ー或る不幸な河童の手紙ー
去年で山道を走るバスも廃止され、山登りは自力本願となってしまった参道までの道。
県道にしてはあまりに整備されていなさすぎのひび割れた道をガードレール沿いに上っていく。
博麗神社は地図にも載っていない。
しかし蓮子の目は神社の場所を明確にとらえていた。
蓮子がいない今、私の脳がどれだけの道を把握しているかに委ねられている。
ハイキングコースから外れ、獣道へと入っていく。
木々の陰から、何やら視線を感じる。
近くに野生動物が潜んでいるのか。
草木や木の根に足をとられないよう慎重に進んでいくと、深い渓谷へ出た。
そこには、今にも崩れてしまいそうな、朽ち果てた木製のつり橋が架かっている。
「こんなところ通ったっけ?」
確かに川を渡った記憶はあったのだけど、つり橋を渡った記憶は一切ない。
どうやら道を間違えたようだ。
無理もない。
世界一区画整備の進んだ都市で迷子になる私が山の中を歩いているのだから。
再び背後から視線を感じた。
明らかにこちらを観察している。
振り返ると、人影が、森の闇へと溶けてゆくのが見えた。
逃げていく姿は鹿でも熊でもなく、間違いなく人間。
しかも、逃げる、ではなく、まるで周囲の景色と同化するように、怪談に登場する幽霊の如く消えていったのだ。
得体の知れない何かに恐怖を抱いた私は意を決してつり橋を渡ろうとした。
この場から離れ、少しでも見晴らしの良いところに居たかったのだ。
しかし、やはり間違いだった。
朽ち果てたロープは私が足を掛けたと同時に千切れ、私はつり橋ごと川底へと自由落下していった。
私の記憶は、落ちる寸前のわずかな浮遊感を感じたところで途切れていた。
どのくらいたったのだろうか。気が付くと、私は仰向けになったまま、大勢の何かにとり囲まれていた。
見た目は人間そのもの。
しかし、皆子供のように身長が低く、聴診器のようなものを私の胸に当てている医者らしき者の手は、明らかに人間の皮膚とは違い、指間腔は僅かだが人間のそれよりも大きく発達している。
「貴方たちは何者?」
「じっとしてなさい」
医者らしき人物は私の問いかけを無視し、なお聴診器を当てる。
「目立った外傷も無し。持病も伝染病の感染の疑いも特になし。安心して迎えられる」
「ようこそ、我が国へ」
私を取り囲む集団の中から一人が私に手を差し伸べてきた。
握手の概念があるのか。
「僕の名前はバック。君たちが河童と呼ぶ、その一種さ」
私が描いていた河童の像とは、およそかけ離れた姿の河童。
河童が人間の姿をしていると知ったら、きっと柳田国男も目を回すことだろう。
「私は、どうして…」
なぜ自分が河童の世界なんかにいるのか。
そもそもにしてどのようにして助かったのか。
「ここに来る人間なんて珍しいからさ、後をつけてきたんだ。まさか目の前のつり橋を渡るんじゃないかと思ったら案の定…まあ、それに関してはこっちにも非はあるんだけど」
「貴方が助けてくれたの?」
彼は無言で頷く。
「怪我がなくてよかった。そうだな、チャック、診断書を」
一人の河童がこちらへ手招きしている。
「ついてきてくれ。手続きに暫く時間がかかる。僕の家にいるといい」
「貴方の…家に?」
この世界には自動車がまだ現役みたいで、彼はT型フォード車に似た車にエンジンをかけた。
「驚いたかな?これが河童の技術力ってもんさ」
私たちにしてみればこれは前時代よりも前時代的な乗り物だった。
もちろん、口には出さなかったけれど。
「ところで、貴方名前はなんていうのかね」
「私?私は…」
「おっと、私がしたことが。人間の世界ではまず自分の名を名乗ってからっていうのが作法だったね。私はラーグ。貴方の身元預かり人となる」
「は、はぁ…」
「君は見たところ大学生といったことろか。名前はなんていうんだい?」
「え?あ、マエリベリー・ハーンです」
もはや見えているのかすら怪しいほど細かく目を開けて車を運転する彼、ラーグは、街の様々な名所を紹介してくる。
「あちらの建物が国会議事堂だ。もうじき重役会議が開かれるから厳戒態勢が敷かれているね。あちらが映倫教の教会。他にも、
「ねえ、ラーグさん、ちょっといいですか?」
ラーグでいいよ、と言いながら、バックミラーのようなもので後部座席の私を見る。
「先ほどの方々、貴方もそうですけど、なんで皆さん学ランのような服を?」
町中を歩いている河童たちは皆思い思いの服を着ているが、先ほど病室で私をとり囲んでいた河童は皆学ランを着ていた。
「私たちは人間の世界に赴くことが許可された者たちでね。貴方たちの生活スタイルなんかを偵察しているのさ」
「…人間である私に話しても大丈夫なの?」
「なにも取って食おうとしているわけじゃない。我らが盟友の事はより深く知りたいものなのさ」
つまり彼らは偵察部隊であるわけだ。
しかしそれなら、
「なぜ直接姿を現さない?」
「そうか、そうだよね。もう皆我々の事を覚えているはずがない。まこと時の流れというのは非情なものだ。いや、我々がただ単に歴史に囚われすぎているというのもあるのかもしれないけど」
彼の今の口ぶりでは、かつて人間は河童と交流関係を持っていたように感じる。
それは確かにあり得ない話ではないかもしれない。
かつてすべての水害は河童という川の守り神が引き起こす厄災と恐れられてきた。
今となってはフィクションの中の存在となってしまったものでも、かつては確かに実在する存在という認識だったのだ。
「我々の見た目は人間のそれとほとんど同じ。ゆえに、姿を晒したところで意味がないんだ。だから、こうしてこの国を訪れた人間は特別保護住民として丁重に扱う」
河童の存在を誤解されないために。
あわよくば、人間の世界に再び河童の存在を認知させるために。
「そうそう、この服は光学迷彩でね、周囲の景色に溶け込んで姿を消すことが出来るんだ」
無人の運転席では、ハンドルが勝手に動いていた。
「どうぞくつろいでくれ」
西洋風の造りの一軒家に連れてこられた。
暖炉、テーブル、ソファーと西洋をイメージした造りの部屋だけど、河童の背丈に合わせてあるのか、どの家具もやや低めの設計だ。
まるで子供用のソファーに腰を掛けた。
「ダージリンティーは好みかい?生憎、今家で出せるのはこのくらいしかなくてね」
「あ、どうも」
丁寧にマグカップに注がれた茶が手元のテーブルに届く。
「お菓子もあるのでよかったら」
お菓子の入った皿をテーブルの上に置くと、ラーグは私の対面のソファーに腰掛けた。
「いやはや、人間のお客様なんて久々ですな」
「あの、私はどうしたら…」
「暫くは私の家で暮らしてなさい。今は結界が少々不安定でね。修復するには…そうだな、一週間程度かかるかな?」
蓮子の救出に一歩近づいたと思ったら、結構な回り道になりそうだ。
肩を落とす私を気遣ってかか、ラーグがお菓子の中からビスケットを二、三枚寄越した。
「あそこまで来る人間はなかなかいないでしょうから、何か急がなければならぬ用事があったことは察します。だが、今はどうぞ、気を緩めて」
ソファーの下に、新聞らしきものが落ちていることに気が付いた。
「おっと、私としたことが、失敬。この国の新聞だ。トウ・ホウ労働新聞は、我が国を代表する新聞でね」
書いてある文字はかろうじて読める。
というのも、この新聞は日本語と日本語らしき文字の組み合わせで書かれている。
日本語らしき文字はニュアンスで読み取れるので、多少時間はかかるけど読むことが出来る。
「何か重要な会議が開かれるようね」
「ああ、度重なる戦争に暴動、資本家と政治家の集団汚職、この国も抱える問題が多くてね」
と言っているが、この新聞を読む限り、ただの予算決議のようだけど。
「ここが貴方の部屋だ。机と本棚とベッドしかない無骨な部屋だけど、好きに使ってもらって構わない」
「ありがとうございます」
「じゃあ、ごゆっくり」
石造りの住宅に石畳の道、近代教の大寺院はその中でも飛びぬけて大きく、大通りはガス灯が照らし、フォード車が行き交う道の真ん中を路面電車が走り抜けてゆく。
東京とはまた違うレトロな街を赤く照らす、沈みゆく夕日を窓から眺め、一日の終焉をこの目で見届ける。
「? なにかしら」
夕日のそれとは違う、赤い光が直線道路の地平線の向こうからやってくる。
それとともに、けたたましいほどの自動車のクラクションが鳴らされる。
「ラーグ大変だ!」
「どうしたんだ!?バック。そんなに慌てて」
下の階から焦ったバックとラーグの声が聞こえる。
「保守派右翼集団の暴徒等が暴動を起こした!暴徒がこっちに向かってきている!」
「なんだって!?」
階段を駆け上がる音がしたと思ったら、急にドアが開けられる。
「すまない、ちょっと問題が起きてね。ひとまず私と来てはくれぬか?」
「はい」
車にはバックの姿がある。
「僕の車で出よう。物は持ったかな?」
「物?」
「すまない、こちらの話だ」
車に乗り込むと、バックは急いで車を走らせた。
「このまま例の場所まで向かう。彼女はチャックの家で降ろそう」
「了解」
車たちを避けながらかなりのスピードで飛ばすバック。
あの集団はそれほどまでに危険なのだろうか。
「着いた。ここが先ほどの医者の家だ。事が済んだら迎えに来る。それまでここにいてくれ」
周囲の家よりもやや広い家の前で私を車から降ろすと、彼らはそのまま走り去ってしまった。
直後、家の中からパイプをくわえた初老の紳士が家から出てきた。
「さあ、入りなさい」
先ほど私を診察していた医者だ。
私を家の中に押し入れると、チャックは素早く施錠する。
「安心したまえ。奴らは医者の家を襲ったりはしない」
彼は落ち着いた様子でパイプをふかしながら椅子に腰を掛ける。
「自己紹介がまだだったね。中央病院で外科医をやってるチャックだ。ブラックチャックと呼んでくれ」
「は、はぁ」
チャックはうすら笑みを浮かべる。
「いやあ済まないね。ここに来たばかりだというのに面倒事に巻き込んでしまって」
「いえ、勝手に来たのは私ですから」
「しかし人間のお客さんとは久々ですな」
外では暴徒と恐らく治安部隊が衝突して罵声と銃声と硝子が割れる音が鳴り響く中、チャックと私は呑気にお話をしていた。
「ここに来る人間ってどのくらいいるのですか?」
「ここ何十年と現れていない。かつてはこの国に定住する人間もいたのだが、今この国にいる人間は貴方一人となるな」
しかし、なぜ河童たちはそんなに人間と関りが欲しいのだろうか。
「一種の国民感情とでも言うべきなのでしょうか。はたまた民族の性なんでしょうか。ともかく、私たち河童と人間は昔から深い関わりがあった、これは紛れもない事実であります。歴史は捻じ曲げることはできません」
つまり河童側の主張は人間が一方的に河童を忘れてしまったというもの。
しかしそれは人間にしてみれば河童の片思いなのだ。
事実は一つでも、立場変われば見方も変わる。
「ところで、私からも一つ質問いいかね?」
「何でしょうか?」
「貴方は何故あんな所にいたのかね?」
あんな所とは、つり橋の所の事であろう。
確かに人間が入ってきてはいけない場所であるのは確かだ。
「探し物がございまして」
「落とし物かね?」
「いえ、そこにしかないものを」
訝し気な表情を浮かべパイプを蒸かすチャック。
「にしてはあの場所にはあまりにも不慣れな、というよりは初めて訪れたような感じではあるな」
「と言いますと?」
「明らかに山歩きの服装じゃない。例えあの場所に初めて行かれたのだとしても、山であるとわかっていたならそれなりの準備はできたはずだ。それすらも怠るほど切羽詰まった状況だったのか?」
医者の質問は的確だった。
確かに博麗神社参拝は急に思い立ったことだし、いち早く蓮子を救いたいがための突発的な行動だった。
「はい、実は友人を探していまして」
「行方不明かい。心配だね。お友達はあそこに訪れていたのか?」
「いえ、幻想郷です」
チャックは腕を組みうなり声をあげる。
「はて、ひいお祖父さんあたりから聞いたような気がしないでもないが、それは地名か?」
「当たらずとも遠からず、ここと同じような所です」
チャックの表情が曇り始めていくのがわかった。
「どういうことだ?」
「結界によって私たちの世界から隔離された、言わば孤島のような場所です」
チャックは窓際に立った。
カーテンを開けると、外の闇の中で輝く火炎瓶の炎や火花がパイプをくわえるチャックの顔を照らす。
「ハーンさん。確かに私たちの世界はあなた方の世界から見れば裏側の世界ということになるかもしれません。あなた方の世界には数多の歴史がありまして、それらが築き上げてきた文明は一言では言い表せないものでしょう。しかし、それは私たちも同じなんです。私たちの世界にも国があり、文化があり、歴史があり、戦争があり、宇宙がある。それをあなた方の世界にある箱庭などとは思われたくない」
「………」
「幻想郷と言いましたかね?」
「…はい」
「それは本当にあなた方の世界にあるものですか?」
「……」
「私としたことが、歳を取ると説教臭くなるのが悩みですね。お友達、見つかるといいですね」
外の騒ぎが静まった頃だった。
ドアのノックが叩かれた。
「はい、ただいま」
チャックが開けた扉から入ってきたのは、眼鏡をかけた青年だ。
「やあドクター、久しぶりだな」
「…何しに戻ってきた」
青年はチャックの問いかけを無視してづかづかと部屋に入っていき、チャックが今まで座っていた椅子に、つまり私の前に堂々と腰掛けた。
「お客さまの前だ。余計なことをするなら今すぐにでも帰ってもらおう」
「おい聞いたか?君はお客さまで、私は粗大ゴミだと。河童か人間かの違いでここまで扱いが変わるなんて、いかにも命に優先順位をつけたがる医者のする事という感じだな」
恐らくチャックに向けて言ったであろうその言葉を、何故か私の目を見て訴えるように言い放つ青年。
「あまりお客さまを困らすでない!出てけ!」
チャックの表情がかなり険しいものとなる。
しかし、青年の表情は至って変わらず、むしろ余裕の笑みすら伺える。
「ここの世帯主は私だ」
青年がそう述べた途端、憎悪に満ちたチャックの表情が、豆鉄砲を食らった鳩のようになった。