とある兄妹の約束   作:あさがさむい

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後編

 

 

 ──────戦いになんてならなかった。

 

 

 

『お兄ちゃん!ダメ!』

 

 エリをかばったままの戦闘。

 

 戦いは1分で終わった。ヤツはあらゆる躊躇をかなぐり捨てた。

 

 人間としての倫理観、

 戦闘における大前提、

 生存を望む生物の本能。

 

 その全てをたたき切るように、ヤツは徹底的に戦った。

 入った攻撃は初発の不意打ちによる攻防、たった5秒の攻撃。あとの55秒はエリを連れて逃げるだけで精一杯。

 

 情けない。

 戦闘の基本事項。守るか、攻めるか。中途半端にやった結果がこれだ。

 

「───ヒーロー、エリを連れて一旦引いてくれ」

 

「……!?何を言ってるんだ、俺が君たちを!」

 

 ボロボロのヒーローが叫ぶ。

 ……まあ、そうなるよな。

 どこに一般人に逃されるヒーローがいるのか。

 それも相手がオーバーホールとなると、彼が引きたがらないのも納得する。怪我をしても苦しむ人を助ける。それがヒーローだと、僕だって分かっている。

 ただ、その怪我でなおかつ『個性』が使えないとなると、まだ僕の方がマシだ。

 

「いや、十分だ。アイツ相手に僕が『巻き戻される』までの時間を稼いでくれた」

 

「でも……!」

 

「『個性』使えないんだろ?

 なら今の最優先事項は、エリを連れて安全を確保することだ。

 まずはエリを、頼む」

 

「……それでも、俺は!」

 

 瞬間、地面が震える。

 コンクリートの刃が、三人の生命活動を停止させんと音速で迫る。その程度は分かっている。ヤツは遠慮などしない。

 それを、コンクリートを『上書き』して作る壁でやり過ごす。

 ……何十と重ねているとはいえ長くは持たない。ヤツに分解されるまで30秒もない。

 

「ヒーロー、無理なお願いだとは分かってるんだ。

 けど、信じてほしい」

 

「………」

 

「エリと約束したんだ。一緒に逃げるって」

 

 だから頼む、とヒーローにもう一度言う。

 彼からしたら荒唐無稽だろう。ヒーローでも勝てない相手に、大丈夫と宣言する一般人なんていない。

 そもそも、さっきまで致命傷を負っていた人間が立っているのがまずおかしい。彼が僕を信用できないのも判る。

 

 ……それでも、信じてもらうしかない。

 いくら無理があって、信じられなくて、不可能だとしても。僕はエリと約束したのだから。

 

「だからあとは、兄の務めだ」

 

 それは、思い出の残滓。

 それは、かつての約束。

 それは、無意味な虚像。

 

 僕とエリの関係はそのくらい脆弱で不安定だ。

 エリは出生が明らかだけど、僕は孤児だったのを拾われただけ。

 血縁として僕に妹はいなければ、エリに兄もいない。

 家族を失い、自由を失い、幸福を失った。

 

 ここに在るのは偽物の家族で、ただの真似事にすぎない。そう言われても反論はできない。

 けれど僕は、エリにお兄ちゃんと呼ばれたのだから。

 それだけでいい。それだけあれば、僕は十分。だって兄が妹を守るのは当たり前のことだ。

 

「……お兄ちゃん」

 

「エリ、そのヒーローの『巻き戻し』、出来そうか?」

 

「……ううん。たぶんできない」

 

「エネルギー切れ、か……まあ僕を巻き戻してくれたんだ、十分だよ」

 

「まって、エリちゃんが『巻き戻し』?君は───」

 

 戸惑うヒーローをよそに、焦っている思考をまとめる。

 エリの『巻き戻し』は何かしらのエネルギーを使う。エリはさっき僕に使ったから、これ以上の巻き戻しは出来ない。

 

 ヒーローの怪我と個性が巻き戻せるなら、正直ヤツにも勝てる。

 けれど、巻き戻せないなら僕一人でやるしかない。

 

「悪いけど説明の時間は無いんだ。ヒーロー、とりあえずエリは任せる!出口は僕が作っといた!」

 

「けど……俺は……!」

 

 ヒーローが歯を噛み締める。

 彼は聡明だ。エリを救うには、僕の案が一番理に適っていることも、自分の体ではヤツに勝てないということも分かっている。

 それでも認められないのは、一度エリを救い損ねたことからくる罪悪感、あるいは無力感……といったところか。

 僕に言わせれば、まったくの的外れだ。

 個性を消されても僕らを守った。その事実だけで彼は間違いなく、僕とエリのヒーローなのだから。

 

「ヒーロー、このままだと三人死ぬ!」

 

 がむしゃらに言う。

 端的に、簡潔に。彼も判っているだろう事実を何も考えず叫んだ。

 それが、どんな決め手になったのか判らない。

 ただ彼は僕のその叫びに、何かを決心したように顔を上げて。

 

「っ……すぐに増援のプロヒーローたちを呼んで来る!それまで頑張って!

 エリちゃん、こっちだ」

 

「えっ……」

 

「オーケー、そりゃ心強い。エリをよろしく」

 

「すぐに戻ってくる!」

 

「お兄ちゃん!」

 

 声とともに、駆けていく足音が遠くなっていく。赤色のマントが、視界の端に消えていくのが分かった。

 ヒーローとエリが、僕の上書きした穴から部屋の外に出たのだろう。

 最後まで迷っていた彼の顔を思い浮かべて、いいヒーローだと、そう思った。

 自分の状況を把握して、最善の選択をとり、最高を予測する。それが出来る人間が、どれだけ少ないか。彼にならエリを任せても問題ない。

 上書きしたばかりの臓器に慣れない感触を覚えながら、僕はヤツのいるだろう壁に向き直り、

 

「話は終わりか」

 

 一瞬で、その壁が分解された。

 マジか。予想よりも3秒速い。

 冷静に考えれば当たり前だ。『融合』の恩恵が、単に『分解』の速度を二倍にする程度のはずがない。それは、二つの生命を一つに融合することと同義なのだから。

 それを考慮しても、ヤツも融合した身体に慣れてきている。 

 分解も修復も、その速度は1分前までよりも数段速い。

 

「危ないな。感動の別れだったんだ、空気読んで待っててくれ」

 

「抜かせ……チッ、逃げられたか。お前を置いていくことはないと思ったが」

 

「説得に疲れたよ。

 ヒーローの方が正しいからな、僕を置いていくのは最後まで反対してた」

 

「……?ああ、いや違う。壊理の方だ。壊理がお前から離れるとは……いや、妹よりも自分が犠牲になることを選ぶとんだ兄バカのせい、か?」

 

「アンタに言われると腹立つな、その誉め言葉」

 

 上書きしたばかりの体に血を巡らせる。

 ……全く。エリがギリギリまで意識の巻き戻しを続けてくれなかったら、個性の発動さえ間に合わずに死んでいた。

 緊急で『上書き』したのは、自分の身体の最低限の復元と痛覚のシャットダウン。

 

 代償は大きい。

 

 残り(・・)は六割、といったところか。

 今の僕は、助けに来たヒーローの姿も、目の前の敵の名前でさえもおぼろげだ。

 

「それで、続けるか?■■■■■■■(オーバーホール)?」

 

「……そうだな、貴様を無力化するのもいいが」

 

 挑発に、敵が腰を落とす。四本の腕が地面に触れる。さっきまで避け続けていた、あの刃の嵐がまた来る。

 

 ──意識を集中させろ。

 

 エリは大丈夫だ。ヒーローがちゃんと抱きしめたのは確認した。

 エリは今、この地下で最も安全な状態にある。

 

 意識を向けるべきはヤツだ。ヤツは殺す気で来る。殺して修復すれば再利用、修復せずともエリを代わりにできるだろう。

 素のスペック、個性の扱いではまず勝てない。

 思い出せ。コンクリートの刃が発生には僅かな隙間(ラグ)がある。狙うのはその一点。 

 

「──────」

 

 こちらの覚悟を感じ取ったのか。ヤツは自信から溢れる鉄塊の刃を一点に集中させ、

 

「お前は、邪魔だ」

 

 地面に走る弾丸のように、高密度の棘を展開してくる……!

 

「────っ!」

 

 行うのは筋力の上書き。

 ヤツは、僕を殺す気だ。さっきまでのような加減はない。

 

「エリに邪魔なのは、アンタだ!」

 

 生身の身体を使って致死を避ける。

 感覚と神経を強化する必要はない。そのリソースはまだとっておく。ヒトとて野生の獣。その程度の動体視力はとうの昔に備わっている。 

 

「っ────!」

 

 大量の演算。頭痛が脳を締め上げる。

 コンクリートの大質量、その一つ一つの棘が致命傷。無我夢中のまま、(カメラ)焦点(ピント)をソレに合わせる。

 僕の個性が"上書き(オーバーライト)"だというのなら。

 

 繰り出される攻撃の先を、

 自分自身の慣性を、

 迫り来る死の運命を、

 僕に攻撃が当たるその寸前で上書きする……!

 

「─────っ、はっ!」

 

 数秒の後、息を吐く。首がつながっていることにひどく驚く自分がいた。

 個性が人間の次代だと言ったのは誰だったか。その言葉の通りなら……コイツは、生物としてのレベルが違う。僕を形なす細胞全てが、全力で『逃げろ』と警鐘を鳴らしている。攻撃を掻い潜りながら接近するのは不可能だ。この数秒の攻撃を、僕は避けることしかできなかった。

 

「──随分と、殺意が高いな」

 

「……当然だ。お前の危険性は、この俺が一番よく知っている。殺す気でいなければ捕らえることなど出来はしない」

 

「……『よく知ってる』、か。例えば?」

 

「お前は今の攻撃で、三回死んだ筈だ」

 

「はっ、そりゃそうか。ずっと分解してきたんだ──知らないわけがないか」

 

「そしてその個性……上書き(オーバーライト)の限界はもうすぐだ」

 

「………」

 

 ヤツが勝ち誇ったように言う。その事実に、思わず舌打ちを打った。

 

 分かっている。

 

 上書き(オーバーライト)

 物理法則を捻じ曲げ、人間の限界を越え、世界の(ことわり)(そむ)く個性。ヤツの『■■■■■■■(オーバーホール)』にも代償があるように、この個性は使うだけで使用者の命と意識を削る。

 

 首元に一筋、汗がつたった。

 それが恐怖によるものだと認識する前に、思考をシフトする。

 恐怖を覚えている暇なんてない。

 

 ……分かっている。

 今の攻防だけで、僕は三度(・・)は死んでいた。今生きているのはただ、その三度全てを上書きしたからに過ぎない。そしてそれがもうほとんど使えないということを、僕は知っている。

 

「時間は稼がれるが、今ならまだ間に合う。 

 お前の利用はやめだ、乖理(かいり)。お前は、ここで殺す」

 

「……それで、エリを使うのか」

 

「ああ。お前よりも、まだ壊理の方が使いやすい」

 

「させると思うか、僕が」

 

「いや。だから、ここで殺す」

 

 ヤツが手を地面につける。

 

 それだけで、周囲にある何トンものコンクリートが僕を殺す武器になる。それだけじゃない。さっきのはあくまで確認。『僕に戦う意志があるかどうか』を、殺意を以って確認しただけ。ヤツは今度こそ、あの腕をフルに駆使して僕を殺すだろう。

 一瞬、数秒後の死を幻視する。予測できるだけでも二十通り。

 

 恐ろしい。 

 ヤツの個性は使い方が多い。

 攻撃の方法、防御の種類、個性の応用。

 それら全てが一級品で、その全てを計り知ることは、僕にはできない。

 

 ──けれど。

   それは、ヤツにとっても同じこと。

   ヤツはまだ、僕の個性全てを理解していない。

 

「─────」

 

 目を閉じる。

 まだ、勝ち筋はある。

 左腕、残っている方の手で拳を握る。ぎゅっと力を込める指の先に、生ぬるい血の感触がする。

 

 関係ない。

 あとは目を開いてヤツを見るだけ。

   /この拳を解くだけ。

 

 それだけで、分解されるときの何十倍もの、予想もつかない痛みがやってくる。

 

『もう限界です。衰弱がひどい。

 これでは、材料を取るのにも時間がかかります。

 個性因子の活動も消極化しています』

『……そろそろ、分解(リセット)か。

 コイツの個性はまるでろうそくの火だな』

 

 ヤツは個性をろうそくの火だと言った。僕の命はそれを保たせる芯だと。

 ろうそくの芯は、火がつけば削れていく。芯が消えるのが一分後か一日後かは判らない。ただ確実に判るのは、火を消さなければ芯が跡形もなく消えていくということ。

 

 ──舌が乾く。

 

 覚悟したところで恐怖心は消え去らない。不安で不安で叫び出したくなる。

 

 ──正気でいられるか、と。

 

 僕は僕自身が怖くて怖くてたまらない。

 

 自分が死ぬのなんて当然だ。

 このまま何もしなくても、僕は一方的に『分解』される。

 それなら、僅かでも可能性のある方に賭けるだけ。そんなことは分かっている。

 僕が怖いのは、別のこと。

 この身体が動く間に、僕の記憶(こころ)が壊れないか。

 

「は─────あ」

 

 あの痛みに耐えられたとしても。

 これ以上の『上書き』は、文字通り自分自身を代償にするだろう。

 

 ヤツもヒーローも、自分もエリさえも判らなくなってしまうのか。

 エリに守るといった約束さえも、忘れてしまうのか。

 

 それが怖かった。その一点が何よりも怖かった。だから、個性の使用を躊躇った。理論上可能だとしても、個性を頻繁に使うのは死ぬ直前になっても封じるべきだと思っていた。

 その傲慢さがゆえに、僕は一度コイツに殺されたんだ。

 

 けれど、今は違う。

 僕の後ろには守るべき妹がいて、エリと僕を守るために『個性』を失ったヒーローもいる。

 ここで死ねば、全員死ぬ。

 

 ──ならば。

   これ以上の命の使い道が、一体どこにある。

 

 

「─────ふう」

 

 

 拳を解く。目を開けて視界に映る全てを()る。

 削る。削る。削る。

 自分を削る。意識(じぶん)を削る。(じぶん)を削る。

 

 視界の端で、コンクリートが刃に変化するのを捉えた。

 

 ヤツは一つ正しいことを言った。僕の個性の限界は近い。ろうそくの残り火はほとんどない。

 

 ──けれど。

 

 

まだ火は燃えている。

 

 

「が、      」

 

 意識(じぶん)が四割まで減る。

 多くの名前が失われた。多くのものが彼方へと過ぎ去った。その中に、自分の名前さえ含まれていた。

──どうでもいい。

 

 

ろうそくの火が激しく燃える。

芯の残りが減っていく。

 

 

「─────」

 

 自分は残り三割。

 己を置き去りにして思考を回す。

 広げろ。広げろ。広げろ。

 解釈を広げろ。

 この個性は『上書き(オーバーライト)』。なら、この個性はヤツのできることより数段強力だ。ヤツに劣っていたのは、自分の解釈が足りなかったから。もっと出来ることがある。

 

 事象を上書きした。

 物理法則を上書きした。

 身体能力を上書きした。

 

 されど、これは限界ではない。

 

 

火が灯る。

僕という蝋が溶けていく。

 

 

「貴様は、俺に勝つつもりか?」

 

 ヤツの個性が発動する。視界が棘に満たされる。コンクリートの刃が体を串刺しにするまで、一秒にも満たない。

──どうでもいい。

このまま脳を串刺しにされても、

僕は絶対に気がつかない。

 

 

ろうそくの芯が瞬間の後に溶けていく。

そのイメージが、明確に脳裏をよぎる。

 

 

「思い上がるなよ、ヒーロー気取り」

 

 左腕が『分解』する。おびただしい量の血が左肩を伝う。コンクリートの刃を壁にして目を引きつけた隙に、敵の腕は自分に接近していた。

──そんなことは、本当にどうでもいい。

 

 ろうそくの芯はほとんどない。

 だけど、火は。

 

 

 

 

──火は、これ以上ないほど激しく(もえ)ている。

 

 

 

 

上書き(オーバーライト)──対象、両腕」

 

 失われた腕が再生する。『腕がある』という状況を、この瞬間に上書きする。

 動くのは一瞬。

 

「なにっ……!」

 

 今から行うのは自分の限界。

 惜しげもなく個性を使う、その先はない最期の攻防。

 なら、後はどうなってもいい。

 

「───貴様っ!」

 

 二組の両腕(・・)がこちらに向く。触れれば最後『分解』する致死の腕が目の前に迫る。

 それに向かって、自分から突き進む。

 

 上書き(オーバーライト)───

 

 ──対象、視神経、平衡感覚、身体能力。

 

 およそ人間らしからぬ反応速度で腕を回避し敵に肉薄する。普通なら強化した反応には身体が追いつかない。なら、それを補えるように身体能力を上書きするだけのこと。

 

「──クソ」

 

 憎しみに燃える瞳に、最高威力の蹴りを放つ。

 限界の身体強化、その上書き。

 この個性は『上書き』であって『書き換え』では無い。対象にもよるが、上書きされる前の状態がどこかに保存される。これもそのうちの一つ。つまり、身体強化を追加で重ねることができるということ。いかな人間であろうと、この蹴りを肉体で受けることは不可能だ。首元に迫るそれは、一瞬ののちに敵の頭を吹き飛ばすだろう。

 

 それを、

 

「───う、おおお!」

 

 咆哮とともにコンクリートの壁を作ることで、敵は防いだ。

 振り抜いて壊した壁の先、敵の姿は無い。 

 

 ──後ろ。

 

 そう悟ったのは一瞬。

 正面と側面はコンクリートの刃の群れ。背後は『分解』をもたらす腕。手詰まりだ。1秒の後に、僕はヤツの中で分解される。

 身体強化を経た攻撃が生み出した隙を打ち消したところで逃げられない。

 

上書き(オーバーライト)、対象、」

 

 死の(かいな)が命を捉える。避けられない、必中の『分解』。身体が崩れていくのを実感する。それだけでヤツの勝利は確定する。だというのに、敵はそれでも足りないと思ったのか、周囲のコンクリートを全て刃に変え、()()()()そのものを変動させた。僕が抜け出すことを想定したうえでの二段構え。勝利への執着が恐ろしいほど強く、慎重だ。

 

 だから。それを利用するしか、勝ち筋はない。

 

「──対象、事象」

 

 コンクリートが崩れていく。無理な『分解』と『修復』による土地の歪みに、この地形が耐えられないでいる。あと数分もすれば、この地下道もろとも崩れ去るだろう。敵にとっては『分解』で対処できるからどうでもいい。

 

 どうでもいい、はずだった。

 

 コンクリートの瓦礫の中、ヤツは視認したハズだ。

 指の先で確かに触れ、コンクリートで串刺しにしたはずの"脅威"が、どこにも見当たらないことを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 崩れ去る地下道を前にして、オーバーホールは思考を回していた。

 

「─────、ハ」

 

 敵の狙いは明白だ。

 このコンクリートの土砂は、何も彼自身の個性だけが原因では無い。

 敵が行ったのは、事象の上書き。

 敵は、『この地下道が崩れ去る』という事象を上書きした。通常なら、『上書き』に至るまでの演算処理に、莫大な脳のリソースを割く必要がある。今の敵にそんな余裕はない。それができたのは、きっとオーバーホールによってこの地下道がいつ崩れてもおかしくない状況になっていたからだ。敵が何もしなくても、あと数分でこの地下道は崩れ去っただろう。

 

 敵が行ったのは、ギリギリで耐えていた地盤を少しだけ後押しした程度にすぎない。

 

 この土砂が攻撃?否。

 この土砂を盾にして、あの敵は接近してくる。

 敵の武器は身体だ。この土砂はあくまで近づく手段に過ぎない。土砂を上書きで消してこちらの間合いに踏み込んでくるだろう。

 

「バカめ───!」

 

 それでは手ぬるい(・・・・)と読みながら、両腕を降り注ぐ質量に当て『分解』する。

 まるで何もなかったかのように消え去る瓦礫。

 それでは足りない。今分解したのは己の正面、及び上から降る特に大きな瓦礫のみ。

 これは自身の安全を確保しただけの一撃だ。そんな一撃をあの"敵"が被弾するはずがない。

 必ず来る。何を犠牲にしようとやって来る。

 

「だが────」

 

 悲しいかな、それがあの敵の限界だ。

 あの粗削りの個性では、この瓦礫の雨をくぐり抜けることはできても、こちらに接近することはできても、自分に触れられればそれだけでゲームオーバーだ。

 

 姿さえ見れば、あのような不意打ちは二度と───

 

「──────」

 

 彼の両目が見開かれる。

 

 ない。

 その姿が、走り去る影が、敵の気配が、微塵もない。

 瓦礫に呑まれて死んだか、最初に触れた時にすでに『分解』しきれていたか。まさか。あの敵にかぎってそんなことはない、と己を責める。

 何より背筋には、より強い敗北の悪寒が走っている。

 

 僅か1秒。彼の思考は敵から離れた。

 接近して来るのは明白だ。

 索敵できないというのなら、前提が間違えている、

 

 この土砂は盾として使われると彼は読んだ。

 だが、それが盾ではないとしたら──。

 

「──足場(・・)か!」

 

 空を仰ぐ。

 天井は円状に抜け、巨大な穴から太陽の光が地下道に差し込んでいる。

 ()の敵は太陽を背に。

 『分解』したはずの、見慣れた少年が降下していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──個性『上書き(オーバーライト)』。

 

 

 

 事象を上書きし、

 物理法則を上書きし、

 身体能力を上書きし、

 失った腕さえも上書きした。

 

 けれど、まだだ。

 まだこの個性にはできることがあった。

 

 自身の座標の上書き。

 それが、僕の解釈の果て。自分自身の存在座標を、降り続ける瓦礫の一つ、その座標に上書きする限定的なテレポート。

 

 結果としてその瓦礫の一片は消え、そこには僕という人間の存在が上書きされる。

 

 その先は、地下30メートルの上空。

 アレはただ地下道を崩壊させたわけじゃない。アレは崩落ではなく、大地の隆起だ。鉄塊の瓦礫は、下だけではなく上方向にも吹き飛んだ。その上空に飛んだ瓦礫の一つを()て、僕は座標を上書きした。

 

 今この瞬間、僕とヤツは高さを除けば同じ座標上に存在する。

 穿たれた穴の向こう、30メートル下の地下で、僕の真下に降るコンクリートと土砂が分解されたのを確認した。

 

 ヤツにとっても僕にとっても、このコンマ数秒が最期の空白。

 辞めるならここだ。逃げてヒーローに任せる選択を取るラストチャンスだ。

 成功すれば、僕という人間は居なくなる。

 何より僕自身が、既に自分のことが分からない。

 

 ───構わない。

    全てを忘れても、ヤツを倒すことだけは。

 

「──────」

 

 ヤツの目がこちらを向いた。

 僅か1秒の索敵。

 その洞察力、判断力には敬意を払うが、1秒ではあまりにも遅すぎる。

 

 ヤツの分解によって失ったのは左腕だけ。上々。

 ならやれる(・・・・・)

 

「───さて」

 

 生存率の波を測る。『上書き』を使えるのはあと三度だけ。

 ヤツに辿り着くまでのルートを考える。本当なら、人間の落下にルートなんてあるはずがない。

 けれど、僕の個性は『上書き』だ。物理法則の一つや二つ、知ったことじゃない。

 

「─────」

 

 ルートは決まった。

 僅か2秒、30メートルの自由落下による一方通行。

 

 

 

 

「───勝負だ、クソ野郎」

 

 

 

 

 自分の少し上、空中で降下する瓦礫を蹴り出す。自由落下より速い、初速度のついた加速度運動。

 一呼吸で終わる、命綱無しのバンジージャンプ。

 思考を極限まで研ぎ澄ます。けれど思考速度をいくら『上書き』したところで限界はある。

 落下から地面に衝突するまでの2秒、思考は最低限の二点にのみ集中する。

 

 2秒間のうち、一瞬一瞬が致命。一手一手が死に届く。

 

 その中でも、特に生存率が低い地点は二ヶ所。

 そこ以外の生存率は一割程度だろう。それについては考慮しない。一割もあるのなら十分だ。

 問題なのは生存率が0%以下(ゼロアンダー)の地点。上書きしたこの身体の性能でも、どうあっても死しか存在しない瞬間。

 そこに『上書き』を使い、0%を1%に引き上げる。

 

 上書きできる回数は三回。

 ルート上で使うのは二回。

 最後の地点は既に決めている。

 ヤツは僕を分解できる。落下に身を任せて迫り来る一人の人間を分解するだけの性能を、ヤツは持っている。だから、最後の『上書き』を使うのはその地点。

 

 0%以下の地点が二ヶ所に留まらない可能性は捨てきれない。

 けど、それは無視する。四回も『上書き』を使う余力が僕には無い。その時はヤツの勝ちだ。ヤツの異常性が、僕の想像を上回っているだけの話。

 

 降下───10メートル。

 

 一つめの致命地点(ゼロアンダー)

 この辺りは、地上と地下の境目だ。崩れ去る瓦礫が、崩れていない周囲のコンクリートが、ヤツの四本の腕が、僕を消さんと殺到する。

 

「──上書き(オーバーライト)

 

 慣性の抑揚、

 全身の筋力の微調整、

 体幹の急ブレーキと身体の回転。

 

 人間には到底不可能な運動を、自身を『上書き』することで乗り切る。本来なら落下で変わらない軌道を、ヤツの攻撃を避けるために『見て』から変える……!

 

「は─────あっ!」

 

 死がこめかみを掠めていく。

 真横を過ぎていく鉄塊を認識する。

 あと数ミリで串刺しになる棘を越える。

 目の先をギリギリで通過するヤツの腕が見える。

 0%の賭けを超えた。

 

 残り1秒、もう一つ。

 ───3メートル。手を伸ばせば届く距離。本当ならば、まださっきよりも確率は上げやすいはずだった。

 

 だが。

 

「───死ね!」

 

 ここにきてもなお、ヤツは攻撃の手を緩めてはいなかった。

 

 二つめの致命地点(ゼロアンダー)

 ここは四本の腕が届く攻撃範囲。部屋に入った虫を潰すように、容赦なく四方の視界が塞がれる。

 慣性と重力を上書きするには時間も演算の余裕もない。自分自身の能力ならばともかく、事象を上書きするための脳のリソースはとっくに底を尽きている。その冷静さに戦慄する。

 

 化け物だ。

 

 一度目の致命地点を乗り越えてからこの瞬間までは半秒にも満たない。僕に避けられたのを見てからでは間に合わない。ヤツは、アレを僕が乗り越えると予測していたというのか。この土壇場で。僕のような反則相手に。加えて、僕の個性を塞ぐために視界を覆うという極悪さ。

 

 これを化け物と言わず何と呼ぶ。

 ───だが。

 

上書き(オーバーライト)───対象、座標」

 

 化け物でなければ、布石を打った意味がない……!

 

「なっ……!?」

 

 敵の目が驚愕に見開かれる。

 当然だ、握りつぶすはずだった(なかみ)が消え、背後に人の気配を感じたのだから。

 

 座標の上書き(オーバーライト)

 

 上書きした先は、ヤツの真後ろに落ちていた瓦礫の一片。上空から降下しながら視た、ルートの転換点(ポイント)。その座標を、残り1秒の時点で僕は記憶していた。つまり今、僕は最も無防備なヤツの背中をとっている。言うまでもない、ヤツの持っていた予測のアドバンテージは一瞬にして瓦解した。

 

「───っ!」

 

 ヤツの背後から降り抜く脚。もはや必中。回避も防御もありえないとどめの一撃。

 それを、

 

「舐めるな……!」

 

 神業めいた反応速度を以て、コンクリートの壁が阻んだ。知覚するよりも早く、人間の域を超えた足蹴りが何重にも重なるコンクリートを粉砕する。

 

「──────」

 

 時間が凍り付く。

 1秒に満たない刹那、互いの状態を確認する。

 

 僕は限界だ。

 この2秒のうちに連続した個性の使用で、思考どころか立っていることさえままならない。これ以上はない無防備を、愚かにもヤツにさらけ出している。ルートは終着点。これ以上の策はない。ここに、万策は尽きた。

 

 敵は───

 

「───は、あ」

 

 敵は、健在だった。

 

「貴様……!」

 

「が、あっ………!」

 

 腹ごと身体を握られる。

 四本のうち一本が、容赦なく僕の体をつかみ上げる。それだけでこの身体が砕けているのか、めぎめぎっ!と骨がきしむ音がする。

 玩具をいじっているような感覚なのか、その音に呻くとヤツは手にさらに力を込めた。

 数秒後には、残り三本も加えて手のひらで分解ショーが行われるだろう。

 

「──────」

 

「ここまでだ、乖理(かいり)

 

 息苦しさでもはや何も言えない僕に、ヤツが言う。

 どこまでも憎しみを込めた、人情のかけらもない声を最後に意識が消えていく。触れるだけでなく掴み上げるのは、僕を苦しませるためか。

 単純なことだ。僕は負け、ヤツが勝った。三つめの致死点を超えられなかっただけの話。

 あきらめるには十分な理由だ。ここですべてを失っても、きっと誰も僕を覚えていない。

 

 ろうそくの火が今にも消える。

 ろうが最後の一滴になるまで溶ける。

 そのイメージが、明確に浮かぶ。

 

 ただ。

 とっくの昔に、忘れてしまったことが。

 もう過ぎ去って覚えていないことが。

 それだけが、何故か心でしこりになって残っている。

 それだけが、この火を未だに灯している。

 

 どうしてコイツがこんな声を出すのか、僕には判らない。

 なんのために戦っているのか、僕は忘れてしまった。

 それを知る必要は、きっと無い。

 

 けれど。

 

 ───"■兄■■ん!"

 

 アレは、誰だったか。

 もう誰の名前も声も記憶も砕けて消えたのに、あの声だけは、まだ。

 

 ───"約束。"

 

 あの声だけが、僕に『生きろ』と叫んでいる……!

 

「──────」

 

 思考をクリアにする。

 自分の意識が朦朧としている中でも、本能は目標を探していた。

 探して、探して、探して。

 いつかの記憶を頼りにショートカットをして探して。

 とっくに限界を訴える脳は、その極限で光を捉えた。

 

 ───見つけた。

 これこそが、三つめ(さいご)致死地点(ゼロアンダー)

 

「──上書き(オーバーライト)、」

 

「? なぜまだ分解していない……」

 

「たい、しょう、……個性(・・)

 

「───っ、チッ、貴様!」

 

 声が出ない。喉がつぶれている。呼吸器官はボロボロでまともに機能しない。それでも、最後の土産に叫んでやる。ヤツの敗北だと僕自身が告げてやる。

 ……意味のない、意地の悪い趣向返しだ。声がボロボロでわからなかったのか、油断したのか。ともかく、ヤツは反応が遅れた。

 ヤツが焦ったように四本の腕で直接僕の命を刈り取りに来る。

 だがもう遅い。

 

 個性『上書き(オーバーライト)』。

 

 上書きの条件は、対象と触れること。

 さっきから不思議だった。なぜヤツは、僕の腕だけを分解するのか。どうせなら、身体すべてを分解してしまえばいいのに、と。

 

 勘違いしていた。

 ヤツが腕だけ分解していたのではなく、僕が()()()()()()()のだ。ヤツに何度分解されたことか。今までの経験は、覚えていなくてもこの身体に蓄積されている。ヤツが触れるのが一瞬でも、それが10年と続けば、嫌でも慣れる(・・・)

 

 ───だからその一瞬だけで、分解の対象を()()()()()()()()()くらいの事象の上書きは無意識のうちにやっていた。

 

 その一瞬が、このように締め上げる1秒ともなれば。

 今までの10年に渡る経験を引き出して個性を()るには、それだけで十分すぎる。

 

 つまり。

 今この瞬間、僕はヤツの『■■■■■■■』を『無個性』に上書きできるということ……!

 

「───個性が」

 

「つかえないか?よかっ、たよ」

 

「何をした……いや、聞くまでもない。個性の上書きか。俺が利用し続けてきたことを、ようやくお前は使ったわけか」

 

「………ああ、コレ、が」

 

「お前が(ことわり)(そむ)くというなら、壊理は理を壊す!

 なぜ邪魔をする?お前と俺さえいれば、この世界を変えられたと言うのに。

 ──貴様も、ヒーローと同じ病原菌か」

 

「……それなら、アンタだっておなじ、だ」

 

「俺と、貴様……ああ、もう違う。もう貴様はいい。

 俺と壊理で理を壊してやろう、これから。

 ヒーロー社会は変わる、俺たちが裏社会を支配する!」

 

「……バカか、アンタ。もう『無個性』だ。

 諦めろよ、クソが」

 

「貴様ぁ……!」

 

 どこまでも憎悪に満ちた言葉を吐くヤツの体が崩れていく。『■■■■■■■』の応用で使用した『融合』も、僕の個性で『無かったこと』になる。

 

「───が、─っ!」

 

 人間離れした四本の腕で締め上げられる。ヤツが最後の力を振り絞ったのか、肋骨あたりが砕けるような音がした。これが続けば、さながら虫のように、僕という人間なんて『個性』関係なく潰れるだろう。

 ただ、体が崩れかけているからか、さっきのに比べれば力が弱い。

 

 拘束から無理やり抜け出した右腕を振り上げる。

 無意識に分解の対象を上書きしていたからか、内臓も下半身もボロボロで、殴る支えになんてなりやしない。そもそもヤツに掴まれて地面から浮いている今、その役割はもとより無い。

 だから、残していた上半身だけを使う。

 背筋を使った運動エネルギーの伝達。技術も何もない、本能に任せた単調な動き。背中を反ってから、その返し。身体をバネみたいにしならせる。既に『上書き』された全身の筋力を以て、僕は。

 

「────僕の、勝ちだ」

 

 最期にその悪趣味なマスク目掛けて、思い切り拳を振り抜いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヤツの腕から解放される。

 どさり、とネジの切れたゼンマイ人形のように地に落ちたのを他人事のように思った。

 地面が冷たくて気持ちがいい。

 視界の中で、崩壊したコンクリートの地面に血溜まりが広がっていくのが分かる。

 もう動けないとどこか頭の冷静な部分が危険信号を出している。左肩からの出血は酷く、自分の内臓も骨もボロボロだ。下半身が付いているのかも今の僕には判らない。

 

「が、はっ……」

 

 吐いた血が、水溜りみたいに広がっていく。

 体が急激に凍り付いていくような感覚。燃やせる熱量(カロリー)は底をつき、感じるのはただ(かじか)むような寒さと途方もない痛みだけ。

 どこかで聞いた。僕の個性はろうそくのようだと。だとしたら、そのろうそくの火は、とっくにその暖を消していた。

 

 最後の個性の使用。

 他者の『個性』を上書きする。そのためには、あの光を視る必要がある。

 光───あれは、『個性』の起源。

 ヤツが言っていた『個性因子』、その根源。

 

 人間(ヒト)という種が目で見ていい領域の外にある、個性(げんかい)を越えたその先。

 『個性』を拡大解釈した結果だ。アレは、二度とはない切り札。

 残り二割のじぶんが、一瞬にして消え去った。

 もしどれだけろうそくの芯が残っていたとしても、アレを視れば全てが一瞬にして削り去る。

 それが、奇蹟の代償だった。

 心臓の鼓動が遠くなる。

 

「──────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────あ」

 

 ブレーカーが落ちる。

 脳の電気信号の伝達がストップする。

 

 自己が(くず)れる。

 いしきが崩れる。

 こころがくずれる。

 

 とける。なにもかも、無感動にとけていく。

 

 どうしてこうなったのか。

 なんのためにこうなったのか。

 あのこえはだれのものだったのか。

 ぼくはなにをしたのか。

 あれはだれだったのか。

 ここはどこなのか。

 

 もう何もかも、僕には判らなかった。

 ただ。

 消えていく視界の中、滲み出すこびりつくような赤色だけが、今の僕には痛いほどに温かかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 *******

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 幸福な夢を見ているようだった。

 

 少年のいない部屋。

 ベッドにぽつんと座りがら、一人の少女が兄の帰りを待っている。

 毎日のように治崎に連れられて、怪我をして帰ってくる兄に、壊理は少なからず不安を覚えていた。

 

『アンタには今まで通り従う……その代わり、エリを使うな』

 

 壊理が引き取られてから、一週間ほど経った時。

 壊理が偶然聞き、少年が治崎に放った言葉は、そういう旨のものだった。

 

『あー、アイツか?結構前に若頭が拾ってきてよォ』

『最近やけに元気になったよな』

『若頭の恩をようやく思い出したんじゃねえか?』

 

 懐かしいことを、思い出した。

 

『人形みたいでよ、はい、はいとしか言わねえの』

『なーんか、生きてるのか死んでるのか分からんかったな』

『アイツが自分から喋ったことなんてねえよ』

 

 かつて聞いた『兄』の評判に、壊理は息が苦しくなった。

 ときどき、少年はそういう(・・・・)側面を覗かせることがあった。打ちのめされたような、(くら)い瞳の、恐ろしいほどに無感情な顔。

 それが少年のかつての残滓なのだと、壊理は何となく分かっていた。

 けれど、少年はそれを滅多に壊理に見せない。

 基本的には笑って、壊理をこれでもかと甘やかすのが少年だった。

 それがひどく痛ましくて、けれど壊理はそこまでしてくれることが嬉しかった。

 

『僕はさ、そんなにできた人間じゃないんだよ』

 

『昔っから卑屈だった。

 自分に自由はない。

 人と思ってはいけない。

 人じゃないから情を向けられるなんて思わない。

 僕の存在も死にも、なんだって意味はない』

 

『───そう思いながら、昔から生きてきた』

 

 出会ってすぐ。

 壊理がまだ、彼を『お兄ちゃん』と呼んでいない時のこと。

 

『でも、エリのためになら生きたいんだ』

 

『僕は初めてそう思ったんだよ』

 

 少年は、壊理と出会ってから変わったのだろう。

 そのときはなんとも思わなかったけれど、今なら分かる。

 当時の壊理は特別少年に懐いたわけではなかった。

 まだ兄と呼ぶこともなかった。

 けれど初めて出会ってからたった五分で、彼はそう言ったのだ。

 

 家族。或いは、愛。

 

 それをきっと、少年は切望していた。

 それをきっと、壊理は受け入れた。

 

 その渇望が壊理には痛いほどに分かって、

 それを抜いてでも、壊理は少年が好きだった。

 

 壊理は少年をお兄ちゃんと呼んだ。

 本物の家族ではない。

 血のつながりは微塵もない。

 最初は、同じような境遇に共感したからかもしれない。

 それでも、今は違う。壊理は少年が好きで、兄とはこういう人のことを言うのだと、壊理はそう信じていたから。

 

 

『エリ、約束をしよう』

 

 ──やくそく?

 

『そ、約束。破ったらいけないお願いごと。僕はお兄ちゃんだからさ。エリのわがままとか、お願いとか、なんでも約束しよう』

 

 ──じゃあ、もうけがしないでほしい。

 

「ふふっ」

 

 懐かしい。そんなこともあった、と思い出す。

 一年か、二年前。『約束』を一番最初に破ったのは少年で、『約束』を破ったのはその一度きりだった。

 

 ──……お兄ちゃん。

 

『大丈夫、すぐ戻ってくるよ。……約束』

 

 治崎に連れられるたび、彼はそう笑った。

 

 何かあるたびに、少年は約束をした。

 二人で寝る時も。

 二人でご飯を食べる時も。

 二人で未来を描くときも。

 その日、治崎に連れられるときも。

 

 それは約束というよりも、壊理を安心させるための保証みたいだったけれど。

 

 それでもそういうやりとりが、壊理はどうしようもなく好きだった。

 二人の日常がずっと続いていくと思える、その言葉が大切だった。

 

 兄が何をされているのか、壊理は知らない。

 自分がどれだけ守られているのか、壊理は察することしかできない。

 教えてとねだっても、少年はそれだけは教えてくれない。

 それでも。

 帰ってくる、と約束した。

 一緒に遊びに行く、と約束した。

 いつかここから逃げ出す、と約束した。

 だから壊理は、それを信じると約束した。

 

 壊理はため息をついた。

 信じることしかできない自分が悔しい。

 少年を信じられることが嬉しい。

 兄に無理をさせているのか不安になる。

 色んな感情がごちゃ混ぜになって、壊理は枕に頭を投げ出した。

 

 全てを受け入れてくれる少年が、少女はどうしようもなく好きだった。

 無理をしてでも壊理の為にと生きる少年が、少女はただ痛ましかった。

 

「………」

 

 二人とも、家族を失った。

 二人とも、自由を失った。

 二人とも、自分を失った。

 

 運命のような二人だった。

 

「……あっ!」

 

 壊理が、何か察したようにぱっと顔を上げる。

 視線の先、開いた扉の向こうに、いつも通り笑いかける少年がいる。

 その笑顔の裏にどうしようもないほどの痛みを隠していのを見て、壊理は胸をちくりと痛めた。

 

「ただいま、エリ」

 

「おかえり、お兄ちゃん!」

 

 鏡合わせのような二人だった。

 

 人の出会いは千差万別。

 人の数だけ出会いがあり、それだけ多くの関係がある。

 ならきっと。

 

 ──家族になるだけで、互いが救われる関係もある。

 

 二人は全てを失って、一人の家族を得た。

 それは、かつて得るはずだった愛だった。

 それは、欲しくてたまらない願いだった。

 それは、二人が出会う運命だった。

 

 少年が壊理に救われたように、壊理もまた少年に救われていた。

 ……たとえそれを、彼らが知らなくとも。

 壊理にとっても少年にとっても、互いを思いやるその感情が、間違いようもなく幸福だった。

 

 

 

 

 

 

 

 *********

 

 

 

 ──欠けた夢を、見ているようだった。

 

「…や…!嫌だ、お兄ちゃん!」

 

 泣き叫ぶ言葉は消えていく。

 聞き慣れた声が耳朶を打つ。

 手に触れる、淡い感触が懐かしい。 

 

 気がついた時には

 

 温かい涙が

 

 僕の体に降っていて。

 

 ───泣くなよ、■■。

 

 言葉が彼女に届いたのか

 

 それは分からなかった。

 

 





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