雪はやんだが、空は相変わらず鉛色の雲が覆っている。
執務室はいつもの午後の風景。
大机でナーガ長とホルズが様々な段取りを話し合い、リリは手前の丸机で手紙や資料の選り分けをしている。
本当は、こんな屋根の下でややこしい文字の山とにらめっこしているより、この娘は外を飛び回る仕事が好きだ。だけれど、将来大机に着く身だからと、苦手な文字類との格闘を、頭を抱えて頑張っている。
入り口の扉が開いて、長い模擬刀を二本持った初老の大男が入って来た。
ホルズの父で、ナーガの前に長を務めていたノスリだ。
今は必要な時以外は出張らず、のんびり隠居をしているが、現役時代は里一番の剣の達人だった。
ナーガが生まれる前、長の血縁に適任者がいなかった時期に、血縁外の者が複数で助け合って長を勤めた時代があった。
ノスリはその代の一人で、血縁は無いが、ナーガは父親のように尊重している。
「ノスリ殿、ご苦労お掛けしました」
ナーガとホルズが椅子から立ち上がったので、リリも急いで立った。膝に乗せていた書類がバラバラ落っこちる。
「構わん構わん、俺に気ィ使うな」
ノスリは長時代から変わらぬ大らかな声で言い、足元の書類を拾ってリリに手渡した。
「あれ、親父、奴は?」
ホルズが首を伸ばして、入り口を見やった。
「ああ、修練所の方を散策したいと言ったから別れたよ。入学したばかりの頃の事は、何となく覚えているって言っていたな」
ノスリは大きな身体を長椅子に沈めて、見習いの男の子が運んで来た茶を受け取った。
「ユゥジーンは大した奴だぞ。ジュジュって幼名の小さい頃の記憶しか残っていない癖に、身に付いた太刀筋だけは身体が覚えていた」
「そうですか、それはよかった」
ナーガがホッとした表情で、椅子に身を降ろした。
「私が山の雪洞に彼を見付けた時は、剣の振り方どころか、言葉すら忘れてしまった風でした。この調子で少しずつ思い出してくれればいいんだけれどね」
「取り敢えず、剣士としてのユゥジーンが健在だと分かっただけでも、万々歳だ。さすが子供の頃から親父が仕込んだだけあるな」
ホルズも肩の力を抜いて、見習いの子が差し出す湯飲みを受け取った。
「記憶がなくても、剣が使えたら万々歳なんですか?」
見習いの少年は素朴に聞き返した。
「ああ、里の中にいたらピンと来ないだろうが、蒼の里を一歩出たら、『剣士ユゥジーン』の勇名はそこそこ響き渡っているんだぞ」
「へ、へえ」
勇名剣士の呑気でボサッとした面しか知らなかった少年は、素直に感嘆した。
ノスリが、空の湯飲みを丸テーブルに置いて立ち上がった。
「まあ、しばらくはそっとしておいてやろう。記憶をなくした経緯も何も、本人は覚えていないんだろう?」
ユゥジーンが帰還した後、ナーガ長がもう一度雪洞のあった山に赴いたが、原因となりそうな手掛かりも何も、分からず仕舞いだった。
元々の任務は麓の村の小さな依頼事だったが、そちらは滞りなくこなし、普通に帰路に着いている。村長からも、取り立てて変わった証言は得られなかった。
「あんまり一度にあれやこれや言っても可哀想だ。一番辛いのは本人だろう。手が足りない事があったら俺に言ってくれ」
「助かります」
ナーガ長がノスリに礼をしてから、リリの方を向いた。
「あ、はい」
会話には加わらないで手元の書類に目を落としていた娘は、慌てて抜き出した数枚を差し出した。
「これ、彼の受け持ちだった地域と、最近の情報です」
「ふむ」
ノスリは受け取ってざっと目を通してから、リリを見てニッコリした。
「これらは俺が引き受けよう。手際がいいな、リリ。ナーガの子供の頃よりも優秀だぞ」
「まさか……」
娘は鼻の頭を赤くしてうつ向いた。この身体の大きいノスリも、里の中で数少ない『リリが好いている大人』だ。
「所で、リリ」
「はい」
「そろそろ昼飯だ。子供の頃に奴が好きだった料理を、うちの娘達が用意してくれたんだ。ユゥジーンを呼びに行ってくれないか」
「ぇ……」
「里の道も昔と変わっているし、迷子になっているかもしれん」
「……」
「僕が行って来ましょうか?」
見習いの少年が茶器を片付けながら言った。
ホルズが慌てて口を挟む。
「いや、お前には……そう、おウネ婆さんの所に薬を取りに行って貰わねば」
「あれ? 薬が出来るのは夕方だって言っていませんでした?」
少年は、ただ素直に疑問を口にした。
「ああ――・・」
苦虫噛み潰した顔のホルズに見えない角度でため息付いて、リリはストールを羽織った。
「いいのよ、行って来ます」
***
明け方までの降雪が根雪をふわりと覆い、修練所脇の放牧地は一枚の滑らかな絹布みたいだった。
その中を足跡を付けて歩くユゥジーンはすぐに見付かった。
しかしリリは近寄ろうとした足を止めた。彼が一人ではなかったからだ。
「あら、リリさん」
ユゥジーンの隣を歩いていた少女がこちらを見付けて、口角を上げて微笑んだ。
くりんくりんにカールした髪をカラフルなリボンで結った、可愛いを発散させた娘。
リリは仕方なく会釈した。
「こんにちは、リリさん。今、ユゥジーンに色々案内していたの。里の事とか草の馬の事とか、みんな忘れちゃって可哀想でしょう? たまたま会ったのよ、裁縫の習い物の帰りに」
リンゴみたいな頬をした娘は、聞いてもいない事をベラベラと喋った。
(たまたま会うような通り道でもないわよね)
シラッと彼女が喋り終わるのを待って、リリは隣で突っ立っているユゥジーンにだけ話し掛けた。
「ノスリ殿が、お昼を一緒にと仰っています」
つっけんどんに、事務的な声。
「あら、じゃあ、私は、これで。またね、ユゥジーン」
少女は言って、わざとらしくスカートをひるがえして、お尻を振りながら歩いて行った。去り際にウインクしたのも丸見えだった。
ユゥジーンは明らかに去り行く娘を気にしている。
「お断りしますか?」
リリは変わらず無機的に言った。
「あ、断れるの?」
「はい、貴方に別な用事がお有りなら、そう伝えておきます」
「じゃあ、えっと、あの娘(コ)に、料理を味見して欲しいって頼まれたんだ、だから……」
「はい、そのように伝えておきます」
リリは、もう何も喋りたくない気持ちになって、とく早く立ち去ろうとした。
「あっと、あの、君」
呼び止められて、振り返らずに足だけ止める。
「何ですか?」
「あの……今の娘もそうだけれど、君と、その……俺との関係を、気にしているんだ。えっと、記憶をなくす前の俺って、君と付き合っていたの?」
リリは、出来るだけ無感情な声で答えた。
「まさか、あたし、こんな子供ですよ」
ざんばら髪をやめてから少しは背の伸び出したリリだが、まだまだ、さっきの女の子なんかに比べたら、全然チビッコだ。
「そうだよね。約束なんかもしていないよね」
「そんな話はした事もありません」
リリは後ろも見ずにスタスタ歩き出した。
背後で彼が、ちゃっかり待っていた今の娘に駆け寄るのが分かる。
一刻でも早く離れたかったけれど、とにかく静かに機械のように歩いた。
あの娘だけではない。放牧地の土手の陰や里の窓々から、彼を見つめる熱い眼差しをワンサと感じる。
回復した彼が出歩けるようになってから一週間。気が付いたらそんな現象が巻き起こっていた。いつ見ても女の子がまとわり付いているし、彼もまんざらじゃない様子だ。
リリとしてはなるべく近付きたくないのだが、ノスリやらホルズやらに、しょっちゅう彼の世話焼きを頼まれる。
ロマンチストな大人の男は、『ユゥジーンに一番大切なのは結局リリ! リリといれば記憶が蘇る!』って甘いストーリーを夢見ているのだ。
「ヒトの心がそう単純に行く物ですか」
肩を怒らせてズンズン歩きながら、リリは吐き捨てるように呟いた。
それに……
聞きたくもないのに、背後に、甲高い甘え声とデレデレした軟派男の声。
(あんなの、ジーンじゃない)