「それじゃあ、お母さんは会社に行ってくるね」
「はい。行ってらっしゃい」
引っ越しに合わせて新調したスーツと革靴を、キッチリ完璧に着こなした母は、家を出る前に僕の方を振り向いた。
母と父の見送りや出迎えは、物心ついたときからの僕の仕事である。この仕事は、僕にとって大変憂鬱だ。今日も朝が来てしまったことを実感するから。しかし、頑張って笑顔を取り繕う。慣れたものだ。
「モミジ」
「なんですか?」
母は逡巡したあと、ゆるく微笑んで告げた。
「新しい学校、頑張ってね」
「………………はい」
お母さんが出て行く。かちゃん、とドアが閉まる。重苦しくない音。出発を励ますような音。
ドアの音、青い空、スズメの歌、画面を点けたままのテレビ。ありとあらゆるものが、まだ家に残っている僕を責め立てているように錯覚してしまう。
「……頑張らなきゃ」
行け、雨村モミジ。鉄の塊みたいに重いランドセルをずるずる引きずりながら、まずはテレビの電源を消す。
ふと思い立ち、窓を開けた。どこかの朝食の香りを含んだ涼しい風が吹いてくる。
気を抜いたら崩落してきそうなくらい真っ青な空を見上げて、僕は思った。
「うん、今日も良い一日になりそう!」
目の前に鳥の糞が落ちてきたけど、そう思わなきゃやってられなかった。
結論から言うと、今日はこの時点で最悪になることが決定した。
「あ、
いつからだろう。いつからか、僕は他人との話し方が分からなくなってしまった。
どうやって声を出せばいいのか。どうやって空気を読めばいいのか。どうやって相槌を打ち、笑えばいいのか。どうやって目を見ればいいのか。
いや、もしかするとそれらは最初から分かってなかったのかもしれなくて、神経が鈍い僕は今更ようやく気付いたのかもしれない。
今分かるのは、僕はスタートダッシュで派手にコケ散らかしたということくらいだ。
新しい担任の先生が、「雨村は引っ越したばかりで不慣れなことも多いだろうから」とか何とか話している間、僕の頭蓋骨は加速度的に重さを増していた。無駄な思考が塵の山を作り、冷静な部分を侵食してゆく。
2学期の初日。始業式の直後。夏休みが終わってしまった落胆と脱力感が漂う教室が、『転校生』というサプライズにより、花火を打ち上げたかの如き高揚感に溢れている。ごめんなさい。僕みたいなつまらない人間が、転校生でごめんなさい。
自己紹介をすぐに切り上げてしまった後悔で押し潰されそうだ。せっかく、ここに来る前に散々イメージトレーニングをしてきたのに。好きな食べ物とか、ここに来る前はどこに住んでたとか、そういう話をして
20人以上の視線が、絶え間なくこちらを圧迫してくる。好奇心や期待に満ちた眼差しだ。ごめんなさい、僕はなんてことないただのコミュ障11歳です、ごめんなさい。
どうして僕は超能力者でもヒーローでも宇宙人でもないんだろう。それなら、他人と話せなくたって“価値がある”人になれるのに。
先生の長いようで短く簡素な話が終わると、先生は僕のすぐ目の前にある空席を指して言った。
「じゃあ、雨村は天野の隣に座ってくれ」
「はっ、い……」
あの席が僕の席なのだろう、と教室に入ったときから察していた。僕のためにわざわざ席をずらしたのか、いつもと少し違う席順に色めき立つ声が微かに聞こえてきたのだ。
僕の隣の席に座っている子は、ひとつ星が描かれたシャツの上に赤いパーカーを羽織っていた。『モミジ』なんて大層風流な名前を付けてもらっている僕より、ずっと赤色が似合っている。
彼は特別な善意も悪意もなく、みんなと同じように僕を観察していて、普通の男子という感じだった。
僕はおずおずと踏み出して、なるべく振動を起こさないようにゆっくり椅子を引いて、静々と座った。前の学校とは違う材質の椅子、机、床。なんだか拒絶されているみたいに感じて、身が縮こまる。
みんなの視線がまだこっちに向けられているのが肌で感じられて、なんだか身体の収まりが悪い。気まずくて『天野』くんとやらをチラッと見る。
幸いにも、天野くんは僕とは反対側……つまり窓の方を見ていた。なんでかこくこくと首を振っている。視線を少し落とすと、天野くんの左腕に何かハマっていた。
ブレスレット。シュシュ。ミサンガ。……いや、時計だ。両親が着けているのより分厚くて大きい……こんなこと言っちゃ失礼かもしれないけど、機能的とかスマートさは感じられない。白くてキラキラしているが、アクセサリーのような可愛さ美しさでもない。まるで、
「転校生が来て浮き足立つのも分かるが、ちゃんと休み時間は1時間目の準備しておけよー」
あっ。
先生が出席簿を持って行ってしまう。待って、ちょっと。これで終わりですか。僕にもっとこう、この学校におけるローカルルールとか掟とか心得とか教えてくれないんですか────
呼び止める声も出ず、目だけで縋るが、先生はそそくさと教室を出てしまった。
その瞬間、ブワッと空気が破裂したような気がした。さっきまでだって大した緊張感はなかったのに、今なんてもっととっ散らかっている。みんな好き勝手な話をしていた。夏休み何してたとか、昨日のテレビ見た? とか……あとは。
「オレ、
「あ、よ、よろっ」
隣の子が話しかけてくれた、うれしい。単純でチョロい僕がはしゃぐ。よろしくによろしくとオウム返ししても会話は発展しないぞ。冷静な僕がジト目で意見する。落ち着け雨村モミジ、別の話題を提示して相手に心を開くのだ。達観(?)した僕が道筋を示す。
別の話題。テレビ、食べ物、夏休みの思い出……特にない……いや、ヒントはもっと身近にある。
「そ、そそ、その腕時計!」
「えっ?」
「か……かっこいい、よね。どこで買ったの?」
言えた! 聞けた! 及第点!
時計をさっきよりじっくり見つめる。なんだか不思議な腕時計だ。中身にたくさんのお菓子や玩具が詰まってそうな、妖しい魅力がある。
そうやって呑気に目を輝かせていた僕だが、ふと視線を上げると、天野景太くんがちょっと困ったような表情をしていた。
一瞬で悟る。やべえ、やらかしました。
「えー、えっ……と、ど、どこで買ったかはその、わかんなくて……貰ったものだからさ」
何かワタワタと手を動かして、焦るように話す天野くん。何故か窓の方にチラチラと視線を泳がせる。
触れちゃいけない話題だった。やばい。まずい。終わった。
「う、ううん。ごめんなさい、変なこと聞いて」
「いいよ、気にしないで……それよりさ」
僕は立ち上がった。天野くんが話している途中だとは分かっていたし罪悪感で死にそうだけど、最早体力と精神力と表情筋と心臓が限界だった。自分の事情を優先してしまうプライド青天井でごめんなさい。
「ご、ごめんなさい。その、お手洗い行って、きます」
「あっ、トイレの場所分か」
「来る前に確認したのでご心配なく」
膝から下の感覚がない。水槽の中にいるみたいに、周囲の声が聞こえない。頭が重い。地味にお腹も痛い。そういうことにしたい。
脳が最低限まで視覚情報をシャットアウトして、足が勝手にトイレまで僕を運んでくれる。希薄な自我が揺れているのを感じた。
やっとこさトイレに着く。意外と清潔。間髪入れずに個室に飛び込んだ。
鍵を掛けて、扉にもたれて、僕は壁に肩を預けた。下半身からは何も出ない。出すために来たのではない。
「ご心配なく」って何だよ何様ですか。天野くん良い人なのに会話の途中で放置するとか非常識じゃないですか。僕の中の僕のアンチが、とても耳の痛いことを叫んだ。すみません、すみません、明日からはちゃんとします。
「あーあ……疲れた……」
よし、決めた。
明日は学校休もう。
「変に思われちゃったかなー……でも、『妖怪を見ることができる腕時計』なんて言えないし」
ケータは、妖怪ウォッチの表面を撫でたりつついたりしながら、教室の入口の方を見た。モミジはまだ戻ってこない。
隣をフヨフヨと漂う────白い風船と呼ぶには少々もっちりジメジメした妖怪執事は、愛用の妖怪パッドを拭きながら頷く。
「そうでうぃすねー。しかしケータくん、てっきり『新学期に都合良くワケアリげな転校生が来るなんて妖怪の仕業だ!』と言うと思っていましたが……」
「いやいや、オレだってそこまでじゃないし。……てかワケアリって。ウィスパー、失礼じゃない?」
確かに、多少挙動不審だったり、目が合わなかったり、自己紹介で噛んだりはしていたが、慣れない環境で緊張しているだけだろう。自分がUSAに行ったときも、そんな覚えがある。
しかし、ウィスパーはやけに真面目な顔つきになって所感を語り出した。
「うーむ……ケータくんは人間だから分からないのでしょうが……あの少年からは、何かとてつもなーく嫌なものを感じるのです」
「嫌なもの?」
いつも妖怪パッドでカンニングしていてどこか頼りないウィスパーだが、こういう雰囲気のときの彼が言うことは、大体何かの伏線になるのだ。ケータは思わず背筋を正す。
「それ、オレっちも思ったニャン」
足元から声がして、見下げると、二足歩行の赤い猫妖怪が腹巻きに前足を突っ込んで立っていた。地縛霊なのにひとところに縛られず自由に出歩くいい加減な猫だが、やはりウィスパー同様真面目な顔をしている。
「ジバニャンも……?」
「なーんかアイツが近くにいるとブルッとくるというか……悪寒? ってやつニャンね」
そういうのは普通、妖怪が近くにいるときの人間が感じるものなんじゃ? というツッコミは無粋だ。妖怪とて、人間に対して恐怖や不安を感じることがあると、ケータはよく学んでいた。
「じゃあ、モミジくんは妖怪と何か関係があるってこと……?」
妖怪が化けている、あるいは取り憑いている、間接的に何らかの影響を受けている。さまざまな可能性が予測されるが、ウィスパーは首を横に振った。
「あれは妖力の類ではありません。むしろ、その逆……と言ったところでしょうか」
「逆? 神様とか?」
「それもなんか違うニャン……」
三者、首を捻って考える。三人寄れば文殊の知恵、の“文殊”は仏教に由来するのだと、前にカンチが話していたのを思い出した。
そのうち、モミジが教室に戻ってきてもう一度話しかけようとしたが、すぐ後に1時間目のチャイムが鳴ったので、ケータはタイミングを逃してしまった。
◇本作の世界線あれこれ
アニメとゲームの設定を都合良くレッツラ混ぜ混ぜしています。なのでケータはマオくんの正体を知っているし、天野家は一度USAに引っ越したことがある。
アニメ『!』1話で天野家が木霊家の隣に引っ越していない(つまり向かいにジェリーがいる)けどエルダは持っています。
なのに何故ケータが着けているのがエルダではないのかというと、アークを出すとなんかややこしくなる作者がウォッチの中で初代が一番好きだからです。
ちなみにこの世界線がシャドウサイドや妖怪学園Yに至るかは不明。