「はあ~、つっかれた~」
「おはよう蓮子…ってどうしたのそのクマ⁉まさか徹夜⁉」
昨日から部室に泊まり込みの蓮子は、どうやら夜を徹して歴代『幻想郷縁起』の解読を進めていたらしい。
「第三巻まで進めたわ」
「もうそんなに⁉」
日本中の国学者、歴史学者を唸らせた古事記の上つ巻を一人で解読したようなものだ。
「それで何か収穫はあったの?」
「…稗田家の歴史がなんとなくだけどわかってきた」
『幻想郷縁起』によれば、『幻想郷縁起』は『御阿礼の子』と呼ばれる稗田阿礼の生まれ変わりによって編纂されているようだ。
稗田阿礼は古事記の編纂にも関わった平安貴族だけど、彼女(あるいは彼)に関しての記録は一切なく、実存性が限りなく低い。
「最初に見て分かったことは一代目、稗田阿一は女性であること」
これは私にもわかった。
初代『幻想郷縁起』は変体仮名で書かれている。
当時、ひらがなは女性が使う物であったため、この書物の編者は女性であることがわかる。
「二つ目、編纂から次の編纂までの間隔は100年から200年ほど」
となると、当時の平均寿命を考えると大体次の転生までの期間ということになる。
あら?すると、九代目の『幻想郷縁起』が150年ほど前だから、先代の『御阿礼の子』は現代からするとよほど短命だったのね。
「三つ目、1から3巻までは、各妖怪に対する撃退方法が書かれている」
阿斗による『幻想郷縁起』にも、もともとの目的は『妖怪に対抗する手段の乏しい人間に、その手段を講ずる為、妖怪に関する知識を伝播し、後世に伝えること』であったと書かれているから、それを裏付ける証拠だ。
「それと、妖怪に限らず害獣の対策なんかも講じられていたわ」
「害獣?」
「人や家畜を襲う動物たちから身を守る術とか」
この時代の恐怖の対象は何も妖怪に限った話ではなかったってことか。
「稗田って貴族は本当にいたの?」
「稗田自体は古代から朝廷の祭祀に関わっていた一族の末裔で、阿礼もその一氏だと考えられてはいたけど、出身もろもろ不明よ」
しかし、『幻想郷縁起』に書かれていることが本当だとしたら、稗田阿礼の実在性は確かなものになる。
「決めた!メリー、今度は奈良に行こう」
「奈良?今からでも行けるじゃない」
「私の目の周りを見てよ」
「あー…」
翌日
旧関西本線、東海道線酉京都駅より数分、南関西駅。
「さあメリー、奈良といえばジャーン、鹿よ!」
たまたま駅の周辺を歩いていたところを人間さんに捕まり、たじたじしている鹿さんの隣で、本日も元気いっぱいの人間さんは大はしゃぎしている。
「蓮子、鹿が驚いているわよ」
人間さんが鹿さんを放すと、解放された鹿さんは一目散に逃げていった。
「奈良県では鹿は神聖な生き物なの。春日神社が建立された際、祭神の建御雷命が鹿島神社から白鹿に乗ってきたと言われていて、藤原氏も崇拝の対象としたことから、人と共存する事になったのよ」
「インドにも似たようなものがあったわね。確か、ヒンズー教で牛は神聖な生き物だからって、二百年前まで旧首都のニューデリーには野生の牛が歩いてたって」
「日本やインドだけでなく、動物を神聖な生き物として崇拝する文化は世界中に存在したわ。神の使いだったり、あるいは神そのものとして崇めたり」
「それを続けているのも世界中でここぐらいだね。神がいなくなった世界で、神の使いを特別扱いしても意味ないもの」
因みに私は宗教というものにはあまり興味がないけど、伝統文化については、少しくらい残しておいても良かったのではないかと思う。
政府の選民政策による教育方針の再設定で、精神的に豊かな国民性を取り戻す事には成功したのだが、それは宗教に頼らなくても国民が生きて行けるようになったという事だ。
日本は元々国教非制定国家であった為に大半の国民が無信教であったが、日本と同様の政策を採った欧米諸国から始まった世界規模の脱宗教運動は、宗教的な生活習慣をも排除した。
その流れに流された日本も、慣習的に受け入れられてきた年中行事などが自然消滅してしまったのだ。
そのようなものが無くなった事で、特に日常生活に支障が出たわけでは無いので、正月とかを祝ったことのない私たち現代人は今から失った伝統文化を取り戻そうとは微塵も思わないが、文化を失った世界で、文化財を保護する運動が盛んに行われているというのが、私には到底理解できるものではない。
「あ、あら?蓮子?」
気がついたら、さっきまで鹿と戯れていた蓮子の姿が無い。
「きゃああああああああああああああああああああああ!」
「れ、蓮子⁉︎」
聞こえてきたのは、蓮子の悲鳴!何か事件に巻き込まれたのかしら⁉︎
「わかった!わかったから許して!」
「蓮子!今行くわ!」
声のする方に行くと、一際大きな鹿の群れがあった。
その中央には何やら人の腕の様なものが飛び出ている。
「メリー?いるの⁉︎は、早く助け…キャハハハハハ。く、くすぐったい、あ!」
心配した私が損した。
堀に囲まれた不思議な立地の集落にひっそりと佇むそれは、長い間人が訪れていないであろうことが一目でわかる、ひどい荒れようだった。
石造りの鳥居は中間のあたりでひびが入っており、社の外を囲って結界を維持する役目を担う鎮守の森は境内まで侵食していた。
「ここが稗田阿礼を祀っている
「ひどい荒れようね」
残念なことに、今では日本全国のほとんどの神社がこのような悲惨な事態に見舞われている。
中には祀られている祭神すらはっきりしていない神社もあり、主神がわかっているだけまだマシな方だ。
「『古事記』っていうのは、日本最古の歴史書って言われていて、天武天皇の命令の下、太安万侶おおのやすまろによって編纂されたのだけど、一度見聞きしたことは二度と忘れなかったっていう驚異の記憶力を持つ稗田阿礼が声に出した内容を書き写したものらしいの」
「ふ~ん…それって、ひょっとしたら稗田阿礼はサヴァンだったのかもね」
「サヴァン?」
「ええ、脳の一部の機関が異常なまでに発達して、通常の人では難しいような特別な事が出来たりするのよ。例えば、記憶の中の景色を写真みたいに描けたり、見たものを全て記憶したり、数十桁の掛け算を暗算で解いたり」
「へぇ〜、そんなことを出来る人間がいるの」
「でも、そのひとたちは自閉症を発症していたり、知的障害があったり、脳のどこかに異常があって、脳の発達が偏ってしまう事から発現する現象と考えられているわ」
「流石は相対性精神学の新星。そう考えると、記録が無いのも納得がいくわね」
典型的なものが重んじられた奈良時代の豪族文化は疾患を酷く嫌った。
阿礼は稗田家から外界的に隠されていたのかも知れない。
誰もいない境内に佇む社は塗装が剥がれて木本来の色を取り戻しており、微かに残る塗料で元々は朱色であった事がかろうじてわかる。
屋根は所々穴が空いて本来薄暗いはずの本堂の内部に光の筋が射し込み、幻想的な風景を作り出している。
「ここだけ時が止まっているみたい」
「ほんと、静かでいいところね」
今は誰も賽銭を入れなくなった(そもそも小銭が貴重なので)賽銭箱は、土や枯葉で塗れ、賽銭という文字も霞んで見えなくなっている。
「どう?メリー、何かある?」
「雰囲気はいいんだけれど、何もないわ」
残念ながら、ここの神社には既に結界というものすらない。
「そう…、ならそれ以外のお土産を探さなくちゃね」
私たちは神社の境内にあるものをくまなく調べた。
「メリー、こんなものがあったわ」
探索開始してから間もなく、鳥居の方から蓮子の声が聞こえた。
「見て、この石碑」
「こんなところに…」
入り口の鳥居の近く、草木に覆われて始めは気づかなかったけれど、古い石碑が立てられていた。
「え~と…『かたりべの…碑』?」
「かたりべ…語り部、阿礼の事ね」
古事記は各氏族に伝わる伝承や天皇家の歴史を稗田阿礼が太安万侶に口伝えで渡し、太安万侶によって編纂されたもの。
つまり、稗田阿礼は歌謡、神話、歴史を伝承した、語り部の祖ともいえる人物。
「日本の民話の起源」
「そうね、私たちが当たり前のように知っている昔話も、誰かが伝えてくれなかったら、今の今まで残らなかった」
現実主義が浸透した現代では、昔話のような非現実的寓話を、子供に教訓を叩き込むための教材としては使われなくなった。
それは、現代で古事記にあるような民話を語り継ぐ語り部が消失したことを意味している。
いくら文献として残っていても、人々の記憶の中から消失してしまったのなら、それは口承芸術として、お伽草子としては何の意味もなさない。
「世界中のあらゆる情報が溢れかえる混乱の時代だからこそ、私たちを導いてくれる先人たちの知恵が生きる時だと思うんだけど」
「情報の端っこに行くのに必死で、何かを置いて行ってしまっている人がほとんどね」
これが、この神社の祭神が信仰されなくなった理由の一つだと思うと、切なく感じてしまった。