バーダックはあれから空を飛び、結界の外へと消えてしまっていた。
追いかける事も出来ず、かといって結界の外であり莫大なリスクを抱えてまで捜索するかと言われれば、歌野はするかもだろうが、他がそれを許さなかった。
結局、戦力は増えないままで終わってしまっていた。
「……ふぅ」
水都は下社春宮の周辺を歩いていた。
人の気配を完全に失ったこの辺りは、近々結界の強化の為に切り捨てられる予定だ。住民の移動も完了している。元々決まっていた事だが決定的な理由になったのはやはり歌野が重傷を負って帰ってきた事だろう。
元々、諏訪の結界を一人で守り切る事自体不安視されていた。一年で諏訪は滅びると言われていたのだ。
しかし歌野はそれを覆し、二年目の春を迎える事が出来ている。その努力が、失われていくと考えると水都はやはり悲しく思えるのだ。
無駄なのか、と思う事もある。
歌野は現在農作業中だ。いつもならばそれを隣で見ていたのだが、どうにもそう言う気分になれず、こうして散歩をしていた。
皆で作った畑やテント。一致団結と書かれた旗なんかもある。縮小する為に置いていくしかなかった物達がここにはまだ置かれているままだ。
きっとバーテックスに壊される。無くなってしまう。
「あれ」
一つだけ、玄関が開きっぱなしの家を見つけた。
特に急ぎでの避難ではなかった為、今までは大抵扉、窓などは閉め切られていたのだが、その家だけは何故か開いていた。狭い結果内故に水都はこの家の持ち主の事を覚えていて、几帳面だった記憶があった。
だからこそ、少し気になって玄関の方へ近づいてみる。
そして、まるで道しるべの様に赤い何かが玄関前から家の奥へと続いているのが見えた。
まさか、と水都は家の中を見る。靴は置かれていない。しかし赤い印はリビングの方へと続いているのを確認して、水都は走った。
「誰だっ!」
顔も確認せずに水都は名前を呼んだ。
しかし、確かにリビングには人が居た。自身の体に包帯を巻いて手当をしているバーダックが一人。
その体は数日前に見た姿よりも更に傷を増やしていた。
「てめぇは……」
バーダックは少し驚いた表情をしたがすぐに睨むように水都を見た。
「何の用だ」
「え、何の用って言われると……バーダックさんが何してるのかなって思って」
「見りゃわかるだろ。ただの手当てだ。それともなんだ、他人の物を奪ってるのが気に食わねぇってか」
バーダックは特に悪びれもせずに、手当を続けたままそう言った。視線は常に水都を向いていて、足を横に向け動き出す準備だけはしていた。
警戒は確かにされているが、会話をするぐらいには信用されているのかも、と一瞬思ったが水都はすぐにただ敵だと認識されてないだけだと思い至る。
だからこそ、少しだけ考えて、
「それは、えっと、緊急自体なので大丈夫だと……思いますけど……」
バーダックを肯定する。
実際今のバーダックの傷を見たら、水都も事後報告をする事を前提として近くの家から物は借りるだろう。だからこそ、これに関して水都は何も言わない。
バーダックはそんな水都を意外だとでもいうかの様に瞬きを数回繰り返した。
「じゃあ、何だってんだよ」
はぁ、と息を吐いてバーダックは座り込んだ。
警戒が解けたらしいが、その理由に水都は心当たりがなかった。敵意がないとみなされたのか、それともお人好しが功を奏したのか。
いずれにしても、水都が気になる事は別にあった。
「そんな手当てじゃ駄目ですっ!」
「あ?」
水都はそう言うが早いか、バーダックの元へと向かう。
そして、バーダックが巻いていた包帯を奪い去ると巻かれていた部分を全て取った。
「てめぇ何しやが――」
「汚れたままの傷だと病気になってしまうんです! だからその前に消毒をしなきゃ……」
露わになるのは赤く染まった腕だ。予想通りに傷に直で包帯を巻いていた。
噛み傷のようにも見える傷に、水都は顔をしかめながらもバーダックが使っていた応急箱から消毒液やコットンなどを取り出していく。
「それに、包帯も血で汚れちゃってるので別の……あった。こっちで巻きます」
そこから水都の言葉にバーダックは言葉を返す事はなかった。
とはいえ水都も医者ではない。切り傷の縫合などは知る由はないが、そもそもバーダックの傷はそれ程重傷という程でもなかった。数は多いが一つ一つは深くなく、物によっては絆創膏で押さえられる物もあった。
「い、痛かったら言ってくださいね」
「……この程度で根は上げねぇよ」
水都の手際はお世辞にも上手いとは言えなかった。しかし、それでも一つ一つ確実に丁寧に処置をしていく。
そんな水都に、バーダックは困った顔をしながらもなすがままにされていた。
「何だっててめぇはこんな事をするんだ。何の徳が」
「徳とかじゃないです。今は皆、手を取り合って生きてて、見過ごして良い人なんて、居ないって思うんです」
「俺が、星を襲う悪人でもか」
「え? えっと、それでもです。どんな悪い人でも……」
水都は言葉に詰まる。
諏訪には当然善人ばかりではない。生き延びて結界内に来た犯罪者も多くいた。しかし、彼らに対しての歌野の姿勢は何も変わらなかった。
誰に対しても同じ言葉を掛ける。
「手を取り合って立ちがろうって」
水都の憧れている歌野の言葉をそのまま借りてしまった事に、言ってから恥ずかしくなる。
歌野の様になれたかと己惚れる訳にはいかないと慌ててごまかしの言葉を考えて、バーダックの顔を見た。そして、目が合った。
ただ、呆気に取られたようなバーダックの目と。
「そ、それにバーダックさんは悪人じゃないと思います。私達を助けてくれましたし」
「あれはただの気まぐれだ」
「それに、そのハチマキ」
水都がバーテックスの頭に巻かれたバンダナを見る。
随分と汚れてしまったそれだが、バーダックは構わずにつけている。
「血、ですよねその赤」
それは服の洗濯をした時に気付いた事実だった。
異臭の放つバンダナが気になった時、その異臭の元に心当たりがあった。本来であれば覚え等ある筈はない、しかしバーテックスの襲撃から常に嗅いできた物。
血の匂いだと。
「だったらなんだ」
「バーダックさんの傷、頭の方にしかなくて真っ赤になる程じゃないと思ったんです。でも、もしかしたらそのバーダックさん以外の人の物かなって思って」
それが水都の行き着いた結論だった。
バーダックにも仲間が居て、その仲間の血を拭いてバンダナにしているのだと考えれば少しだけ納得が行く。そうでなければ、数分前の時もバンダナで自分の血を拭かない理由がないのだ。
「だから、バーダックさんはきっと優しい人だって」
「言いたい事はそれだけか?」
「え、あ、はい……」
バーダックはそれを肯定はしなかったが、否定もしなかった。そして水都は自身が何か言う度に、バーダックは視線を逸らしていたのを気付いていた。
その理由が分からないままだったが、しかし一歩近づけたなと分かって心の中で自分を褒める。
そう話している間に、包帯が巻き終わった。後はテープで止めれば、簡単な手当ては完了だ。
「終わりか?」
「え? あっ、はい、終わりです」
「礼は言わねぇぞ」
バーダックはソファに座り込んでから一言、そう言うと顔をそむけた。
「お礼なんて、私にはこれくらいしか出来ないから……」
他にもまだ傷は多い。血が流れるような物は腕だけだったが、残りはどうすればいいのか水都には分からなかった。そもそも、今の手当てもあっているのか自信がなくて、声のトーンを落ちたままだった。
「そうかよ」
バーダックはそんな水都に対して何か言う事なく綺麗に巻かれた包帯を見つめていた。
そこから、数分間無言の時間が流れた。
水都はあまり会話は得意ではなかった。歌野とならばもう少しまともに会話できるが、相手が大人で、しかもぶっきらぼうなバーダックともなれば言葉の一つも出てこない。
何か会話しなくちゃ、と思いながら家の中にある物から会話の糸口を探してみる。
「あ、あのバーダックさんは」
「飯」
「え?」
「何も出来なくても飯を作るぐらいはできるだろ。俺の腕はこんなん、だからな」
腕を叩いてバーダックは笑って見せた。
軽い冗談なのか、水都には判断がつかなかったがその言葉に水都は立ち上がって
「つ、作ります!」
「なんて……あ?」
「ざ、材料とか取ってくるのでここで待っていてください!」
「おい、別に」
バーダックの言葉は聞こえていないようで、水都はそのまま家の外へと走り出した。
――
「お邪魔するわ!」
ご機嫌な歌野の声が、一軒家の中全体に響く。
それと同時にバーダックは眉をひそめたのを見た。鬱陶しい、とでも言いたげだったが歌野の持つ野菜達を見て、舌打ちしてから顔を逸らした。
「おい、何でこいつが」
「え、えっと……」
水都も少し申し訳なさそうに話すが、来て欲しいと頼んだのは水都の方だった。
作る、とは言ったが水都は特に料理が得意な訳じゃなく、人並み程度だ。せめて取れたての一番良い野菜を使った何かをと考えて、水都が歌野を見つけて声を掛けたのだ。
二つ返事で返した歌野はもう、それはもうご機嫌に材料を集めて今に至ると言う訳だ。
「バーダックさんは、信州そばをご存じかしら?」
「……知るかよ」
ドンっと歌野がリュックを降ろしてその中から料理道具を取り出していく。
「なら、今日バーダックさんは今日がディスティニーに出会う日ね!」
「運命だぁ?」
歌野言葉に訝しげに首を傾げたバーダックはそれ以上何も言う事なく、歌野の持ってきた道具達を眺めていた。
水都も改めてみるが、歌野が持ってきたのはそば鉢に小間板、生舟などなど。異様に多い道具にバーダックは何が始まるのかと思っている事だろうと言うのは想像に難くない。
つまり今から始まるのは、まさかまさかの、
「ええ、今から作るのは手打ちそば。職人には遠く及ばないにしても、この長野の誇る蕎麦を食べさせてあげるわ!」
――
歌野がそば作りを始めてから一時間程が経っていた。
机の上に置かれたざる蕎麦を前に、バーダックは額に青筋を浮かべながら、
「も、もう少しよ! 中指を二つの間に挟んで……」
箸を持つのに苦戦していた。
バーダックが外人だ、と言うのは名前もそうだが日本人と違った顔付きや体格で察してはいた事だった。しかし、歌野の蕎麦推しの気持ちが勝ってしまったせいで、現在バーダックはまさかの箸持ち講座を受けていた。
「くそ、手掴みで良いだろうがっ!」
「それはリジェクトよ! つゆに手を濡らすのは勿体ないわ。それに箸でゆっくり食べるのは大事よ? この苦戦にしても、しっかり味わう時間になる。手掴みでその時間を失うのはビッグロスよ?」
歌野の熱弁に水都はもうただただ苦笑いをするしかなかった。
とは言え、バーダックもバーダックで着実に箸を上手く持ち始めていた。それで一口、また一口とざる蕎麦を口に運んでいた。
そして、その度に一瞬の沈黙が流れるのだ。
「ざる蕎麦の魅力は何と言ってもその細さと喉ごしにあるの。つゆと合わせて食べた時の嚙み合わせの良さはうどんの遥か先を行くわ」
その言葉にバーダックの言葉はなかった。ただ、咀嚼して時折目を見開いたりしている。
しかし、水都もバーダックの気持ちは分かった。物の美味しさを言葉にするのは難しい。水都も歌野程ではないが蕎麦は好きだ。美味しいのは事実で、初めて食べたとなれば驚くのも無理はないと思う。
故にか、箸の講座を素直に聞いていた。
「それに、蕎麦は健康食品と言っても過言ではないの。ルチンって言うのが含まれていて」
「次だ」
歌野の言葉を遮り、バーダックはそばの入っていた皿を差し出した。
歌野はそれを笑顔で受け取る。しかし、水都はそれをもう苦笑いで見ていた。まさかバーダックの食事量が十人前程度では足りないとは夢にも思わなかった。そもそもその量も今後も食べてもらう為に多めに用意していたのだが、それも足りなくなりそうな勢いである。
「う、うたのん大丈夫?」
「素晴らしい食べっぷりで、作るこっちまでハッピーになってしまう程よ? 私も作ったかいを感じてもっと作ってしまいそう!」
歌野の言葉に流石だなぁ、と水都は呟く。
「さて、行くか」
もう何杯目か数え切れぬほどそばを食べ終えて、バーダックは立ち上がった。
それから軽い準備体操を始めたのを見て、歌野は肩をすくめた。
「ホワイ? 行くって、何処に?」
しかし、バーダックはまだ傷は治り切っていない。行くと言っても何処へ行くつもりなのか。
「戦いに決まってんだろ」
「なっ、そんな傷で」
「だからジッとしてろってか? 冗談じゃねぇ、戦闘民族がかすり傷の一つで戦いをやめてたまるかよ」
バーダックはそう言い残すと、二人の言葉を待たずに家の外へと行ってしまった。
追いかける様に二人は大慌てで外に出るがバーダックの姿は既に空あった。
「そ、空を飛ぶってのは反則ね、もう見えなくなっちゃったわ」
「でも、今の方角って下社秋宮の方……え?」
「うん? みーちゃん?」
歌野が心配そうに水都を覗き込む。対する水都はバーダックが飛んで行った下社秋宮ではなく、下社春宮の方を見て、目つきを変えた。
「神託が来た! 下社春宮にバーテックスの襲撃……なんだけど、数が少ない?」
神託は映像の様な物で伝わる。簡単に言えば暗示であり、水都が見たのは数個の星が下社春宮に落ちる様子だ。
星とはバーテックスの事であり、つまりそれ襲撃を暗示している事になる。しかし、いつもであればその数は水都には数えきれない程の量だった。
それが今回は片手で数え切れる程の量だったのだ。
「とにかく下社春宮ね! 行ってくるわみーちゃん!」
歌野は水都の言葉に走り出す。
仕方がないが下社春宮とは逆方向、上社本宮の方へと向かう歌野を見て、少しでも、何かの足しになればと両手を合わせてから祈る。
それから、下社秋宮の方へと走り出した。