ぴちゃん、ぴちょん。
心拍数を測る機械の音のごとく、規則的に落ちる水滴。最近雨なんて降っただろうか。
「吸血鬼のウワサなんだけど、具体的には……実際に吸血鬼を見たとか、帰ってきた人がいないとか、地下で怪しい儀式が行われてるとか……典型的だよね」
「へ、へえ……」
壊れたモノクロ写真の中を歩いているみたいだ。どこもかしこも灰色しかない。薄い灰色、濃い灰色。黒と白はない。夜だっていうのに、何故か完全な暗闇が都合良く削がれている。まるでお化け屋敷だ。客をこの先まで進ませることを目的にしている。
公共施設特有の清潔さや明るさを失っただけで、病院は簡単にお化け屋敷に成り果てるのだと知った。
視界の隅、背後、壁のヒビの奥。全てに何かが潜んでいて、こちらをニヤニヤ観察しているように思えた。
「く、崩れたりとかしませんか、これ」
「心配いらないよ。病院は他の建物より丈夫で揺れにも強く建てられてるからね。建築基準法で決まってるんだ」
へ、へぇ。ちなみに建築基準法には、こういう廃墟は危ないから即刻取り壊すべしとか書かれてないんでしょうか。なんのための法律でしょうか。
ついつい毒を吐きたくなるくらい、僕には余裕がなかった。だって、ここには妖怪がいる。ケータ先輩が言うのだから間違いない。
木霊さんたちは「吸血鬼いるかな? まぁ実際いないだろうけど肝試しってだけで楽しいよね」という刺激的な気分を味わっているのだろうが、僕の場合、実在が確かなことを知っているので、ただの予告ドッキリだ。
ヤマトボケルさんたちみたいに、可愛い妖怪ならそれで良し。でも、先輩の反応を見る限りそうじゃないっぽいのが怖い。
「一度倒してるし、最近は大人しいから大丈夫だと思うけど……でも合成妖怪の実験が……」とのことである。何も大丈夫ではない。主に僕の精神が。
落ち着け雨村モミジ。先輩がいるんだから大船に乗ったつもりで……いやそれ乗る側が言うセリフじゃありませんが? 何様のつもりだ? お前なんて泥舟にすら乗る資格ないぞ、自力で泳いで溺死しろ雨村モミジ。
懐中電灯は各々持っているものの、光は冷たい色で心許ない。お昼の太陽を丸ごとここに連れてきたかった。秋だというのに散々暑苦しく暴れていたあの太陽は、どうして夜だからって沈んでいるのだ。もっと根性を見せてほしい。
………………だから何様のつもりなんだ僕は……あー、死にたくなってきた。
ぐるぐるぐるぐる考えていると、前を歩く水色の壁が急停止する。視線が下がっていた僕はそれに気付かず、当たり前のように額から激突した。
「あてっ……すみません熊島くん」
返事がない。
「ど……どうかしましたか」
「………………か」
「か?」
授業中も休み時間でも活力に溢れていて、体格も大きく“ガキ大将”感のある熊島くんが、小刻みに震えている。
よくよく見れば、ここは病室の前だった。扉は外れていて、近くに放り捨てられている。
つま先立ちで向こうを覗くと、そこには物体があった。
ちょうど、大人1人分くらいの大きさの。
「か、棺桶……」
指先が凍りついた。
3回くらい三途の川を渡った気分になった。いっそ渡り切りたい。そして現世に帰ってきたくない。
懐中電灯に照らされたモノは、恐らく漆黒で、白か金の縁取りがされていて、下の部分だけが異様に長い五角形の、100人いれば全員が同じものを思い浮かべるような“棺桶”だった。
病室の中のものは、どれもどこかしら薄汚れたり、破れたり、壊れたりしているのに、棺桶だけが新品そのもの。まるで棺桶だけ時間が止まっているか、あるいは……最近出現した、か。
誰も彼もが言葉を失う中、平然と棺桶に歩み寄る者が────何ならさっきまでよりは良い調子で────いた。
今田くんである。
「あー、なるほどねー………………これさ、きっとニセモノだよ」
「ええっ!?」
ケータ先輩が絵に描いたように驚く。
今田くんは棺桶を素手でコンコン叩くと、不敵に笑いながら切り出した。
「そもそも、吸血鬼ってヨーロッパの怪物なんだよ。そんなのが日本の病院にいるって時点で、ウワサは九割方疑わしかったんだよね。しかも、こんな入ってすぐの手前の病室に、棺桶だけ置くなんて雑すぎる」
立板に水の如く語る今田くん。凄いなぁ、僕が同じことを言おうとしたら、軽く20回以上噛んでいる。
「つ、つまり……どういうこと?」
ケータは相変わらず“普通に”良い反応するよね、と今田くんは得意げに笑った。
「ぼくたちみたいな肝試し目的の子供をからかうために、誰かが設置したオモチャってこと」
「えーっ!?」
「大体、吸血鬼は夜に活動してるんだから、もし吸血鬼がいるんなら……この病院に入った時点で、ぼくたち全員見つかってるよ。え? もしかしてクマ、ビビってたの?」
「びっ、ビビってねーし!!」
熊島くんが顔を真っ赤にして抗議する。
確かに、今田くんの意見は納得できる。もし僕が一城の主なら、こんな手前に寝床を置いたりはしない。生活の拠点はもっと奥深くにして、この辺りにはトラップなんかを仕掛けるだろう。
「ケータ、ちょっとこの棺桶開けてみてよ」
「な、なんで!?」
「念のため中身は確認しておくべきだろ? 危険だから、ぼくはフミちゃんと雨村くんを守ってるよ。……この中で一番力が強いのクマだけどさ、ほら、今腰抜かしてるし」
「抜かしてねぇよ!!」
と言いつつも、熊島くんは一歩も動かなかった。例えニセモノの可能性が高くても、棺桶は怖いようだ。僕も怖い。
「カンチくん、やめといた方がいいよ……」
「フミちゃんもあんまり怖がってたら、仕掛け人の思う壺だよ?」
「でも、なんかヤバそう……」
後ろで木霊さんと今田くんが話している中、ケータ先輩は嫌だなぁ〜って感じで少しだけ渋っていたが、やがて覚悟を決めたのか腕まくりして棺桶に近づく。
そのとき、僕の足は勝手に踏み出していた。
「ぼっ、僕も、や、やります、手伝います」
「え? いいのに……」
今日、僕はまだ、みんなに何も貢献できていない。友達のノリに相席させていただいているゲストの立場としては、ここでしっかり役立っておかなければならないのだ。でないと本当に社会的動物の恥晒しかつゴミ以下になってしまう。
ケータ先輩の隣に立ち、棺桶に手をかける。思ったよりザラザラしていて、冷たくはない。
「あー、お腹空きましたね。お客様の中に、おやつを隠し持った猫妖怪はいらっしゃいませんかー」
「回りくど……!! 一本だけやるから黙ってるニャン」
「もぐもぐ……微妙ですね。私、チョコボーよりおはぎの方が好きです」
「し、しばきたい……!! でもツッコんだら逆ギレされるからできニャい!! ……ウィスパー!! ツッコんじゃ駄目ニャン!!」
「あーっ! ハリセン返してくださいよぉ!!」
妖怪の皆さんがガヤガヤわちゃわちゃ騒いでくれているお陰で、恐怖も和らいできた。
深呼吸を3回。手に人を書いて飲むのを5、6回。それだけやったら十分だと思ったが、やっぱり躊躇ってしまい、妖怪について詳しい先輩にこっそり尋ねる。
「せ、先輩……どう思いますか? これ、ニセモノなんでしょうか?」
「見た感じ何も……。でも、変なんだよね」
「変?」
「ここ、いろんな妖怪が住み着いてるんだ。危ないのもそうじゃないのも。……なのに、今日ここで、まだ一度も妖怪を見かけてない」
ケータ先輩は静かに呟いた。黒目の奥には、何かしらの推測が重ねられていそうだった。
まだ一度も見かけてないって、それは、どういう。
しかし次を尋ねる前に、あんまり時間をかけると不審がられそうだからということで、僕たちは結局棺桶を開けた。
「せーのっ」
想像してたより軽い。学校の机と同じくらい。死者を封じる箱の蓋が、こんなにも軽くていいわけがないから拍子抜けした。
中身はあっさり判明した。
「……空っぽだ」
「そう、ですね……」
音楽室や図書室のカーペットみたいに、短い毛がびっしり生えた、柔らかいというより固めの内装。その中は、どれだけ電灯で照らしても、妖怪ウォッチで照らしても、妖怪ひとり存在していない。
今田くんの言う通りだったか。
「ねえカンチ、中身空っぽだよー……」
2人同時に振り返る。ウォッチのライトが点けっぱなしだったので、振り向いた先の空間がじんわり青みがかる。
先輩の友達3人は、さっきと同じように立っていて、「なぁんだ」と残念そうに、どこかホッとした感じで苦笑する。
────3人の頭の上に、
「がぶにゃんっ!!」
青い猫が、瞬時に3人の頭に牙を立てる。
あっという間のことだった。
木霊さんたちは痛みで悲鳴を上げる間もなく、煙に巻かれ………………直後、3人の頭は
「えええええええ!?」
「うわぁぁぁぁ!?」
「うぃすー!?」
「なんニャー!?」
恐怖とかパニック以前に、何が起こったのか検討がつかず、ただ日常に該当しない異常現象というだけで反射神経が働き、目を白黒させた。
青い猫は、猫頭と化した3人の前に、マントを靡かせ華麗に降り立つ。器用にも後ろ足2つだけで。猫ちゃんかわい……いやそんなこと言ってる場合じゃない。
ケータ先輩が、抱きついてきたウィスパーさんとジバニャンさんを即座に抱え込む。僕はヤマトボケルさんを探したが、彼はブルーキティに目もくれず、無表情でチョコボーを貪っていた。なんて強い妖怪だ。
さて青い猫だが、二足歩行のそのフォルムは、よく見るとジバニャンさんに似ている。ガラス玉の首輪も、腹巻きも、二股しっぽもそのまんま。2Pカラーみたいだった。ということは、この可愛い猫は、まさか妖怪か。
「うぃううぃウィスパー!! あの妖怪は!?」
「はいはい、あれはですね、妖怪『マッサオニャン』! でもなくてー……妖怪『バットニャン』! でもなく……」
ウィスパーさんは、どこから持ってきたのか、青い縦型タブレットのようなものの画面を指先で高速スライドする。
そしてコンマ数秒後、妖怪執事は猫妖怪の真名を叫んだ。
「ありました!! あれは妖怪『ガブニャン』!!」
妖怪『ガブニャン』は、銃やナイフを向けるように牙を見せつけ、口端を釣り上げた。悪意が滲み出た、攻撃的な笑顔……なんだけど、可愛い……じゃなくて!!
「もしかして、吸血鬼の正体ってコイツ!?」
「恐らくそうでしょう。ガブニャンは西洋の妖怪の血によりドラキュラ化した猫妖怪! 血を吸う力こそ強くはありませんが……噛んだ人間または妖怪をガブニャンにしてしまうという、恐るべき能力の持ち主なのでうぃす!!」
「フッフッフッ……その通りニャン」
ガブニャンは流暢な日本語で答える。直後、猫頭になった木霊さんたちの身体にマントと腹巻きが出現し、そしてもう一度煙に巻かれると────3人は、完全にガブニャンに変化していた。
さっきまで、共に歩いて話していた3人が、簡単に猫妖怪になってしまったのだ。
「ガブニャンが4人になっちゃったニャン!?」
「そう……オレっちが噛んだ生物はみんな“
世界征服。そんなの、本物の妖怪や吸血鬼みたいじゃないか。この猫、可愛いだけじゃない。今すぐに噛まないのは強者の余裕の現れか。ありがたいに越したことはないのだが。
僕はその場に縫い付けられたみたいに硬直しているのに対して、ケータ先輩は堂々と妖怪に食ってかかる。
「みんなをガブニャンにして、一体何をするつもりだ!」
「そんなの決まってるニャン。チョコボーを作らせるためニャン」
……チョコボー?
高尚なドラキュラ猫妖怪の口から、かなり庶民的なワードが飛び出してきたものだから、僕たちはキョトンとしてしまう。
ヤマトボケルさんはというと、やはり平然としていて、チョコボーのゴミをポケットにしまっていた。
「オレっちは生きてたときから、チョコボーが大好物ニャン。チョコボーはわかるかニャ? この世で最も崇高で美味な食べ物ニャン」
「は、はぁ」
「吸血鬼に噛まれて妖怪になった後、オレっちはこの能力を利用することを思いついたニャン。人間と妖怪全てをボクが支配して、チョコボー製造に従事させれば、オレっちは毎日チョコボーが食べ放題ニャン!!」
「ちょこぼー……たべほうだい……にゃん?」
「ジバニャン!?」
ジバニャンさんの目が、黒曜石みたいにキラキラきらめいていた。明らかにチョコボーまみれの世界を夢見ている。
「それに、全人類がガブニャンになれば、悲惨な戦争も犯罪もなくなるニャン。win-winニャン」
「全人類が、ガブニャンに……」
確かに、それはそうかもしれない。この地球から人間が絶滅して、チョコボーだけを食べる可愛い猫妖怪が世界を席巻したら、戦争も、環境問題も、大半が解決するだろう。
警察もガブニャン。交通整理もガブニャン。服屋の店員もガブニャン。遊園地にもガブニャン。ドラマや映画にもガブニャン。会社にもガブニャン、学校にもガブニャン、駅にもガブニャン、スクランブル交差点にもガブニャン、あっちもガブニャン、こっちもガブニャン……
「お、お猫様天国……?」
「モミジくん!?」
「ハッ!! すみません少々妄想が……」
いけない、いけない。ついガブニャン天国に気持ちが傾いてしまった。
「と、とにかくガブニャン! チョコボーがどうだか知らないけど、みんなを元に戻せ!」
「お断りだニャー。お前らもすぐ、お友達と同じところに送ってやるニャン。
「4対“4”?」
僕。ケータ先輩。ウィスパーさん。ジバニャンさん。あとヤマトボケルさん。
4対5じゃなくて?
見ると、ハニワの姿はどこにもなく、新たに紙切れが落ちていた。
『用事があるので失礼します かしこ』
「う、嘘でしょぉ………………!?」
◇ガブニャン
種族 ウスラカゲ
ランク B
分類 イマドキ妖怪
西洋の妖怪の血が入り、吸血鬼の力を得た猫妖怪。ジバニャンを青くしてマントを着せたような見た目。
噛んだ生物を全てガブニャンに変えてしまう恐ろしい能力を有しており、アニメ登場時もお茶の間を恐怖のどん底に叩き落としたそうな。
アニメ初登場時は『がぶにゃん!』としか鳴かなかったが、コマさんタクシーでは普通に話している。