火曜日。
「行ってきまーす」
玄関を出た心は空を見上げる。雲が一面覆っていて、青が見えない。地面に視線を移すと、左側の道路が「足ツボマッサージ」で埋められている。
「うわ、これ靴履いてても痛いのかな……こっちは通らないから関係ないけど」
心はそのトラップを無視して、右側の道を進んでいく。
(昨日は本当にトラップがなくなってて、いつもより早く学校に着いちゃった。誰もトラップに遭ってなかったし、ヘレネさんの歌の力は本物だったんだ)
昨日の出来事の真相を自分と叶恵、晴海だけが知っていることを思うと、胸が高鳴る。
(でもさっきはトラップあったから、今日は歌ってくれてないのかな。ううん、ヘレネさんはたまたまこの街に来てるだけだから、頼りすぎるのも良くないよね)
ぼんやり考えながら歩いていると、視界の先に叶恵が見えてくる。前髪をくりくりいじっており、こちらには気づいていないようだ。
「おーい、おはよ……」
叶恵に声をかけようとしたその時、突然足元の感覚がなくなる。
「わっ!? 滑っ……トラップっ!」
もう手遅れだった。下を見ると、道路の端が「滝」になっている。激流という表現では済まされない、圧倒的な水量の、圧倒的な高度での落下。
「深い! ぶわっ! きゃああアア!!」
「心!?」
地獄に落とされるかのような悲鳴に叶恵は反応するが、水底に落ちていく中で助けを求めて上に伸ばしたのであろう心の手をかすかに確認しただけで、それもすぐ視界の外に消えていく。
「滝!? こんなに勢いがあるのに音が全然してない……くそトラップめ!」
叶恵は落ちないギリギリの地点まで猛ダッシュして下を覗くが、心の姿はもう見えない。
「……すぐ助けを……うわっ」
叶恵も水に足を滑らせかけるがなんとか前に跳び、コンクリを踏む。
「なっ……こいつだんだん幅が広くなってる! 水が迫ってきてる!」
安全なラインに立っていたはずなのに、足場が水浸しになっていた理由はそれだ。
「急いでこの道を出ないと……!」
叶恵はまだ無事な方の道路の端に向かって走り出す。しかし、水の流れはますます速くなり叶恵を飲み込もうとする。
「なんだよこいつっ! お、お、落ちる! ……落ちるなら! ワタシはこうだっ!」
ギリギリ間に合わないと悟った叶恵は、くるりと方向転換し、滝に飛び込んだ。
「心ーーッ! どこだああ!」
暗く深いトラップの底を目にして、無茶な判断だったと後悔した。諦めずに走り切っていれば助けを呼べたかもしれない。それとも結局飲み込まれて落ちていただろうか。どちらにしても自ら飛び込むのは馬鹿だ。コードのない叶恵には心を助けることなど出来るはずがない。しかし、少なくともこの闇から心を見つけることさえできれば、助けが来るまで彼女と一緒に待つことは出来る。独りで閉じ込められるよりは、マシのはずだ……。
心は暗闇の中にいた。何も聞こえず何も見えない。底なしの空間にゆっくりと落下しているようで、水中にいるのに似た感覚で、手足を動かしてみても鈍い動きしかできない。幸い呼吸は許されていて、本当に水に囲まれているわけではないみたいだ。
(うーん……ここは……トラップの中か……見事にハマっちゃったな……早く抜け出さないと……)
心はコードを発動させるべく、手探りで水筒を探す。しかし腕が上手く動かせず、なかなか見つけられない。そもそも水筒は心の周辺にあるだろうか? どこかに流れていって、手の届かない所を漂っている可能性もある。それに、水筒を掴んだとしてもこの暗さと浮遊感では、水を飲める気がしない。
「ぁ……ぁ……」
(しかも全然声が響かない……これじゃあコードは使えそうにないな……)
自力での脱出は諦めるしかなさそうだ。他の誰かがトラップを破壊するか、時間が経過して自然に消滅するのを待つしかない。
このような状況に置かれて、心は今一度ヘレネのことを考える。
(昨日じゃなくて、今日歌ってくれれば助かったのにな……えっと、『生を讃える歌』を)
…………。
完全なものはどこにあるだろうか?
個々の犬はいくらでも存在するが、『犬』そのものと呼べるものは現実には無く、完全な犬は存在し得ない。
名を持つものは全て、それぞれ異なった事物として、現象として表れるのであって、完全な状態で現実に存在することはない。
では、完全なものはどこでなら存在し得るか?
それは脳内、もしくは精神の内……すなわち人間の意識の上でのみ存在し得る。
ものを具体として想像してはいけない。その時点でそれは個別の事物となり、完全ではなくなる。
刹那だ。名を聞いたその瞬間、あるいは名を思い浮かべ始めるその瞬間に、意識を掠める一瞬のそれが、完全なものだ。
…………。
今、心は『生を讃える歌』を思い出した。音もなく光もなく、雑多な事柄がほとんど削ぎ落とされた世界で、それは脳裏をよぎり、思い出すその瞬間を迎えた。
不完全な『歌』の部品はすでに散らばっていた。歌声だけのそれを聴いた。楽譜だけのそれを見た。道具としてのそれの恩恵を受けた。それの持つ目的も知った。
全ての部品を個々に思う時『歌』は不完全だが、ばらばらに考えられる前のわずか一瞬の間に、全てが結びついた完全なものが作られる。
—— 「本当は『星の力』の根源に到達することを目指して作っている歌なんだけど……」——
『生を讃える歌』は、最後の部品として心を広く深く包み込む星の罠の力を感じとり、完全となる。
そして、『根源』に向かう引力が、『歌』の行使者たる心の精神に作用した。