七時雨~前・Ⅰ
窓に貼り付く雪の軋みが耳をそば立て、少年は目を覚ました。
夜明けにはまだ間がある。
暖炉の薪が燃え尽き、僅かな黒い炭が薄闇の中、弱々しく明滅している。
少年は身を起こし、分厚い羊毛の敷き物の上を四つ這いで這って、暖炉に寄った。
背後の御簾が揺れた。
三重の間仕切り布の間から、紫の前髪の女の子の顔が覗く。
明かりが乏しいせいもあるけれど、青白い冴えない顔だった。
「ごめん、リリ、起こしちゃった?」
少年は小声でささやいた
「何か夢見たの? カノン」
「ううん、火が消えかけたから」
「ああ、今朝は冷えるわね」
女の子は、血の気の引いた唇でニコリともせずに言い、部屋の隅の薪の山から細いのを数本引き抜いて、暖炉の方へ歩いて来た。
「あんた、気を使って無理するんじゃないわよ。病気になられたら往生するのはこっちなんだから」
手慣れた感じで焚き木を組む様子を、少年は身じろぎもせずに眺めていた。
焔に照らされた白い横顔が、やけに透き通って見える。
火を作り終えると、リリはスッと立って、御簾の向こうに引っ込んだ。
寝巻きを着替える布擦れの音が聞こえる。
暗い内に執務室に行って室内を暖めておくのが冬の間の彼女の日課だが、今日はちょっと早過ぎる気がする。
「ねえ、リリ」
彼女が出掛けてしまう前に、カノンは声を掛けた。
「なあに?」
御簾の向こうの声は、重くて気だるそうだった。
勿論、声を掛けたからには言う言葉があったのだが、それらは喉の奥に引っ込んでしまった。
「あの、気を付けてね、坂で転んだら下まで止まらないよ」
『まさか、あんたじゃあるまいし!』
と返って来るのが常なのだが、
「ええ、ありがと」
と、気の抜けた返事がしただけだった。
重い冬扉が開いて、一瞬だけ外の音が入って来た。
ザアザアと雪を掻き回す風が、上空で踊っている。
「行って来るわ」
声と共に扉が閉まって音は消え、少年はは静寂の中に残された。
『リリ、夕べはちゃんと寝た?』
『長殿は今日は戻られるの?』
『ユゥジーン、きっと大丈夫だよ』
さっき呑み込んだ言葉達を反芻しながら、カノンはリリの去った扉の方向を見つめていた。
カノンにとって兄みたいな存在ユゥジーンが、出先から帰って来なかったのが三日前。午後から急に天候の荒れた日だった。
蒼の妖精の乗る草の馬は、水濡れに弱い。性急な時以外は、悪天候の中を無理に飛ばない。
出掛けた者が雨雪に足止めされて帰らない事は、ままあった。
「でも……」
雪が降り止まないとはいえ、今日で三度目の朝なんだ。カノンは分厚く張られた御簾越しに、外の気配に集中した。
長殿が帰らないのは、昨日からユゥジーンを捜しに行っているからだ。
リリは言わないけれど、すぐそこの執務室がただ事ではない空気に覆われているのがヒリヒリと伝わって来る。
冷気に触れると痺れて動かなくなってしまう自分の体質がもどかしかった。
こんな時に外にも出られず、何の役にも立てないなんて。
カノンは暖炉前から離れて、寝床の方に移動した。
リネンの枕の周りには、リリがユゥジーン宅から持って来た、欠けたカップやら壊れた工具やらが並んでいる。
それらを一つ一つ握って集中してみる。
「駄目だぁ」
最後のくたびれたぺんを取り落とし、カノンは情けないため息をした。
『物から持ち主の居所を捜す術』。
得意分野なのだが、そのヒトの思い入れのある持ち物がないと駄目なのだ。
役に立ちたい気持ちで急いているのに、ユゥジーンの家から持ち込まれた物は、全からくガラクタだった。
「彼、着たきり雀な上に、大事な物はいつも身に付けているのよ」
昨日の朝、リリはぶつぶつ言いながら、少しでもユゥジーンが使っていそうだった物を袋からガラガラと放り出した。
それらを見て、カノンは一目で、『ぜったい無理』と思った。持ち主の愛着を感じさせる物が、何一つないのだ。
「あれだけ足の踏み場もない部屋に住んでいる癖に!」
春になって外に出られるようになったら、一番に強制大掃除をしてやる!
カノンは独り文句を言いながら、もう一度挑戦するべく、ガラクタの山に手を掛けようとした。
その時、ふと頭を、ひとつの思い付きが過(よぎ)った。
***
蒼の里の居住区の一番高い所に長殿の住居があり、執務室はそこから少し下がった目鼻の距離だ。
大机の前のストーヴが熱を孕んで赤みを帯び、凍った窓が緩み始めた頃、ホルズが入り口から顔を出した。
「ああ、そのままでいい、仕事を続けてくれ」
立ち上がろうとするリリを制して、執務室統括者のホルズは大きな外套の雪を払って壁に掛け、大机に着いた。
「今朝は早いんですね」
リリは長椅子前の丸机で書類の分類をしていた。
「ナーガ長が留守だしな。まだ帰っていないんだろう?」
「はい」
作業の手を止めずにリリは答えた。
「お前さんのペンダントの羽根は、何とも言わないのだろう? なに、雪で足止め食っているだけだ。今日あたりピンシャンして帰って来るさ」
「そうですね……」
娘は同調したが上の空だった。
見習いの少年が出勤して雑事を始めたので、リリは口を閉じて仕事に没頭した。
ホルズは外に出て灰色の空を見上げた。
雪は、明け方程ではないが、やむ事なく降り続いている。
確かに今年は例年よりも雪が早く、降雪量も多い。だが、異常って程でもないし、ユゥジーンが戻って来なかった日も、さほど荒れていた訳ではない。
書類を分類し終わったリリが立ち上がった。
「皆が来るまで少し時間があるでしょう? 自宅の雪払いをして来ます。薄暗い中じゃカノンが可哀想だから」
ホルズが返事をする前に、見習いの少年が掃除の手を止めて進み出た。
「僕が行って来ましょうか」
この春に修練所を卒業予定の紅顔の少年は、執務室に通い始めてまだ一ヶ月だ。
「ありがと、でも、自分で行く」
紫の前髪は、上着を羽織って、顔を伏せたまま出て行った。
「……僕、いけなかったですか?」
見習いの少年は、どぎまぎしてホルズの方を見た。
「いや、構わん、あれでいい。これからもリリの反応は気にせずに、思った通りに遠慮なく言え」
「は……い」
少年は雑用に戻り、ホルズは机に向かい直して、所々逆さまに挟まった書類を戻す作業を始めた。
リリは文字を読めない。紙に触れる事で緊急性の高い物をかぎ分けて分類しているのだが、普段なら読めないながらも上下左右は揃えてくれる。
(多分、口実を作ってカノンに会いに行きたいんだろうな)
今、ユゥジーンの安否を察知出来るとしたら、彼だけだから。何も無いなら無いで、それを確認して心を落ち着けたいのだ。
(まったく、もっと素直に心配してりゃいいのに)
ホルズは肩を竦めて、また見付けた逆さま書類を直した。
窓の雪払いのついでに、屋根から突き出た雪も落とそうと、リリは自宅から離れた物置に長箒を取りに行っていた。
戻ると、自宅の戸口が開いている。
「ええっ?」
暖炉の部屋に居るべき少年が、そこに倒れているではないか。
「カ、カノン! あんた何やってんの!」
リリは慌てて駆け寄って、肩を抱えて起こした。
倒れてからそんなに経っていないようで、まだ冷えきってはいない。
懸命に引きずって暖炉の前に連れて行き、薪を放り込んで焔を上げた。
呼吸はしているが意識が飛んでいる。
父の戸棚から度数の高いコニャックを引き抜いて駆け戻り、栓を抜いてグイと口に含んだ。
(こ、こんなのに狼狽えるようなお子様じゃないわよ)
少年の鼻をつまんで唇を開かせ、口を近付けた所で・・
気絶している少年が、いきなり背中に腕を回して来た。
(ちょっ・・!)
びっくりしたが、相手はもうろうとしている。溺れる者みたいにしがみ付いているだけかもしれない。
とにかくコニャックを飲ませなきゃ……と、次の瞬間、後ろ襟から冷たい手が背中に入った。
「ひどい・・」
髪から衣服からコニャックでベタベタになった少年は、恨めしそうにリリを見上げた。
「そんな冷たい手を背中に当てられたら誰だって吹き出すわよ!」
娘はプンプン怒って、自分だけを拭いている。
「もしかして気絶した振りしてたの!?」
「まさか、そんな命懸けのチャレンジする訳ないだろ。リリに用事があったから、戸口から声を掛けようとしたんだよ。ちょっとくらい大丈夫だと思ったんだけれど……油断だった、ごめんね」
少年はまだ凍えて呂律が回っていない。
確かに悪戯でこんな事をする子ではないわね。リリは肩を降ろして、コニャックを杯に注いで手渡した。
杯をくっと飲み干して、少年はトロンとした目で言った。
「ユゥジーン、帰って来るよ」
***
「えっ? 何て?」
あっけなく言うカノンに、リリは思わず聞き返した。
「ユゥジーンの気配だよ。さっき、その中の……どれだったかな、とにかくどれかから察知出来た」
カノンは、山積みガラクタを指さした。
「どんどん近付いているよ。もうすぐそこまで来ているんじゃないかな」
「ホント!? あっ、それで知らせようとしてくれたの?」
「うん、そう」
「馬鹿ね……」
リリの言葉に被さるように、通りの方で誰かの叫び声がした。
続いて、雪の坂を駆け降りる複数の足音。ホルズの重量感のある足音も混じっている。
「馬繋ぎ場に着いたみたいだね」
「そうね」
「行きなよ、僕は大丈夫だから」
「あたしはいいの」
「どうして?」
「大勢のヒトが行ったみたいだし」
娘は立ち上がって、毛布と毛皮を持って来て、カノンに被せた。
「僕は大丈夫だって」
「まだこんなに冷たいわ」
足元に回って、冷えた彼の足を擦り始めたリリは、特に意地を張っている風でもなさそうだ。
(……ああ、いつものリリに戻ってくれた)
渡された布で顔を拭いながら、カノンはホッとしてリリを見た。
紫の前髪の下の表情が、朝とは別人のように穏やかだ。
良かった、この顔にしてあげたかったんだ、無理を押した甲斐があった。
カノンは目を閉じた。
(さっき、もうちょっと気絶していればよかった)
焚き火の焔を頬で感じながら、少年はぼぉっと、暖かい足の感触に身を任せていた。
入り口に足音がして戸口が開いた。
「リリ、いるのかい?」
ナーガ長の声だ。
「はい、父様」
「そちらにユゥジーンを運ぶ。暖炉の前に毛皮を敷いておいておくれ」
「は、はい!」
リリは慌てて立ち上がった。
ユゥジーンは運ばれて来なければならない程の事態だったの!?
カノンも起き上がって転がるように移動した。
御簾が開いて、ナーガと、里の若者二人に抱えられたユゥジーンが入って来た。
真っ青な顔の両目は虚ろで、口は半開き。辛うじて自分で立ってはいるが、支えがないと崩折れそうだ。
青年を毛皮に横たえると、若者達は長に挨拶をして出て行った。
「治癒の術を施す。カノン、手伝っておくれ」
「はいっ」
「父様、カノンはさっき、倒れて」
ナーガ長は顔を上げて、心配そうに少年を見た。
「大丈夫です、もう回復しています。それよりユゥジーンは?」
前髪をかき上げて青年を覗き込むカノンの後ろで、リリは後ずさりした。
「お、お湯を沸かさなきゃ、ポット、ああ、その前に、水」
自分に治癒の術は使えない。気をしっかり持って、自分に出来る事をやらなくちゃ。
「いや、こちらに来ておくれ」
長が、娘の手を掴んで引き寄せた。
「父様?」
長はそのまま、リリの両肩を持って、ユゥジーンの前に押し出した。
「ユゥジーン、リリだよ! 分かるだろ、リリだ!」
何よ、それ・・!?
リリは全身に鳥肌が回った。まるでジーンがいまわの際みたいじゃない。
恐怖で喉が詰まる、背中が総毛立つ。
しかし、ぱちくりと瞳をしばたく青年は、そんなに危急な風には見えない。
「ユゥジーン、リリなら分かるだろ。ん? どうだ?」
長は娘の肩をワサワサ揺らしながら、懸命に話し掛けた。
青年の表情は動かない。
「あの、長殿、もしかして……」
カノンが、口を開きかけた時、青年が横たわったまま、ぽそっと呟いた。
「俺、ユゥジーンって名前じゃない……」
「ええっ?」
「俺の名前、ジュジュだよ……」