くもりくもらせ 作:aru
酒呑童子の潜む隠れ屋敷は、迷い家という現象に分類される。山奥にたたずむこのお屋敷の出現先は関東地方から東北地方に点在しており、一定の期間が経つと移動していくという。そのため、課長は急襲を選んだ。
「隠れ屋敷が藤見市にどれだけいるかはわからない。だから明日、五幣君が来るのを待って襲撃をかける」
会議が終わってからはいつも通りパトロールをしていたが、明日に備えて早めに家へ戻った。ドアノブはすでに課から提供された修繕費で修理されており、そこだけ真新しかった。
「ただいま」
「二人ともおかえり。ご飯できてるわよ」
時雨家の夕食は早く、遅くに帰ってくるあかりと真白は二人だけで食べるのが常である。しかし今日はなぜか母親が食事をする二人の前に座っていた。
真白は気にもとめずご飯を口に運んでいたが、あかりはどうにも気になって話を切り出した。
「……どうしたの? いつもテレビ見てるのに」
「あかりたちが、ここで怪異と戦ったって聞いたから、どんな感じだったのかなって。ほら、あかりは全然教えてくれないじゃない」
「別に話すようなことじゃないから」
「反抗期ねえ」
「違うけど。それで何が聞きたいの」
「真白ちゃん、死にかけたそうね?」
突然話を振られ、真白は困惑したようだった。が、すぐに明るい調子に戻った。
「きっと光紀君は戦いを見るのに慣れてないから、勘違いしたんだと思います。大したことなかったですよ~」
「そうなの?」
「はい。もう、光紀君大げさだなー。あ、すみません。おかわりもらえますか?」
「いいわよ」
あかりの母は笑いながらご飯をよそい、真白の前に置いた。
「こんなに元気なら心配しなくてもいいかしら」
「もちろんです!」
それを聞いた母は笑うと、真白の頭をがしがしともみくちゃにする。あかりにも同じことをしようとしてきたので、慌てて手を払いのけた。
「危ない目にあってないならいいわ。でも、もし駄目そうなときが来たら逃げなさい。真白ちゃんも」
「私も?」
不思議そうに見上げた真白に、母はうなずいた。
「ええ。もう娘みたいなものだし」
「……」
『お前が欲しいものではないか、舞。よかったのう』
一瞬だけ真白は羨望と悲しみがないまぜになったような、形容しがたい表情になったが、すぐに無邪気に笑いだした。
「やった、居候から家族に昇進です! じゃあ私お姉ちゃんね、あかり」
「なんでよ。真白って年齢不詳でしょ」
平常運転だった。いつも通り調子に乗り始めた真白にツッコミを入れながら、あかりは自分が見たものは何かの勘違いだろうと結論づけた。
そして食事が終わって部屋に戻ろうとしたとき、あかりは真白に呼び止められた。
「あかり」
「なに?」
「切れそうだから、お願い♪」
「……分かった。来て」
そういえば今日は薬を打っていなかった。階段をのぼりながら、憂鬱な作業をしなくてはならないことにため息をついた。
『この子身体ボロボロですねえ。怪異課ってことはけっこう強い薬を使ってるんでしょうな』
吸血鬼に襲われ真白が病院に運び込まれたとき、医者はあかりを呼び出してそう説明した。輸血の際に血液を調べたそうだが、異様な濃度の快楽物質が流れていたという。
彼女が異類であることは医者も知っていたそうで、特にそれを咎めるようなことは言わなかったが、彼女の余命だけは宣告された。
『もって数か月というところでしょう。今は無症状かもしれませんが、このタイプは一気に崩れますから』
近い未来、真白は薬に侵されて死ぬ。それを知ったあかりは自分の運命を呪いたくなった。なぜ自分の相棒はこんなに短命なのだろう。まるで意地悪な神様がわざとそういう子を選んでいるようだ。
(……でも薬を打ってるのは、私か)
部屋に鍵をかけると、あかりはポーチから注射器と薬を取り出した。とろんとした目でそれを見ている真白を見て、あかりはひどく苦いものがこみあげてくるのを感じた。
「……真白。ちょっと聞きたいんだけどさ。薬、減らせる?」
「急にどうしたの」
「このまま使ってると、真白の寿命がどんどん削れる。だからやめられないかなって」
「……あはは、いまさら何言ってるの。無理だよそんなの」
真白はあかりに諭すように言った。
「禁断症状がね、つらすぎるの。あかりは分からないかもしれないけど、アレになるくらいなら死んだほうがマシなの」
普段弱音を吐かない真白が言うだけに、その言葉には重みがあった。
「……ごめんね」
「いいよいいよ。私なんて怪異課行ったあの瞬間に殺されてもしょうがないんだし。むしろ生きててラッキーだよ」
明るく言う真白。せめて恨み言の一つでも、平手打ちの一つでもくれればまだ楽だった。しかし一切そういうことをせず、受け入れている彼女に薬を注入するのは、心を摩耗させる。
「手、出して」
真白が腕をめくると、白い肌に残る無数の黒ずんだ注射痕が露わになった。これは、あかりが彼女にしてきたことの証。尊厳を奪い、服従を強いてきたしるしだった。
あかりが薬を押し込むと、真白は熱っぽいため息をついた。
「あ~気持ちい~」
薬の効果か、真白はくすくすと笑い始めた。代償の重さを理解している分、あかりはとても笑える気分ではなかったが。
(……せめて、小坂部さんが打っただけだったら)
あかりが打たないでいたら、早い段階で薬を断っていれば、真白の命を削らずに済んだのだろうか。何も考えず言われるがままに薬を投与していたことが悔やまれた。
「これで元気100倍! 明日はがんばろ」
「……そうね」
あかりは力なく答えた。
次の日の午前中。私とあかりが郊外の山のふもとにやってきたときには、すでに課の全員が集まっていた。
「休日出勤はえらいんやけど、流石にやらんといけんよなあ」
そうぼやいているのは頭を丸めた坊主―五幣だった。丸く太っているのと、目の下にクマがあるせいでパンダのように見える。昼に実家の寺の手伝い、夜は怪異課という二足の草鞋を履いている職員で、「凛」が死んでからずっと隣町にいたため、会うのは久々だった。
「こんにちは。五幣さん、ですか?」
私が話しかけると、五幣は振り返って目を見開いた。
「めっちゃ可愛い子おるやん。え、誰きみ」
「……真白です」
「ああ、君が例の異類ちゃんか。そ、僕は
そう言って五幣は相好を崩した。
私たちがやって来たことに気づいた課長は、ぽんと手を叩いて注目を集めた。
「全員揃ったことだし、隠れ屋敷に向かおうか」
課一行は山道を歩き始めた。隣にいるあかりは、周りを見回しながらため息をついた。
「なんか山の中って暗くて気味が悪いわね」
「確かに。怪異がどこに潜んでもおかしくないしね」
人間が夜に寝るように、怪異たちは昼に眠る。むしろ私たちが寝込みを襲いに行っているので、不意打ちを受ける可能性は低い。メリーさんが何らかの手段でこちらの攻撃に気づいていたら別だが。
「今はそんなに気にしなくていいと思うよ。昨日、メリーさんが電話してきたんだけど『吸血鬼は殺した』って答えてもらったから。吸血鬼から情報を引き出して奇襲するというのを読んでくるとは思えない」
課長はそう言いながら道を先導していく。彼の言う通り、山道をはずれ、繁みや木々の間をぬって移動を続ける間、怪異の襲撃を受けることはなかった。
そしてついに、小川の向こうに大きな屋敷が姿を現した。
「五幣君、頼んだ」
「任せてくんさい。『煙々羅』、気張れよ」
五幣の手のひらに載っている小さな壺から大量の煙が吹き出し、あたりに立ち込める。そして怪煙は広がり、屋敷を覆っていった。
煙々羅。古くから伝わる煙の怪異で、広範囲に広がった煙は一切の怪異を通さない強力な結界になる。ミサキにやられ職員のいなくなった隣町の役場を1人で防御できていたのは、ひとえにこの呪具のおかげである。
今回の作戦は中にいる怪異を掃討していくだけだが、「煙々羅」で隠れ屋敷を囲うことで討ちもらしを防ぐ狙いがあるのだろう。
「よし、五幣君は煙の結界の外で待機していてくれ。私たちは二手に分かれて屋敷に入り、怪異たちを殺していく」
私とあかりと浜矢のペア、課長と小坂部と伊見のペアに分かれ、屋敷内の探索を始めることになった。緊急撤退用の手鏡を五幣のそばに置いてから、私たちは屋敷へ入った。
「……思ったより綺麗だな」
滑らかな石を敷き詰めた
「土足で失礼しますよっと……」
だが、浜矢はかまわずそのまま足をのせた。他のメンバーも何も言わず土足のまま歩いていくのを見て、私もそれに従った。三和土を上がってすぐに突き当りがあり、そこで左右を見渡すと、先が見えないほど長い廊下が双方に続いているのが見えた。
「じゃあ、浜矢君たちは左へ。危なかったら撤退していい」
「了解っす」
「人質見つけるってことも忘れないでね、ハマヤン」
「わかってるって。あとハマヤンっていうなっつってんだろ」
「そうだっけ。忘れちゃったよ。じゃ、頑張ってね~」
小坂部はにこやかにそう言うと、課長たちと一緒に右の通路へ歩いて行った。
「……小坂部さん、やたら浜矢さんにダル絡みしますね?」
私が訊くと、浜矢はうんざりした様子で答えた。
「腐れ縁なんだよ。同期っつうか幼馴染でさ。でもあっちの方が出世したからなあ、見下してんじゃねえの」
「見下してる感じはしませんが」
「そうなのか?」
私とあかりを連れているせいか、嫉妬の色を少し含んではいたが小坂部の浜矢に対する感情は悪いものではなかった。鈍いなと思ったが、あかりも気づいてはいないようなので、どちらかというと私の方が敏感だったのだろう。
歩きながら、私たちは一つ一つ障子をあけて座敷の中を確認していった。
「……いた」
そして6部屋目で、黒々とした羽根を折りたたんで眠っている醜い怪鳥を見つけた。サイズが異常で、身にまとう瘴気を見なくとも怪異だとわかる。
「たぶん、
私はうなずいて陰摩羅鬼の首を刎ねる。何も言わず、陰摩羅鬼はチリとなって消えた。
それから、きわめて静かな殺戮が始まった。眠っている怪異たちは「鎌鼬」の刃にかかり、断末魔をあげることすらできず息絶えていく。犠牲になった怪異の数が20体を超えたあたりで、私は数えることをやめた。
「こいつは」
何度目か分からない部屋の確認をしたとき、浜矢は緊張した声をあげた。彼の視線の先には横たわるスーツ姿の男がいた。
「……この人がどうかしたんですか」
「こいつが神標の恋人だ」
「え、でも……」
浜矢の答えに、あかりは困惑していた。それはそうだろう。彼から瘴気が立ち上っているのだから。それはつまり、倒れている彼が怪異であることの何よりの証明だった。
「怪異にされた人間ってやつだろ。どういう怪異かは分かんねえが」
「どうするんですか」
「殺すしかない」
あかりは何かを思い出したらしく、表情は沈んでいる。
「なんとか殺さずに済む方法はないんでしょうか」
「お前の考えは分かる。でも、こいつは怪異になっちまってる。凛のときとは違うぞ」
「……」
そのとき、ぱちりと男が目を開けた。二人の会話で目を覚ましたらしい。男の首は身体から離れると、宙を舞った。
ひぃいいいーいいぃ、と「飛頭蛮」は甲高い叫びをあげた。凍り付いた私たちを見て、不気味な笑いを浮かべる。
「野郎ッ」
浜矢は虎の剛腕で飛頭蛮を叩き潰した。が、もう遅い。今の叫びで屋敷にいる怪異たちは確実に目を覚ましただろう。
「くそっ、怪異のくされた臭いが近づいてくる。気づかれたぞ」
狸の嗅覚で敵の接近を察知したらしい。浜矢は舌打ちすると、部屋を出る。
「すみません、私がさっさと殺しておけば」
「反省は後でいい。……行くぞ」
廊下を出ると、すでに何体もの魑魅魍魎たちがいた。
「鎌鼬」
しかし、彼らは私の斬撃で全員仲良く斬り捨てられ、チリになった。この程度の怪異が束になってかかってきても負けることはない。問題は、メリーさんや吸血鬼のような強力な者が目覚めた可能性があることである。
「……狩人どもがここまで来ているとはな。お前ら、下がれ」
そう思ったとき、私の斬撃にひるみ、距離を取っていた怪異たちを押しのけ、大柄だがひょろりとした怪異が立ちふさがった。独特の息遣いが言葉に混じるその喋り方は聞き覚えがある。
「河童……!」
あかりは立ちふさがっている相手があの河童だということを悟ると、敵意をむき出しにした。河童の方もあかりを覚えていたらしく、不愉快そうな声をあげた。
「あのときの小娘。生きていたのか。……メリーの奴め。ここを襲われているのといい、とことん詰めが甘い」
以前戦った課長によると、河童は毒ガスを吐くという。吸い込むとどうなるのかは分からないが、ガスを吐く前に殺すのが結局は一番いいだろう。
「私がやります! 鎌鼬!」
私が呪具の力を発動させ襲いかかったその瞬間、河童は毒のブレスを吐いた。十分予想していたことなので、私は息を止めて目をつぶり、毒霧に突っ込む。
「うぐ」
河童の腕と、後ろにいた怪異たちをまとめて斬り飛ばし、私は後ろに着地する。目をつぶっていたせいで狙いがそれた。次の攻撃に移らなければ―
そのとき、焼けるような痛みが鼻の中を襲ったかと思うと、鼻血が顔を伝った。
「息を止めても、鼻の粘膜は守れないだろ」
河童は呆れたようにそう言った。
(まずいな。痺れてる)
私は鼻血を拭おうとして、手の動きが鈍いことに気がついた。出血毒と神経毒の両方を含んだガスのようで、身体が思うように動かない。河童は無防備な私を見下ろすと、拳骨を振り上げた。
「こっちに背ぇむけてんじゃねえよ!」
その瞬間、浜矢の剛腕が横薙ぎに河童を捉え、吹き飛ばした。私は何とか河童から離れると、あかりの傍に戻って来た。
「真白、大丈夫?」
「死にはしないけど、ちょっと動きが悪くなるかも」
私が顔を上げると、浜矢に張り倒された河童は平気そうな顔で立ち上がって来ていた。あかりの炎が通らないことはわかっているので、こうなると攻めを担当できるのは私しかない。
「あかり。ポーチの薬をありったけ私に打って」
「……切れたの?」
「ううん、しびれをごまかして身体を動かす」
それを聞いたあかりは、首を横に振った。
「絶対ダメ。死ぬよ」
「他に何の手立てがあるの?」
「……ちょっと危ないけど、たぶん私ならいける。そこで待ってて」
そう言うと、あかりは浜矢の前に出て河童と対峙した。
いけるとはどういうことなのだろう。前回の戦いではあかりからの有効打がなく、しかも相手はガスを使っていなかった。あかりが勝てるとは思えない。
「無理しないで。浜矢さん、撤退しませんか」
「本人がやれるって言ってるんだ。信用してやったらどうだ」
「でも」
「もし何かあったら雲外鏡ですぐ逃がしてやる。見とけ」
向かって来るあかりに、河童は含み笑いをした。
「お前の相棒の言う通りだ。お前は俺に勝てない。頭に血が上ってるのか?」
「そうかも。でも、私は考えてたわ。ずっと考えてた。今みたいな時が来ると思って」
そう言うと、あかりは床を蹴った。河童は口を開き、私の時と同じように毒霧を吹きかける。命中の直前、あかりは塗壁で防御するだろう―そう思っていたから、あかりが何もせずそのま霧に飲まれたのを見て、私は唖然とした。
「あかり!」
次の瞬間、あかりは毒霧の中から姿を現した。驚愕の表情を浮かべた河童の口に右手を突っ込むと、彼女は獰猛な笑みを浮かべた。
「……口の中までコーティングされてるの?」
「やめッ」
「『鬼火』」
河童の頭が爆発した。河童の身体は脳漿と頭蓋骨の破片をまき散らしながら、ばったりと倒れる。体内のガスに引火したのだろう。あかりは至近距離で爆発を浴びていたが塗壁でガードしていたらしく、無傷だった。
「あかり。なんで毒ガスを防御しなかったの?」
「塗壁で防御してたら、相手に建て直す隙を与えちゃうから。……私、考えてたんだ。なんで河童は私にガスを使わなかったんだろうって」
そういえば、以前の戦いで河童はガスを吐かなかった。吐けば確実にあかりを殺れたのに。
「それで、丑三課長を狙ってたって聞いて気づいたの。一回ガスを吐かせたら、次のは薄くなるんじゃないかなって。丑三課長に使う必要があったから、河童は私に毒霧を吐けなかった」
言われてみれば、確かに推測できることではある。だが、分かっていても毒ガスに突っ込むのは普通ためらうものだ。少なくとも今までのあかりにはそんな勇気はなかった。
(成長してるってことか)
吸血鬼のときといい、あかりは私の予想を超えて強くなっている。私や仲間を死なせまいとする勇気。きっとそれが彼女の力の源だ。
だが、それは同時に彼女が死ぬ可能性を引き上げる。私はいくら死んでもいい。だが一回死んだら終わりなのに、そういったことをされるのは心配で仕方なかった。
「今度は無理しないでね」
「わかってる。でも、後悔したくないから。無理するときはするよ」
そう言うと、あかりは寂しそうに笑った。
『過保護よのう。この娘の心はお前などよりよっぽど強いのに』
私の麻痺が回復するまで少し休んでから、屋敷の奥へと進んだ。河童以上に強い怪異はおらず、苦戦はしない。まだ見ぬメリーさんや未知の怪異を警戒していたが、彼らと遭遇することはなかった。
そして突き当りの部屋を開けたとき、私は厭な気配をかぎ取った。
「……すごい瘴気」
そこは大広間だった。人間の指や目玉の入ったたくさんの食膳が並べられており、その向こうには何やら丸いものが綺麗な台の上に安置されている。
ぴちゃり、ぴちゃり。
何かの滴る音が聞こえてきた。私たちが近づくと、それは腹の底から響くような不気味な声をあげた。
「お前たちが、今日の糧か」
球体の正体。それは血を滴らせながら生きている生首だった。黄金色の方相氏の面をかぶっており、四ツ目の向こうから紫色の瞳がこちらを射すくめている。天を衝くような二本角は、この怪異の正体を雄弁と物語っていた。
「酒呑童子……」
息のつまるほどの瘴気。首だけでも、先ほどあかりが戦っていた河童とはくらべものにならないほどの力の持ち主であることを直感し、私は青ざめた。
(……勝てない)
レベル1なのにボス部屋を開けてしまった気分。いったん退却して課長と合流しなくては。そう思ったが、この鬼に背を向ければその瞬間に殺されそうな気がして、身動きが取れなかった。
逃げて―そう言いたかったが、あかりも浜矢も鬼の気に当てられたのか、目を見開いたまま動かない。永遠とも思える沈黙を破ったのは、鬼のほうだった。
「そこの娘。お前から食ってやろう」
酒呑童子は私に目を向けてくれた。それで私は安心した。
ああ、私か。それならよかった。私がやられているうちにあかりは逃げられる。そう思ったから、私は鬼の眼が妖しく光ったときも、何も行動せずただ突っ立っていた。
「真白!」
しかしそのとき、予想外のことが起きた。私は浜矢に突き飛ばされたのである。
ぞぶり、と嫌な音が聞こえた。
「浜矢さん」
私は浜矢を見上げ、そして目をみはった。彼は、腹の肉を半分ほど持っていかれていた。まるで巨大な口に齧られたような痕で、どう見ても致命傷である。
「……なんで」
私を助けた。そう言おうとしたとき、浜矢はゆっくりと倒れ、自らが作った血だまりに突っ伏した。