とある兄妹の約束   作:あさがさむい

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 あらすじ通りです。
 後編もあります。


前編

 

 自分に自由はない。

 人と思ってはいけない。

 人じゃないから情を向けられるなんて思わない。

 僕の存在も死にも、なんだって意味はない。

 

 ───そう思いながら、昔から生きてきた。

 

 

 

 

 かくして、少年は彼女と出会った。

 

 いつかの夜。

 いつものように『分解』されて、いつものように『再構成』された夜のこと。

 いつもの部屋に、いつもは居ない少女がいた。

 目の前に立つ小さな生命を、彼は虚ろな瞳で見つめていた。

 それが、彼にある彼女との最古の記憶だった。

 

組長(オヤジ)の孫を預かった。……お前も面倒を見ろ」

 

 名前は壊理だ、と少年には見慣れたマスクの青年が続けた。

 

 わけがわからなかった。

 状況が整理できなかった。

 目の前の少女が誰なのか。

 彼の言う組長がどうなっているのか。

 どうしてその血だらけの手で、彼女の手を掴んでいるのか。

 まるで、分からなかった。

 

 けれど。

 なぜ彼がこの少女を連れてきたのかと言う理由だけ、少年は理解してしまった。

 

「………」

 

「……えっと、エリ」

 

 男が部屋から出て行った後。

 少年は膝をついて、幼い少女に話しかけた。

 二人きりになった途端、壊理が少年から離れてしまったから。

 

「そっち行ってもいい?」

 

「……ダメ!こ、こないで!」

 

 まず、怯えているのかなと少年は思った。

 次に、彼女自身に怯えているのだと思った。

 最後に、笑顔が似合いそうだな、と漠然と考えた。

 

「大丈夫だよ、エリ」

 

「あ──」

 

 静止の声も手も振り切って、少年はゆっくりと近づいて、ゆっくりと彼女を抱きしめた。

 彼がやわらかく頭を撫でれば、緊張で硬くなっていた少女は、恐る恐る彼に体を預けた。

 くすぐったそうに身を捩りながら上目遣いでこちらをみる壊理に、少年が軽く笑いかける。

 

「なんで……」

 

「大丈夫って言ったろ?」

 

「……ほんと?」

 

「ほんとほんと。エリの個性が何かは分からないけど、僕に効くことはないよ」

 

「……!」

 

 少年の言葉に、壊理はぱあっと顔を輝かせた。

 その顔に、思わず少年も笑った。

 

 かくして、奇跡は執り行われた。

 

 『それ』は、少年が諦めたものだった。

 

 『それ』は、少女が失くしたものだった。

 

 『それ』は、青年が与えるつもりのないものだった。

 

 およそ五分にも満たない時間があって、

 幾年にもわたって得るはずだったものを、ようやく彼らは手に入れた。

 

 少年は当たり前のように少女を抱きしめ、

 少女は当たり前のように体を預けた。

 

 この温もりは、死んでも忘れることはない──少年はそう思った。

 

 この手の感触を忘れたくない──少女はそう思った。

 

 少年にとっても、少女にとっても。

 そのなんでもない家族の形こそが、何よりも得がたく輝かしいものだった。

 

 だからこそ、この出会いはまさしく奇跡だった。

 たとえその果てにあるものが、別れだけだとしても。

 

 間違いなくその日、一人の少年と一人の少女が幸福を得た。

 

 

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 

 

 ──個性。

 

 時に異能とも呼ばれる、超常的な力。

 地球の人類のおよそ八割が所持しているそれは、今や社会の中心にある。

 

「病原菌だ」

 

 それを、治崎はそう言う。

 個性は病気であり、俺はそれを治すのだと。

 そのために()の分解を繰り返して、細胞を元に『個性を消す薬』を作るのだと。

 

「……まあ、今んとこうまくいってないみたいだけど」

 

 この前、まだ一時的な破壊しかできないと呟いてるのを聞いたから、きっと間違いはない。

 

 ため息をつきながら、血がべっとりとついた手首を軽く回す。

 『修復』された後はどうにも繋ぎ方が安定しないのか、たまに骨も筋肉も多少ズレ(・・)る。この感覚にはどうにも慣れない。

 おかげで血液の送り方が不安定だからか、心臓の鼓動がうるさくてたまらない。

 というか、ヤツは意図的に適当な『修復』をしている節がある。

 昔ならこんな雑な修復はしていない。薬の作成が上手くいかない腹いせか、あるいはもう一つの目的のためか。

 前者ならまだいい。被害を被るのは僕だけだし、何よりヤツの計画がうまくいかないのは僕らにとっても社会にとっても良いことの筈だ。

 ……ただ後者の場合、僕が計画から外される可能性がある。それだけは絶対に防がないと──

 

「……お兄ちゃん、手は大丈夫?」

 

 自室で思考に耽りすぎていたらしい。

 いつのまにか僕の膝の上にちょこんと座るエリが、上目遣いに僕の瞳を覗いていた。出会った日から三年が経った今でも、エリは僕のことを『お兄ちゃん』と呼ぶ。

 

「ごめんごめん、ちょっと考えごとしてた。手は……ごめんエリ、戻してもらっていいか」

 

「うん、分かった」

 

「いつもありがとな〜。よーしよーし」

 

「ん〜〜」

 

 血のついていない手でわしゃわしゃと頭を撫でると、エリは気持ちよさそうに頭を預けてくる。猫みたいで可愛い。

 エリが、そっと僕の腕に触れた。

 あれだけベタベタだった血が消えていく。

 手首のズレが元に戻る。

 いつも通りに戻った心臓の鼓動に頭を撫でるペースを重ねて、巻き戻されているのを実感する。

 

 ──個性『巻き戻し』。

 

 それが治崎がエリに見た価値であり、僕の代わりになり得る個性だ。

 巻き戻しがどこまで戻せるのか、僕は分かっていない。

 エリはかつて自分の父親をその個性で消滅させたわけだから、巻き戻せる時間はとりあえず30年から40年は確定。

 3年にわたる個性制御の練習を経てもなお、この能力の明確な制限は分からなかった。

 

 一方で治崎は人間の種──すなわち、生物としての進化の過程さえも巻き戻せると考えている。

 それが可能かどうかはともかくとして、もし治崎がその考えを応用し始めたら危ない。

 

 そもそも、これを考えると『個性』とはなにか、なんていう根本的な問いの答えが必要になる。

 

 個性の発現はおおよそ4歳まで。と言っても5歳で発現てのも聞かない話ではないし、無個性だと思われていた者が実際は個性があった、なんて話さえもある。

 問題は、発現しない理由も発現する理由も不明だということ。

 個性の発現の理由は、治崎風にいえば『発症』から百年経ったいまでも不明のまま。

 結果的に、

 

 ──生物の次代の進化が『個性』である。

 

 そう考えるのが一般的で自然な結論になった。

 なにも無駄にヤツと過ごしているわけじゃない。この理論に当てはめて、エリをどう利用しようとしているのか。

 

 

 

 『壊理には力がある。病原菌をただの人間に戻す力。個性因子を消滅させ、人間を正常に戻す力が』

 

 

 

 ヤツがそういう思考にたどり着くであろうことは容易に想像がつく。

 もしくは、既にたどり着いているかもしれない。それでもなお僕を利用しているのは、エリの個性より僕の個性の方が『個性を壊す』という点においてシンプルに効くからだろう。

 

 治崎がそこまで考えていると仮定すると、僕がこうしてエリが個性を制御できるようにしているのもヤツの手のひらの上、なんてこともあり得る。

 それはめちゃくちゃ腹が立つけど、今は思考の外に追い出す。

 

 少なくとも今の治崎の目的は、僕から生成した薬剤を用いて社会の混乱と莫大な資産を得ることだ。

 おそらく、僕を利用し続けて。

 これでうまくいかなければ、ヤツは計画の核を僕からエリに乗り換えるだろう。

 個人的な勘では、あと半年。

 あと半年くらいで、ヤツはエリを一度『分解』するだろうと予想している。

 

 ……これでも希望的観測だ。もっと早い可能性は全然ある。

 

「……ままならないな」

 

「どうしたの?お兄ちゃん」

 

「んー?いや、アイツがいつまで僕を使うのか分かんないからさ」

 

「………」

 

「ああもう、そんな顔すんな。

 一応僕の個性の方が向いてるからだし、妹を守るのは当たり前だろ?」

 

「うん……」

 

 申し訳なさそうな顔をしたエリの顔をふにふにとほぐす。

 エリに全部を伝えたわけじゃない。

 ただ、治崎に連れ出されるたび毎度のように包帯を巻いて帰ってくる僕に、聡いエリは何かを察したのだろう。

 エリは僕の怪我を治すために個性の制御を練習してくれたし、最近は暇さえあれば僕に寄り添ってくれている。

 

「ん〜〜」

 

「よーしよし、ちゃんと甘えて偉いぞ」

 

「?甘えるのがえらいの?」

 

「そ、エリくらいの歳の女の子なんて甘えまくってるんだから。

 エリだって我慢しなくていいの。ほら、やりたい事とか行きたいところ、あるだろ?」

 

「……うん、外に行ってみたい」

 

「あーまあ、そりゃそうか。ずっとこの部屋から出てないわけだし」

 

「……だめ、かな」

 

「そんなわけあるか。

 あれだ、『約束』。

 いつか外に出られる日が来たら、一緒にいろんなところに行こう。

 僕もほとんど覚えてないけど、海とか山とか。あと遊園地とかさ」

 

「……!うん!」

 

「お、いい笑顔だ。

 最近よく笑うようになったな」

 

「たくさん笑いなさいって言ったのはお兄ちゃんだよ?」

 

「……いやまあそうだけどさ、笑ってるってことはエリは楽しいんだろ?」

 

「うん」

 

「それが良かったなって」

 

「お兄ちゃんは、楽しい?」

 

「もちろん。エリが笑ってくれると楽しいよ」

 

「えへへ、じゃあもっと笑うね!」

 

「よーしどんとこい」

 

 仮に。治崎が、エリを利用することになったとして。

 そのとき、多分僕は死んでいる……というか、そうしないとエリに手を出さないようになっている、と思う。

 僕を生かしたままエリに手を出すのはあまりにリスクが大きい。

 つまりは、僕が生きている間ならまだ猶予がある。

 

 彼女にはなんの責任もない。

 だから、この子を『分解』させることだけは絶対に阻止しなければならない。

 あの痛みをこの小さい少女に背負わせる必要は、絶対にない。

 

 タイムリミットは長く見積もってもあと半年。

 それまでに、エリだけでもここから脱出させる手段を考える必要がある。

 

「……絶対に守るから」

 

 ぽつりと呟いた腕の中で、びくりとエリが震えた気がした。

 そのままもぞりと動いているのを感じながら、エリの背中をぽんぽんとたたく。

 

「お兄ちゃん」

 

「うん?」

 

「……ありがとう」

 

 頭を撫でられている。そう認識するのが遅れたのは、それがあまりに優しかったから。

 たどたどしく、小さい手で。ふわりと笑いながら。

 自由のない生活のはずだ。

 決して楽しくない生活のはずだ。

 一人の男に縛られた、救いのない生活だ。

 それでもエリは、僕にありがとうと言ってくれるのか。

 

 エリは賢い。

 治崎の手が自分自身に伸びつつあることはきっと分かっている。

 だから、心配するべきはエリ自身であるはずなのに。

 

 ──それは、なんて。

 

「もう……」

 

「お兄ちゃん……?」

 

「お前はほんとにいい子だな〜!」

 

「わっ」

 

 感極まり、おりゃおりゃと頭を撫で回す。

 きゃー、とくすぐったそうに声を上げるエリは、さっきよりも随分と楽しそうだ。

 

「……大丈夫だよ。なんとかしてみせるから」

 

 今度は、エリに聞こえないようそっと呟いて。

 僕はひたすらに膝の上でエリを甘やかした。

 

 

 

 

 エリが膝の上で寝てしまったのでベッドに運んでから、僕は寄り添うように身体を横にした。

 

「─────」

 

 頭上を仰ぐ。

 質素だった独房は見る影もない。

 今この部屋には、エリの好きなおもちゃで溢れている。

 ここは地下だから、窓から降り注ぐ光は少しもない。それがひどく寂しく思えた。

 

「お前の個性は上書き(オーバーライト)だ」

 

 かつて。ヤツはそう言った。

 

 上書き(オーバーライト)。僕がエリよりも()()の材料として適切な理由。ヤツの作る個性破壊弾の仕組みは、対象の個性を『無個性』状態に上書きするというもの。

 

 なるほど、それは『巻き戻し』を使うよりも幾分か分かりやすい。

 

 ヤツの計画。

 社会に混乱と崩壊をもたらすその計画には、実際のところ興味はない。

 ただ、このままされるがままで利用され続けるのは……癪に障る。

 

「──僕も個性を消せれば良かったのに」

 

 吐いた言葉は、誰に聞かせるまでもなく暗闇に溶けていった。

 

 そう、ヤツの個性やエリの個性、そして僕の個性が無ければこの計画は頓挫する。

 『上書き(オーバーライト)』というのだから、てっきり個性を消せるものだと思っていた。

 

 この個性には制限がある。

 

 上書き(オーバーライト)条件(トリガー)は『()る、もしくは触れ合う』で、過程(プロセス)は『演算処理』。そして基本は『自分中心』だ。

 

 例えば、僕自身の身体能力。

 例えば、僕の思考速度。

 『こう起こる』と確定している事象なら、ある程度の範囲で個性を使える。

 これらの視えないものは脳で演算処理さえすれば直接個性が使える。

 

 対象が無機物なら、視ることでどんな上書きも可能ということも分かっている。加えて触れることが出来れば、原子レベルで上書きできる。

 

 ところがこの対象がヒトになり、『他者の身体能力や慣性、個性を上書きする』となると。

 ───これは基本的には不可能だ。

 

 エリや治崎の『個性』を上書きすることはできない。

 

「──分からないな、『個性』はどこまでも謎だ」

 

 エリと出会ったときを思い出す。

 僕が、初めて人を抱きしめた日。

 

 あの日、上書き(オーバーライト)はエリの個性を無くすことは出来なかったが、エリの個性による『巻き戻し』が僕に()()()()を『無い』と上書きすることは出来た。

 

 これはエリの個性発動に割り込んだわけではなく、あくまで自分が『巻き戻される』事象を上書きしたということ。

 ただこの上書きの実行のためには、ある程度対象に触れる必要がある。

 抱きしめまくって介入が慣れたエリはともかく、触れれば一瞬で分解される『オーバーホール』の上書きを狙うのは、よほど慣れていなければ脳が二度オーバーヒートしてようやく可能性が生まれる程度だ。

 

「─────ん」

 

 これほどの個性があれば、治崎の元からだって逃げられる、と思っていたのだが。

 

 状況がかなり厳しい。

 

 まず、僕とエリは地下の部屋に軟禁状態。

 ヤツは焦っているのか、一日に6時間は骨と肉を削がれて、二日に一度のハイペースで『分解』される。

 ケガは『分解』でリセットされない限り相当な足枷になるから、まず逃げ出すのがままならない。ケガを『上書き』したとしても、その場合ヤツの『修復』の仕事が減る。僕が死ぬことを考えなくても良くなるなら、拘束される6時間が倍に増えるだけだ。

 

 それに加えて、死穢八斎會のメンバーからの監視もある。

 見つかればそれだけで計画は終わる。

 逃げ出すという選択は取れない。

 

 治崎を倒す───これは、ほぼ不可能だ。

 

 触れたら終わり。接近戦は思考の無駄だ。

 ヤツと同じように無機物を武器にする……理論上は可能。とはいえこれは現実的じゃないし非効率的だ。僕がヤツと打ち合ったところで、攻撃を繰り出せる速度がまるで違う。即座に押し負け、武器ごと分解されて終わるだろう。

 

「─────ん、んぅ」

 

「……大丈夫だ」

 

 エリがうなされたように手をふらふらとさせたので、ぎゅっと握る。

 

 うなされる原因には心当たりがある。

 

 先日、一度だけ()()()()()()()

 たまたまエリの監視が緩く、僕が治崎含むメンバーを抑えていれば確実に逃げられた。

 

 予想外だったのは、治崎のエリに対する執着心と、ヤツがなぜかエリに追いついたという点だ。

 

 ヤツは時間を稼いでいた僕を『分解』して、動けないよう身体器官をぐちゃぐちゃに『修復』した。

 そのまま僕は放置されて、『上書き』で元に戻した頃にはエリは治崎に確保されていた。

 彼女にしてみれば、逃げ出しても治崎に囚われ、僕が分解されているのを目の当たりにしたのだ。6歳のエリが背負うには重すぎる。うなされても無理はない。

 それにエリは責任を感じていたようだけど、ヤツらを抑えられなかったのは僕の失態だった。

 

『大丈夫。エリが無事ならいいんだ』

 

 そう言ったあの日、エリはひどく悲しそうにしながらヒーローに会ったと教えてくれた。

 とはいえエリがここに戻ってきている以上、彼らは治崎との交戦を避けたということだろう。その選択は正しい。街中でヤツと戦えばそれだけで街の被害は下手な災害レベルだし、なによりエリの安全が保証できない。

 

「───ヒーロー、ね」

 

 エリの頭を撫でる。

 苦しげだった声は気持ちよさそうな声に変わり、やがて穏やかな寝息を立てはじめた。

 

 ヒーロー。正義の味方。

 社会の悪を斃して、正義を為す者。

 

 彼らは、それでも僕やエリを(たす)けはしない。

 僕やエリだけじゃない。

 この社会には救われなかった人が多すぎる。治崎が接触したヴィラン連合もその一例だ。

 

 全てを救う、なんてのは理想論だ。

 僕ももう社会的には高校生の年齢だ、苦しむ人々全てを助けることはできない。十分に成長したから、それが叶わない綺麗事だと知っている。

 

 一を犠牲にして九を救う。少数よりも大衆を救う。それが正義。

 僕やヴィラン連合が『切り捨てられる』一割だというのなら、『救われる』のは九割だけだ。僕は、その一割にいるというだけ。それはもうとっくに受け入れている。きっと一生変わらない。

 

 ──ただ、それでも。

 

「──エリ、心配しなくていい」

 

 静かに眠るこの妹くらいは、その九割に入ってもいいと思うのだ。

 なんの罪も犯していない。

 ただ不幸で、ただ利用されているだけだ。個性に振り回されて大切なものを失ってしまっただけだ。まだ6歳。倖せを取り戻す時間はたくさんある。

 どうか、この子が倖せになりますように。僕にとってはただそれだけ。

 治崎の計画はどうでもいい。エリが倖せに笑ってくれるのが唯一で一番の願い。

 

 ひどいエゴに自嘲する。

 ヒーローなら、きっと全員を救おうとするだろう。誰もに倖せを贈るのがヒーローなのだから。誰もが倖せであれと。そう願う想いは、誰もが想う理想は、不可能だとしても間違いじゃない。

 正義は僕らに無く、現実は無価値に一割の人が死んでいくのだと。そんな悟ったような諦めが正しいなんて思わない。

 だから、彼らが正しいのだと分かっている。

 

 分かっていても、僕は。

 

 知らない他人のために命なんて賭けられない。

 自分よりも他人が大切、なんて『善』を口に出すことはできない。

 ヒーローみたいに強い意志とか正義感を持ってるわけじゃない。

 

 でも、それがエリのためなら賭けられる。

 

 それは──

 

「僕は、お兄ちゃんだからな。妹を守るのは当たり前だ」

 

「────すぅ」

 

 ただ、それだけ。

 どれだけ世間から見て無価値で、どれだけくだらなくても。

 僕はそれだけのために、こうして生きているのだから。

 

「─────」

 

 瞼を閉じる。

 エリの頭を撫でながら、時間の経過を自身に刻む。

 計画を立てよう。エリが連れ戻された時は焦ったけど、彼女がヒーローに出会ったのなら、それは治崎とも出くわしたということ。なら、まだチャンスはある。

 

 彼らが死穢八斎會を知っていれば、治崎と顔を合わせることでエリがこちら絡みだと判ったハズ。ヒーローからしてみれば、戸籍登録のない彼女の存在は看過できない。うまくいけば、エリの救助作戦を実行してくれる。

 確率は低い。

 ただ、0じゃないなら賭ける価値は十分だ。

 

「──頼むよ、ヒーロー」

 

 どうか彼らの輝かしい理想論が、エリを救えますようにと願って。

 僕は、深い眠りに落ちた。

 

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 

 声が響く。

 

『ダメじゃないか、壊理。勝手に抜け出しちゃ』

 

『……お兄ちゃんに、何したの?』

 

 少女を救えなかったあの日の、声が響く。

 

『──ああ、息子もいるんですよ。壊理の兄でね』

 

 どうしようもなく怯える少女が聞いた、声が響く。

 

『壊理……お兄ちゃんも待っているよ』

 

「───エリちゃん」

 

 一人、呟く。

 緑谷出久にとってあの記憶は、決して忘れがたい挫折の記憶だった。

 

「───、──」

 

 死穢八斎會拠点、地下道。

 雄英高校一年生、ヒーロー名『デク』。彼はプロヒーローたちと地下道を駆けながら、あの日の失敗にうめいた。

 その表情にあるのは悔い。……彼は認めている。

 エリを見捨てた。少女の手を掴み損ねた。その事実を認めている。

 

 曰く、彼女には兄がいる。

 

 あの個性破壊弾が、少女を材料としたものか、少年を材料としたものかは分からない。

 

 ただ、あの日。

 

『どうして……お兄ちゃんは……?』

 

 あの日エリがそう言ったのは、兄が妹を逃したから……つまりそれは、彼女の兄に、治崎の目を引く価値があるということ。

 

『ですから我々は、エリちゃんの兄……その彼が個性破壊弾を作るために使われている、そう考えています』

 

 サー・ナイトアイの結論は合理的だ。

 デクもまた、彼と同じような結論に至っていた。

 あの日抱きしめた少女は、自分よりも兄の名前を聞いた瞬間に一番怯えていた。

 アレは違う。あの歳の少女が『材料』にされていれば、自分に追いつかれた時点で感じるのは『恐怖』だ。けれど彼女から感じたのは、『困惑』。なぜ治崎がここにいるのか、兄がどうなったのか、それが分からないからこその困惑だけだった。

 

 ヒーローたちが定めた救助対象は二人。

 

 エリと、その兄。

 彼らが治崎と接触する前に、二人を助け出すのが一番の理想だとデクは考える。

 ただ、それは──

 

「──デクくん」

 

「……先輩」

 

 思考の沼に沈んでいたデクに声をかけたのは、彼の先輩であるルミリオンだった。

 彼もまた、デクと同じくエリを一度は見捨ててしまったヒーローだった。

 

「心配かい?エリちゃんが」

 

「……はい。でもそれ以上に、エリちゃんのお兄さんが」

 

「?それはどうして?」

 

「エリちゃんには、怪我が殆どありませんでした。かすり傷も包帯も、まるで見当たらなかった。それに……」

 

「それに?」

 

「エリちゃんも、お兄さんの無事が何より気がかりみたいでした。命を粗末にできる治崎がすぐそばにいるのに、まずお兄さんの心配をしたんです。お兄さんは、背負ってると思うんじゃないかって。治崎に分解されて、ひどい扱いを受けて。それでも、エリちゃんを守るためにお兄さんとして支えになっている」

 

「……うん、そうだね」

 

「だからもし、エリちゃんが治崎に連れられそうになった時は」

 

「──命を賭けるって、そう思ってるのかい?」

 

 ルミリオンは真剣な表情でデクに聞く。

 それがどれだけの重みを持っているのか知りながら。

 それが正しければ、彼らが見捨てたのは一人だけなどではなく、今この瞬間も一人の命を見捨てかねないと分かっている。

 

 ただの一般人がオーバーホールに立ち向かう。

 その無謀さを、デクたちは否定できない。

 なぜなら、それは彼らが生み出した惨状だ。

 折れるかもしれない。

 絶望するかもしれない。

 救えなかった人が、増えてしまうかもしれない。

 

 それでも、彼らはヒーローだ。

 

「───はい」

 

「じゃあ、助けないとね!俺たちで!」

 

「はい!!」

 

 その全てをひっくるめて背負い、助け出す者。

 たとえ自分たちがどれだけ間違え、困難だとしても。

 自分の全てを以て綺麗事を実践する。

 彼らは、そういう生き物だった。

 

「────え?」

 

 その、瞬間。

 彼らの前に、壁が現れた。

 なんてことはない、地下道なのだから壁があって当たり前だ。

 ただ、この場合は少し違う。間違いなく異常だった。

 『本来ないはずのところ』に、『本来ないはずのもの』が在る。

 

「ナイトアイ!?どうなっている!」

 

「分かりません、予知の通りなら道に間違いは無いはず」

 

「俺、覗いてきますよ」

 

 困惑の空気の中、ルミリオンが壁の向こうを覗く。

 

「……壁の向こうは、通路がありますね」

 

「僕たちに気がついて無理やり塞いだんだ。予知通りの道じゃなくなってる……!」

 

 デクの呟きに、幾多の場を乗り越えてきた警察、ヒーロー、彼らに全くの区別なく動揺が走った。

 

 今回の作戦は短期決着。

 エリとその兄のいる部屋にナイトアイの予知通り直行し、二人を保護する。それがナイトアイと彼らの立てた計画だった。だが部屋への道が変化しているとなると、二人のいるであろう部屋から遠ざかり、治崎に逃げる隙を与えてしまう。

 それがどれだけ危険なのかを知らぬ者はここにいない。

 オーバーホールの所在。

 ヴィラン連合の拡大。

 社会の混乱。

 何より、救うべき子どもが救えない。

 

 突破口は───

 

「俺、『透過』で先に行ってます!」

 

「……先輩」

 

「……ミリオ」

 

「うん。これが最善だと思うんだよね。サー、俺が治崎に追いついて、エリちゃんとお兄さんを保護します」

 

「……分かった。頼む、ミリオ」

 

「任せてほしいんだよね!」

 

 そう言って、ルミリオンは壁を抜ける。

 進む道は直線。彼の個性は『透過』。壁も角も関係ない、物理法則を無視した最短距離。彼ならば、確かに最短でエリたちの元へと駆けつけられるだろう。

 

「では我々は他の道を───」

 

 ヒーローは、基本的に(ヴィラン)を上回る。そうでなければ犯罪は止まらないからだ。

 ただこの瞬間において、死穢八斎會は彼らよりも一枚上手だった。

 一瞬の浮遊感。足場が消えた時の、独特な平衡感覚。ジェットコースターのように過ぎるコンクリートの壁。

 デクたちが異変を感じたときには、既に。

 

「─────え」

 

 目の前に存在していたはずの通路は、はるか頭上に取り残されていた。

 

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 

 

 戦闘とは、防御と攻撃の繰り返しだ。

 守りながらの攻撃、攻めながらの防御は効率が悪い。

 

 攻めにおいて、守ることに意識を割けばそれだけ攻めの質が下がる。逆も然り。つまり、どちらか一方を重視する。これが戦闘における第一だ。

 

 攻めの駆け引き、守りの観察眼。それらに縛られるのも問題だが、そもそも基本を守れなければ話にならない。

 

 つまり。

 

「──さて、戻ってこないなら力づくだ」

 

「───っ!」

 

「どうした、ヒーロー気取りか?守りながら闘うのは難しいぞ」

 

 目の前に立ち塞がるオーバーホールとの戦いは、そのバランスが何より求められるということ。

 

「……そりゃ、そっちは二人だしな」

 

「───お兄ちゃん」

 

「……大丈夫だ、エリ」

 

 厳密には少し違う。

 

 まだ戦いは始まっていない。

 とはいえ始まる前から状況は最悪に近い。

 

 僕はエリを背負っていて、目の前にいるヤツはさっき僕が気絶させた仲間の一人と『融合』した。ヤツの側近はほかに二人いたはず。そいつらが一体どこで何をしているのか、僕には判らない。

 

 ……距離にして7メートル弱。少し不安な距離だ。そもそも、現在進行形で地下道は迷宮と化している。距離をとろうと動くのも危険だ。

 おおかた、『擬態』の個性で僕らをヒーローたちから切り離したんだろう。

 

「──戻ってこい、乖理(かいり)。お前たちには利用価値がある」

 

「んなことしてたまるか。アンタがいる限り、エリの安全は保証されない」

 

「貴様のせいで、人が死ぬとしてもか」

 

「───っ、お兄ちゃんのせいじゃない!」

 

「だ、そうだ。悪いけど僕は兄バカなんでね。

 『真実吐き』だろうが何だろうが、エリが否定してくれればそれでいい」

 

「チッ……」

 

 計画を立てたその日に、転機が起こった。

 

 ヒーローと警察による拠点の制圧作戦。

 エリの救助のために、プロヒーローと警察が乗り込んできたらしい。

 拠点の混乱に乗じてエリと二人逃げ回っていたものの、『真実吐き』に時間稼ぎをされて、地下道でオーバーホールに追いつかれた。

 

 今のヤツは僕と真っ向から敵対しているのに加えて、腕が四本にまで増えている。

 ……『融合』。

 僕が気絶させた敵の体を分解して、ヤツは自身と融合した。

 よほど短期決着を急いでいるのか、あるいは僕にはそこまでする必要がある、と考えているのか。正直、全く嬉しくない。

 

「……足音が近くなってきたな。そろそろ追いつかれるんじゃないか?」

 

「問題ない」

 

「死穢八斎會は崩壊してる。ここであきらめるのが賢明だと思うけど」

 

「いつから貴様は進言できる立場にいる。───俺と組長(オヤジ)がいればそこが八斎會だ」

 

「へえ、無理やりだな」

 

「──────」

 

 無言のまま。オーバーホールは無造作に、殺意のこもった瞳を向けてきた。

 エリが、背中でびくりと震え、息を呑む。

 冷や汗が伝う。

 呼吸が一瞬止まる。

 全身の毛穴が開く。

 ヤツはもう僕たちとは違う生き物に変化している。その事実に、僕の現実が溶けていく。

 

 会話による時間稼ぎはそろそろ限界だ。

 ヒーローたちの攻撃を察知して拠点内が混乱し始めたのが5分前。

 5分間。それは、エリを抱いたままヤツらに抵抗した時間でもある。

 

「もう一度言うぞ。戻ってこい。お前と壊理、そして俺がいれば。

 この世から病原菌をなくし、もう一度俺たちが裏社会を牛耳ることができる。

 そもそも……なぜ、そこまでする必要がある?」

 

「そのまま返すよ。

 僕が兄貴だからだ、クソ野郎。

 ようやくきたチャンスだ。ヒーローが鎮圧するまでは時間の問題。なら僕はここでアンタを倒すか時間を稼いで、エリと逃げる。こっちはそう約束してんだ」

 

「……音本と融合したのは失敗だったな。貴様には本音を吐かせても意味がない」

 

 ……オーバーホールはまだ動かない。

 余裕か、あるいは傲慢か。ただ、動かずとも。

 その四本の腕は、僕が不用意に動けば次の瞬間分解しにくる。

 そんな確信が、全身を縛って離れない。

 このまま睨みあうのは不利だ。

 

「──エリ。少し揺れるけど、我慢してくれ」

 

「!うん」

 

「よし」

 

 一度だけ深く息を吸って、吐く。

 腰を落とす。

 怖気づいていても次の瞬間には殺される。なら、ヒーローが来るまでの時間稼ぎくらいは。

 

「───貴様」

 

「悪いけど、僕もエリも、アンタのもとには戻らない」

 

 ふと、初めてそこで背中を振り返った。

 そこには、いつものように、僕を信じてくれるエリがいる。

 

「さて、おまえは何をする?俺を殺すか?」

 

 言うまでもない……やることは変わらない。

 僕はただ。

 

「エリを守る。それだけだ」

 

 突風さえ感じる速度で四本の腕が僕らに迫る。

 絶対に会いたくないと……絶対に戦いたくない敵との戦いが、始まった。

 

 

 

 

 ──────そう、戦いになるはずだった。

 

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 

 数多(あまた)の棘が少年の四肢を貫く。

 まるで空間そのものが意志を持っているかのように、一人の男が地下を占領していた。

 どれだけ駆けても逃げ場はない。

 少女を背負った『兄』は、逃走はおろか反撃の余地なくその体を貫かれた。

 

 網にさらわれた魚、

 蜘蛛の巣に絡まった虫、

 鷹の巣に連れられる鼠、

 彼らの運命は語るまでもない。絶対的な生物としての格。捕食する側と捕食される側がはっきりするだけのこと。

 

「……まだ、死なないか」

 

 無慈悲な一撃が少年の腕を吹き飛ばす。

 いくら個性という異能を持とうと、彼らはヒト。四肢を失う痛みに耐えられるはずがない。

 それが行われた瞬間、人間の性能も意識も、砂のように消えていく。

 

「が、あっ……」

 

 彼は、やめろ、と叫んだのかもしれない。

 祈りは届かない。

 声は音にならない。

 喉にはコンクリートの破片が突き刺さり、そもそも呼吸器官の存在する胸部はごっそりと吹き飛ばされているため、彼の叫びは苦悶にさえなっていなかった。

 

「それが遺言か?まあいい、この程度の分解など、貴様なら慣れたものだろう?」

 

 返事はない。

 荘厳ささえ感じさせる冷たい声が、生命活動のギリギリに立つ少年の体に、手を伸ばしていた。

 

「お兄ちゃん……!!」

 

 苦痛を感じさせる少女の声が閉鎖空間に響く。

 少年が守ろうとした少女はその幼さに反して、勇敢にも目をそらしてはいなかった。

 だが、それで何も変わるわけではない。

 少女の声に反応して伸ばした手は落ち、その肉体はあとわずかで死に至るのが、少女の目から見ても明らかだった。

 

「まあ待て壊理、こいつを復元すればまた連れて行ってやる」

 

 少女を一瞥した青年の名はオーバーホール。

 そこにあったのは戦いの残滓などではない。裏社会の奪還を目論見るひとりの若頭の、あまりにも一方的な蹂躙だけだった。

 

「待て、治崎……!」

 

 ヒーロー、ルミリオンが現場に到着したとき、すでに惨劇(こと)は終わっていた。

 

 ほとんど密室と化した地下道の中心。

 少年から離れたところでへたり込むエリと、コンクリートの棘に(はりつけ)にされている少年。

 そして、血だまりの中彼に歩み寄る、四本腕のオーバーホールの姿がある。

 

「誰かと思えばヒーローか。面倒くさい───!」

 

「───エリちゃん!」

 

 判断は一瞬。

 ルミリオンは決して無謀でもなければ蛮勇を振りかざすヒーローではない。

 現場を見て即座にオーバーホールとの戦力差を理解し、エリと少年を抱えて棘の群れから脱出した。

 

「チッ……」

 

 舌打ちとともに地面に二本の手をつける。

 オーバーホールが彼の姿を追って視線を向けた先、そこには血だまりに沈む少年と、近くに座るエリだけ。ルミリオンの姿が、ない。

 

「───はああっ!」

 

「──後ろか!」

 

 それを察した瞬間に、オーバーホールの体は動いていた。予備動作など関係ない。融合した彼に、ただの人間の常識は当てはまらない。

 視線を、ちょうど向けたその数瞬。そのわずかな時間を利用したルミリオンの個性を使った奇襲に、オーバーホールは即座に反応した。

 残り二本の腕。人間の体からかけ離れたその新たな器官は、彼の体を掴み───

 

「───なに?」

 

 その腕は、むなしく宙をつかんだ。

 だが、ルミリオンはそこにいる。オーバーホールの腕が通る通過点、そこにただ体を『透過』させて致死を避けるヒーローが、拳を振り上げて確かに立っている。

 

「───そう、なるよね!」

 

 ここまでのすべてが彼の予測通り。

 彼が想定したオーバーホールの思考、動作。まるで予知したかのような正確さに基づく攻撃。

 

 それが、ヒーロー『ルミリオン』の武器だった。

 

POWEER(ぱわあああ)───!」

 

「くっ……!」

 

 透過させていない拳に吹き飛ばされる。オールマイトにさえ迫る速度の拳に、青年の体はなすすべなく宙を舞った。

 さすがのオーバーホールも、その攻撃に眼を剥いた。ルミリオンのしたことは、どんなヒーローよりも精密な、彼の絶え間ない努力に裏打ちされた個性操作だった。一介の若頭が予測できる技術ではない。

 

「まだまだああ───!」

 

 飛んでいくオーバーホールを追い、ルミリオンは駆ける。

 この程度の攻撃でこの青年が倒れることはありえないと。ある種の信頼を抱きながら敵を追う。

 

「エリちゃんたちを返せ、治崎!」

 

「その名は捨てた、そこをどけ、ヒーロー!」

 

 叫び、宙を舞うオーバーホール。その真横へと即座に接近する。

 何も予測からは外れ得ないという確信があった。彼の経験則は──半ば未来予知にも迫る正確さを持つ直感は、敵の胴を穿つことを示していた。

 青年の無防備な体に叩き込まれるルミリオンの拳は───

 

「───は?」

 

 しかし、寸前でコンクリートを砕いていた。

 オーバーホールはヒーローの前から姿を消している。

 困惑の声が地下道に響く。

 当然のこと。彼の培ってきた体の『透過』の扱いは、解除のタイミングは、敵の行動の予測は、この瞬間においても、一ミリに至るまでミスは存在していなかった。

 ならば、これはどういうことか。

 

「──────」

 

 戸惑いながら、ヒーローは最も恐れていた可能性にたどり着いた。

 己の力を制限なしで自由に扱う。それがどれほど恐ろしいかを彼は知っている。そういった個性の暴走を、彼は何度も目の当たりにしてきた。

 ただ、これは前例がない。これほどの『個性』には前例がない。

 オーバーホールという個性が、無制限に振るわれるなど。一番あってはならない事態が、想定していた中での最悪が、たった今ルミリオンの目の前で現実となり。

 

「───エリちゃん!」

 

 オーバーホールの攻撃の先は、彼が守るべきものへと変わっていた。

 

 

 そして。

 

 

「クロノ!撃て!」

 

 

 たった一つの銃声を最後に。

 

 

「……大丈夫。俺が、君たちを守る」

 

 

 一人のヒーローの個性が、この世界から消えた。

 

 

 

 

 戦いは瞬きの間に終わった。

 

 

 

 

 クロノスタシス。ルミリオンが気絶させ損ねた男は、オーバーホールにとって十分すぎる仕事をした。

 

 ルミリオンは今、『個性』がない。クロノスタシスが最後の力を絞り出した銃弾を、彼はエリを庇う形でその身に受けた。

 即ち、完成版の『個性破壊弾』。

 個性因子を直接壊す、オーバーホールの10年にわたる研究の産物。

 

 勝ち目はない。

 残っているのはオーバーホールによる蹂躙だけ。

 

 それでも。

 この絶望的状況にあってもまだ、ヒーローは膝を折らなかった。

 『個性』のないヒーローは、血だらけのまま、オーバーホールに立ち向かう。

 

 ルミリオンはボロボロだ。致命傷に至る傷はないが、身体のどこからも出血し、息継ぎはかつてないほど荒い。

 だが、背後にいる少女には一切の怪我がない。それは、ルミリオンが彼らを守り通した何よりの証明だった。

 それだけで、彼の異常性が理解できる。

 オーバーホールを相手にし、個性を無くしてなお子ども二人を守り通せるヒーローが彼以外どこにいる。

 

「……ここまで持ちこたえるとはな。病原菌め」

 

「はあ、はあっ……俺は、ヒーロー、だ」

 

「残念だなあ、ヒーロー?

 俺たちに関わらなければ、個性を永遠に無くすこともなかったというのに」

 

 オーバーホールは嘲笑を込めて言い放つ。

 ルミリオンに勝ち筋はない。

 

 エリと少年はヒーローの後ろ。

 オーバーホールに触れられれば『分解』される。

 そして今の彼には、二人を守り通せる能力がない。

 

「それでも、俺は……!」

 

 そんなことは、ルミリオンが痛いほど理解している。

 だが、諦めるという選択肢がどこにある。

 一度はつかめなかった手。

 助け出せなかった少女。

 彼女をずっと支えてきた少年。

 

 それを守れなくて、何がヒーローか。

 

 彼の矜持が吠える。

 ヒーローは。

 自分が夢見た、この正義は。

 こんなところで諦めるものじゃないと、声高に叫ぶように。

 

「俺は二人の、ヒーローだ!」

 

「───そうか、なら死ね」

 

 オーバーホールがその四本の腕を振り上げる。

 ルミリオンは避けられる。個性を失っても、彼の運動能力は落ちていない。怪我を負っていても、彼を殺すことは適わない。

 だが、避ければ背後の二人が死ぬ。抱えて逃げるには怪我の影響が大きすぎる。

 それだけが、ルミリオンをこの場に縫い付けている。

 それだけで、彼はこの世の誰よりもヒーローだった。

 

 そして、ルミリオンに振り下ろされるハズの腕が。

 

「────チッ!」

 

 ルミリオンに届くことなく、その眼前で弾かれた。

 舌打ちを打つオーバーホールに、ルミリオンはただ困惑するほかなかった。

 予測していた、後ろから追いついたヒーローたち…‥ではない。

 もはや密室と化しているこの部屋に、彼らが来たような通路の痕跡はない。

 この場にいるのは間違いなく、敵であるオーバーホールと、ヒーローであるルミリオン自身と、守るべき二人だけだ。

 

 だから、おかしい。

 そこに、ルミリオン以外の人間が立つことなどあり得ない。

 ヒーローが守られるなど、あってはいけない。

 

 だが、現実として彼はそこに立っていた。

 怪我はある程度治っているが、右肩からの出血は未だ止まっておらず、その先……四肢が伸びているはずの空間には何もなかった。

 明らかな重症だった。あと数秒で機能を失うほどに消耗していた身体が、致命傷の群れになった程度。

 立っているだけで気を失うだろう傷に、雄英ビッグスリーのルミリオンでさえ顔が強張る。

 

 ルミリオンには分からない。

 なぜ彼が自分を守るように立っているのか。

 あの傷はいつの間に治っているのか。

 守らなければならない背中が自分の目の前にあるのか。

 どうして、こちらを振り向いて笑っているのか。

 

 そこに──本当に、あってはならないことなのに。

 かつてのオールマイトのような、痛ましい背中を感じて。

 ルミリオンは、その目を滲ませた。

 

「……どうして、君が」

 

「──ありがとう、ヒーロー。妹のためにこんなになるまで戦ってくれて」

 

「────っ!」

 

「あとは僕が始末をつける。

 それが──」

 

 果たして、そこに彼は立っていた。

 『オーバーホール』の計画の核。

 (ことわり)(そむ)く『個性』を持つ特例。

 

 そしてこの場においては。

 

 

「それが、兄の役目だ」

 

 

 ただ一人の少女の兄として。彼は悠然と、ヒーローの前に立っていた。

 

 





 続きます。
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