なぜならそれはプロットを組んでいないからです。おバカ。
あと此山が暴走したからです。
リョウ先輩は、俺との逃避行がご所望らしい。
……らしかった、のだが。
「いやあの逃避行じゃなかったんですか?」
「逃避行でしょ。ここまで来るのに二時間もかかったし」
「俺んちなんですよ」
「知ってるけど?」
「リョウ先輩との会話ってむずかしー!」
逃避行先に選ばれたのは、神奈川県横浜市金沢区にある此崎さんちのお宅でした。
いや逃避行に誘った相手の家に転がり込むのおかしくないですか? これって逃避行に含まれなくないですか?
……民主主義に則って多数決を取ればきっと含まれないと思うんだが、しかしそんなのはまだしもどうでもいいことで。
荷物が散乱する我が家の一室で、床にあぐらをかいて座り込む俺。
そんな俺が少し視線を上げて見つめるのは、俺のベッドで涅槃像のごとく悠々と横たわっているちょっと洒落た寝巻姿のリョウ先輩である。
俺は、念のための確認をするべく、意を決して口を開いた。
「ときにリョウ先輩」
「なに、此崎」
「マジで泊まるんすか」
「この状況から私が出ていくと思う?」
「いいえ、そう思いません」
「よろしい」
はい。
リョウ先輩と一緒に電車に揺られ、たどり着いたのが我が家の最寄り駅だった時点で「おや?」と思った。
リョウ先輩が我が家へ入るなり「此崎、シャワー浴びたい。後から入るから先に入って」とか言って二人で順番にシャワーを浴びた時点で「あれ?」と思った。
そして、やっぱりそういうことだったらしい。
リョウ先輩は今日、俺んちに宿泊するのだ。
……もとい、さっそく部屋に散乱しているリョウ先輩の私物の数々を鑑みれば、今日明日の一泊で済むわけがない。長期滞在は必至と見える。
しかし、だ。
未婚の年若い男と女が一つ屋根の下で寝食を共にしようなどと、はたしてこんなことが道徳や倫理で許されるだろうかと俺は問いたい。
世間に問うのは怖いので、とりあえず目の前にいる人に問うことにした。
「ところでリョウ先輩」
「なに、此崎」
「交際もしていない男女が一緒に暮らすだなんて、許されることじゃないと思います」
「じゃあ私が許す」
「はい」
許された。
……じゃあ、まぁいっか! 今からリョウ先輩のこと説得して追い出す方が絶対めんどくさいしな!
「ちなみにリョウ先輩」
「なに、此崎」
「明日って平日なんですけど、学校は?」
「行かない」
「スターリーでシフトも入ってますよね」
「行かない」
「……大丈夫ですか?」
「大丈夫」
「……いやあの、学校とかバイトがっていうか、リョウ先輩自身がっていうか」
「大丈夫」
即答。全部即答だ。
……だけれども、リョウ先輩はずっと、なんとなく気のない様子というか、ぼんやり俺のことを見ているばかりだ。鵜吞みにする気にはなれない。
「そんなに行き詰ってます?」
「だから、大丈夫だって」
「…………」
「……でもちょっと、気分転換的な」
無言でじっと見つめると、リョウ先輩はばつが悪そうに視線を逸らしてからぼそっと小さく呟いた。
俺はそれからしばらく黙って、これ見よがしため息を吐く。
「ま、いいですよ。みんなにはカッコつけたいってことですもんね」
「違うけど」
「違くないと思いますけど」
「……此崎、ホント生意気」
「そりゃどうも」
毎月金の無心されてたらこんくらいになるよ。あと給料から返済分を取り立てるとき毎回泣き落とししてこようとするし今んとこ一度たりとも応じてないのに毎月限度額以上の貸し付けを求めて土下座してくるし。
……今更カッコつける意味あるか? などと一瞬思ってしまったが、まぁそれはそれでこれはこれだ。そういうことにしておいてあげよう。
――それに。
「俺、リョウ先輩はカッコいいままでいいと思うんですよ。そのためなら、俺にできることはなんでもしたいんです。結束バンドのマネージャーとして、山田リョウのマネージャーとして、ね」
「此崎……」
俺のこっぱずかしい決め台詞を聞いたリョウ先輩は、相変わらずの涅槃ポーズのままで、慈しむような優しい微笑を浮かべる。
そして――。
「ごめん眠いから寝る」
「ぼんやりしてたの眠かったからですねおやすみなさい」
もう日付変わってるもんね仕方ないね。
♪ ♪ ♪
たぶん、昼。
自然に目が覚めた。
厚手の毛布まどろみの中でもぞもぞと動いてうつ伏せになり、自分の匂いと
不快感はない。それどころか、ずっと顔を埋めていたくなる……だいたい匂い程度すら嫌だったら、とっくに家に帰っているか、そもそもここに来ていない。
「…………」
顔を上げ、寝起きで乾いた目を開けて、私は部屋の中を見渡す……が、探していた
「……あ」
しかしふと、すぐ傍の床に目をやると、ベッドの下に片手片足を突っ込んだような状態で仰向けになって寝ている
……生意気な。
「――天誅」
「――うぶぁっ!? ぐええっ!!」
ごろんとベッドの上で転がり、そのまま重力に引かれて落ちる。
必然、私を無防備に受け止めることになった此崎は醜い断末魔を上げるのだった。
「此崎うるさい……」
「なんっ、な、うぉぇ、何!? いやリョウ先輩、なん……べ、ベッドから落ちたんすか?」
「うん。おはよう」
「あっはいおはようございます……朝? いやもう絶対昼だよな……学校……罪悪感が……」
手近にほっぽられていたスマホを手に取りつつ身体を起こした此崎は、寝癖でぼさぼさの頭を掻きながら何やらぼやいている。
私はその隣で寝転がったまま此崎の背中をぼんやり見つめていた。身長は私と同じか、下手したらちょっと低いくらいのくせに、きちんと男子らしく広い。
……生意気。
「此崎」
「なんっひぃっ!? なん、背中つつーっとすな! なんすか!?」
「ご飯」
「此崎はご飯じゃないですぅ!」
「……だる」
「だるくないですぅ!!」
いやだるいけど、と、しらっとした視線を送ってやったら、此崎はすぐにしょんぼり萎れて「すいませんでしただるかったです」と折れた。
わかればよろしい……と思ったのも束の間、此崎はため息を吐きつつ立ち上がるとまたもや生意気なことに私を跨いで部屋を出ていこうとしたので、抗議の意を込めて此崎の脚に絡みついてやった。……が、危ないからやめなさいと怒られてしまった。
「……ぐぬぬ……」
此崎との同棲を始めて数日。
段々と私のあしらい方が雑になってきているのが、なんか悔しい。
此崎の家に転がり込んだのは、熟考に熟考を重ねた末の決断だった。決して適当な思い付きではない。決して。
曲作りにより一層集中できる環境が欲しかった。
音楽のこと以外、考えたくないことは何一つとして考えずに済む……そんな環境が欲しかったのだ。
最初に思い浮かんだ選択肢は、二つあった。
一つ目は自分の家だ。自分の部屋に引き篭もろうと思ったのだ。けど、身の回りのことを自分でやるのが億劫で、かと言って親に任せたらここぞとばかりに構ってくるだろうから少し考えて却下した。
二つ目は虹夏の家。私の部屋はもちろん私のもので、虹夏の部屋もだいたい私のものだ。世話をしてもらうにも虹夏なら曲作りの邪魔にならないようにしてくれるだろうし、正直一番居心地がいい……けれども、虹夏の家となると引き篭もるわけにはいかなくなる。店長がいるからバイトから逃げられないし、学校にだって虹夏に引き摺られて行くことになっただろう。
つまり、全然ダメだった。どちらかと言えば前者の方が時間は確保できるけど、たぶん過干渉のストレスで家出の計画に勤しむ羽目になったと思う。
次に考えたのは郁代かぼっちの家。
でも、郁代は前に親が公務員で厳しいみたいなこと言ってたから何日も泊めてもらうのは難しそうだし、ぼっちの家は前に虹夏から聞いたのと文化祭のときに挨拶した感じを考えると我が家と同じくらいに干渉がすごそうな気がして、どちらも良いアイデアには思えなかった。
そして、最後に検討したのが此崎の家だった。
此崎は基本一人暮らしで、平気で何か月も親が帰ってこないらしい。集合住宅だったけど壁の厚そうなマンションだったから多少ボリュームに気を付ければベースもたぶん弾けるし、私の身の回りの世話は此崎にやらせればいい。
完璧に条件がそろっていた。これだ、と思った。
……ただ同時に、此崎をいかに説得するかは大きな障壁になると思った。
此崎は、なんだかんだで結構真面目だ。
頭がおかしいとは思うしすぐに女を引っ掛けてくるような男だけど、いざ私が家に泊めてくれと言ったら「未婚の男女が一つ屋根の下で寝食を共にするなんてエッチ! ダメ! エッチなの禁止! 死刑!」みたいなことを言いそうな気がしていた。実際、ちょっと言ってた。
でも、結局のところ、此崎は意外とあっさり認めてくれた。
なし崩し的な感じはあったけど……私たちの、
そう、
なので、此崎には私と同じく学校もバイトも休ませて、私の召使いとして過ごしてもらうことにした。本当はそこまでさせるつもりはなかったけど、此崎の心意気を買うことにしたのだ。
此崎の家に居候することが決まった次の日の朝、此崎が家を出るタイミングで声をかけられたので起こされた腹いせにベッドに引きずり込んでやり、そこから一度逃げられたところをすかさず追いかけて壁ドン顎クイ頭突きのコンボをキメたら目を潤ませて顔を赤らめて従ってくれた。ちょろいぜ。
……で。
そこから始まった此崎との同棲生活は、私が期待していたよりも遥かに快適なものだった。
此崎の部屋を占拠して、私は一日の大半をそこで過ごした。
作曲ソフトが入ったノートPCとにらめっこして、空の五線紙と向き合って、ベースを抱えて弾いてみて。
どうしても手が止まって動かなくなった時は、適当に音楽を流してぼーっとする。
あとは食べる寝る、トイレに行くのとお風呂に入るくらい。他のことは何もしなかった。何もしなくても、此崎がだいたいのことはやってくれたのだ。
此崎は、ずっと余計な干渉をしてこなかった。
でも、ずっとすぐ傍にいた。
単にやることがなかったというのもあると思う。最初の二日間くらいはせっかくの機会だからと家中の掃除をしていたみたいだけど、それが済んでしまってからは私の部屋(旧此崎の部屋)でずっとごろごろしていたから。
私が作業に集中しているときは絶対に話しかけてこないけど、私が行き詰まっているときには見計らったようにちょっかいをかけてきて気を紛らせてくれる。
なんというか……お利口なペットみたいだと思った。此崎のこういう習性は、たぶん、ぼっちと過ごしていて身に付いたものなんだろう。ぼっち、ただでさえ集中力あるけど、此崎はそういう時に邪魔しないように過ごすのが当たり前になってるんだ……と、思う。知らないけど。
あと、此崎の作るご飯が普通においしい。これは重要。
平日に学校に行っていないのを怪しまれると面倒だというのもあるけど、それ以上に外に出るのが面倒臭いので外食という選択肢は初めからなかった。なので、此崎の家にいる間は出前でピザとか寿司とか頼めばいいやと考えていて、もちろん私にはお金がないので奢られる準備は万端だった。
が、毎日そんなんじゃお金がかかりすぎるからと、此崎は当たり前のようにご飯を作ってくれている。しかも、ちゃんとおいしい。虹夏ほどじゃないけど。
……と、まぁそんな感じで。
此崎の家での生活は、何から何まで私にとってまさに理想通り。私がやらされていることと言えば下着の洗濯くらいだ。
……勘違いしないでもらいたいが、私だってわかっている。
異性の、しかも一人暮らしの人間の家に転がり込むなんて、どんなことがあっても文句は言えないだろう。
それでも私が此崎の家で寝泊まりするなんて決断を下したのは、此崎が此崎だからだ。
此崎のことは信用している。
ちょっとしたアクシデントは起こってしまうかもしれないが、万が一にも此崎が
……でも、もしも。
本当にもしも、
それは、私の自業自得で、此崎が相手ならそれで別に構わない……と、そんなふうにぼんやり思っていた。
「……はぁ」
――まぁ現実には、そんな私の覚悟をあざ笑うようになんにも起こっていないのだが。
いや、あくまで覚悟をしているというだけで、本当に
ただ……この数日、あまりにも何もない。
何もなさ過ぎて、段々と腹立ってきた。そんな昼下がり。
「……お腹すいた」
あと、お腹がすいた。お腹がすいて力が出ない。
もはや私には、こうしてリビングのソファで寝転がって余計なことを考えることしかできなかった。腹が減っては作曲できぬ……。
「……お腹すいたー……」
此崎は、買い物に行ってしまった。冷蔵庫の中身が空っぽだったらしい。
とりあえずスーパーに行って食材を買い込みがてらお弁当を買ってきてくれるらしいけど……遅い……。
「――あ」
ぐーぐーと悲しげに鳴くお腹をさすっていると、がちゃん、と玄関の方から鍵の開く音が聞こえた。此崎が帰ってきたのだ。
私は待ちきれずにソファから立ち上がり、のそのそ歩いて此崎を迎えに行く。一刻も早く此崎からお弁当を強奪せねば――。
――と、しかし。
「――え」
「――あら」
玄関にいたのは、スーツ姿の女の人。
見覚えが、ある。
「……こ、此崎の、お母さん……」
「そういう貴女はリョウちゃんね。久しぶり~」
此崎違いだ。
♪ ♪ ♪
「おいおいおいおいなんで母さんおるんじゃい!!!!」
「あ、衣久おかえり。あんた計画的に買い物しなさいよね。リョウちゃん飢え死にするところだったって泣いてたわよ」
「おかえり
「しかもなんかリョウ先輩にさらっと名前呼びされとんなぁ!」
買い物から帰ったら実の母親と居候の先輩がテーブル囲んで雑談してた件。
……いやマジでビビった。思わず買い物袋を取り落とすくらいにはビビった。
数か月に一回顔見るかどうかの人がいきなり家にいる時点でビビるのに、それが穀潰しの先輩と何食わぬ顔で一緒にいたってのが超ビビりポイント。すげぇビビった。
「い、いやいや、母さん、なんで急に……?」
「出先がたまたま横浜だったからたまには帰って来ようかなって。美智代さんからあんたが学校サボってるって聞いて気になったし」
「ぐっ、伝わってんのかい……って、後藤ママには友達の家に泊まってるって言ったはずなんだけど」
「だからびっくりしたわよ。誰もいないと思ってたのにリョウちゃんいたんだもの」
「私もびっくりした」
「でしょうね」
俺もびっくりしたしね。全員びっくりしたからここは三方一両損的な感じでよろしく頼む。
……いや、どうやら母さんは一応家の状況を見てから俺に連絡を取る気でいたらしい。
別に学校サボってることを怒るつもりはなく、後藤ママや後藤パパに心配かけないように上手くやれとだけ言いたかったのだとか。それでいいのか我が母よ。
「教育を受けさせる義務は中学校まででしょ。あんたの好きにすればいいわよ」
「はい」
それでいいみたいです。
……まぁそんな反応だろうとは思ってたけどさ。
で、だ。
「えーっと……ちなみに母さん今日は、というか今後のご予定は?」
「明日の朝、五時くらいには家出るわよ。それまでは……どうしようかしらね? 私、お邪魔かしら」
「いやいや、んなこたない、けど……あー、リョウ先輩は大丈夫ですかね?」
「衣久、さすがの私だって弁えてる。家主を追い出したりなんてしない」
「ああ、さすがのリョウ先輩でもそうですよね。まぁ部屋の主は追い出されてるんですが……あとやっぱ名前呼びの謎について深掘りしてもよろしいです?」
すごい気になるんだわ。なんか違和感が半端じゃないんだわ。
母さんとリョウ先輩が、一度顔を見合わせる。
そして。
「……衣久は私に名前で呼ばれるのそんなに嫌なんだ……しくしく……」
「衣久、あんたこんな美人泣かすなんて……地獄に落ちるわよ」
「あんたこそ息子になんてこと言うんだ。そっちが地獄に落ちるだろ」
あと別に嫌とは言ってない。違和感がすごいのと唐突で意味がわからんってだけなのよ。
よよよ……とわざわざ椅子から崩れ落ちて泣き真似をするリョウ先輩。よよよと言ってもヨヨヨちゃんは関係ないヨ。ヨヨッ!
で、わざわざ椅子を立って床にしな垂れるリョウ先輩の傍にさささっと駆け寄り片膝をつく母さん。さささと言っても佐々木さんではないサ。ササッ! ……いやクラスメイトの佐々木さんのことささささんなんて呼んだことねぇしそんな呼び方する奴いねぇわ。いくらなんでも呼びにくすぎるだろ。
……なんて小粋な冗談はさておき、なんかだいぶ仲良くなってんな。そういや俺のあずかり知らぬ初対面での母さんからの好感度は妙に高かったような覚えはあるが……。
「……とりあえずリョウ先輩がそう呼びたいなら、それは別にいいんですけど……マジでその、何? 俺がいない間に二人で何の話してたの?」
「そんなに大した話はしてないわよ? ただちょっと不出来な息子ですが末永くよろしくお願いしますとだけ」
「結婚の挨拶か?」
「私も、不束者ですがよろしくお願いしますと」
「結婚の挨拶か?」
買い物に行ってる間に実の母親と居候の先輩が結婚の挨拶を済ませていた件。
……いや違うだろ。違うよな?
「ホントは何の話してたんすか」
「なんで私が泊まってるのかって話」
「あーはい」
普通じゃん。いやリョウ先輩に“よくやってる”なんて言ってもらえるのは嬉しいけども。
「ちなみに名前呼びは“此崎”だと私もつい反応しそうになっちゃうからよ」
「あーなるほど」
普通に納得しちゃった。まぁ俺後藤のこと後藤家でも後藤って呼んでるけども。
「さらにちなんでおくと私のことは芽衣子さんと呼んでくれることになったわ。ね、リョウちゃん」
「はい、恐縮です芽衣子さん」
「よかったね」
俺が買い物に行っていたのが一時間足らずだから、二人が会話をしていたのも間違いなくそれ未満……だというのに、なんだか異様に仲良くなってる感じがする。馬が合う……のか……?
……いや、別に仲良くなること自体は結構なんだが、さっきみたいに結託してくるようだと非常に面倒くさい。非常に。
リョウ先輩との二人だけの生活はなんだかんだ平穏だったのにどうして……と、思わず嘆きたくなったが、しかし。
「――それにしても、リョウちゃんってば面白い子だとは思ってたけど、話してみると結構かわいらしいところもあるのね」
「えっ」
「おっと?」
風向き、変わりそうね――。
「――なーんて、あんたには教えてあげないけど」
「いや変わらんのかい」
気のせいだった。おいおいリョウ先輩が俺のこと裏でこっそり褒めてたのを母さんが全部暴露して恥ずかしがるターンじゃないのかよ。なんなんだマジで。
……一応ダメ元でしばらく母さんをじっとり睨むが、憎たらしいニコニコ笑顔のままで完全に受け流す腹積もりでいやがる。
そうして諦めてリョウ先輩に目をやると……どういう感情? 真顔でじっとにらめっこした後、なんか物憂げな感じで逸らされた。ホントにどういう感情?
「……さーてと。じゃ、私シャワー浴びてくるから、あとはお若い二人で……」
「見合いじゃないんだからやめていただけません? 残されたお若い二人の気持ち考えてくれよ」
マジでさぁ……こっちはバンドマンとそのマネージャー、そうでなくてもただの友人同士ってだけなんですからね?
そんでホントにシャワー浴びに消える母さんよ。
……そうして散々振り回された割に、結局その日、それ以上特筆するようなことは何も起こらなかった。母さんはシャワーから出た後は「仕事するから」と言って部屋にこもってしまい、俺が作った夜ご飯を三人で一緒に食べたくらいである。
一方で俺とリョウ先輩は、ここ数日の焼き直しのようにずっとリョウ先輩の部屋(旧俺の部屋)で静かに過ごしていた。
ただ一つ、あきらかに変わったことがある。
それはリョウ先輩が作曲に集中している時間が増えたことだ。
……集中しているからと言って順調というわけではなさそうだったけど、母さんとの会話から何か刺激を受けた……の、だろうか? 全然かまってもらえなくなったので、聞くタイミングもないままだった。
ともかくそんなリョウ先輩の作業は当然のように深夜まで続いて、邪魔をしないように僭越ながらベッドで寝転がっていた俺はいつの間にあえなく寝落ちしてしまう。
それから朝方にふと目が覚めると、隣でリョウ先輩がネコみたいに丸まって寝ていて……さらにそれを、ベッドの脇に立っている母さんがニヤニヤしながら見下ろしていたのだった。
「……何見とんじゃ」
「おはよ。私、もう出るわ」
「無視すんなよ……はぁ、見送ります」
暖房付けっぱなしの部屋だけど、真冬の朝はそれでもクソ寒い。しかも寝落ちしてからおそらく4時間ちょっとしか経ってないのでクソ眠いが、毎朝不屈の意思で学校に行くために起きている俺の敵ではない。嘘、敵だけどなんとか勝ってるだけだ。
ともかく、廊下のフローリングの狂気じみた冷たさを見越して靴下を履き、トレーナーの上にパーカーを羽織った完全防備で玄関に向かった母さんを追う。
そして、玄関で靴を履いていた母さんの背中に俺は声をかけた。
「次どこ行くの?」
「とりあえず今日明日は東京。その後は千葉ね」
「ほーん。ま、気を付けて」
「ありがと。あんたもリョウちゃんと上手くやりなさいよー」
「やってるって。……まぁ、さすがに同衾はちょっと反省します。はい」
リョウ先輩、俺の中で段々とペット枠に収まりつつある。飯作るのもちょっと手間かけて餌与えてるくらいの感じで……。
ベッドに勝手に潜り込まれてたのも、まぁ寒かったのかなと思っただけで……って、いやこれまずいな。だいぶ毒されてるぞ。
一回ちょっと気を引き締めるか……と、そんなふうに思い立ったところで、母さんに「衣久」と名前を呼ばれる。
「何?」
「
「……いや、わかって……」
「本当に?」
「…………」
「大丈夫よ、リョウちゃんは。あんたのことをちゃんと信頼してるわ。だから、末永くやっていくつもりなら──」
「──わかってる。……わかってるって」
「……そ。ならいいわ。じゃ、いってきます」
「ん、いってら」
……とりあえず、朝に母さんと交わしたやり取りはそれだけ。
俺はその後、もう一度リョウ先輩のベッドに入るわけにもいかないと思って、眠気をこらえながら午前中を一人ぼんやりとリビングで過ごした。
リョウ先輩が起きてきたのは11時過ぎ。
案の定お腹がすいたと訴えてきたのでエサ……じゃなくてご飯を与えて、それからはやっぱり部屋に籠ってリョウ先輩は曲作り、俺はベッドの上で座ってスマホを触ったり漫画を読んだり……いろいろと、考え事をしてみたり。
「――衣久」
「……んぁ?」
そしてふと、声をかけられて、顔を上げる。
リョウ先輩がノートPCを置いたローテーブルに肘を突きながら、いつもの真顔で俺のことを見ていた。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……いやなんすか? 用があったから話しかけたんじゃ?」
「うん。いや、ちょっと悩んだ」
「何を?」
――尋ねた直後、リョウ先輩はその場で立ち上がったかと思うと、近くに落ちていた自分のスマホとイヤホンを持ってベッドに座る俺の隣に這い寄ってきた。
「……え、な、何?」
「ん」
と、先輩は片方のイヤホンを押し付けてきて、そのまま俺の横にぴったりと寄り添って膝を抱えた。
「眠い。衣久もでしょ」
「……えっと、まぁ朝から起きてるんで……でも、なんで?」
「私が寝るときによく聞くプレイリストなんだけど。衣久は嫌?」
「そのことじゃないです。なんで急にこんな……」
「……わからないなら、今は気にしなくていい。私がこうしたいだけだから」
……意味が、わからん。
眠気のせいかとも思ったけど、たぶん、そうでなくても全然意味がわからなかったと思う。
いや、リョウ先輩の行動の意味をわかろうなんてのがそもそも愚かなことなのだが、しかし気にしなくてもいいと言われたって気にならないわけがない。
「……あ、この曲イントロいいですね」
「ほう、おぬし見る目があるな。このバンドは90年代のアメリカのロックバンドでたぶん衣久も知ってる有名なカバーの原曲を――」
が、片方だけのイヤホンから流れてくる音楽に一度気を取られると、リョウ先輩の懇切丁寧な解説もカットインしてきて次第にどうでもよくなってくる。眠くなってきたとも言う。
「……衣久?」
リョウ先輩が俺の名前を囁いて。
続けて何か言ったような気がしたが、俺は返事もできないでゆっくりと眠りに落ちたのだった。
このあとめちゃくちゃ後藤死んだ。
あ、もうちょっとで評価者数1500人みたいですよ? どう?