一階に降りた一向は玄関前で立ち止まる。
「こっち行くと心殿のお母様に会っちまうかのう?」
フデコはリビングに続くドアを指差す。
「妖怪騒ぎなんてアホらしく思われんか?」
「どちらかというとフデコさんが妖怪本人なのに現実的なんですね。でも玄関に例の思念体がいないなら、お母さんに会うしかないですよ。お風呂とか洗面台もこの奥ですし、入りましょう」
扉の外にあるのは玄関、トイレ、二階への階段だ。そこにいないというなら、扉の先のリビングダイニング、キッチン、洗面台、風呂を調べるしかない。
心はドアをゆっくりと、少しだけ開き、中を覗く。叶恵も心の頭の上にあごを乗せて覗き込む。フデコは上半身まるごと進入し、晴海はスペースがなくあたふたしている。
「どうですか?」
心は小声で様子を尋ねる。
「……ここじゃ。絶対この部屋におる! じゃが見えないのじゃ、いるのはお母様だけじゃ……」
「お風呂場じゃないですか? ここからじゃ死角ですよ」
「違う違うぞ! 見られておるんじゃ。わっしが見ることができないのと同じく、風呂場からわっしを見ることはできんはずじゃ。じゃがハッキリと視線を!」
「フデコちゃん落ち着いて……」
今まで見たことがない慌てように、晴海も声をかけずにはいられない。
「どこじゃ? 出てこい卑怯者ー!」
「うるせえのが一匹いるなあ……?」
「誰じゃ!」
とうとう声が聞こえた。フデコは鋭く反応する。しかし何もいない。
「どこ……いや、まさか……」
「そうだよなぁ? 最初からここにいるじゃねえか」
「まさか! 心殿のお母様は思念体なのか!?」
「はあ? お母さんは人間ですよ! 何言って……え……え?」
心はぶち壊す勢いでドアを開き、ドカドカと部屋の真ん中まで進み、母を睨む。
「おっとと」
心にもたれていた叶恵もバランスを崩して中に入ったため、心と母親とフデコが睨み合う異様な光景が目に飛び込んでくる。
「叶恵ちゃん平気?」
晴海は叶恵に駆け寄り、すぐにピリピリした空気を感じとって、動悸が速くなってしまう。
「なんじゃ、お主は……人間なのに、そこからもう一つ気配がするぞ!」
「このタイミングで出てくるなんて、一体どういうつもりなんですか、詩真さんッ!」
詩真。心の母・早見結衣の中に眠るもう一つの人格。口も態度も悪いこちらの人格が優位に立っており、詩真の好きなタイミングで結衣の体を使うことができる。心の唯一にしても最も嫌いな存在。
「呼ばれたから来てやったんだろ。なんでクソガキにギャンギャン言われなきゃいけねぇんだよ」
「呼んでないです!」
「あ? お前状況わかってないの?」
「心殿……わっしらはコイツを呼んだかもしれん……まずはお主の知ってることを教えてくれ」
「ええ? 詩真さんは……お母さんの、結衣の体を乗っ取る最低のやつですよ……」
「二重人格ってやつだよフデコ。心のママが学生の頃から、中に潜んでるんだって」
心は頭に血が上っているので、冷静な叶恵が補足する。
「えっと、じゃあ結衣さんが心ちゃんのお母さんで、詩真さんが二人目の人格? 叶恵ちゃん、ここ来た時に結衣さんって呼んでたよね」
「晴海もよく見てるね。そのとーり。ワタシは詩真さんのこと前から知ってたから、優しい心のママのこと、結衣さんって呼びたくなっちゃうんだ」
詩真は後ろの二人も心も無視してフデコに近づき、見下したような顔で観察する。
「ほ〜〜ん」
「なんじゃ不細工。お母様は綺麗じゃったがお前はブスブスじゃのう。こころの汚さが出とるぞ」
「テメェ口悪いな」
「お主が不快じゃから然るべき態度をとってるだけじゃ」
「ふん。それよりお前さ、説明してやれよ。このむすめには一生ネタバラシしないつもりだったが、思念体が見える友達と思念体そのものを連れてくるとは思ってなかったぜ。その褒美ってことで」
「わっしに命令するな」
「ねえ、どういうことですか? 詩真さんがフデコさん見えてるの意味わからないし、ネタバラシってなんの話ですか?」
「……」
苛立つ心の方に向き直って、フデコは深呼吸をした。
「わっしは全ての事情を把握したわけではないから、これを教えることが正しいか判断できないのが辛い。しかし今伝えなければ、事態は収拾できまい」
「なんなんですかぁ」
「あの詩真とかいう人格は、思念体じゃ」
「え……」
心は混乱した。フデコの言葉がうまく飲み込めない。
医者になって、母の二重人格の謎を解き明かして、詩真を追い出す。ずっとそう思っていた。
ところで人類がこの星に越してきてからかなりの月日が経ったのに、コードとトラップの謎は未だに解き明かされていない。どういうものだという事実だけが積み上がり、原因とか法則とか、肝心なことは何も分からない。まるで神様が「それは科学の領域外だ」とでも言っているようだ。
さて、では思念体とは科学と『星』どちらの領域だったか。答えは後者だ。謎が謎のまま、ただ存在だけし続ける不可思議の領域。
「ええ……」
心だけが動揺している。叶恵と晴海は、詩真が登場したあたりで薄々勘づいていたので、フデコの述べたことには簡単に納得できた。
「フデコちゃん!」
晴海が叫ぶ。
「や、やや、やっちゃってよそんなヤツ!」
精一杯強がって、状況を変えられそうな指示をフデコに出す。
「ご主人……」
主人の命令は絶対とでも言うように、フデコは袖口のチャックを開けてデカハサミ刀を取り出す。しかし、晴海とフデコの関係の中で、命令は絶対ではない。
「ついハサミを出してしまったがご主人、これでは駄目なんじゃ」
フデコは詩真に刃先を向けているが、振り下ろすつもりはないようだ。
「わっしのハサミは切れ味はいいが精密さに欠けるんじゃ。詩真という『人格の思念体』だけでなく、お母様の思い出とか、他の大切な部分まで切ってしまう可能性もある……しかもコイツは強大じゃから、そこまでしてもなお、完全に消すことができないかもしれんのじゃ……」
結局フデコはハサミを片付けてしまう。
「おーおーやらないのかよ。あーコワカッタ!」
「こやつ……しかしわっしのような乱暴な者では駄目なんじゃ……目的の思念だけを綺麗にバラバラにできる、それこそ信念術……コードのようなものでないと……」
「コード?」
心がピクリと反応する。
「ねえ、コードだったら、詩真を消せるの?」
「そうは言っとらん。ただ思念体の能力は生まれの思念の種類で決まるから融通が効かないが、コードの方は人間様の気持ち次第で変容するから、こういう状況にも対応できるかもってことじゃ」
「じゃあ、私がやる。すぅ〜〜……」
心は大きく息を吸い始める。
「心ちゃんこの状況でコードを使うつもり? 朝でもないし、飲み物も飲んでないのに」
「でも晴海。あの時心は使ったよ。水飲んでおしっこ我慢してたけどさ」
叶恵と晴海は、晴海のコード暴走事件を思い出す。時間は昼すぎだったが、心はコードを発動させて晴海を止めた。
「そうだった……フデコちゃん下がって! 巻き込まれちゃう」
心の、全てを掻き消す声の攻撃はフデコごと消し去ってしまう可能性がある。晴海は彼女を自分達のいるところまで呼び戻した。
ちょうどフデコが移動し終わったタイミングで、心は詩真に言葉をぶつける。
「『消えちゃえ』ぇぇええ!!」
芯のある声は、部屋中で反射して皆の鼓膜を震わせる。叶恵の体は縮こまり、晴海はつい耳を塞ぐ。能力の風が吹き荒れ、フデコの髪を揺らす。
「ぇぇ……」
心が声を絞り出しきった後も、ぐわんぐわんと残響が耳から離れない。完全に音が消えると、全員の視線は詩真に集まる。
「……」
彼女は無言で俯いて立っている。
「……お母さん?」
「……残念。効かないねぇ」
顔を上げた詩真は、不敵な笑みを浮かべていた。
「おいクソガキィ。でけえ声出しても意味ないぞ。知らないのか? コードは朝しか使えないんだぞ」
「失敗かあ! もう一回……」
心は肺に空気を溜めようとする。
「心! もうやめな」
そこに、叶恵が後ろから抱きついた。
「叶恵っ! 離して! あいつの正体も倒し方も分かったんだから今すぐ倒さなきゃ! 今がチャンスなの!」
「全然チャンスじゃないーー!」
叶恵は自分の右手で左腕を掴みガッチリ輪っかにして、輪の中で暴れる心を押さえつける。
「ワタシの言うこと聞け! 絶対チャンスは朝でしょ! 朝お茶飲んでやりなさいい!」
「あえ?」
心は暴れるのをやめる。
「今の心はコードの条件をひとつも満たしてないよ。それとも、ワタシは馬鹿だから間違ってるかな?」
「叶恵は馬鹿じゃない……絶対そんなこと言わないで……言わせた私が馬鹿だった……」
心はすっかり脱力してその場に座り込む。
「そういうことだから詩真さん、今日のところは許してくれない?」
「ふん。まあイジメすぎたかな。一つだけ言っておくけど、今のままじゃ、たとえちゃんと発動したコードでもウチは倒せないから」
詩真は部屋を出ていった。戻ってくる頃には、人格は結衣に交代しているだろう。
「……ごめん。私、全然冷静じゃなかった」
「いーよいーよ。喉痛めてない?」
「うん……」
「こ、心ちゃん。その……わたしがフデコちゃん連れてきたから、大変なことになっちゃって……」
晴海は言葉に詰まる。「ごめん」と続けようとしたのだが、飲み込んでしまった。
「大変なことになっちゃったけど……」
「詩真の正体が分かったから、むしろプラスだよね? 『星の力』が相手なら、大人よりコードが使えるワタシたちの方が有利だし、ゴールが近づいたくらいだよ」
晴海の考えは叶恵が言ってくれた。自らは言いにくいが、そうだと思った。
「うん。お母さん、ずっと病院に行ってるのに原因は分からないままだったの。けど、今日分かった」
心はゆっくりと顔を上げた。
「そういえば何の思念体なんだろう……」
「あちゃあ、それ聞きそびれたのう……わっしが見えていたし、わっしの発言を否定せんかったし、そもそも思念体という言葉を知っていたから、あやつが思念体であることまでは確定なんじゃが……」
晴海とフデコが思念体トークを始める隣で、心は残った疑問を口にした。
「今のままじゃ倒せないって、詩真さん言ってたね。あれどういうことだろう」
「最後に言ってたやつか。心、聞いてたんだね」
「一応聞こえてたよ。今のままじゃ、ってことはコードで倒せることは認めたようなものだよね。でもすぐには実行に移せない。何か足りないんだ……」
「途中まで話して消えちゃうなんて、ほんとイジワルな人だよね!」
叶恵が文句を言っていると、フデコが割り込んでくる。
「足りないのは能力の幅じゃないか?」
「能力の幅?」
「わっしらはコードのことを信念術と呼んでるが、術というのは向上できるもんじゃ。そして心殿の信念術は、思念体を倒せる段階まで向上していないんじゃなかろうか?」
「なるほど……どうすればいいんですか?」
「信念術は信念が術として表れるんじゃ。つまりお主の信念の中に、詩真を倒すということが刻み込まれていれば、信念術の方にも必ず影響があるはずじゃ!」
「むむむ……仕組みとしては、分かりました」
しかし信念とはなんだ? 心は新たな難問に突き当たったが、今日はもう、気力が持たなかった。
「じゃあ、ワタシは帰ろうかなー。宿題は家で頑張るとするか〜」
「あ、じゃあわたしも……」
「うん、せっかく来てもらったのにごめんね」
三人は二階に戻って、一通り片付けて、解散した。
帰る二人の背中を見ながら、心はふと、夏休みの終わりがすぐそこまで来ているのを感じた。