見習い少年の初仕事・Ⅰ
執務室の見習いなんて、ロクなもんじゃない。
今年修練所を卒業したばかりの見習いの少年は、わざとゆっくりランタンの油を注ぎながら喉の奥で呟いた。
蒼の里では、一人前と認められて初めて成人の名前が貰える。少年はまだ貰っていなくて、今は家系で使い回される幼名で呼ばれている。
彼はその名が大嫌い。一日も早く自分だけの本当の名前が欲しいと思っている。
なのに、執務室の日々がまどろっこしいほど変化がなくて、一人前をアピール出来るチャンスがなかなか来ないのだ。
夏の入りの夕暮れ。
蒼の里の中枢である坂の上の執務室に、ランタンのオレンジの火が灯る。
窓明かりに少年の小さな影ともう一人、せわしなく歩き回る大柄な影。
(歩き回っても歩き回らなくても一緒でしょう)
なんて、小僧っ子の少年には言えない。相手は執務室統括者のホルズだ。
執務室の他のメンバーは朝早くから忙しく外を飛び回り、帰って来るのは日も落ちて遅くなってから。
まだ外仕事に出して貰えない少年は、彼らを見送ったあと上司と一緒に一日をこの建物で過ごす。
これが目が回るほど忙しければいいのだが、基本ヒマなのだ。
与えられた日課は僅かで、それを終えるとイレギュラーに発生する雑用待ち。
一見楽だと羨ましがられそうだが、手持ち無沙汰ってキツイ。
優しいナーガ長が、手空きの時はこれでもお読みと貸してくれた書物は思いっきり難解な経書で、開いた瞬間目が滑る。読むふりなどしていようものならホルズに鼻で笑われる。
本当に執務室の小間遣いなんて、どうしてあの時手を挙げてしまったんだろう。
希望すれば卒業した後そのまま働けるし、親も喜ぶし、そして早く名前が貰えそうだからと、安易に決めてしまった気がする。
要領の良い奴らがスルーする時点で察しなきゃいけなかったのに。
たまに会う同年代の男子達は、もうイッパシにバリバリ働いて、驚くほど大人の顔になっている。
こんな仕事を任されているんだと言う自慢話の隅で、話を振られないように半笑いを浮かべているしかない。何せこちらは、すぐ見習いに昇格させて貰ったとはいえ、小間遣いの頃と変わらない雑用ばかりの日々なのだ。
だってだって、蒼の里の中心の執務室なんて、何か凄そうだと思うじゃない。こんなにうすらボンヤリした毎日を送るなんて思いもしなかったんだ。
少年は圧迫感に押し出されるように、ランタンを持って外に出た。
玄関前は広い木造デッキになっていて、端に小さなベンチ。そこでフクロウのように丸まって座っている者がいる。
執務室のもう一人の内勤者、リリだ。
早い時間からとっとと外に避難してそこで仕事をしている。彼女はそういう事が自由に出来るので羨ましい。
手に一杯の手紙の束を抱え、一枚一枚を額に当てて瞑想中。話し掛けちゃダメな時だ。
少年は抜き足差し足でデッキを横切り、ベンチ横の柱にランタンを掛けた。
俯いたままの彼女の三色メッシュの髪がオレンジの光に照らされる。
執務室の手紙判別係、長娘のリリ。
見かけは十一、ニ歳だが、実年齢は少年よりもだいぶん上らしい。
蒼の妖精は、たまに成長速度のバグった子供が現れる。
周囲が話題にしないので、少年もそれに触れない。
何せ彼女は、荒くれたら誰も手が付けられなくなるほど神経質で気難しいのだ。
それでも、連日数多に送られて来る他部族からの手紙の真意を読み取れる彼女の能力は、執務室にぜったい必要だ。
今はその中の一枚に引っ掛かったみたいで、額にそれを押し当てたまま、目を閉じて微動だにしない。何だか凄い力がビンビン発せられて、周りの空気まで痺れているのが少年にも分かる。
また抜き足差し足で室内に戻った。
室内ではホルズが大机に着いて書類の束を繰っている。あからさまに上の空。
少年は心の中で、はあぁっと息を吐いた。
(まったくピルカの奴、父親に心配させない時間に帰って来るって、そんなに難しい事か?)
そう、ホルズの末娘ピルカが彼氏とデートに出掛けて帰りが遅い。これが本日の彼のイライラの原因。
あぁ、バカバカしい。
(あんな奴のせいで)
ピルカは少年と同い歳で、修練所時代は同級生だった。
いつも騒ぎの真ん中に居て、周囲の迷惑も顧みない自己中女。
トラブルを起こしても周りが許しちゃうもんで、我関せずでいつも澄ましている。
(でも名前を貰っているんだよな、女だからって)
蒼の里では、女性は比較的早くに名前を授かれる。
嫁いで主婦となり母となる者が幼名ではおかしいからだ。それは太古からの慣習で、長殿は親に求められればホイホイ命名を行ってしまう。
(あんな奴、僕より全然子供な癖に。今日のリボンの事しか考えていない癖に)
そんなピルカに、最近ボーイフレンドが出来た。生意気にも他部族の血統の良いエリートで、性格も花マルのイケメン。
そしてデートに出ると帰り時間が遅くなる。その度に父親のホルズがイライラして、被害を被るのはこちらなのだ。
(僕がお嫁さんを貰う時は、かしこくて物静かで気遣いの出来る子を選ぶんだ。ぜったいに顔で選んだりしないぞ)
気詰まりも限界になった頃、扉が開いた。
(誰か帰って来てくれた?)
しかし戸口から入って来たのは、外にいたリリだった。
「ホルズさん、これ、ちょっと……」
さっきの手紙を抜き出して突き出す。問題があると確定したのだろう。
「ああ、どうした?」
ホルズはパッと業務用の顔に切り変わって、そちらへ集中してくれた。
少年もとりあえずホッとする。
難しそうな事を話している二人から離れて、少年は外に出て伸びをした。
手紙の問題点がピルカの事なんか忘れさせてくれるくらい大事件だといいんだけれどな。
坂の下の馬繋ぎ場が外灯のオレンジに照らされている。
外で遅くまで働く者の為に、ああやって灯していてくれるのだ。
ピルカが帰って来た時だけ消しちゃえばいいのに。
***
先程からヘイムダルは、生涯初の感覚に何度も襲われていた。
鼻先を蝶のようにヒラヒラする細い布切れ。
自分の前に乗せている娘の髪を結い上げているリボンだ。
竜を飛ばしている最中は、最大限に術に集中せねばならない。
なのにこんな物にずっと心を奪われっ放しなのだ。
オレンジ色の布切れが翻る度に漂う、何とも幸福な香り。
その向こうの、絶妙な曲線に後れ毛を這わせた陶器のようなうなじ。
色が違う。この半透明の絹を重ねたような肌色は、果たして我々と同じ生物であるのか?
いったい何をどうしたらこんな生き物が生まれるのだ?
「あぶない、あぶない」
危うく集中が切れる所だった。
竜を飛ばしている最中に布切れなんかに心乱されるなど、訓練時代の教官に知られたらビンタものだ。
「あぶない、のですか?」
前の娘が振り向いた。
髪を頭のてっぺんでウサギのように結んで、大きな瞳を際立たせている。
「あ、いや、大丈夫! 大丈夫ですよっ、ピルカ殿」
竜に乗せてあげるのは約束したから構わないのだが、本当なら術の邪魔になりそうなリボンは乗る前に外して貰うべきだった。
しかし言えない。遠慮している訳ではない。
ああもう正直に言おう。
このヒラヒラを眺めていたいのだ。
白いうなじを眺めていたいのだ。
(本当に、教官に知られたらぶん殴られる)
シルフィスの巨大海竜は別格だが、ヘイムダルの大角竜だってなかなかの物だ。風波(かざな)一番の上昇力を持つ。
夕暮れの上昇気流を竜にまとわせ、朱に輝く雲上まで一気に登る。
見渡す限りの雲海に白い波紋を引きながら駆ける気分は極上ですよと、先日の蒼の一族との交流会で熱く語ったら、一番可愛いと思っていた娘(こ)が食い付いてくれた。
竜使いの一族に生まれて良かったと心から思った。
「素晴らしかった。思った以上でした。ありがとうございました」
ウサギ娘はヘイムダルに向いて、ぴょこんと髪を揺らしてお辞儀をした。
眺望の良いの丘に立ち、竜は霧散させて、二人並んで夕陽を眺めている。
オレンジに照らされたウサギ型の輪郭も、桃色の頬も、キラキラした瞳も、膨らんだ小鼻も耳たぶも八重歯もうぶ毛も、脳が痺れる程に可愛い。
「どういたしまして」
平静に答えるだけで精一杯だった。
蒼の里の男どもは、こんな娘が普通にその辺を歩いていてよく平気で生活しているなっ。
「帰りは馬がいいです」
「え、そうですか?」
「あの竜だと、あっという間に蒼の里に着いてしまうもの。帰りの道々も少しでも長く一緒に・・ね」
小首を傾げるとまたリボンが揺れて、幸せな香りが漂う。
ヘイムダルは意識が飛んで気が遠くなり掛けるのを根性で踏ん張った。
「お、遅くなると、お父上が心配なさるのでは……」
「お父様は心配するでしょうね」
娘は夕陽の方に目を向けたままスンと言った。
「お父様に心配かけたいです」
「・・?」
「娘を心配して、うろうろそわそわして、きぃって理不尽に怒るお父様を、とても見たいわ」
「は、はぁ?」
「ね、だからゆっくり帰りましょう」
何が「だから」なのか解らないが、ヘイムダルは逆らえなかった。
空中に手を上げて馬を呼ぶと、空で遊んでいた彼らの馬はすぐにやって来た。
***
執務室の玄関前デッキで、誰か帰って来ないかなぁと、ぼけっと下を眺めていた見習いの少年は、室内から呼ばれて急いで戻った。
「うーん・・」
呼んでおいてホルズは、少年を見て眉を寄せている。
「やっぱり誰かの帰りを待たんか? リリ」
「大丈夫だわ」
書類がぎっしり詰まった棚の奥から、紫の前髪がひょいと顔を出した。
「伝言を届けるだけだもの」
少年の胸が早鐘のように鳴った。
(外に出る仕事だ!!)
やっとやっとやっと、一人前に仕事に出して貰える!
「んー、んん」
ホルズがまだしかめっ面をしている。
「何処へのお使いですかっ、僕、ちゃんと行けますっ」
少年は慌てて言った。
ここで上手くこなせればローテーションに入れて貰える。一人前と認められる日が近付く。
「いや、お前はちゃんと行けるさ。分かっている」
ホルズは少年の心中なんか、もちろん察している。
「今回は相手が悪い。気難しさ一級品の棘の森の主殿だ。一番気を許しているユゥジーンにすらたまに牙をむく。それにあそこは森の住民だって気が荒い。いくらお前の中身がちゃんとしていても、外見が幼いってだけで侮られるんだ」
「……!!」
少年は唾を呑み込んだ。
こんな所でも童顔が足を引っ張るなんて。
でも確かに、担当のユゥジーンさんですら、棘の森へ行く時は襟を喉元まで締めて緊張していた。
「大丈夫だわ」
リリは棚の後ろから、さっきと同じ調子で言い返した。
「ホルズさん、早く手紙を書いてください。あそこの主様お爺ちゃんだから、早く行かないと眠ってしまう」
「ううん~」
「あたしは急いで過去の記録を調べなきゃならないし、ホルズさんは帰った皆の報告を受けなきゃならない。彼しかいないじゃない」
少年は口をへの字に曲げた。
初仕事ってもっと厳選して、暖かく送り出してくれる物じゃないの? 『彼しかいないから』じゃあんまりだ。
「そうだな……伝言だけだしな。主殿の周辺で不埒を働く者もおらんだろう」
ホルズが折れて、大机で正式な手紙用の清紙を広げた。
「先に馬装を済ませに行きなさい」
本棚の向こうからリリに言われ、情けない気持ちで少年は、外に出てデッキを下りた。
初仕事なのにぜんぜん嬉しくない。
棘の森には文字が無いので、主殿の前で自分が読み上げる形になる。
相手は左右七本の牙歯を持つ魔獣一歩手前の大猪の主殿。機嫌を損ねずに成し遂げる自分の姿が思い浮かばない。
馬を引き出しながらも指が震えて、逃げ出したくなる。
「そんな顔をしていると馬が怯えるわ」
後ろからの声に飛び上がった。
リリが親書用の皮筒を差し出している。
「え、もう書き上がったんですか」
「急ぎだから」
「……」
「早く鞍置いちゃいなさい」
急き立てられて腹帯を絞めながら、少年はこそっと聞いた。
「あの、リリさんは、初仕事の時って、どうでした?」
「……」
「あの……」
「覚えていないわ」
「……」
「行ってらっしゃい」
噛み合わない会話にますます心細くなりながら、少年は馬に跨がって追い立てられるように出発した。
真っ暗な中、上がっているのに落ちて行くような感覚だ。
「ちょっとくらい励ましてくれたっていいじゃないか」
***
棘の森はそう遠くない。
少年は執務室に貼ってあった地図を思い出しながら、月とそれを反射する川の位置で方向を確かめる。
月の明るい夜だし、たどり着くだけなら簡単だ。
問題は到着してから……
普段から教わっている訪問時のマニュアルを頭の中で何回も反芻する。
ダメだ、必ずどこかでトチるイメージしか湧いて来ない……
「あれぇ?」
能天気な間延び声があがった。
進行方向の斜め上。
目を凝らすと、月に鱗を反射させて二頭の馬が降りて来る。片方は空馬なのに、片方は二人乗り。銀鱗色の馬の跨るヘイムダルの前に、ちゃっかりピルカが横乗りしているのだ。
何だよそれ! 何やってんだよ!
少年の嫌な顔などお構いなしに、ピルカがあざとい声で喋った。
「執務室の見習いさんじゃあないですか。何してるのぉ? あっ、もしかしてお父様に言われて私を迎えに来たとか?」
「仕事っ! 棘の森の主殿に手紙を届けに行く大事な仕事。じゃ、急ぐから」
そっぽを向く少年に、ヘイムダルが声を掛けた。
「棘の森? 凄いな、そんなに若いのに」
「いえ、まぁ……」
少年はまんざらでもなく振り向いたが、前に乗っているピルカの思いっきり見下した瞳と、先に目が合った。
彼氏から見えないからって……
ピルカの顔が見えないヘイムダルは、気さくに話を続ける。
「主殿って、あの七本牙の猪殿だろう? 気性が荒いって有名な。隣の村の私の知人も、つい先日耳を喰いちぎられたんだ」
「え゛・・」
少年の背中が一気に粟立った、が、頑張って顔に、出さない、よう、に、した。
「うちからは行くとしたら熟練の古参者だ。蒼の里の執務室の者はさすがに優秀なんだな」
ヘイムダルさん、ハードル上げないで……
「ふうん、じゃあ、いってらっしゃい」
ピルカが醒めた顔で、声だけ可愛らしく言った。
ヘイムダルも、引き止めて悪かったねとあっさり手綱を引き、二人を乗せた馬は夜空に遠ざかった。