SAO RTA any% 75層決闘エンド   作:hukurou

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SAOでは閉鎖された扉を超えて伝わる音は原則的に、扉のノック、戦闘音、叫び声の三つしかない。たとえ宿屋のすぐそばでNPC楽隊が演奏をしていても、窓を開けない限りシステム的にその音が室内に届くことはないのだ。だからキリトがその事態に気づいたのは朝食後に今日の探索に備えて鍛冶屋で武器の整備でもしようかと宿の外にでた時だった。

 

「な、なあ、あんた攻略組のプレイヤーだよな! 俺レベル13なんだ! 腕には自信があるぜ」「握手してくれよ」「すげー武器だな! それもボスドロップなのか?」

 

黒鉄宮前の中規模な広場。キリト達が最近の拠点として借りている民家も接するその場所には、朝から常にはない賑わいを見せていた。その人だかりに思わず足を止めたキリトはあっという間に殺到したプレイヤーの人だかりに取り囲まれた。

 

まるで芸能人にでもなったみたいだった。

たった一晩で世界がまるで変わってしまった。そのことをキリトは実感した。

 

目を輝かせて口々に何かをまくし立てる人々に、もともと高くないキリトの対人能力はすぐに限界を迎える。「おう」だの「ああ」だの半ば意味をなしていない言葉を発してただただ圧倒されるだけだったが悪い気はしなかった。ゲーマーとしてベストリザルトを賞賛されるのは本望だ。

 

ただ――人々の中には「期待してるよ、ヒーロー!」と声を上げる女がいた。「ありがとう! これからも頑張ってくれよ!」と肩を叩く男がいた。

 

「攻略組はこのゲームに囚われた多くのプレイヤーにとって希望の星なんダ」とアルゴは言っていた。彼らにとってキリトは単なる有名人というわけではない。そのことが少しだけ心に後ろめたさをもたらした。

 

キリトは彼らのために行動を起こしたわけではない。英雄扱いは過分だ。彼の本質はただのエゴイストにすぎない。ゲームをクリアして誰かを救おうなんて言う高尚な理念はない。その証拠にキリトは――

 

彼の思考を中断したのは、人垣の外から響いた男の声だった。

 

「おいおいお前ら興奮しすぎだぜ……! 圏内でプレイヤーを取り囲むのはアンチマナー行為だって忘れちまったのか? アピールしたいなら逆効果だし、感謝したいのに怒らせちゃまずいだろ。ほら! 用がある奴はきちんと並びな」

 

犯罪防止コードが有効な町中で他人を無理やり動かす方法はないに等しい。強い衝撃はコードに防がれてしまって押したり引いたりすることができないからだ。そのため特定のプレイヤーを数人で取り囲んで行動不能にする『ボックス』と呼ばれる行為はマナー違反として忌避されていた。

 

キリトを取り囲んでいたプレイヤー達はお互いに顔を見合わせると少しは冷静になった頭でもぞもぞと移動を開始し、キリトの前になんとなく列を作った。初めはその人だかりに顔を引きつらせていたキリトだが、彼らには拍子抜けするほど悪意がなく、その多くは一言二言感謝や激励の言葉を述べたりキリトの肩を叩いたり、握手をするだけで満足して去っていった。

 

そうして彼らが去った後、見通しの良くなった視界で群衆を統率した声の持ち主をとらえたキリトは息を止めた。

 

「……クライン」

 

「よう、キリト! ……なんだ? その顔? 幽霊でも見たって顔してるぜ」

 

バンダナがトレードマークの野武士のようなその男はキリトのフレンド欄の一番上にずっと名前が記載されている人物で、そして彼がかつて始まりの町に置き去りにした男だった。

 

 

◇◇◇

 

 

キリトとクラインの間に長々と語るような事柄は存在しない。11月6日、SAOサービス開始の日に始まりの町でスタートダッシュを決めていたキリトに声をかけてきたのがこの男だった。曰く、迷いない足取りからキリトをベータテスターと看破したらしい。一般参加枠で入って来たというクラインは、キリトがベータテスト時代に身に着けたゲーム序盤の攻略法を教授してくれるように頼んできた。それから数時間、独特のなれなれしさにあっという間に距離を詰められたキリトは町のすぐそばでソードスキルの使い方を教えた。言ってしまえばそれだけの仲だ。

 

そんな彼にキリトがずっと澱のような罪悪感を抱えているのはその別れ方に問題がある。茅場晶彦からデスゲームの開始を告げられた時、MMOゲームの本質が限られたコルや経験値の奪い合いであると考えたキリトは、じきに払底するであろう始まりの町周辺のリソースに見切りをつけた。焦燥感にせかされるように広場を後にし、訳も分からず立ち尽くす1万人のプレイヤーから先行してリソースを確保しようと動いた。その場にいた唯一のフレンドであるクラインを連れて。

 

クラインはキリトについては来なかった。彼はリアルの知り合いと一緒にゲームに参加していた。彼らを見捨てて先には進めないとクラインは狼狽えていた。いくらベータテスターであるキリトとて、何人ものプレイヤーをキャリーしながら圏外に行くのはためらわれた。

……いや正直に言えばそれだけじゃない。あの時キリトは見ず知らずの他人と行動を共にすることにためらいとわずらわしさを覚えていた。

 

結局キリトはクラインとは別れて一人で行動することを選んだ。SAOは初めてであるという彼と彼の友人がこれから激しいリソース争いに巻き込まれていくだろうという思いを心の片隅に追いやりながら。

 

 

つもる話をするには黒鉄宮前の広場は騒がしすぎたし、フランクに会話を始めるにはキリトの抱く感情は複雑すぎた。周囲からの視線にさらされるキリトを慮ってか、クラインは落ち着ける場所まで移動することを提案してきた。あふれ出る感情を整理するためにもこの時間は有用だった。

見えてきたのは転移門だ。この町の大通りはすべてがこの広場に集約されるので人ごみに流されるように歩いてくるとたいていはここに出る。しかしクラインの目的地はここではないようだ。転移門広場を抜けさらに別の通りに踏み入る。キリトは彼がどこを目指しているのかなんとなく、分かった。

 

「最後に別れたのは確かここだったよな……」

 

クラインが懐かしそうに足を止めたのは転移門広場から圏外へと続く道の途中で、キリトが彼とパーティーを解消したまさにその場所だった。

 

「あれから、平気だったか?」

 

言ってキリトは何をしらじらしいことをと自嘲の笑みを浮かべた。クラインはソードスキルの発動すらおぼつかない初心者だった。その彼を見捨てて先に進んだ自分が言えたセリフではない。だがクラインは影を感じさせない笑みを浮かべた。

 

「おう! 全然平気だった……ていうのはさすがに嘘だな。さすがにショックは受けたぜ。人が死んじまうような事件に巻き込まれたわけだしな。しかも俺もフレの連中も仕事があるわけだし最初の数日はマジで焦ってた。クビになるんじゃないかってな」

 

「そうか……」

 

大げさに身振りを加えながら話すクラインの顔をキリトは見ることができなかった。自然と足元に視線が向かう彼の肩を、クラインは叩いた。

 

「おいおいそんな深刻そうな顔すんなって! 今の俺が苦しんでるように見えるか?」

 

クラインは大げさに両手を開いて大口を開けて笑った。

 

「結局俺たちはみーんな根っからのゲーマーなのさ。たとえ命がかかってたって、楽しみにしていたゲームを目の前にぶら下げられて見てるだけなんて拷問にはだーれも耐えられなかったんだよ。次の日の夜には我慢できなくて町の外に出ちゃったし、それからはあっと言う間よ。会社がどんなもんだ。ゲーム休暇だと思えばむしろ喜ぶくらいだぜって言いあってさ」

 

「……フレンドとは会えたのか?」

 

その質問はキリトの精いっぱいだった。

 

「おう! 一緒にギルドも作ったんだぜ! 風林火山ってやつ! ま、もう解散しちまったが」

 

キリトの表情が曇る。クラインがフレンドとうまくいかなかった理由さえ、あの日彼をおいていった自分にあるような気がした。

 

「……悪かった。あの日クラインを置いていって」

 

「おいおいおいおい!! なんで謝るんだよ!?」

 

「苦労しただろ。こんな右も左も分からない場所においていかれて…………そのくせ俺は……クラインは知らないかもしれないけど、装備もレベルも整えてるから……」

 

「知らないわけあるかよ、コノヤロー! 気づいてなかったのかよ! 昨日の広場には俺もいたんだぜ! ナンプレだってなぁ! 結構頑張ってたんだぞ! つーかお前妙に元気ないから寝不足かなんかかと思ってたらそんな事思ってたのかよ!!」

 

バンバンと犯罪防止コードが発動するかどうかに挑戦するように肩を叩かれてキリトは思わず体をよじった。

 

「恨んでないのか……俺はお前を見捨てたんだぞ……」

 

「あんまり見くびってくれるなよ! 自分の面倒くらい自分で見るっつうの! それにそんなこと言ったら俺だって、さ……」

 

そういってクラインはへにょりと眉を困ったように下げた。それはキリトが初めて見る、予想だにしない彼の表情だった。

 

「誉められたもんじゃないだろ……年下のフレンドをソロで圏外に送り出しちまうなんてよ……ずっと後悔してたんだぜ……。ベータのお前さんがそう簡単にくたばるようには見えなかったけど、ソロでやっていけるほどこのゲームは甘くないって後から知って……あの場でキリトを止められたのも、一緒に居てやれたのも俺だけなんだって気づいたらさ……いつかお前の名前がグレーアウトしたら、それは俺のせいなのかもなって……」

 

キリトは彼にそんな事気にするなと言いかけて、この時初めてクラインの気持ちが分かった気がした。

 

「俺たち似た者同士なのかもな……」

 

キリトはくすりと笑った。クラインはすぐに眉を吊り上げると不満げに口を開いた。

 

「それよかお前、謝るならあれ以降全く連絡よこさなかったことの方がよっぽど悪いだろ。分かるか、俺が舞台に上がった攻略組の中にキリトの姿を見つけてどんだけ驚いたか!? 思わず指さしてフレンドに言って回っちまったぜ、あそこにいるのは俺のフレンドだってな!」

 

「連絡をよこさなかったのもお互い様だろう」

 

「うるせーやい! 2日目に1回送っただろ。次はキリトから連絡するのが筋ってもんだろうが」

 

「それを言ったら最後のメッセージを送ったのは俺なんだから次はクラインからだろう」

 

「いーや、こういうのは年下からってのが礼儀ってもんだ」

 

「年上なら少しは気の利かせ方ってやつがさぁ――」

 

たわいのない会話をしながら、キリトはずっと胸につかえていた思いが少しだけ体の中から出て行った気がした。

 

 

◇◇◇

 

 

午前9時。

黒鉄宮前の広場には100人を超えるプレイヤーが集まっていた。

 

昨夜、7層の転移門広場でケイはこのゲームの攻略を目指すプレイヤーをギルドに迎え入れると言った。同時にMTDを通じて掲示板にも掲載した《プログレッサー》の加入要綱は週に一度黒鉄宮前の広場で入団受け付けを行うというもの。

 

その第一回の入団受け付けが募集開始の翌日、つまり今日に設定されているのはいかにもせっかちなケイらしい日程だった。昨日の今日で志願者が集まるのかというキリトの不安はいい意味で裏切られた。広場に集まる人だかりを見るに、《プログレッサー》の団員募集の情報はキリトの予想をはるかに上回る速度で認知を集めているらしい。

 

広場に集まった人間の大半は遠巻きに見つめるだけの野次馬だが、一部のプレイヤーは拠点として借り上げている民家の前に整列する攻略組に熱心な視線を向けている。

この場には昨日のボス攻略後に舞台に立っていたキリト達以外に、ディアベル達やエギル達など隠しダンジョンでともに熟練度を上げたメンバーがそろっている。例外的にケイの指示ですでに7層の攻略を開始しているイスケとコタローの忍者コンビ、それと彼らについていったシリカ。さらに中立を謳いギルドに所属していない情報屋のアルゴはこの場にいないが、多忙な攻略組のほとんどのメンバーがこうして一堂に会するのはキリトからしても珍しい光景だ。

 

キリト達と向かい合う位置で待機している入団希望者の数は全部で20人ほど。さっそく7層の店売り品を装備しているベータテスターらしきプレイヤーもいれば、未だにアニールブレードを腰に下げているような後発組らしき姿もある。

 

その中でも無意識に目で追ってしまうのは悪趣味なバンダナを頭に巻いた野武士風の男、クラインだ。彼が今日この広場にいたのは単なる偶然などではなく入団試験を受けるためであるそうだ。フレンド共に立ち上げたギルド《風林火山》を解散したと聞いた時は何かトラブルでも起こったのかと思ったが、単に《プログレッサー》へ加入するためだと聞いた時はキリトも耳を疑った。彼の中でのクラインはソードスキルの発動すら満足にできない初心者のイメージのままだったからだ。だが、考えてみればあれからもう数週間たっている。初心者を脱するには十分な時間だ。身に着けている装備から推測しても、それなりのレベルと経験は身に着けているのだろう。

 

キリトが脳内でクラインの実力を推し量っているとケイが一歩前に出た。

 

「9時ちょうどだ。ここで入団希望者を締め切らせてもらうがまだ受付を済ませていない者はいるか!?」

 

ケイが広場に聞こえるように大きな声を出した。広場で動くものがいないことを確認した後、彼は正面に向き直った。

 

「このギルドの方針を取り仕切らせてもらっているケイだ! 君たちも簡単に自己紹介をしてくれ!」

 

入団試験に集まっているメンバーは大きく4つの集団に分かれていた。まずはキリトからみて一番左の集団はレジェンドブレイブスと名乗る6人組。次いでクラインが率いる武士風の装備で固めた6人。その隣に陣取るのはトゲトゲ頭が特徴的な男――キバオウが率いるパーティー。最後にぽつぽつと互いに距離を取り合っている3人。彼らはそれぞれをモルテ、バクサム、クラディールと名乗った。

 

「これから皆には7層で入団テストを受けてもらう」

 

自己紹介の後ケイがそういうと皆の眼の色が変わった。あるものは挑戦的な目を、またある者は不安そうな目を。その中で一人、どちらかと言えばふてぶてしい余裕を見せた痩躯の男、クラディールが手を上げた。

 

「一つ質問してもいいか?」

 

「ああ」

 

「この場に集まったものの中には未だ入団審査のレベルに到達していないものがいるように見えるのだが彼らも7層に向かうのだろうか?」

 

クラディールの装備は5~6層相当のものだった。装備の質感から判断するに相応に強化もされているらしい。実力的には上位にいるのであろうことがうかがえる彼の視線は、とあるパーティーに向けられていた。

 

「なあ、あんた言いたいことがあるならはっきり言ってもらおうか」

 

クラディールの視線が向けられていた先、レジェンドブレイブスから一人の男が言い返す。

 

「では、お言葉に甘えて……はっきり言って未だに2層の装備を身に着けているようなプレイヤーでは攻略組の水準にふさわしいとは思えない。彼らのような後発組にはさっさと不合格を言い渡した方が良いのではないか?」

 

「なんだとっ!!」

 

言い返そうとしたクフーリンにクラディールは嘲笑を浮かべた。

 

「勘違いしないでくれ。これは善意だ。それとも君は7層で審査を受けられるだけのレベルがあるのか?」

 

悔しそうに言葉を詰まらせるクフーリンに代わって口を開いたのはモルテと名乗った男だ。

 

「そこの嫌味なおじさんってベータテスターっしょ。他のプレイヤーを見捨てて自分らだけうまいクエやらダンジョンやらを独占して成長した奴らが偉そうにレベル差自慢っすか?」

 

その言葉にピクリとキバオウが反応した。

 

「クラディールっていうたか? そこんところどうなんや?」

 

「ええ。いかにも私はベータテスターですよ。彼らと同じね」

 

クラディールはケイ達を顎で示しながらそう言った。キバオウは何も言わなかった。キリト達を慮って表立った反論は避けたのかもしれない。だが鼻息荒く腕を組む様子を見れば彼が不満を抱いていることは明白だった。

 

険悪化した空気を前にケイはいつもの調子だった。

 

「安全には配慮しよう。加えて言わせてもらうが未踏破層の攻略を行うプレイヤーにとって最も大事な能力は、リスクに対する適切な判断能力だ。よって審査への参加は各自の判断に任せる」

 

クラディールは薄い笑みを浮かべて肩をすくめるだけだった。

 

「入団テストでは協調性も問われると良いんだがな……!」

 

小声で悪態をつくレジェンドブレイブスのオルランド。

キリトは決して和やかとは言えないメンバーとこの先共闘する場面を想像してVR空間でも胃薬とかってあるのかなぁと現実逃避した。

 

 

◇◇◇

 

 

実を言うと入団テストで何をするのかも、何をもって合否を分けるのかもキリトは知らない。キリトのみならず他のメンバーも知らないのではないか。少なくともギルド全体でそのことについて情報を共有したことはない。そもそもをして、ギルドのメンバーを募集するというのも昨日突然ケイが言いだしたことで、キリト達は全く相談されていなかったことだ。

 

普通に考えればおかしな話だ。だが、そのことに関して不満を言うメンバーはいない。《プログレッサー》は元々ケイのワンマン運営だから、こういうことは慣れているのだ。あるいは信頼しているのかもしれない。彼の言うことに従っておけば結局うまくいくという不思議な信頼感がこのギルドには存在した。確かに6層ボス戦ではキリト達が窮地に追い込まれたが、それでも彼への信頼は揺るがなかった。それだけの実績と献身がケイにはある。

 

少なくともキリトはケイに代わってギルドを運営できる気はしないし、彼よりうまく攻略組を指揮できる自信もない。そして何より運営に関する不満もやる気もなかった。人間関係の調節は彼の最も苦手とすることの一つだからだ。

 

「……結局俺は分かりやすくアクションゲームのことだけ考えているのが性に合ってるって事かな」

 

「何か言ったキリト君?」

 

「いや、なんでも」

 

思わずこぼれた独り言をアスナに聞き返されてキリトは首を振った。それから上を見上げる。同心円状にフィールドが積み重なるアインクラッドでは空を見上げても本当の意味での空が見えることはない。ただ、無機質で薄暗い金属製の天井が見えるだけだとプレイヤーのゲーム体験を損ねると考えたのか、上層の床ともいえる一面は空っぽい何かに見えなくもない加工がされている。天候次第では雨雲さえ現れるそこにはまん丸い太陽こそないものの、天井一面からは陽光を模した明るい光が降り注いでいる。その光が7層ではことさら強い。

 

「暑い……」

「暑いわね……」

 

もう12月だというのに7層は冬の気候とは無縁だった。地軸の傾きと公転周期によって不可避的に決定する現実の季節と違ってゲームの気温や湿度は単なるプログラムの一環にすぎない。それゆえアインクラッドもリアルの気候とは連動せず各階層ごとにばらばらの季節感が再現されていることも知っていたが、実際にこうして経験すると文句の一つでも言いたくなる。

 

肌を刺すようなじりじりとした直射日光はつらいというほどではないが、長袖のコートや金属防具をつけていることをためらわせるだけの熱エネルギーを秘めている。キリトは思わずこのメンバーで一番暑苦しそうな装備をしたプレイヤーに視線を向けていた。

 

「なんですか?」

 

「いや、暑くないのかなと思って」

 

攻略組の筆頭タンク候補であるリーテンのフルプレートアーマーは直射日光をきらきらと反射していた。

 

「暑いですよ。でも我慢できないほどじゃありません」

 

圏内では視界を狭める頭装備を外している彼女が無理をしているふうでもなく言う。

 

「ケイさんがインナー装備をくれましたんで。すごいですよこれ。体温調節機能にボーナスがかかるって言われてもピンとこなかったんですけど、この階層で初めて意味が解りました」

 

そういってリーテンは装備の胸元からシャツを見せようとして前かがみになる。中学2年生の男子には少々刺激の強い光景にキリトは持ち前の反射神経で目をそらした。

 

「……キリト君、よくできました」

 

肩にそっと置かれた手に心の中では、今のは俺悪くなくない? などと反論を試みたが賢明にもそれは口に出さなかった。腹を空かした狼を前にこの食事は俺のだからと説明するのが無意味であるように、世の中には理屈ではどうにもならないこともあるからだ。

 

アスナはすっとキリトの肩から手を離すとリーテンに注意した。

 

「リーテンもそんなはしたない真似しちゃダメよ!」

 

「はぁ……シャツを見せただけですしそもそもゲームのアバターじゃないですか」

 

「それでもだめなの!!」

 

キリトが密かに飢えた狼から距離を取ろうと試みているとケイの良く通る声が7層転移門広場に響いた。

 

「それじゃあ、出発するぞ! はぐれるなよ」

 

ぞろぞろと1層から引き連れてきた40人程の集団で目指すのは主街区レクシオの西門だ。

 

町中を移動しているとリーテンに対する指導を終えたアスナがキリトの横に並んで話しかけてきた。

 

「ねえ、キリト君。7層ってどんなところなの?」

 

転移門広場の周りにあるいろいろな建物を見渡しながら歩くアスナにキリトはベータテストの時の記憶を呼び起こす。

 

「7層は大まかに北側の山岳地帯と南側の草原地帯の2パートで形成された階層だな。エリアの中央には揺れ岩の森っていう大きな森林地帯があるけどそこはダークエルフの城があるくらいだからキャンペーンクエストを進めてなければ入る必要はない。だから西端にある迷宮タワーまでの大まかな攻略順路は、北側の山岳地帯をぐるっと回り込むルートと南側の草原エリアをぐるっと回り込むルートの二つだ」

 

「そういうことじゃなくて、もっとこう見所とか観光名所とかそういう話よ」

 

「観光名所ねぇ……」

 

キリトは遠い目をした。そのことを思い出そうとするたびに、なぜだか手が震えてしまう錯覚に襲われ、不思議だなーと脳内のミニキリトが首をかしげる。

 

「4層はヴェネチアみたいな町並みがあったし、5層は遺跡の町って感じだったでしょ。6層も町全体が立方体でできていて、いたるところにパズルがあったし……でも7層は何というか普通じゃない?」

 

確かにレクシオの町並みはいわゆるハーフティンバー様式の建物ばかりでいかにもRPGの町並み感はあるものの、他の階層と比べるとぱっと目を引くものがない。しかしそれにはきちんと理由があるのだ。

 

「レクシオは確かに転移門があるけど、この階層最大の街ってわけじゃない。7層のメインの街は南の端にある《ウォルプータ》って場所なんだ。そこはまさしく地中海のリゾート地って感じで4層の《ロービア》にも劣らないくらいきれいな街だったよ」

 

「へぇー楽しみだわ! でもどうして7層だけそんな不思議な構造をしているのかしらね?」

 

目を輝かせたり、首を傾げたりと忙しいアスナになぜその街が主街区より栄えているのかを説明するかどうかキリトは迷った。その話をするためには封印された“アレ”の記憶を呼び起こさなくてはならないからだ。

 

だが、結局キリトの葛藤がアスナに伝わることはなかった。一行がタイミングよく西門についたからだ。

 

レクシオの街の西門はかなり特殊なつくりをしている。そっくりな大きさの二つの門が超至近距離に並べて作られているのだ。

二つの門の前にはそれぞれ右と左に進んでいく別の道が続いている。とはいえ、門の外には一昔前のテレビゲームにありがちな見えない壁なんてないので、右の門から出てすぐ左に行けば左の道に行けるし、逆もまたしかり。つまりここに二つの門を設置する意味はほとんどなく、これが現実だったら税金の無駄遣いだ何だと騒がれていただろう。まさしくゲームならではの演出だ。

 

「何かしらあれ、門の上に石像があるわ。右側は杖を突いた老人……いえ逆風にめげずに歩く旅人かしら。左側は盃をもったお金持ち……に見えるわね」

 

「あれはそれぞれの道の先に待ち受ける運命を表しているのさ」

 

「それだと右の道は険しくてつらい。左の道はお金持ちになれるってことかしら」

 

「大体あってる。さっき7層の北側は山岳地帯だって言っただろ。右の道はそこにつながっていて急勾配な山道を歩かされるし、モンスターもいっぱい出てくる。逆に左の道は平原地帯でモンスターも少ない。レクシオのNPCはそれぞれ向かい風の道と追い風の道なんて呼んでいたかな」

 

キリトとアスナがしゃべっている間にケイはこの広場で隊を二つに分けた。

 

ベータ版では右の道の先には大きな町もクエストもなかったはずだが、昔の情報を頼ってボスクエストをおざなりにした結果どんなつけを払うことになったかを攻略組は忘れていない。誰かが本当に変更点がないかどうかを確かめる必要があり、それはベータテストでの知識と経験が豊富なディアベル隊に任せることになっていた。

 

ケイとその他のメンバーは左の門をくぐる。

ああ、やっぱり、目的地はあそこなのかなあと思っているとアスナが口を開いた。

 

「でもそれじゃおかしくないかしら。ディアベルさん達はクエスト情報を集めるために山岳地帯に行ったけど、それは例外のようなものでしょ。つらくてきつい道と楽してお金持ちになれる道なら誰だって楽なほうを選ぶじゃない。選択肢になってないわよ」

 

「まあ、普通はそう思うよな。ところがこれがそうでもないんだ。……なんたってこの道の先にはフロアボスを超える凶悪な魔物が潜んでいるからな……ケイの目的地もたぶんそこだろう」

 

「凶悪な魔物……?」

 

アスナの顔色が変わる。

 

「ああ。かつてのベータテスターのことごとくがその魔物に挑んで……その半数を再起不能にした最悪の魔物。たしかにやつに勝てばあの彫像みたいに金持ちになれるだろうけど、そうなるのはごく一握りの勝者だけさ。大半は山岳地帯なんてかわいく見えるほどのひどい目に遭う。だからあの門の選択はきちんと天秤が釣り合ってるのさ」

 

「もしかして、キリト君も……」

 

「ああ、ベータ時代の俺も失ったさ。アイテムもコルもそのすべてを……」

 

キリトが忌まわしき記憶の封印を解こうとしていると、背後から耳に残る関西弁が聞こえてきた。

 

「今の話詳しく聞かせてもろうてええか? 盗み聞きしたみたいになって悪いけど、今の言葉は聞き逃せんで!! ワイらは今からそないなバケモンと戦わされるんかいな!?」

 

「えっ?」

 

慌ててキリトが後ろを振り向けばキバオウだけでなくクラインやリーテンまでもが心配そうにキリトを見つめていた。

 

これはまずいやつだ……とキリトの背中に冷や汗が出る。考えられる選択肢は二つだ。冗談でしたとおどけて種明かしをするか、真剣に謝るか。

 

キリトは超高速で頭を回転させ、まるで走馬灯のようにこれまでの冒険の日々を思い出した。そして冗談が好きな頼れる男の後ろ姿を思い出す。

キリトは肩をすくめてこう言った。

 

「ああ。本当に恐ろしいやつだよ。人の欲望とカジノに潜む魔物ってやつはね」

 

ちらりとアスナの顔を伺えばそこには何の表情も浮かんでいなかった。

キリトは思う。そういえば走馬灯って死ぬ前に見るんだったよなぁ。

じゃあ、これがそうか。

 

 

◇◇◇

 

 

若干の……そう、若干のトラブルはあったものの、追い風の道の言葉の通りに2時間もすればキリト達は問題なく7層最大の町《ウォルプータ》を目前にとらえる事が出来た。道中の2時間というのもモンスターを見つけては戦闘をするために脇道にそれてとゆっくり進んだためにかかった時間で、それらを無視していれば実際は1時間もかからなかっただろう。

 

そう、クライン達初参加勢のレベリングのためのモンスターを献身的で心優しい少年がせっせと遠方からトレインしてくる時間などがなければ……

 

「うわぁ!! すごい、きれいね」

 

最後の丘を越え、街の全貌が視界に入るとアスナが感嘆の声を上げた。キリトはそれを孫を公園に連れてきたおじいちゃんの視線で微笑ましく見守った。

特に理由はないけれど、話しかけたりはしない。本当に特に理由はないけれど。

 

「ギリシャのサントリーニ島みたいよね……」

 

「ああ、それ私も思ったわ」

 

話し相手は代わりにミトが務めてくれている。そこにリーテンも加わった。

 

「サントリーニ島ですか……なんか聞いたことはありますけど……」

 

「エーゲ海にある島にイアっていう港町があってね。あそこもあの町と同じように緩やかな傾斜に純白の漆喰が塗られた家が立ち並んでいて、空と海のコバルトブルーとのコントラストがとってもきれいなところなの」

 

アスナが何かを思い出すように目を細めると、リーテンが両手を合わせて声を上げた。

 

「アスナさんってすっごい物知りですよね。あっ、もしかして行ったことがあるんですか?」

 

こらこらリーテンさんや。このゲームでリアルの話を振るのはマナー違反ですぞ。

 

アスナは曖昧に笑った。

 

「そうね。昔、家族旅行で何回か連れて行ってもらったわ」

 

「すごーい! うらやましいです! 私海外なんて一度も行ったことないですよ!」

 

ミトが口を開く。

 

「元の世界に戻ったらみんなで行ってみてもいいかもしれないわね」

 

「その時はヴェネチアにもいってみたいです!」

 

キリトはふと思った。そういえば元の世界に戻ったら、なんて言葉を最近はたまに耳にするようになったなと。リアルの話題もそうだ。昔はみんな心のどこかで張り詰めたような部分があって、現実に戻れるかどうかなんて話題は避けていたのに今では自然と口にできるようにまでなっている。皆このゲームをクリアできるという確信を持ち始めているのかもしれない。それはこれまで順調にボスを倒してきた経験から来る自信なのかもしれないし、あるいは仲間と力を合わせればどんな困難でも乗り越えられるという信頼によるものかもしれない。そうであれば、それはとてもいい変化のはずだ。

 

「キリト君さっきから何なのそのもの言いたげな目線?」

 

いつの間にか振り返っていたアスナにキリトはいえいえなんでもありませんよとアイコンタクトを送る。

 

「……またヤリカブトと追いかけっこがしたいの?」

 

いやいやアスナさんや。突進攻撃を持っているヴェルディアン・ランサービートルを引っ張ってくるのは地味に命懸けなんですぞ。とキリトはテレパシーを送ったが当然そんなものが伝わるわけがなかった。




次回投稿は22日、の予定……

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