枕元でスマホが震えているのにすぐ気が付いたのは、ベッドに寝転がったまま何もせずにぼーっとしていたからだった。
手探りでスマホを見つけて手に取って、暗闇に慣れた目を眇めながら画面を確認する。
「あー、もしもし?」
『夜遅くに悪いわね。聞いたわよ、あんたと結束バンドのこと』
「早くないっすか? いや夜の方は遅いんですけど」
スマホが震えていたのは、ヨヨヨちゃんから着信が来ていたから。
そして、ヨヨヨちゃんが日付が変わる間近になって電話をかけてきたのは、いったいどこの速報で知ったのか、今日の昼間のことについてのようだった。
『姐さんが言ってたのよ。姐さん、また下北に行ってて、そっちのハコで伊地知虹夏のお姉さんから聞いたって』
「きくりちゃん速報でしたか……ま、そんなところかなとは思いましたけど』
俺と、結束バンドの四人で一度スターリーに戻った時にはきくりちゃんの姿はなかった。たぶん俺が帰った後にでもやってきたんだろうな。
「それで……なんで、電話してくれたんですか?」
『一応、本人の口から事実かどうか聞いとこうと思ったのよ。姐さんのこと、疑うつもりはないけどね……で、本当なの?』
「本当ですね。そんで、本気です」
『あんた、本当に本気でバカね』
ひどい。……いやまぁ、全然反論できないけど。
「……バカなのはわかってるんです。でも、よく考えた上での結論なんですよ」
『だったらなおさらバカじゃない。本心じゃ離れたくないくせに』
「俺の本心なんて、なんでヨヨヨちゃんにわかるんですか」
『わかるわよ。あんたが今まで結束バンドにどれだけ尽くしてきたかを見てきたし、私みたいなめんどくさい女と付き合い続けられる人間がそう簡単に誰かに愛想尽かすわけないんだから』
「……あー、俺とヨヨヨちゃんって付き合ってましたっけ?」
『茶化すな誤魔化すな!』
「すんません」
……あぁまったく、ヨヨヨちゃんと話すと自分のバカさ加減を痛感させられる。
まっすぐ真正面に突っ込んできて、容赦なくド真ん中にぶつかってくる。なんともヨヨヨちゃんらしいやり口だ。
『……よく考えたなら、重々承知してるでしょうけど。あんたがどんな屁理屈こねたところで、後藤ひとりたちがそう簡単に認めるとは思えないわ』
「…………」
それはまぁ、そうだ。重々承知しているつもり……と、そんな返事をしようとしたが、すぐさまヨヨヨちゃんが『でも』と言った。
『それであんたと結束バンドがどういう結論を出したとしても、私はあんたの味方だからね。もし、万が一下北に居づらくなるようなことになっても、ちゃんと新宿で拾ってあげるわ。だから……きっちり筋は通しなさいよ』
「……ありがとうございます」
俺は、それしか言えなかったが……そんな一言じゃ収まらないくらいの感情が溢れそうになって、それをこらえるのに必死だった。
「ヨヨヨちゃん」
『何よ』
「本当に、ありがとうございます」
だからせめて、もう一回言っておいた。
♪ ♪ ♪
次の日は、午後からバイトのシフトが入っていた。
昨日虹夏先輩たちとあんな別れ方をしたばかりで行っていいのか悩んだが、店長さんにロインでお伺いを立ててみると「話があるから絶対に来い。さもなくばお前は死ぬ」と言われてしまった。死ぬらしい。
店長さんに命を握られているから……というわけではないものの、下北沢に向かう足取りは正直だいぶ重かった。
が、道のりの大半は電車に揺られているだけなので、足取りがどうであれだいたいいつもと同じくらいの時間で到着してしまう。むしろ、あれこれ考え事をしていたせいで体感時間はいつもの半分以下だった。
「おはようございまーす……」
「おう、来たな此崎」
「此崎くんおはようございます~」
……スターリーの中に入ると、店長さんがいつものカウンターテーブルのところに足を組んで座っていて、こちらを見ていた。PAさんは丸テーブルの方にいて、頬杖を突いてやはり俺を見つめている。
「とりあえずそこ座れ」
「……はい」
で、このご命令である。もちろん逆らえない。死ぬからね。
俺はカバンを床に置いて、店長さんの目の前のカウンターチェアに座る。
店長さんは俺の方に身体の正面を向けてこれ見よがしに腕を組むと、あきらかに不機嫌な顔で睨んできていた。
「……えーっと、やっぱり俺殺されます?」
「殺さねぇよ」
殺されないらしい。となると……自然死を装って、か?
「ただ、説明はしてもらうぞ。どういうつもりなんだ」
「いや……店長さんには、一番わかってもらえると思うんですけどね。ほら、バイト初日に話したじゃないですか。あの時のアレですよ」
アレとはつまり、アマチュアバンドのマネージャーに先はないから、いずれその時が来たら潔く身を引く……みたいな感じの話だ。
俺自身、一言一句を厳密に思い出せるわけではないけど、店長さんだって細かく覚えていなくてもなんとなく繋がる部分はあるはずだ。
「お前なぁ……確かに私はあの時、まぁ、よく言えばお前の覚悟を試したよ。悪く言えば、脅した」
「本当に悪いですね~」
「お前は黙ってろ!」
「は~いすいませ~ん」
PAさんが茶々を入れて、すぐさま店長さんに怒られていた。
まぁ、あんまりシリアスになりすぎるのは嫌だから俺としてはありがたい、が……。
「……とにかくな、もしあの時のことを気にしてるんなら、綺麗さっぱり忘れてやるから素直になれ。あいつらにとってこれからが大事な時期なのはわかってるだろ? レーベルと契約って言ったって最初から手厚いフォローがあるわけでもないだろうし、お前の力は必要なはずだ。それに、なんならお前もそのレーベルに――」
「――いえ、店長さん。その辺は、確かに全部わかってます。全部わかった上で、素直に考えて、それでこれなんです。すいません」
……しかし、俺がこんな返事をしてしまうから、結局空気は悪くなる。
店長さんの眉間の皺が深くなって、PAさんも困ったような表情を浮かべていた。
「……それでも、此崎くんが望んで選んだことのようには全然見えませんよ? 私は、嫌なことからはさっさと逃げちゃえば良いと思いますけど、まさか結束バンドのお手伝いをするのが嫌になったわけじゃないですよね。だって、そんなに辛そうな顔してるじゃないですか」
それは、いろいろと気を揉ませているのが申し訳ないだけ――なんて言い訳が頭には浮かんだが、咄嗟に口から出すことはできなかった。
そうして黙り込んだ俺に向けて、店長さんが説き伏せるような口調で畳み掛けてくる。
「此崎。言ったこと、なんでもかんでも曲げないのがカッコいいなんて勘違いするなよ。変えたっていい。変わったっていいんだ。後悔するような選択肢を、そうとわかってて自分から選ぶ必要なんてない」
「…………」
「後悔なんて、誰でも、したくなくたってするもんだ。小さいことから、大きいことまで……特に、取り返しの付かない後悔は最悪だよ。どうしようもない気持ちになって、逃げたくても逃げられない……お前のこれは、違うだろ。何を悲観的になってるのか知らんが、まだどうとでもなる。後悔するのは、もっと後回しにできるだろうが」
……店長さんの実感の籠もった言葉が、重く、重くのしかかってくる。
「――違います、違うんですよ店長さん」
こんなにも重く感じるのは、こんなにも最悪な言い方でそれを否定しなくちゃならないからだった。
「俺はもう、今、後悔してるんです。俺は……そもそも全然カッコつけれてなんかないですよ。後悔は後でするとか言っといて、こんなですし。マジで、こんなに……もっと、潔く身を引くつもりだったんですけどね。いや本当に。……本当に、すいません」
項垂れて、途切れ途切れに言葉を紡ぐしかなかった。店長さんの顔はもう、とてもじゃないけれど見られない。
「……ったく」
しばらくの沈黙の後、店長さんが呆れ切ったようなため息が聞こえてきた。
「此崎、お前今日はもう帰れ。そんな辛気臭い顔で働かれても困る」
「ちょっと店長、またそんな言い方……」
「っつーかこれから一生そんなツラでいるつもりならクビにするぞ」
「店長っ!」
……伊地知さんに、二日連続で帰宅命令を下されてしまった。昨日は妹、今日は姉だ。
しかし、昨日も今日も間違いなく悪いのは俺である。
四人のことを裏切るような真似をして、それで勝手にネガティブになって……今の俺は、見てるだけで気が滅入るような表情をしてるんだろう。
PAさんが庇ってくれるのはありがたいけど、店長さんの言うことはもっともだ。
店長さんの、虹夏先輩の大切な想いが込められているスターリーというライブハウスに、今の俺はまったくもって相応しくない。
「……わかりました。すいません、とりあえず今日は……今日も、帰ります」
「此崎くん、店長のこれはいつものやつですから気にしなくても」
「大丈夫ですPAさん。まぁ、それはそれとして、俺も……切り替えるなら、ちゃんと切り替えないといけないと思うんで。頭、冷やします」
切り替えられないなら……店長さんに、判断をさせたくないな。
みんなにバイトは辞めないって言ったのに、嘘を吐いたことになってしまう……が、それは今更か。
……カバンを持ち、心配そうなPAさんと腕を組んでそっぽを向いてる店長さんに頭を下げてから、俺は踵を返した。
そうしてスターリーから出ていく直前、「おい」と店長さんから呼び止められる。
俺は、振り向きはしなかったが、その場で立ち止まった。
「あいつら、諦め悪いぞ。わかってるよな」
「……わかってます」
「逃げるなよ。逃げても、私が引きずってきて椅子に縛りつけてやるからな。覚悟しとけよ」
「……しときます。逃げたりなんて、しませんよ」
それだけ言って、俺はスターリーを後にしたのだった。
♪ ♪ ♪
「――あ」
「あぁっ! アノサキあんたねぇ!!」
「えっいやちょっ、出会い頭になになになんですかぽやみさんっ!?」
スターリーから少し歩いた先の路地で、ばったりぽやみさんに出くわした。
さらには挨拶をする間もなく……というかほとんどあいさつ代わりみたいに、彼女はずんずん近づいてきて思いっきり俺の胸ぐらを掴んできた。
「あんた、いったいどういうつもりなの!?」
「ちょ、ちょっと待ってください、落ち着いて! 昼間の往来でやることじゃないですから!」
「そんなの知ったこっちゃないわよ! あんたねっ、こんな急に、ここまでやってきたのにいきなりマネージャー辞めるなんてっ! 何考えてんのよっ!!」
「いやっ、それは……」
「昨日はあの子たちの顔立てて黙ってたけど、あたしだってっ!」
ぽやみさんは俺を力任せに揺さぶりながら、俺のことを散々に怒鳴りつけてきた。
反論する間も与えてもらえず、俺はその怒りを真正面から受け止めるしかなかった。
「あたしはっ、そんなつもりであんたたちと司馬さんを引き合わせたわけじゃないっ! あたしは、あんたも含めた結束バンドを見込んでたのっ! あたしは……あたしはっ!」
……ぽやみさんの腕の力が抜けて、ゆっくりと俯いていって、それからぼそぼそと小さな声が聞こえてくる。
「……あんなに頑張ってたのに、どうして? あたしは、誰よりもあんたのこと批判的に見てた。そんなあたしを認めさせるくらい、ずっと、頑張ってたのに。あたしは……あんたにこんな選択させるためにレーベルの話を持ってきたんじゃない。結束バンドのためなのは当たり前だけど、あんたにも……口で謝るだけじゃ、頭を下げるだけじゃ足りないと思ったし、少しでもあんたの頑張りが報われて欲しかったから……なのに……」
すん、と微かに鼻をすする音。
俺は驚いて、一瞬言葉に詰まったが、なんとか口を開いた。
「……泣かないでくださいよ、ぽやみさん」
「泣いてないわよ!」
「もう23……あっいや17歳なんですから」
「17歳でもないわようるさいわね!!!!!」
どう考えてもうるさいのはぽやみさんである。声がでかい。
……それに、顔を上げたぽやみさんの目は、どう見ても潤んでいた。涙まで流してるわけじゃないし、泣いてないと言えば泣いてないけども……とにかくまさか、この人がこんなに必死になってくれるなんて思ってもみなかった。
「……あの、ぽやみさん。なんていうか……皮肉とかじゃなくて、本当に感謝してます。結束バンドも、俺も、未確認ライオットで負けたから全部が無駄になった、なんて思ってたわけじゃないですけど、負けた上でこんなに前進できるなんて思ってもなかったんで。ただ、ぽやみさんの厚意を踏みにじるようなことになっちゃった点だけは……本当にすいません」
「……謝るくらいなら、辞めるのやめなさいよ! 別に司馬さんがマネージャーに付いたってあんたが邪魔になるわけじゃない! なんならあたしみたいにバイトスタッフとしてっていう選択肢だってある! 結束バンドにとって……あんたにとって! もっと、マシな選択肢があるはずよ!」
「…………」
マシな、選択肢。
その言葉を聞いた俺は、思わず失笑してしまう。
「……これが一番マシなんですよ、俺にとっては」
それからそう呟いて、俺はぽやみさんの横を通り過ぎるように歩き出した。
「……なっ、ちょっと、アノサキっ!!」
「ぽやみさん、結束バンドのことよろしくお願いしますね」
後ろから呼び止められたが、俺は、店長さんの時と同じように振り向きもせず答えて、そのままその場を立ち去る。
ぽやみさんは、声をかけてきてくれることも、追いかけてきてくれることもなくて、どうしようもない寂しさを感じたが……どう考えたって、全部が全部自業自得でしかなかった。
♪ ♪ ♪
「――あ、いっくんいたいた〜! 」
「……え、きくりちゃん? なんでこんなところに……」
「え〜? スターリー行ったら先輩がいっくんのこと追い出したって言ってたからさ〜、心配で探さないとな〜と思って、そしたらいた〜」
「そ、そっすか……」
ここ、下北周辺を適当にぶらついた末に見つけた特に縁もゆかりもないちっちゃい公園なんですけど……。
ぽやみさんと出会った後、俺はそのまま家に帰る気にはなれず、しばらく下北沢を歩き回っていた。
目的地はなく、どこかの店に立ち寄るでもなく、ただただ人通りの多い道を選びながらぶらぶらと歩いていたのだ。
やがて歩き疲れた俺は、本当に今まで一度も来たことないような小さな公園で足を止めて、そこにあったベンチに座ってぼんやり日が暮れていくのを待っていて……そこに突然きくりちゃんが現れた、というのが現在の状況である。
「いやぁ〜あとちょっと探して見つからなかったら横浜まで行ってたよ〜。どこだっけほら、いっくんとぼっちちゃんちの最寄り駅」
「金沢八景ですけど……さすがに冗談ですよね?」
「冗談じゃないよ?」
きくりちゃんはこてんと首を傾げて、お前は何を言ってるんだとばかりのご様子。目がマジだ。開眼してらっしゃるもの。
「ときにいっくん」
「あっはい。なんでございましょう」
「お隣いいですか?」
「あっはい、ど、どうぞ……」
な、なんかきくりちゃんのテンションが……いや待てよ、よく見ると顔があんまり赤くないぞ? もしかしてお酒抜けてる? きくりちゃんから? お酒が? マジ?
「きくりちゃん……」
「ん、なぁにいっくん」
「もっとお酒飲んだ方がいいんじゃ……」
「そんなこと言ってくるのいっくんくらいだねぇ」
健康に気を付けていっぱい飲んで……じゃなくて本当に今飲んでないのか? バカな、昼間からきくりちゃんがシラフだなんて……。
「……さすがにさぁ、私も結構心配したんだよ? お酒飲んでる場合じゃないって思うくらいにはさ」
「……す、いません。いやあの、そんなに心配してもらわなくても、滅多なこと考えてる訳でもないですし」
「うん、さすがにそこまでは私だって思ってなかったよ? 今は」
「今は」
「もうちょっとお酒抜けてきたら……ね?」
ね? じゃないです。ネガティブ思考への針の振り切れ方おかしいよ。
そういうとこやっぱ根っこは後藤に通ずる陰キャってことなんだな……やばいな……。
「……いっくんさ、聞いていい?」
「あっはい。……はい」
反射的に適当な返事をしてしまったが、ふと見たきくりちゃんが思いのほか真剣な眼をしていたので、真面目なトーンで再度頷く。
そしてきくりちゃんは、慎重な様子で口を開いた。
「いっくんはさ、結束バンドのみんなのこと……嫌いになっちゃったの?」
「いやまさか! ……あ、あー、えっと……すいません」
……自分でもちょっと驚いてしまうくらい、咄嗟に、大きな声で否定してしまった。
気恥ずかしくなった俺が誤魔化すように声を小さくして謝ると、きくりちゃんは穏やかな微笑を浮かべた。
「……ま、だよねぇ。わかってたから恥ずかしがらなくていいよ。……じゃあやっぱり、いっくんがみんなから離れようとするのは、みんなのことが好きだからなんだ」
「…………」
「……ふふっ、いっくんってばそういうとこがかわいいよねぇ」
「勘弁してください……」
俺は顔を手で覆って、自分の膝に片肘を突いて前かがみになる。
今日は、徹頭徹尾自業自得だけど、ただでさえ凹んでるところにいろんな人からボコボコにされてるのだ。
その上で適度にお酒が抜けてなんか強くなってるきくりちゃんを相手にまともにやり合えるわけがない。まぁきくりちゃんはいつでも最強だけど……。
「いっくん」
「……なんですか?」
「もっともっと、いっぱい悩んだ方がいいと思うよ」
「いや……悩みましたよ、散々」
「まだ足りないって。もっと、もっともっと悩んで悩んで悩み抜いて、そしたらそのうちあの子たちがぶつかってくる。答えを出すならその時だよ。今のいっくんはもう答えを出した気になってる。それはまだ、早いんじゃないかな」
……ゆっくりと顔を上げると、きくりちゃんが薄く微笑んでいた。
普段はあまり見られない、年上の女性らしい余裕のある笑みだった。
「いっくんがみんなのこと好きなのとおんなじでさ、みんなもいっくんのことが好きだから大丈夫だよ。敵を見誤るな、って……いっくんなら、わかるよね」
「…………」
……もちろん、わかっている。
一番勝手で、一番臆病で、一番バカな奴だ。
それでも、俺は……。
「――あとは、まぁ」
きくりちゃんが、俺の思考を遮るように、なんとなくまごつきながらまた口を開いた。
俺がきくりちゃんの目を見ると、彼女は少し目を泳がせた後、真っ直ぐこちらに視線を向けて意を決したような表情で言った。
「私は、みんなと一緒にいて、いつも楽しそうに笑ってるいっくんが好きだよ。……あっえっと、私が好きだとかどうとかは関係ないと思うけど……あぁ〜こんなのシラフで言うもんじゃないね! うん、それだけ! ……じゃっじゃあ私はこれでお暇するけど、気を付けて帰ってねっ。あっあんまり暗くならないうちにね」
でっでは! と、からんからん下駄履きを鳴らしながらそそくさと逃げるようにきくりちゃんは去っていってしまった。
「……びっくりした……」
俺はその背中をぽかんとしながら見送って、しばらくしてからやっと一言呟けた。
以前、俺が禁酒を強いられたきくりちゃんに言ったことのお返しというだけ……のはずだけども……まぁ、とにかくしっかりと面食らってしまった。
「……みんなと一緒にいる俺、か」
その後も、俺はきくりちゃんの言葉を……いや決して変な意味ではなく至って真面目に反芻し続けて、それで結局きくりちゃんの気遣いを無碍にして、暗くなるまで一人公園のベンチに座っていたのだった。
♪ ♪ ♪
そして、その日の夜もさらによく悩んだ。
きくりちゃんの言い付けを守ったということにするのも吝かじゃないけど、すんなり眠れないのはここ数日毎晩のことで。
悩んでいるうちに思い出すことも、毎晩、同じだった。
『――衣久、
こんなセリフから始まる、母さんとの会話の記憶。
半年くらい前に聞いたセリフそのままだが、俺が思い出しているのはその時のことじゃない。
それよりもずっと前――まだ俺が、
小学校の、高学年のあたりだろう。五年生か、六年生か、そのくらい。
俺は昔から……認めるのはこっぱずかしいが、母さんや父さんが滅多に家に帰ってこないこと、二人と滅多に会えないことにずっと不満を抱いていた。
この頃はまだまだ不満たらたらで、しかしちょっとした反抗期にも差し掛かっていたから素直に甘えるなんてもってのほかで、久々に会えても嬉しいような憎たらしいような、いろいろと複雑な気持ちになっていた。
それでも、学校の友だちや後藤家と……何より四六時中一緒にいるようになっていた後藤とかかわることで、そんな不満を誤魔化していたのが当時の俺だった。
『衣久、あんた最近ひとりちゃんのこと構いすぎよ。いつまでもべったり……もうすぐ中学生になるんだから、もうちょっと距離感考えなさいって』
まぁ別に、無理に誤魔化していたという意識もなかったのだが、それにしたっていろいろ複雑な感情を抱いてる母さんからある日いきなりこんなことを言われたら、反射的に「はぁ?」ってなるのはしょうがないと思う。しょうがなくないか?
後藤と一緒にいて男だ女だと言われるのは面倒くさくて嫌だったし、ましてやそれを自分の母親が言ってくるのだから、俺はなにくそと思って反発しようとしたが……。
『ねぇ、衣久はひとりちゃんのこと、どうしたいの?』
『ど、どうしたいって……意味わかんねぇ』
意味がわからなかったのは嘘じゃない。ただ、最初から母さん相手に不貞腐れていた俺は、質問の意味を考えようとも思わなかった。
けれど、次の母さんの言葉で……母さんが適当な考えで俺を怒ろうとしているわけではないことに気が付いた。
『ひとりちゃんが、衣久がいないとなんにもできない子になっちゃっていいのかってことよ。衣久がいつでも助けてあげちゃうから、ひとりちゃんはいつまでもあんたに甘えちゃう。それでいいと思う?』
今になってみれば、これだけ言われれば全部わかる。
俺は、後藤と一緒にいることで、母さんたちがいない寂しさを紛らわしていた。
きっと後藤も、俺と一緒にいることで、友だちがいない寂しさを紛らわしていた。
共依存なんて言葉はあまりにも大げさだと思うが、俺と後藤の関係はその類いで、それが母さんの目には余ったのだろう。
後藤のためにも、俺のためにも、それではいけないと考えたのだろう。
『……でも……ひとりちゃん、俺がいないとなんにもできないし。かわいそうじゃん』
しかし、その時の俺は、咄嗟にそう言って反論した。
俺は真剣にそう思っていて、まぁある種事実ではあったが、しかしそれこそ俺のせいでそうなっているという話でもあって。
『それでもよ』
と、母さんが間髪を入れずに言ってきた。
そして――。
『――いい、衣久。あんたは賢いからわかるはず。甘やかすだけじゃダメなの。ひとりちゃんは引っ込み思案で、大人しくって、小器用なあんたからしたら見ているだけじゃもどかしくて、前に立って無理矢理にでも引っ張っていきたくなるかもしれない。でも、それじゃひとりちゃんは、一人で何もできなくなっちゃうわ。ひとりちゃんが、自分で何も選べなくなっちゃう』
……賢いからかどうかはわからないが、母さんの言わんとすることが、ここでようやく当時の俺にもわかった。
もちろん、それでも面白くない気持ちはあったが、同時に、確かにそれじゃダメだ、とも強く思った。
だから、俺は唇を尖らせながらも、母さんに聞いたのだ。
じゃあ、どうすればいいのか、と。
『――きちんと
母さんが、すぐさま返してきたその答えが……他人からしたら意味がわからないかもしれないけれど、俺の中で、これまでのことに繋がっている。
俺はそれから、少しずつ後藤への接し方を変えていった。
あまり宿題を手伝わなくなって、後藤と遊ぶためだけにわざわざ時間を作ったりしなくなって。
後藤は何かを選ぶときにいつも俺の顔を見る癖があったし、俺が何かを選ぶと簡単になびくから、後藤より先に選ばないようにして。
そして極め付け……になるのかどうかはわからないが、後藤のことを「後藤」と、素っ気なく呼ぶようになった。
……まぁ、なんだ。俺も加減が下手だったんだ。だからそこだけは、後藤に申し訳なく思ってる。
散々餌付けした生き物を突然森に放り出すようなもので、そりゃあ生きていけないよなって。後藤がよく死ぬようになったのはこれ以降だからね。
でもとにかく、俺が後藤への接し方を変えたことで、俺と後藤の関係は否応なしに変化していった。
それから中学生になって、まぁ男だ女だと意識しないままでいるのが難しくなって、ますます後藤への接し方は変わっていったのだ。
……しかし、あの頃の俺は、そんな変化を恐れたりなんてしていなかったと思う。
つい最近喜多さんに情け容赦なく暴かれて、そもそも今まではっきりと言語化できていなかったことだが……恥ずかしいから強がってるとか、ただ気が付いていなかったとかではなく、本当に“怖い”なんて感じていなかった。
おそらくそれは、後藤との関係こそ変わったが、後藤自身はあんまり変わっていなかったからだ。
コミュ障で、友だちができなくて、死ぬほど不器用だし要領も悪いし、何においても結局俺が助け舟を出さざるを得ないことが多かったからだ。
もちろん、ギターを始めて、みるみるうちに上達していったのは大きな変化だが……別にそれで交友関係が広がるわけでもなく、ネットで評価されてるのはすごかったけど概要欄のアレとかがあって、こう、手放しには褒められないというか、認められないというか……。
……だから俺は、それに安心して、結局後藤の存在に縋っていたのだろう。
環境、人間関係、そして人そのもの。
いろんなことが変わっていくが、後藤の、根本的なところはほとんど変わらない。後藤はいつまでも後藤のままだった。
後藤は俺がいないと全然ダメで、たぶん一生こんな調子で、まぁ、だから一生面倒見続けないといけないんだろうな、なんて思っていた。別にそれで構わない……いや、満更でもなかった、と言うべきか。
――けれど、そんな後藤でさえもバンドを始めただけで、言ってみればたった一つのきっかけだけで、みるみるうちに変わっていった。
もちろんそれは、成長と呼ぶべきものだ。歓迎すべきものだ。
最初は驚いて、感心して……けれど、ここで初めて怖くなったのだと思う。怖がっていたのだと、喜多さんに暴かれてしまった。
変わらないと思ったものさえも変わっていく。変わらないことなんて何もない。
そんな単純な道理を俺はようやく思い知って、それから後藤がどんどん遠くに行ってしまうような気がした。それが怖かったのだと思う。
……でも、後藤が変わることを望んでいたのだから、それはそうなるべきだったのだと今でも本心で思っている。
間違っても俺は、後藤に変わらないでほしいなんて思ったことはない。
でも、ただ。
変わっていく後藤にとって、変わっていくことを恐れる俺の存在は、やがて枷になる。
バンドをやりたいという夢を叶えた後藤は、さらに大きな夢を目指して、この先へと進んでいく。
その背中を後ろから見て、勝手に遠く感じてしまうような俺は、きっと後藤の邪魔になる。
……結束バンドも、同じことだ。
俺は、みんなの枷にはなりたくない。
みんなが羽ばたいていくのを少しだって躊躇させたくないし、何より……邪魔な枷は、いずれ引き裂かれることになる。
優しい彼女たちがそうしなくても、いつか誰かが、彼女たちをより遠くへ羽ばたかせるためにそうするだろう。
今でさえこんなにも辛くて苦しいのに、今よりもっとみんなのことを好きになって、今よりずっとみんなのことが大切になって、それから失ってしまうなんて想像するのも耐え難い。
だから、そうなる前に、自分で。
もう遅すぎるくらいだが、それでも今が一番早い。
俺は、諦めが付くうちに諦めたいんだ。
だからみんなにも、勝手で弱い俺を、どうか諦めてほしい。
俺には、みんなと同じような大きな夢を見ることはできないから。
俺は、この先へ一緒に行けない。
それでも
俺が見守っていなくても、きっと大丈夫だ。
次回もなんとか一週間以内には更新したいと思っています。でも半分も書けてないです。