旅装のリリが立っていた。
(いっそ吹雪になってくれたら、中止に出来るのに)
うんざりと空を見上げた視線を下ろすと、里奥に通じる坂道を、のろのろした足取りでこちらに歩く若者が見えた。
「おはよ」
リリは小さい声で短く挨拶した。
「ん……」
ユゥジーンはさらに短く答えた。
毛糸の帽子を目深く被り、襟巻きを鼻までたくし上げているので、表情も分からない。
しかし、力一杯乗り気でないのは分かる。
「行くわよ、行ける? それともやめとく?」
「やめてもいいの?」
「貴方が決める事だわ」
「……」
「よっお二人さん!」
冷えた空気を打ち破るように、大柄なノスリが現れた。
「生憎の天気だな。まぁ、これ以上悪くなる事はないさ。ナーガ達は忙しくて見送りに来られないが、気を付けて行って来いとの伝言だ。ああ、これを持って行け」
大きな懐から出して其々に手渡してくれたのは、ほんのりと暖かい包み。粉を蒸した匂いがする。ノスリ家名物の黒糖団子だろう。
ユゥジーンも喉で小さく返事をして受け取った。
リリは身軽く馬に跨がったが、ユゥジーンは自分の馬を見つめて突っ立ったままだ。
まさか馬に乗る事すら忘れているのだろうか。
「どうした、脚上げてやろうか?」
ノスリに助けられて、青年はようやく馬上に収まる。
「あ、あの、やっぱ、飛ぶんスか、これ」
本当にまさかだったようだ。
「身体が覚えているだろう、心配するな」
「いや、あの、ちょっとタンマ」
リリは無言で、横から隣の馬の尻をドンと蹴った。
素直なユゥジーンの馬は、バヒュンと垂直に飛び上がった。
「うひえっ」
鞍上がタテガミにしがみつくのを確認してから、リリは静かにノスリに向いた。
「では行って参ります」
「すまないな、でもお前にしか出来ない事だ」
「そんな事ないです。彼のおもりなんて、誰にでも出来るわ」
「いや、お前でないと駄目だよ。執務室だってお前がいないと困るのに、ナーガがわざわざお前を指名したんだ」
「………」
竜胆(りんどう)色の若紫も舞い上がり、二騎がゆっくり里を離れるのを見届けてから、ノスリは執務室への坂を登った。
夕べ、サォ教官の妻である自分の末娘や、親族達に聞き回って、事の次第がはっきりした。
要するに、ユゥジーンと付き合っていた娘達やその親兄弟の、考え無しの言動が元凶だった。
記憶のない彼に、『剣士ユゥジーン』が如何に勇気凛々、素晴らしく優秀だったかを、事あるごとに得々と語ったのだ。
彼等は誉めているだけのつもりだったのだろう。
しかし、自分がその身にならなきゃ解らないのだろうが、そういうのって本人にとってはプレッシャーにしかならない。
まったく覚えがないのに、『魔物や野盗に先頭切って立ち向かう勇者』とキャラ付けされているのだ。このまま執務室で働いていたらエライ目に遭う……と思っちゃっても、仕方がないだろう。
「だから、俺等は、ゆっくり見守るつもりだったんだ」
たとえこの先記憶が戻らなくても、だったら少年のジュジュからやり直せばいい。
あの、前向きで挫けず、優しく素直なジュジュならば、直ぐに元のユゥジーンにまで成長出来る。自分達との関係も、また一から積み上げて行けばいい。
ナーガもホルズもそのつもりだった。
なのに……
優秀な入り婿を迎えたい娘の親族は、何とか他を抜きん出ようと、こぞって彼の耳に甘い言葉を吹き込んだ。
彼が執務室に戻るのに難色を示すと、それに同調し、『だったらうちの家業を継げばよいぞ』等と言っちゃったらしい。
まさか本当に辞めるとは思っていなかったのだろうが。
辞めたいと言う者を無理に繋ぎ止める訳には行かない。執務室の仕事は嫌々では出来ない。
ナーガ長は、辞めるのなら最後に一つだけと、条件を出した。
自分が発見された雪山に行き、記憶を失くした原因を突き止めて来いと言ったのだ。
「えええっ!?」
「君の人生を大きく変える原因になったのだから。それが出来れば、この先君がどう生きようと、我々は安心して送り出せる」
「長様に分からなかった事が俺に分かる訳ないですよっ」
「結果は出せなくてもいい。努力だけして来なさい」
「ああ、はい、それなら……」
安堵した顔のユゥジーンの斜め後ろで、ノスリとホルズは、(こいつ絶対行くフリだけで、何もしないで帰って来るつもりだな)と思った。
「しかし、馬の乗り方も生き抜く知恵も忘れている君を、一人で行かせるのは心配だな。私の娘を補佐に付けよう」
「えっ、ええっ!」
いつも睨み付けて来る無愛想なあの子供!?
抗う術もない。蒼の長の決め事は絶対だ。
で、ユゥジーンは渋々承知して、憮然と部屋を出る事となる。
執務室の手前で、ノスリはもう一度振り返って空を見た。
リリがゆっくり飛んであげているのだろう。二騎の馬影はまだそんなに離れていなかった。
自分だって、剣を教えてくれと必死に喰らい付いて来たあの少年を、執務室から失いたくない。
「頼んだぞ、リリ」
***
ユゥジーンが発見された雪山は、高空気流を使えば半刻程の所だ。
ナーガ長が彼を連れ帰るのに時間が掛かったのは、半分気絶した状態の彼を速い気流に乗せるのは危険だったからだ。
今も、乗馬を忘れた彼のビビりっぷりに、高度な飛行は無理と判断したリリが、ノロノロと風の緩い所を飛んであげている。
「ねえ、そろそろ休憩にしようよ。俺、キッツイよ、こういうの。寒いし、もうヘトヘト」
子供の記憶しかないにしても、以前の彼からは駆け離れた言葉使いだ。
付き合っていた女の子達の影響なんだろう。
「身体が前のめりで力が入り過ぎているからです。姿勢を正して坐骨で乗るようにすれば、そんなに疲れない筈です」
「だから俺、君とか執務室のヒト達と違うんだって。昔は知らないけれど、今は普通の平民になりたいの!」
「平民って何です!?」
リリはカッとして、隣のユゥジーンの腕を掴んでしまった。
帽子が飛んで、隠れていた顔があらわになる。
「??」
目の回りと頬に青黒いアザ。
特に左頬が酷くて、唇の端まで腫れ上がっている。
「あ、あんた、それ、どうしちゃったの?」
「ひっぱたかれた」
「誰に? なんで?」
「これはパティ……右目はアイル、顎のはザーラ、……あれ? 右がパティだっけ?」
「知らないわよ……」
「執務室を辞めて来たって言ったら、いきなり逆上された」
「そりゃ……そうでしょう」
「何でだよ? 皆、心配心配って。危ない所に行く貴方をいつも胸を潰して心配していたのよって、口を揃えて言うから。じゃあ辞めれば胸を潰さなくてもいいンじゃネ? って思って辞めたのに」
「……」
リリは、掴んでいた腕を離し、その手で彼の馬の手綱を引いた。馬は地上に向いて降下を始めた。
「休憩にしてくれるの?」
「貴方の帽子を拾いに行かなくちゃ……」
雪の少ない樹間に馬を降ろし、座布を広げると、ユゥジーンは生き返った顔で腰を降ろした。
リリはすぐに毛糸の分厚い帽子を持って戻って来た。
「凝った造りね」
「うん、ザーラがくれた、最初の頃」
「そう」
「あんなに優しかったのに。女の子って全然分かんねぇよ」
その時、ユゥジーンは初めて、紫の前髪のつっけんどんな娘が、自分に向かってクスリと笑うのを見た。
「えっ、何? おかしい?」
「あ、ううん、ごめんなさい。女の子を分かっていない所は前と変わんないな、と思って」
「何だよ、君には分かるのかよ。あっ、ああ、そっか」
ユゥジーンは、リリの持っている帽子を見た。
『あの長娘の女の子は、触った物から持ち主の心とか、みぃんな読み取っちゃうのよ』
パティや他の女の子に、漏れなく言われていた。
これを編んだザーラの心とか、被っていた自分の事も、分かっちゃうのか。
「そんなにのべつまくなしにヒトの心なんか探る訳ないでしょ」
彼の心を見透かすように女の子は言って、毛糸の帽子をギュムッと被せて来た。
「べっ別に、俺は何も……」
「いちいちやっていたらこっちの頭がおかしくなるのよ、貴方も経験してみたら分かるでしょうけれど。まぁいいわ、皆に嫌われているのは分かっているもの」
「……」
確かにパティ達は、この娘の話をした後に、『おっかないわよねぇ――』とか、『貴方も気を付けなきゃダメよぉ――』とか、悪意に思える尾ひれを付け足していた。
「いや、その、嫌われてる訳でもないと思うよ。自分達はそういう術使えないからビビってるだけだよ、きっと、うん」
「どちらかというと、その手の術が得意なのはカノンの方よ。でも女の子達はカノンの悪口は言わないでしょ?」
ユゥジーンが返事に困っている間に、リリは鞍袋から火起こし道具と燃料を取り出して、小さい火を起こした。
「焼き石を作ってあげる。靴に入れておくと暖かいから」
「あ、ありがと」
「寒いだのキツイだのグチグチ言い続けられたら、あたしが疲れるのよ」
「……」
ついでに沸かした熱い湯茶を受け取って、ユゥジーンは改まって聞いた。
「あのさ、さっきの……女の子達の気持ちの話。君、分かるの? なんでパティ達、いきなり逆上したのか」
「あら」
リリは火の中の石を棒でつつきながら、しれっと言った。
「簡単だわよ。彼女達は執務室で働く貴方が好きだからよ」
「ええっ? だって、心配で胸が潰れそうって」
「それは、貴方を心配する自分が好きなだけ。ついでに言うなら、それを言葉にしてわざわざ貴方に伝える自分も好きなのだわ」
「……」
「そんな気持ちを全然分かってくれない上に勝手に逆な事をやらかす貴方に、怒りが爆発したのよ」
「分かる訳ないじゃん!」
大声を出した拍子にカップの茶が手の甲に掛かり、ユゥジーンはアチチと悲鳴をあげた。
「女の子ってそういう生き物なのよ。甘く見た貴方がいけないの」
「……」
「それにしても、随分思いっきりぶん殴った物だわね。加減って物があるでしょうに。見せてご覧なさい」
リリはユゥジーンの顎を持ち上げて、切れた唇を覗き込んだ。
「治癒の術ってのをやってくれるの?」
「こんなくだらない怪我にわざわざ術なんか使いません。もっとも、あたしには治癒の術は使えない」
「長娘なのに?」
「長娘でも出来ない物は出来ないの」
「しょぼ――」
「うるさいわね」
娘は膏薬入れから薬を取って、小さい指で傷口に塗り込んだ。
「あのさ」
「喋ると薬が口に入るわよ」
「やっぱり君と俺って付き合ってたんじゃないの? あぐゅ!」
口の中に思い切り苦い膏薬の指が入った