12月4日、午前7時。
視界の端に表示されたデジタル時計の数字が変わると同時に、僕はベッドから上体を起こした。
トールバーナの宿屋の窓から、朝の淡い光が差し込んでいる。右手を振り下ろしてメインウィンドウを呼び出し、インベントリのタブを開く。『チリン』という小気味良いシステム音が、静かな部屋に響いた。
「んぅ……」
その音に反応したのか、少し離れた場所に置かれたもう一つのベッドで、シリカが毛布を丸めて寝返りを打った。
あの日、始まりの街でデスゲームの開始を告げられてから僕たちはこうして、ずっと同じ部屋で寝泊まりしている。最初は年頃の女の子と同室ということに少しばかり気を遣ったが、今となってはすっかりこの距離感にも慣れてしまった。
スロットにセットされた回復ポーションの数、武器の耐久値。それらを順番にチェックしていく。問題は無い。僕は未だに眠っているシリカに声をかけた。
「シリカ、朝だよ。起きる時間だ」
「……んー、もうちょっとだけ……」
「今日はボス戦だろう。あんまりのんびりしてると、置いていかれちゃうよ」
「う、うん……起きるぅ……」
目をこすりながら身を起こしたシリカは、まだ半分夢の中にいるような顔でぽーっとしている。僕は苦笑しながらベッドに腰掛ける。
「ほら、シリカもちゃんとインベントリの確認。回復ポーションは十分入ってる?」
「入ってるよ」
「短剣は装備し直した? 鍛冶屋のNPCに修理してもらったままになってない?」
「ちゃんと装備し直したよー。もう、レクスったら朝からお母さんみたいなんだから」
むすっと唇を尖らせながらも、シリカは素直にウィンドウを開いて最終確認を済ませていく。「お母さん」という言い方には少しだけ納得がいかなかったが、その引っかかりもすぐに薄れた。多少うるさがられても、今日だけは念を押しすぎるくらいで丁度いい。そう思う一方で、彼女の面倒を見ることがすっかり当たり前になっている自分に、ほんの少しだけ照れくささも覚えた。
身支度を整えてから、僕とシリカは階段を下りて宿屋の一階、食堂へと足を向けた。この宿に落ち着いてもう一週間になる。始まりの街を出てからは点々と宿を変えてきたが、トールバーナに拠点を構えてからはずっとこの店にお世話になっていた。もっとも、昨日初めて知ったことだが、情報に長けた攻略プレイヤーはキリトのように【INN】の看板を掲げていない店を借りるのが定石らしい。僕らのように律儀に看板を頼りに宿を探しているのは、もしかすると珍しい部類なのかもしれない。実際、食堂を見渡してもプレイヤーの姿はなく、閑散とした空間にはNPCが数人、静かに給仕をしているだけだった。
いつも通り壁際の席に腰を下ろし、メインウィンドウからメニューを呼び出す。パンとスープ、それに川魚の塩焼きという見慣れた組み合わせに指を伸ばそうとしたところで、ふとスクロールの一番下に見慣れない品が追加されているのに気付いた。タルトのような形をしたケーキで、値段は1000コル。普段の食事が数十コル程度で収まることを考えれば、法外と言っていい高さだ。ここ数日は見かけなかった品だから、何かしらの条件を満たして解放されたのだろうか。宿の滞在日数か、それとも別の要因か。考えを巡らせながら、隣のシリカの方をちらりと窺う。
彼女のメニューにも同じケーキが表示されているらしく、じっと画面を見つめたまま動かない。物欲しそうな横顔を見れば、答えを聞くまでもなかった。しかし数秒の逡巡の後、シリカは小さく息をついてそのままメニューをスクロールし、いつもの黒パンとスープを選択してしまう。値段を見て諦めたのだろう。
「……」
僕は黙ってケーキの項目に指を伸ばした。シリカと一緒に旅を始めてからちょうど一ヶ月が経つし、今日はいよいよ初めてのボス戦だ。緊張しているに違いない彼女に、何かひとつくらいご褒美があってもいいだろう。そう結論づけて、自分の注文にこっそりケーキを一つ追加してから、素知らぬ顔でウィンドウを閉じた。
運ばれてきた料理を二人で黙々と食べ進める。シリカはスープを一口飲むごとに、こちらにちらりと視線をよこしていた。ボス戦を控えているせいか、いつもより口数が少ない。それでも黒パンを咀嚼する仕草はいつも通りで、少しだけ安心する。
やがてシリカが食べ終わり、席を立とうとした瞬間、僕はその手をそっと引き止めた。
「あと少しだけ待ってて」
「え? どうしたの?」
不思議そうに首を傾げるシリカに答えるより早く、NPCの店員がトレイを片手に近づいてくる。載せられていたのは、先ほどメニューで見たあのケーキだった。艶やかな照りを見せる表面には、赤い果実を思わせるソースがかかっている。テーブルに置かれたそれを前に、シリカは目を丸くして固まった。
「え……え? これ……」
「はい、どうぞ」
「な、なんで!? これ1000コルもする奴……」
「シリカが食べたそうにしてたから」
あっさりと答えると、シリカは口をぱくぱくとさせながら、僕とケーキを交互に見た。頬がみるみるうちに赤く染まっていく。
「そ、そんな、悪いよ! こんな高いの……」
「気にしないで。ちょうど一緒に行動し始めて一ヶ月だし、それに、今日はボス戦だろ? シリカ、この一ヶ月ずっと頑張ってたから、ちょっとしたご褒美だよ」
そう告げると、シリカは何か言おうとして口を開きかけたが、結局言葉にならずに俯いてしまった。しばらくしてから、消え入りそうな声で「ありがとう」と呟く。
「でも、どうしてケーキだって分かったの……? 私、そんなに物欲しそうな顔してた……?」
「うん、まあ、ちょっとね」
誤魔化すように笑うと、シリカは恥ずかしそうに顔を伏せたまま、フォークを手に取った。一口分をすくい、それをそのまま僕の方に差し出してくる。
「は、はい。レクスも味見して」
「え、いいの?」
「一緒に食べたご褒美だから。それに、レクスにも見返りが無いと不公平だもん」
差し出されたフォークを、少しの躊躇の後に受け取る。口に運ぶと、ベリー系の果実らしい酸味が広がり、それに蜂蜜を思わせる優しい甘さが追従してくる。現実で食べたことのあるどんなケーキとも似ているようで、微妙に違う味だった。それでも十分に美味しいと言える出来だ。
「美味しいね、これ」
「うん! すっごく美味しい……」
頬を緩めながら一口、また一口とケーキを口に運ぶシリカを見て、ふと気になったことを尋ねる。
「シリカ、ケーキ好きなんだ?」
「うん、大好き。現実だと、誕生日には毎年家族でショートケーキ食べるんだ。苺の乗った、生クリームのやつ。あれが一番好き」
懐かしむような口調で、シリカは少しだけ遠い目をした。家族との時間を思い出しているのだろう。しばらくの沈黙の後、彼女は名残惜しそうにフォークを置き、皿の上に僅かに残ったソースまで丁寧に拭って口に運んだ。
「ごちそうさま。ありがとう、レクス」
「うん、どういたしまして」
二人分の食器を下げてもらい、席を立つ。窓の外はもう十分に明るく、街を行き交うプレイヤーの気配もいつもより多いように感じられた。今日という日を前にした緊張感が、街全体を包んでいるのかもしれない。
「行こっか、シリカ」
「うん!」
元気よく頷いたシリカと共に、僕らは宿屋の扉をくぐって外へ出た。
噴水広場に着くと、既に多くのプレイヤーが集まっていた。武具を身にまとい、思い思いの得物を背負った彼らの表情には、昨日の会議とはまた違う緊張が滲んでいる。人混みの中に見知った青髪を見つけ、僕はシリカと共にそちらへ歩み寄った。
「おはよう、二人とも。よく眠れたか?」
声をかけてきたディアベルは、いつもの快活な笑みを浮かべていたが、その奥には隠しきれない気負いのようなものが見え隠れしていた。彼自身、今日という日に懸けるものが大きいのだろう。
「おはようございます」
「おはようございます、ディアベルさん」
僕とシリカが挨拶を返すと、ディアベルは軽く頷いてから、ふと思い出したように声のトーンを落とした。
「そうだ、君たちH隊の役割についてだけど、改めて説明しておこうか」
昨日の会議でも聞いた話だが、彼は丁寧に繰り返す。
「基本的に、取り巻きのコボルドの処理はE隊が主導する。君たちH隊はあくまでそのサポート、E隊が取りこぼした分を食い止めてくれればそれでいい。極端な話、コボルドを一体も倒せなくたって構わないんだ。ボスとの戦いの邪魔さえされなければ、それで十分役目を果たしたことになる」
言葉を選びながら丁寧に説明するディアベルの様子に、僕は少しばかり引っかかりを覚えた。E隊が主導、H隊はサポート。取りこぼしを引きつけるだけでいい。倒せなくても構わない。それはつまり、僕らを実質的に戦力として数えていないということではないだろうか。会議の場で聞いたときにはあまり気にならなかったが、こうして面と向かって念押しされると、彼の配慮が透けて見えるようだった。
もっとも、その理由も分からなくはない。今日集まったプレイヤーの中で、僕とシリカはおそらく最年少の部類に入る。命のやり取りをするこのゲームにおいて、年若い僕らを危険な役目から遠ざけようとするのは、リーダーとしてはむしろ当然の判断なのかもしれない。頭ではそう納得しながらも、胸の奥に小さな不満が残った。
「分かりました。でも、僕らだってちゃんと戦えます。取り巻きくらいなら、蹴散らしてみせますよ」
半分意地のようなものも混じった宣言だったが、ディアベルは気を悪くした様子もなく、むしろ嬉しそうに目を細めた。
「頼もしいな。だが、無理はしないでくれよ。まあ、ルブリス君が隊長だから、彼の指示に従っていれば心配はいらないと思うけどね」
その言い方には、単なる信頼以上の何かが滲んでいるように聞こえた。まるで、ルブリスという人物を以前から知っていて、その実力を保証しているかのような口ぶりだ。
「ディアベルさんは、ルブリスのことよく知ってるんですか?」
何気なく尋ねると、ディアベルは一瞬だけ表情を止めた。ほんの僅かな間だったが、確かに彼は言葉に詰まったように見えた。
「まあ、ちょっとした知り合い……ってところかな。詳しい話は、また今度」
曖昧に笑ってはぐらかされる。それ以上追及しようとする素振りを見せると、ディアベルはさりげなく話題を変えるように視線を逸らした。その態度から、僕は直感的にこれ以上踏み込むべきではないのだと悟った。何か事情があるのだろう。それが今日のボス戦に関わることなのか、それとも全く別の、個人的な話なのかは分からないが、少なくとも今この場で聞き出せることではなさそうだった。
釈然としない気持ちを抱えたまま、それでも口を噤む。ちょうどそのとき、人混みの向こうから聞き覚えのある声が飛んできた。
「おーい、ディアベル、レクス、シリカちゃん!」
振り返ると、ルブリスとユウキ、そしてその後ろにキリトとアスナの姿があった。四人揃って歩いてくる様子は、既に一つのパーティーとしての空気を纏っているように見える。
「よう、H隊はこれで全員集合か?」
キリトが軽い調子で声をかけてくると、ユウキが元気よく手を振った。
「おっはよー! 今日は頑張ろうね!」
「うん、よろしくお願いします」
シリカが少し硬い声で答える。緊張が抜けきっていないのが、その声色からも伝わってきた。
「よし、みんな揃ったな。それじゃあ、後は本番まで各自準備を整えておいてくれ。俺はまだ声をかけないといけない連中がいるから、これで」
ディアベルはそう言い残すと、軽く手を上げて別の集団の方へと足早に歩いていった。その背中を見送りながら、僕は先ほどの彼の反応を思い返す。はぐらかされた質問の答えは、結局まだ僕の中で消化しきれないままだった。
ボス部屋へと続く迷宮区の階段は、どこまでも続く螺旋だった。
松明の灯りも届かない暗がりを、足元の淡い光だけを頼りに登り続ける。集団の足音が石畳に反響して、まるで何十人もの鼓動が重なっているみたいだ。
僕は少し前を行くキリトの背中を見ながら、頭の中でスイッチのタイミングを反芻していた。HPが黄色になったら声をかける。声をかけられたら即座に前に出る。シンプルだが、実戦でできるかどうかはまた別の話だ。
視界の端に、暗い通路の分岐が目に留まった。マップを開いてみると、分岐点になる所は途切れていた。探索されてない道という事なのだろう。
「ねえ、キリト」
思ったより自然に声が出た。前を歩くキリトが振り返らないまま、「何だ」と短く返す。
「一層って、どのくらい探索されてるの?」
今度は足が止まった。キリトが半身だけこちらに向けて、少し間を置いてから答える。
「全部は……探索されてないんじゃないかな。行って三割……南東のエリアとか、攻略に関係ないって所は手つかずのままだと思う」
「それは……もったいないね」
暗い通路を口惜しく見たが、最終的には振り切って、レイドパーティーに置いてかれないよう小走りした。多分これからも攻略のために色々なものを見過ごしていくのだろう。それは仕方ない事だ。ゲームの目的は100層へ登る事であり、次の層へ登れる道があるならそちらを優先して探索することになる。
それでも、誰にも見られないまま忘れ去られることになるだろう南東のエリアのことが、頭の隅にひっかかったままだった。
迷宮区最上階。石造りの冷たい空気が漂う回廊に、42人のプレイヤーが静かに息を潜めていた。僕もメニューを開いて装備の最終確認を済ませ、小さく息を吐く。昨夜、キリトたちの宿で教わったスイッチのタイミングが、まだ頭の中でぐるぐると回っていた。
「みんな、集まってくれ!」
ディアベルのよく通る声が、高く吹き抜ける廊下に響いた。彼だけは昨日と変わらず、一点の曇りもない爽やかな笑顔を浮かべている。
「いよいよだ。今日、俺たちは第一層のボスを倒して、第二層への扉を開く!今こそ始まりの街に残る人達に希望を示す時だ!」
地鳴りのような歓声が壁を震わせる。僕の胸の奥でも、その熱気に当てられたように心臓が早鐘を打ち始めていた。
「――行くぞ!」
ディアベルの掛け声とともにズズズッ、と腹の底を揺らすような重低音と共に、扉が開け放たれる。
扉の先は深い闇に沈んでいた。一歩足を踏み入れようとした何人かのプレイヤーが、底知れぬ暗闇に気圧されて足を止める。
だが次の瞬間、両脇の壁に沿って赤い炎が次々と爆ぜるように灯っていった。炎が奥へ奥へと連なることで、そこがひどく縦に長い空間だと知れる。
そして、最後尾の松明が点火した瞬間、最奥の玉座に真紅の双眸が浮かび上がった。
身長は優に二メートルを超え、鋼のような筋肉が炎の光に照らされる。第一層フロアボス、《イルファング・ザ・コボルドロード》
空気を切り裂くような咆哮が部屋中に反響し、松明の炎がわずかに揺れた。それと同時に、奴のHPバーが伸び始める。一本では足りないのか二本、三本と増えて四本目で止まる。驚異的なHP量だが攻略本の情報通りだ。
ボスの巨体が動くより早く、イルファングの後方から三体の小さな影が地を蹴って飛び出してくる。取り巻きのルインコボルトセンチネルだ。E隊が相手をして、H隊が取りこぼしを処理する段取りとなっている相手。
それを見た途端、頭がやるべき事で定まる。吐く息と一緒に余計な考えがような、思考の円が点に収束していく感覚。早く倒そう、早く次層を見よう。頭は次への期待でいっぱいだ。
「シリカ、行こう!」
僕はシリカに短く声をかけ、駆け出した。
「えっ、う、うん!」
シリカも頷いて、僕と後ろを走り出した。そこに、左右から黒い影が増える。片方はキリト、もう片方はルブリスだ。示し合わせたわけでもないのに、三人はそれぞれ別のセンチネルへと自然に散っていた。
距離が縮まって、センチネルは戦鎚を振りかぶる。それに合わせて僕は剣を左に構え、ホリゾンタルを放つ。
狙いは振り上げた戦鎚の側面、振り下ろし始める一瞬。ガァン、と鼓膜を劈くような激しい金属音と共に、眩いオレンジ色の火花が散る。横一閃の勢いは戦鎚の軌道を大きく右へ弾き、センチネルは身体を大きく右に捻り、無防備な右半身を僕らに晒した。
「今!やあああ!」
センチネルが姿勢を戻すより早くシリカが追いつき前に出て、ソードスキルによる突きを放つ。狙いは正確だったが、切っ先が届くわずか手前で、センチネルの体が後ろに飛んで逃れる。短剣は金属鎧の端をかすめただけで、その肉体には届かなかった。
「あっ……!」
シリカの声に焦りが滲む。姿勢を立て直したセンチネルが、怒りをあらわにするように咆哮し、戦鎚を大きく振り上げた。狙いはシリカだ。
「シリカ、下がって!」
僕は叫びながら割り込む。剣を横に構え、振り下ろされる一撃を真正面から受け止めた。ガギン、と重い衝撃が両腕に走り、僕は踏みとどまる。HPバーが少し削れる。痛みはないが、その代わりに骨を伝う重い痺れのような感覚が腕に残った。
「レクス!」
「大丈夫、もう一回いくよ……!」
力を込めて戦鎚を押し返し、体勢を崩れさせる。センチネルがよろめいた刹那、僕は青い光を伴わせた剣を横薙ぎに走らせた。ホリゾンタル・アークの一撃目が、センチネルの胸の金属プレートを弾く。硬い手応えとともに弾かれかけるが、続く二撃目、返す刃が鎧の無い腹部を正確に捉えた。派手な斬撃音とともに、センチネルは片足を浮かせて大きく体勢を崩した。
「今度こそ!当たって!」
二度目の好機を逃さず、シリカの短剣が腹部の急所を貫く。今度こそセンチネルは悲鳴のような嘶きとともに、大きくノックバックした。
「シリカ、ナイス!この調子で行こう!」
僕らのソードスキル硬直が解ける頃に起き上がり始めたセンチネルの残りHPは3分の2を割っている。一筋縄ではいかなかったが、この調子で二、三度繰り返せば倒せるはずだ。そう確信した僕は、痺れの残る腕を軽く振ってから、再び前衛を受け持とうと駆け出した。
感想、評価お待ちしております