心が通話している裏で、屋根の上では詩真ニャンが、ゆっくりと流れる雲を見ていた。そこにフデコが近寄ってくる。
「ここは良い景色じゃの〜、猫」
「何しに来たんだハサミ」
「わっしはハサミじゃなくて筆箱じゃ」
「じゃあウチも猫じゃねえし」
「いや、お主は猫じゃろ流石に」
ちょこんと端に座っている詩真の隣に、フデコもしゃがみ込む。
「わっしは個人的に気になってることがあって聞きに来たんじゃ。どう見ても今のお主は猫じゃが、その前は何者だったんじゃ? 結衣って人間様の脳……あるいはこころに随分ガッチリとへばりついておったよのお?」
「あー……ウチはさあ、トラップだったんだよ」
「ほう……?」
予想していなかった答えに、フデコは目を細める。
「さらにその前もあった気がするけど思い出せねえ。ただきっと、どっかで死んじまったんだよ。それでも生きたいって……執着して、気づいた時にはウチは亡霊みたいになって、地中から、上を歩く人間を眺めるようになったんだ……」
「トラップになったってことか?」
「そういうことだろうよ。地面の中は真っ暗だけど、朝になると日が差すんだ。それで外の世界も見える。誰か落ちて来いって強く願ってたよ。恐ろしいことだが、その自覚はなかった。半分本能みたいなもんだよ」
詩真は俯いて、コンクリートの道路に目をやる。
「そんなある日、ウチの前に落っこちてきたのが、結衣だったよ。結衣はすぐに助けられて脱出できたんだけど、一緒にウチも出ちゃったんだ。結衣のこころと、ウチのこころが自分じゃどうしようもないほどかたく結びついてたんだ。ビックリしたな。その時初めて気づいたよ。ウチは、誰かの身体に寄生するのを待ってたゴミみたいなヤツだったってね」
詩真はギリギリと爪を立てる。
「しかも、ウチはたまに表に出てきちまうんだ。結衣の身体を自由に使えるタイミングが、ウチの意思とは関係なしに不定期でやってくるんだ。きっとウチという化け物の本能なんだよ。時間が解決してくれるかもと思ったが逆だった。年を重ねるごとにウチは大きくなって、結衣との繋がりも強くなった。そうこうしてる間に、結衣は結婚して、子供も産まれた……」
「……心殿か」
「赤ちゃんの心が初めて笑ってくれた時、結衣も旦那も幸せそうだった。結衣の奥で一緒にその顔を見てたウチも、すごく幸せな気持ちになりかけたが、すぐ思ったんだ。ウチはここにいちゃいけないって。ウチは結衣の家族の一員じゃないから。だからウチは、心が勘違いしないように……いや、自分が勘違いしないように、心に嫌われるように尽くした。どうしてもアイツの前でウチのターンが回ってきちまった時、ウチはアイツにきつく当たった。暴言も吐いた。計画通り、アイツはウチを嫌ってくれたよ。なのに……」
詩真はふるふると体を震わせる。
「なんで一緒に生きようなんて……言ってくれたんだよ……っ!」
「……幸運だな。お主は」
フデコはぺちぺちと詩真の頭を叩く。
「なーにすんだよ筆箱!」
「めそめそするな! お主が何年も一人で悩んでいた分、今度は幸せが舞い込んできただけのことじゃ! これからは、心殿とそこそこ仲良くしていくんじゃぞ。あと、わっしとも友達になってくれんか?」
「……お前と?」
「そうじゃ。お主みたいな頭の良さそうな思念体はなかなかおらんからのう。気が合いそうじゃ!」
「ふん、いいぜ。お前は馬鹿そうだがな」
「あんじゃとー!」
二人はしばらく追いかけっこをしたが、すばしっこい猫と飛べるフデコとでは、なかなか決着が着かなかった。
「くそぅ……はやいの」
「猫も……悪くないな」
「そういえば、お主にもう一つ質問していいか?」
「なんだよ知りたがりだな」
「それはご主人譲りかもな。お主、トラップだったならあれは分かるか? なんでご主人くらいの年齢の子どもにしか見えないのかってやつじゃ。ヘレネはそれを教えてくれんかった」
「あー? ヘレネってやつは知らないが、そりゃあれだな。思春期ってやつだ」
「思春期……」
「あの年代の問題は全部この一言で解決するんだぜ? 思春期はこころの状態が一番不安定で、外の影響を受けやすい。まずは外を理解するのに必死なチビとも、完全に自分のこころの形を掴んだ大人とも違う。世界のブレに敏感に反応できるのは、思春期のガキだけだ」
「世界のブレか……」
第二地球の人々が信じる世界に、地球という星から来た思念が穴を開ける。世界のブレとは、良い表現だ。
「なるほどのう、納得じゃ。……隙ありっ!」
「うわっ! まだ続いてたのかクソっ!」
「確保じゃー! ん〜、もふもふで気持ち良いの〜!」
捕らえられた詩真ニャンは、フデコに長いこと吸われていた。