少年が里に戻ると、居住区は寝静まって真っ暗だった。
漆黒の中、馬繋ぎ場と執務室だけがオレンジの灯りに浮かんでいる。
夜の海の灯台みたい……と思った。
(仕事から帰って来る皆はこんな気持ちだったのか)
「おかえりなさい」
リリが一人長椅子で、手紙の作業を続けていた。彼女は一人でもけして大机に座らない。
「ご苦労様でした。貴方で最後だから報告書書いちゃって。書き方分かるわよね」
「は、はい」
白紙の半紙を一枚取って書き始める。
いつも他のメンバーの書いた物を綴じながら、自分も早く書いてみたいと思っていた。
「どうしたの? 疲れてる? だったら明日でもいいのよ」
「いえ、書きます」
少年は慌てて手を動かした。
「あの、リリさん。ピルカって知っていますか?」
「ホルズさんの所の末っ子の?」
リリは自分の手元から目を上げないまま答えた。
「彼女と……出先で行き会ったんです。それ、書いた方がいいでしょうか」
「仕事に関係のない事なら書かなくていいと思う」
「はい……」
リリは作業に戻り、少年は筆を握り直した。
「あの……」
「なあに?」
リリの声は抑え気味に苛立っている。
「え……えっと、ピルカが子供時代、執務室に入りたがっていたって本当ですか?」
「ああ、そうだったらしいわね」
「…………」
「それが気になるの?」
「はい……僕に小間遣いの誘いが来た時、他にやる人がいないから簡単に入れた感じだったのに、何でかなあって」
リリは少年の前に来て、書類をトンと指で突いた。
「手が止まってる。さっさと書いちゃいなさい。書き終わったら続きを話しましょう」
少年がペンを走らせている間、リリは黙って手紙類を束ね、仕舞いの掃除を始めた。
普段は少年のやる仕事だ。
「はい、結構です。お疲れ様でした」
仕上がった報告書をファイルに綴じて、角を揃えてきっちり大机に置き、リリは熱い茶を差し出して来た。
これもいつも自分が出す側で、少年は何だかムズムズと落ち着かなかった。
「で、ピルカの話よね」
「は、はい」
「確かにあの子は、小さい頃執務室に興味を持って、ホルズさんの周りをチョロチョロしていたらしいわ。でも彼女が高学年に上がったばかりの時、小間遣いの募集に名乗りを上げたのに採用されなかったのよ。
そしたらその後急に執務室から遠ざかって、貴方を採用した時の募集も最初は広く掛けたのに、もう手を挙げる事はしなかった。その程度の気持ちだったんじゃない? まぁ子供って熱しやすく冷めやすいわよね」
「…………」
そうだろうか。
棘の森の妖精に聞いた話では、その程度の気持ちとは思えなかった。
「最初の募集の時、何で採用されなかったんですか?」
「年齢が幼過ぎたのもあるけれど……所長が推薦した上級生の男の子がいたのよ。真面目に働く良い子だったわ。卒業したら家業を継ぐ約束だったから、今は執務室にはいないけれど」
「…………」
腰掛けだと分かっている男の子が必要にされて、ずっと働くつもりで準備していた自分は選ばれなかった…… 胸がチクンと痛んだ。彼女の気持ちの端っこ位は分かった気がした。自分に対して当たりが強い理由も。
ここでリリは、思い出したように顎に手を当てた。
「そういえばさっき彼女、帰りが遅くなって酷く叱られていたわ。罰として全部の共同釜の煤掃除をさせられるって」
「え、全部? それって多過ぎじゃないですか!?」
「執務室の統括者の娘がこんなに行儀が悪いんじゃ他に示しが付かないって、ホルズさんが。まあ確かに少し厳しいなとは思うけれど」
「あの、実は……」
少年は決心して、棘の森でピルカに助けられた事を白状した。
「あいつが遅くなったのは、多分ヘイムダルさんと別れてすぐ、僕を追って来たからなんです。今からホルズさんにそれを言いに行きます」
「やめた方がいい」
話を聞いている間、リリは眉を少し動かしただけで表情を変えなかった。が、少年の言葉には即答した。
「ピルカが言わなかったのには彼女なりの理由があるんでしょう。彼女を尊重してあげなさい」
「じゃ、じゃあ、僕も手伝えばいいのかな。共同釜の掃除」
「どうして私に聞くの? 貴方、それで明日の仕事に支障が出ない? キチンと手伝うのなら一晩かかるわよ」
「支障もなにも……僕なんてここに居てもあんまり役に立っていないし……」
リリの表情が揺れた。
相変わらず無表情だが、カンテラの焔に照らされて怒っているようにも見える。
一瞬ひっぱたかれるかと思った。
いやリリにひっぱたかれた事なんか無いんだけれど、彼女の趣きにはたまにそんな殺気が立ち上る。
「例えば、あたしがどうしてここで働いていられるか、分かる?」
唐突な質問。
「え、えと? 手紙を読む術が使えるから」
「違う」
リリはピシリと言った。
「それは働き始めてから身に付けたの。あたしは長を継ぐから、早くからここに入るのが当たり前だった。
修練所も上級生の講義をバンバン受けさせて貰って、最低限の学業だけでとっとと卒業させて貰えた。定められたレールが敷かれていた訳だけれど、別の言い方をすれば道が整備されていたの。沢山のヒトが整備してくれていたのよ」
「…………」
「父様はさっき戻って、先に一人で家に帰った。もしもあたしの役割が、家を暖かくして父様を迎える事なら、今ここで仕事をしていられない」
「えと……」
何が言いたいのだろう。よく分からない。
「うちの家の中の事は、父様の親戚の叔母様方が昼間にしてくれている。その他にも色々お膳立てしてくれるヒトがいて、あたしはここで働いていられるの」
「…………」
「だったらあたしのやる事は、一日も早くここで役立てるようになる事だった。手紙を判別出来るようになった時、本当に嬉しかったわよ……」
そこまで喋ってリリは、目を丸くしている少年に気付いて、少し動揺の顔になった。彼女自身、こんなに沢山喋るつもりは無かったのだろう。
「も、勿論貴方にあたしと同じ事をやれってんじゃないわよ。貴方には貴方のやり方で、自分で出来ると思う事を……ああ、もぉ、上手く言えない」
少年は何も喋れず固まるのみ。このヒトとここまで会話した事がないのだ。いつもビビって黙るか避けるかだったから。ただ、このヒトは冷たいんじゃなくて、言葉を選ぶのが下手なだけなのでは? というのは薄っすら分かった。
「あ、貴方だって支えてくれるヒトがいるでしょう?」
「あ、はい、えっと」
少年は思い巡った。
自宅に帰ると家族が出迎えてくれ、食事や寝床が整えられている。末の子が執務室に入ったんですよと祖父母は近所で自慢し、兄姉はニコニコと応援してくれている。
「確かに、家族の後押しがあって、僕はここで働いていられるかもしれないです」
リリはさやけく微笑んだ。
「では分かったでしょう。貴方が、家族や助けてくれたピルカに応えるには、執務室の仕事を毎日全力でしっかりこなして皆の役に立つ事よ」
「はい……」
「まずはユゥジーンをよく観察するといいわ。小間遣い時代からやっていたような雑用を今も勝手にやっちゃってるから。貴方が役立つ役立たないも、貴方次第って事」
「あ、はい」
良いアドバイスを貰えたのは確かなのだが、ピルカの話からはそれてしまった気がする。
納得しきらぬ顔の少年に、リリは眉を吊り上げて斜に構えた。
「なあに? その場所ピルカに譲ってあげたいの?」
「いっ、いえいえいえ」
「じゃ、今日はおしまい。お疲れさまでした」
話を終わらされて、少年は外に押し出された。
リリは無言で戸締まりをし、もう話を蒸し返さない方がいい雰囲気だ。
それでも少年は意を決し、玄関デッキを下りた所で言った。
「僕やっぱり、ホルズさんの所に行って、今日の事を話して来ます」
リリはゆっくり振り向いた。
「あの、罰とか関係なしに、ホルズさんがホッとするんじゃないかと思って。大人の男性とデートしていたんじゃなくて子供の僕を助けて遅くなったんなら、イライラもおさまって、皆が助かって万々歳かなって」
「貴方、自分で子供とか」
リリが口に指を当ててククッと笑った。
「言うのなら、ピルカに気付かれないようにね」
リリはひっつめていたサイドテールをほどいて、フクロウのような髪をひるがえしながら自宅へ歩いて行った。
***
記念すべき初仕事。
なのにちっとも胸踊らない。逆に何だかへこまされてしまった。
これからもこんな風に、思っていたのと違う事の繰り返しなんだろうか。
でも距離が遠かったリリさんにちょっとだけ近付けた。それだけか、今日の収穫、ホントにそれだけ……
とにかくホルズさんに話をしに行こうと、少年は居住区の路地へ足を向けた。
共同窯の横を通り過ぎる時、ふと足を止めた。今まで興味なくて近寄る事もなかった。
覗き込むと、煤が洞窟のようにガッシリとこびりついている。それが端から端まで大小十基ほど。共同窯は他にも何ヵ所かある筈。
……これ、全部一人で掃除するのか。
「あんたそこで何やってんの」
今日何度も聞いた甲高い声。
カンテラとバケツを持ったピルカがそこに立っていた。
ウサギ頭はほどかれ、髪を押し込んだスカーフがきつく結ばれている。
「今日はもうあんたに会いたくなかったのに」
「そっ、そんな無茶な」
ドギマギする少年の脇を通り抜け、ピルカは灰を掻き出して、こびり付いた煤を掻き棒で落とし始めた。
「今から掃除!?」
「共同釜なんて朝早くからついさっきまで燃やしっぱなしなんだから、夜中にしか掃除出来ないに決まってるじゃない。知らないの? まあ知らないわよね」
少年が何か言い返そうとした所で、暗がりから足音がした。
「ピルカ、お水足りてる?」
桶を下げたピルカの姉だ。
ホルズさんちは三男五女でピルカは末っ子、姉達はみんな目の覚めるような美人だ。
「あら執務室の坊や、お父様にご用?」
少年が返事をする前に、ピルカが彼の襟首を後ろから引っ張って喋れなくした。
「この子はただの通りすがり。お水ありがと、お姉ちゃん。手伝ってるのを見られたらお父様がまたハッチャケちゃうから、もう戻って」
姉は心得た顔で肩をすくめて、そぉっと帰って行った。大人っぽくてしとやかで、ピルカと同じ遺伝子とは思えない。
姉が見えなくなると、ピルカは掴んでいた襟を乱暴に突き放した。
「お父様に余計な事を言ったら、思い付く限りの嫌がらせをしてやる」
「何でそうなるの」
「言いに来たんでしょ、正直な僕カッコイイなんてあさはかなノリで。そんなのアンタだけの自己満足よ」
「そ、それは無いよ、リリさんにも釘を刺されたし」
「あのヒトには言ったのぉっ!?」
ピルカが悲鳴のように叫んだ。
そこも地雷かよ。もう口を閉じていよう。
「はあ……もういい、行って、消えてちょうだい」
項垂れて首を振り、ピルカは少年を無視するように掃除を再開した。乱暴にガッシュガッシュと、窯を壊さんばかりの勢いで。
少年は音を立てずにその場を去ろうとした。ホルズさんには明日言えばいいや。
あっ! ・・小さな悲鳴。
カラン、と棒が投げ出される音。
振り向くと、娘は手の甲を押さえてうずくまっている。
「見せてっ」
思わず駆け寄った。
「ま、まだいたの? 触んないでよ」
「いいからその手をどけてっ」
押さえた指を強引にはがすと、煤に混じった赤の色が見える。
慌てて傍らの手桶からきれいな水をすくって洗うと、白い手の甲に赤い筋。
煉瓦の尖った所に引っ掛けたのだ。見かけより深い。
「治療院に行こう」
「はあ、バカなの? こんなすり傷でわざわざ治療院に行くヒトなんかいないわよ」
「古い油の毒は怖いんだよっ!」
少年は腰鞄から綿や布を取り出して、手当てを始めた。
どしどし出て来る治療器具に気圧されたか、ピルカは一時されるままになった。
「そ、その、手当ての道具とか、いつも持っているの?」
「うん、小間遣いで入った時、一番最初に渡された。執務室の一員になったんなら応急処置の知識を身に付けろ、いつ何があるか分からんぞって脅し気味に言われて、けっこうビビって必死で教わった」
「お父様が?」
「ホルズさんも、ユゥジーンさんも、皆に」
ピルカが黙ってジッと手当てされているので、少年は沈黙をまぎらわすように喋り続けた。
「傷が膿む怖さは一番最初に教わった。小さな怪我でも自然界の毒が入って命を脅かす事もあるって。だからどんな傷も馬鹿にしちゃダメだよって……あの、本当、僕が言ったんじゃなくて、泥とか油とか本当に怖いから……」
「何回も言わなくても、もう分かったわよ」
少年は手当てを終えて、傷に布を巻いた。
「ちょっとの間、怪我を胸より上に掲げていて。本当に治療院に行った方がいいんだけれど」
「行かないわよ、またお父様にお説教される」
「分かった」
少年は立ち上がって、残った薬を差し出した。
「じゃあ、薬あげるから毎晩寝る前に塗って」
「いらないわよ。そんな大層な怪我じゃないし」
「ちゃんと塗ってくれたら僕は今日の事、絶対にホルズさんに言わない。本当は言おうと思ってたんだ。彼氏とのデートじゃない理由で遅くなったんなら、ホルズさんのイライラが減って、僕が助かるから。でも言う通りに手当てしてくれるんなら、言わない」
娘の眉がつり上がった。
「何よ、それ、脅迫?」
「ピルカ?」
暗がりから声がして、先程とは別のピルカの姉が、食べ物の入った籠を持ったまま駆け寄って来た。
「どうしたの、怪我!?」
「大したことないわ、この子が大袈裟なのよ。お父様にはナイショにして」
「はいはい分かったわ。ああ、坊や、ありがとうね」
やはり美しい姉にじっと見つめられ、少年は俯いた。
「坊やじゃないわよ、執務室で働いているんだから」
ピルカが言って、少年の薬瓶を引ったくった。
「寝る前に塗ればいいんでしょ」
「出来れば今日は水に濡らさないで」
ピルカがまた眉をつり上げたが、姉が間に入った。
「分かったわ、お父様はもう休んだし、私達が気を付けて見ているから」
よく見ると姉は前掛けに袖まくりで、手伝う気満々の出で立ちだ。少年が心配するまでもなく、姉たちがこっそり手伝う仕組みになっているみたいだ。
なんだ、ズルいの……と思いつつも安心して立ち去りかけた少年に、ピルカが後ろから声を掛けた。
「耳を食い千切られたって話」
「えっ?」
「ヘイムダルさんが言ったでしょ。『近隣の者が耳を食い千切られた』って。あれは方言。耳を食い千切られるって、あちらの地方で、『凄い声で怒鳴られる』って意味なの」
「え……えええっ」
ヘイムダルさんん・・
「あのヒトたまに天然だから許してあげて。そゆ事だから、じゃあね、とっとと帰れば」
追い立てられるように竈場を離れ、ポツンと帰路に付く少年。
色々考えるには頭が疲れ過ぎている。
ひとつ……ハッキリした事。
ヘイムダルさんの言葉に僕が不要にビビってしまったのを見抜いて、ピルカは森まで追い掛けて来てくれたんだ。
・・
・・・・んん?
もしかしたらあの子、ぜんぜん夢を捨てていないんじゃないか?
まだ目標に向かって邁進し続けているんじゃないか?
執務室に入れないんなら……整備された道に入れて貰えないのなら、自分で勝手に別の所に道を切り開いて、別の方向から最初の夢にたどり着くつもりなんじゃないの?
父親にもリリさんにも、多分ヘイムダルさんにも気付かせず、密やかに、これからもずっと。
少年は身震いした。
「まさかまさか、デートに結んでいくリボンで大騒ぎしているような奴だよ。大袈裟だな僕、疲れてるんだ、考えすぎ考えすぎ」
呟いて少年は、家に向かって一気に駆けた。
~見習い少年の初仕事・了~
~七時雨・完了~
お読み頂きありがとうございました。
七時雨、これにて終了でございます。
これの続きが「白い手綱赤い手綱」なので、宜しければ、どうぞどうぞ。