ようこそ未熟者がいく教室へ   作:にやまな

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章と章の間にある小話となります。


小話集

 

 

 

 

 

 

 

「平田洋介から見た笹凪天武」

 

 

 

 

 

 

 

 笹凪くんは、僕にとって理想の存在だった。

 

 ああいう人を真の意味でリーダーシップがあると言うのだろうね。不思議な引力を持つ存在感も、耳朶の奥に染み入るような声色も、説得力のある行動や意思も、全てが理想的だった。

 

 実際に彼に助けられることも多く、何度彼がいてくれて良かったと思ったことだろうか。

 

 今回の残酷極まる試験だって、笹凪くんがいたから平穏に終えることができた。紆余曲折はあって一時期は盗撮容疑で荒れそうにもなったけど、今は何とか落ち着いている。

 

 クラス内投票、僕たち生徒を篩にかける残酷な試験が始まった瞬間に、胸の奥に言いしれない不安と緊張が走ったことは間違いない。

 

 きっとそれは僕だけでなく、全員が同じ気持ちだったんだろうけど、Bクラスには彼がいたのでなんとかなった。

 

「皆、本当にごめん」

 

 投票が終わり、今回の件で色々と騒ぎを起こした四人が黒板の前に立って一斉に頭を下げる。女子からも男子からも呆れたような視線を向けられているけれど、完全に排斥する雰囲気ではないのが救いかな。

 

「え~……この四人にはクラスポイントの徴収額を多めにすることで償いとする。期間はこれから卒業するまでだ。色々と思う所はあるだろうが、これからの彼らに期待して欲しい」

 

 落とし所としてはこれで良いと思う。少なくとも不満はあっても文句を言葉にはしないくらいの状況だ。

 

 それを確認して僕は大きく安堵の溜息を吐く、何かボタンを掛け違えていればクラスの関係は決定的に破綻していたと思うので安心するしかない。

 

「平田少しいいか」

 

 投票も終わり、四人の禊も終わり、クラスは久しぶりの開放感に包まれて放課後に解散することになる。部活に行く人、羽を伸ばす人、次の試験に意識を向ける人、色々と反応があるけれど、僕はただただ安堵するだけであった。

 

 そんな時だ、笹凪くんが話しかけて来たのは。

 

「どうしたんだい?」

 

 教室から出て廊下を並んで歩く、隣にいる彼は話しかけて来たのにどうした訳か口を閉ざす。

 

 どう言うべきか迷っているように、どう伝えるべきか悩むかのように、そんな様子を十秒ほど見せてから、最後に絞り出すようにこう言った。

 

「いつかどこかで、俺にもどうすることができない時が来るかもしれない」

 

「え?」

 

「俺は万能じゃない、完璧にも遠い……そうあろうと努力しているが、きっと力及ばない時が来るだろう」

 

「そんなことはないよ、笹凪くんなら――」

 

 そうであって欲しいという僕の思いを否定するかのように、彼は言葉を遮るように力強くこう断言してしまう。

 

「いや、ない」

 

「……」

 

「あいにくと、俺の手は二本しかない、足も二本だ、心臓は一つ、目は二つ、出来ることと言えばそれを精一杯動かすことだけだ……君が望む便利な舞台装置にはなれない」

 

「笹凪くん……」

 

 不思議な色を宿した、こちらの心の奥まで覗き込むような瞳が僕を見つめる。過去すらも俯瞰しているのではないかと錯覚してしまいそうになるそれは、少しだけ怖いと思ってしまった。

 

「空は飛べないし、海だって走れない……ただそれが出来るように努力するだけだ。だからまあ、どこかで力が及ばない時が来るかもしれない」

 

 下駄箱から靴を取り出しながらそう言った彼は、また不思議な輝きを宿した瞳を僕に向けて来る。

 

「いつか、そんな時が来るのかな……」

 

「そうならないように努力することしかできない」

 

 そんな時が来た時に、僕はどうするのだろうか? 少し考えてみたけれど、背筋が震えるだけだった。

 

「なあ平田、君はいつもクラスの為に動いているが……勿論それに関しては感謝している、それは以前にも伝えたよね?」

 

「うん、覚えているよ」

 

「だが……少しだけ、不安に思うこともある。君はどちらかというと、クラスの為に働いていると言うよりは、根底にあるのはもっと別の何かのように思えるんだ」

 

「それは……」

 

「ああ、別に過去を探ろうって訳じゃない」

 

 不思議な輝きを宿した瞳は気遣うように逸らされる。

 

「だが、忘れて欲しくないのは、俺は万能でもなければ完璧でもないってことだ……」

 

 それだけ伝えて笹凪くんは靴を履き替えていく。

 

 心配をさせてしまったんだろうな。彼はいつも、僕とは違う意味でクラスを見ているから。

 

 何度も何度もそれに助けられて、いつしか彼に甘えることが当たり前になっていたのかもしれない。そう考えると、少しだけ恥ずかしくなってしまった。

 

 笹凪くんは、僕が理想としている人に限りなく近い。和を尊び、誰かの力になれる、そんな人だ。

 

 

 僕がいた中学に彼がいてくれたらと、そう思ってしまうほどに。

 

 

 ダメだな、うん、彼に甘えることがいつのまにか当たり前になってしまっていた。

 

 笹凪くんは僕からしてみれば完璧で万能だけど、きっとそんな風に考えるのは凄く失礼なことなんだと思う。いつか彼に何もかもを押し付けて、どこかで何かを取りこぼした瞬間に「どうして助けてくれなかったんだ」と口汚く罵ってしまうのではないかと、不安が胸に去来する。

 

 彼は完全完璧ではないのに、僕は完全完璧を求めようとしていたのだ。それはとても残酷で失礼な考えなのかもしれない。

 

 僕に出来ないことをやってくれる彼に、完全完璧な結果を求める……あぁ、そっか、彼はそれを自覚させたかったのかな。

 

「ごめん、笹凪くん……君に甘えていたのかもしれない」

 

「良いさ、俺が背負える物は俺が背負うし、守れるものは守る……完全でもないし、完璧でもないし、万能には程遠いが、その努力だけは怠るつもりはないからな。ただいつかその時が来た時は、平田の力を借りたい……この学校は、残酷だからな」

 

「うん……その時が来れば、必ず」

 

 すると笹凪くんは神秘的な顔つきを緩めて少女のような笑顔を見せる。けれどどこか父性を感じる所もあり、やはり不思議な人という言葉がよく似合うようになった。

 

 僕はいつもクラスの為にと、平和の為にと思って行動してきたけど、笹凪くんにとってはそんな僕も見守る対象だったんだろう。

 

 本当に、頭が上がらない人だ。

 

「ねえ笹凪くん」

 

「ん、なにかな?」

 

「君は僕がクラスの和を守ろうとしていることに、強い執着があると言ったよね」

 

「あぁ、何か理由というか……別の思いがあるんじゃないかとな」

 

「実は――」

 

 甘えてはダメだと思いながらも、彼に知って欲しかった。僕の中にある後悔とトラウマを、振り返った時に必ず存在する嘆きを。

 

 いつかどこかで、彼が誰かを守り切れなかった時に、あの時と同じ過ちを犯さないように、しっかりと向き合わないといけないんだろう。

 

 彼を責め立てることだけは、それだけは決して口にしてはいけないことだろうから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「堀北鈴音は少し心配していた」

 

 

 

 

 クラス内投票という、ただ退学者を出す為だけの残酷な試験が終わった。黒板に張り出された結果発表を確認すると、私たちBクラスだけでなく他のクラスも同じような形で終わったことがわかる。

 

 つまりポイントを工面出来たということなのだけど、2000万ポイントの大金を全てのクラスが集められたとは思えないわね。私たちはAクラスからの支払いと毎月それぞれの生徒に十万ポイントを与えられる環境だけど、それでも心許なかったのだから、他のクラスはそれ以上に苦しかった筈。

 

 それでも結果はこうなってしまった。つまりとんでもないお節介な人がいたということになる。

 

 一体誰なんだと考えるまでもない。2000万ポイントを個人で捻出した天武くんの仕業だろう。

 

 別に怒ってなどいない、不満がある訳でもない、彼が集めたポイントをどう使おうとそれは彼の自由だ。

 

 優しい人だと誰かは言うだろう、配慮してくれたのだと理解するだろう、きっと懐の深い人なのだと評価するんだろう……それは間違いではない、けれど――。

 

 彼を、本当の意味で理解できる人間は果たして何人いるのだろうかと、そう思ってしまう。

 

「ここにいたのね」

 

「ん、鈴音さん、どうしたんだい?」

 

 クラス内投票も終わり、私たちのクラスは学年末特別試験に向かって動き出した中、私はその前に確認したいことがあって彼を探していた。

 

 天武くんは昼休みになると、ここ最近は綾小路くんやそのグループの人たちと食事をすることが多くなった。それかこちらを気遣ってか教室で三人で昼食を過ごすかのどちらかであるけど、今日は珍しく一人だったので声をかける。

 

 場所は校舎の屋上、三月になって暖かくなってきたこともあり、昼食場所としては悪くはないわね。

 

 彼も同じことを思ったのか、屋上のベンチに座ってパンを食べていた。

 

 普段、よく誰かと接しているけれど、時折フラッと姿を消して一人で過ごすこともある、今日はきっとそんな気分なのかもしれない。

 

「隣、いいかしら」

 

「ん、どうぞ」

 

 屋上のベンチに腰掛けて購入したサンドイッチを取り出す。

 

「え、俺はもしかして今から説教されるのかな?」

 

「何故、そんな結論に至ったのかは知らないけれど、そんなことはしないわ」

 

「そっか、良かった」

 

「ただ、幾つか話したいことがあるのよ」

 

「ならお喋りしようか」

 

 少年のような、或いは少女のような顔を緩めて笑顔を見せてくる。何故か子犬を見ているような気分になってくるけれど、そのまま彼の雰囲気に流される訳にはいかないので意思は揺るがさない。

 

 彼に訊かなければならないこと、知らなければならないこと、そして確認しなければならないことが私にはあるのだから。

 

「天武くん、貴方は他のクラスにもポイントを配ったのよね?」

 

「ん、そうだね」

 

「それは何故かしら?」

 

 別におかしな質問ではない、彼の行動を知った人はきっと同じ疑問を抱く筈だ。

 

「ん~……どうしてと問われると、なんて返すべきだろうな」

 

 パンを食べながら少し悩んだ後に、彼はこう答える。

 

「それが必要だと思ったからかな……うん、俺はこんな形で誰かが退学になって欲しくなかったんだよ」

 

「そう」

 

「もしかして、そうするべきじゃなかったって言いたいのかな」

 

「いいえ、貴方のポイントをどう使おうとも、私に口出しする権利はないもの。ただ少しだけ心配になったのよ」

 

「大丈夫、ポイントにはまだまだ余裕があるから」

 

「違う、そうじゃない。私が言いたいのはそういうことじゃないのよ……貴方、無理していないかしら?」

 

「え?」

 

「天武くんの行動は尊いものだと思うわ、誰にも真似できないことだとも思う、否定もできないし馬鹿にもできないわ……けれど、人一人が背負うには大きすぎるものだと、そんなことを考えてしまったのよ」

 

「あ~……まあ負担って程でもないんだけど」

 

「今はそうかもしれないわね。けれどこの先、同じような試験があったらどうするのかしら? きっと同じように誰かを救済するのでしょうね、そしてそのまた次も、その更に次も……そして、いつか取りこぼしてしまったその時に、その、貴方は深く傷ついてしまうんじゃないかしら」

 

「なるほど、俺は心配されている訳か」

 

 クスリと笑った天武くんは、どこか遠くを見るかのような視線となった。

 

 何を見ているのかはわからないけれど、とても穏やかな顔をしている。

 

「そうね、心配しているわ。そして不安にも思っているの……いつか貴方は、誰にも理解されない場所に行ってしまうんじゃないかって」

 

 彼は善人だ、そしてある種の超越者だ。いっそ行き過ぎていると思えるほどに。尊い行動も、健やかな願いも、困難に立ち向かう勇気も……もしかしたら既に誰も追いつけないのかもしれない。

 

 だからなのか、彼の行動を見ていると少し不安になってしまったのでしょうね。彼はもしかしたら必要以上の物を背負い続けて、最後には誰からも理解されずに折れてしまうのではないかと。

 

 誰にも追いつけない人が、誰にも成せないことを、誰かに頼ることなく突き進む……いつか言われた兄さんの言葉を借りるのならば、きっとそれは真の意味での孤独なのではと考えてしまう。

 

 振り返った時に誰もそこにいないというのは寂しいことだと、他ならない彼が教えてくれたというのに。私から見れば彼がそこに行こうとしているようにも見える。

 

「……俺はそんなに誰かに心配されるような生き方をしているかな。坂柳さんにも似たようなことを言われたんだよね」

 

「貴方、坂柳さんと交流があったの?」

 

「うん、彼女にも今の鈴音さんと似たような心配をされたんだ。誰も並び立てない場所に行ってしまうんじゃないかって」

 

 少しだけ、坂柳さんに苛立ちが芽生えたことに私は気が付かないフリをする。彼の行く先を憂いているのが、そこに気が付いているのが自分だけでないことに、変な苛立ちがあったからだ。

 

「でも大丈夫だよ……俺は完璧ではないし万能でもない。ちゃんとわかってる。何もかもを救えるだなんて思い上がってないし、一人で全てを達成できるなんて思えるほど傲慢でもない。うん、だから大丈夫」

 

「そう……それならいい」

 

「それに、辛くなったら、鈴音さんが助けてくれるだろう?」

 

「必ずそうするわ」

 

 力強い返答に彼はふにゃりと表情を緩める……可愛い。いえ、そうではなくて。

 

「皆を救いたいけど、それができるほど俺は強くない……ちゃんとわかってる。いつかその時が来た時は、沢山悲しんでから、それを力に変えるよ。勿論、そうならないのが一番だけどさ」

 

 その言葉を聞いて私は安堵する。彼は挫折も後悔も力に変えていける人なんだとわかったから。

 

 そもそも疑うようなことでもなかったけれど、しっかりと言葉にされるとやはり安心してしまう。

 

「ありがとう、鈴音さん。心配させてしまったね」

 

「構わないわ。余計な気遣いだったようね」

 

「そんなことはないさ。誰かが心配してくれるっていうのは、幸福なことだと思うから」

 

 天武くんの指先が揺れ動く、それは緩やかな動作で私の頭に乗せられた。

 

「ぁ……どうして頭を撫でるのかしら?」

 

「ん、何となく? 可愛らしく思えたから」

 

 とても穏やかな瞳と視線でこちらを見る彼は、中性的な顔つきなのにどこか父性を感じてしまう。ずっと年上にあやされているかのような……こういう時に変な説得力があるから困るのよね。

 

 もうかなり前のこと、兄さんに撫でられた時のことを思い出そうとするけれど、もう記憶の彼方なのでうっすらとしたものであり、頭の上に感じる掌の温もりが全てを塗り替えていくような気もした。

 

「鈴音さんは髪が長いから撫で心地が良いね」

 

「そうかしら? でもそろそろ切ろうと思っているのよ」

 

「え、そりゃまたどうして……」

 

「何故かしらね……私にもわからないわ」

 

「短い髪の鈴音さんか、それはそれで見てみたい気もするな」

 

「ふふ、楽しみにしていなさい」

 

「そうするよ」

 

 掌が頭から離れる。少しだけ名残惜しくもあるけれど、またどこかで機会はある。

 

「さて、では次の質問よ」

 

「あれ、まだあるの?」

 

「当たり前でしょう。どうして綾小路くんにプロテクトポイントを持たせたのかとか、そもそもあれだけ大量のポイントをどうやって集めたとか、貴方には問いただしたいことが幾つもあるの」

 

「それはちょっと言えないかな、あ、痛い痛い……耳を引っ張らないでくれ」

 

 彼の言葉を聞いて安心したけれど、同時に新しい不安も浮かんできた。

 

 彼は何もかもを救おうとして、それが過ぎるあまり、自分以外の誰かが全て同じように見えてしまうのではないかと。

 

 この人はもしかしたら特別な誰かを作れないのかもしれない……そんなことを考えてしまった。

 

 けれどこの不安はすぐに消えることになる。解決方法はあまりにも簡単だったのだから。

 

 特別な誰かを作れない人の、特別になれば良い……ただそれだけの話だった。それはきっと恋人であったり、友人であったり仲間であったりと様々だけど、彼を孤独にさせないことが重要なのでしょうね。

 

 もしかしたら綾小路くんも、同じことを考えているのかもしれない。

 

 そう思うと、少しだけ彼に親近感が湧くのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「初心忘れるべからず」

 

 

 

 

 

 

 彼が引き金に指をかけると周囲の音が遠ざかった。テレビの音量を勢いよく下げたかのように無音になっていき、耳に届くのは体の中心から伝わる心臓の音だけだ。

 

 集中力を高めていけば、その音すらも消えてしまって完全な静寂が訪れる。この世界に自分一人しかいないのではと思えるほどに静かな環境になった瞬間に、彼が覗き込むスコープの先には一人の少年が映し出される。

 

 中学生に届かない程の年齢だろうか? まだまだ幼さの残る容姿は少年にも少女にも見えるが、見た目通りの存在でないことを彼は知っていた。

 

 それを証拠に、スコープ越しに視線が絡み合う。かなりの距離があると言うのに、対象はこちらに見られていることを認識しているらしい。

 

 意味が分からない、ありえないと切り捨てるのは愚かなことだろう。事実、スコープを介して両者は見つめ合っているのだから。少年が言うには「なんとなく」わかるらしい。

 

 普通の人類にはない特殊なアンテナでも付いているのだろうかと思わなくもないが、その言葉を嘘だと断じるにはあまりにも正確な感知であった。

 

 視線が結び合った瞬間に少年か少女は走り出す。オリンピック選手すら霞むほどの圧倒的な速力を維持したまま次々と障害物を越えて行き向かう先はこちらである。

 

「速いな……文字通り人間離れしている」

 

「当然だ、骨も筋肉も内臓も、全て改造したのでね……まあ尤も、まだまだ発展途上ではあるが、とりあえず基礎は作った」

 

 返答を期待した呟きではなかったが、凛と澄んだ声が返って来た。スコープから目が離せないので声の主を認識することは出来ないが、あの狙撃対象から師匠と呼ばれる女性であることを彼は知っていた。

 

 狙撃手の男からの認識としては、人間の形をしているだけのよくわからない何かといった存在である。何の気まぐれか人間の子供を育てて……いや、改造していると聞かされた時は驚いたものである。

 

 その弟子を狙撃しろ等という滅茶苦茶な協力を要求して来た時には、いよいよ処理すべきかと考えたものではあるが、物理的に殺せる気がしないのでこうして彼は従っているらしい。

 

 それに最初こそ乗り気ではなかったが、今では少しやる気も出てきているらしい。スコープ越しに見つめる相手は、人間離れした速力を維持したまま真っすぐとこちらに向かって来ているのだ。

 

 つまりあの少年のような少女のような不思議な相手は、どちらかと言えば彼の背後にいる師匠に近い存在なのだろう。

 

 だとしてもこんな訓練を課すのは無茶振りなのではと思ってしまうのだが、最終的に受け入れたのは彼である。

 

「最終確認だ、殺す気でやるぞ」

 

「構わない、そうでなければ訓練にならないよ」

 

「それで本当に死んでしまったらどうするつもりだ?」

 

「それまでの男であったという、それだけの話じゃないか……それに安心したまえ、アレはそう易々と死なんよ」

 

「……そうかよ」

 

「それに、調子に乗る前に私以外の誰かに敗北させておきたい」

 

「そりゃスパルタなことで」

 

「なまじ才能があるのでね、敗北を経験させないと腐らせてしまうのさ」

 

 知り合ってそれなりの月日が過ぎ去っているが、そういえばこういう女だったと今になって思い出す。狙撃手の男は小さく溜息を吐いて自分の仕事に集中するのだった。

 

 自らの意識を一つ上の状態に上げると、高まった集中力は全ての流れを遅くするかのような感覚を与えていく。

 

 あの少年曰く、師匠モードと言うべきものらしいが、男は詳しくはしらなかった。名称なんてどうでもよく、便利だから使っているに過ぎないのだから。

 

 そんな究極とも言える集中状態でスコープを覗き、引き金に指をかける。

 

 こちらに迫る少年はこの山中の至る所にある木々を利用して蛇行しながら巧みに距離を詰めて来る。一切速度を落とすこともなく、それどころか加速しながらだ。

 

 向かう先はこちら、山奥にある神社の屋根の上、つまり狙撃手の男がいる場所である。

 

 木々が多い山奥なので一見すると彼が不利なようにも思えるが、適度に伐採されているので意外にも視界は晴れて射線が通っているようだ。

 

 この神社の屋根の上から俯瞰すれば、彼からしてみれば外す方が難しい程に。

 

 スコープ越しにまた見つめ合う、そして師匠モードの集中力が彼に一つの結論を出させる。普通に撃っても命中はしないだろうと。

 

 猛スピードで木々の間を蛇行しながら距離を詰めて来る少年に銃口を向けて引き金を引いても、どうした訳か当たる未来が見えなかったのだ。狙撃手の男にとってそういう時は数えるほどしかなく、それでもおそらくこの予感が外れることはないのだろうと根拠も無く考えていた。

 

 なので彼は、狙撃銃から手を離して立ち上がると、懐から小型拳銃を取り出して銃口を空へと向ける。

 

 

 乾いた発砲音が一発、神社を中心に山奥に広がった。

 

 

 迫る少年ではなく、真上に向けて放たれたそれは、当たり前のことだが誰かに当たることはない……少なくとも今は。

 

 一発の弾丸を空に放った男は、何事も無かったかのように再び狙撃銃を構えてスコープを覗き込む。既に少年との距離は五百メートルを切っていた。

 

 あの人間離れした速力を考えるに、ここまで辿り着くのに大した時間はかからない。それを証明するかのようにより強く踏み込んで突っ込んで来る。

 

 スコープを介して視線は今も結び合っており、きっとあの様子なら指先や銃口の角度も認識しているのだろう。この距離でそんなことは不可能だと断言するには、あの少年はあまりにも異質異常であるので論じることに意味はない。

 

 彼我の距離は既に百メートル、神社の領内にまで踏み込んだ瞬間に、少年は飛び上がって灯篭を足場にして狙撃手の男がいる瓦屋根の上にまで辿り着いた。

 

 その段階になってもまだ、男が持つ狙撃銃が火を噴くことはなく、彼の指先が動くこともない。

 

 それどころか、降参だとばかりに狙撃態勢を解いて銃を担いでしまう。

 

 少年は勝ちを確信したのか僅かに油断して速度が緩んでしまった。それが誘導されたものであるとは最後まで気が付かなかったらしい。

 

 

 

 狙撃手が上空に放った弾丸が、勢いを無くして重力に引かれて落下していき、自分の頭に命中するその瞬間まで、少年は自らの勝利を疑ってはいなかったのだろう。

 

 

 

 意識外から金槌で殴られたような衝撃が頭に広がる。師匠によって改造された頑丈極まる体と骨であっても、完全な不意打ちであったのでわかりやすい隙が出来てしまうくらいの衝撃だったらしい。

 

「ほれ、終わりだ」

 

 そのわかりやすい隙を狙撃手の男が見逃す筈もなく、彼は担いでいた狙撃銃の銃底で少年の顎先を全力で殴りつけるのだった。

 

「がッ!?」

 

「ほれお師匠さん、これで満足か?」

 

「うむ、まさに敗北だ……これで良い」

 

 脳震盪になって神社の屋根の上に転がった少年の頭を、狙撃手は容赦なく踏み抜いて勝利を誇った。

 

「惜しかったな坊主、だが最後に油断しちゃダメだろ」

 

「えっと、何がどうなったのやらさっぱりで」

 

「俺が上空に撃った弾が重力に引かれて落ちて来て、お前さんに当たったのさ」

 

「いや、ありえないでしょそんなこと……未来でも見えているんですか?」

 

「高度な計算を未来予知って表現するのなら、そうなのかもしれないな」

 

「えぇ~……」

 

 納得できていないのか、少年は少し不貞腐れているようにも見える。

 

「それよりお前さん、頭は大丈夫か? ただ落下して来た弾とはいえ、それでも普通に死ねる筈なんだが、頭蓋骨に穴は空いちゃいないか?」

 

「あ、大丈夫そうです。ちょっとたんこぶが出来てるくらいなので」

 

「……お師匠さんと一緒で、お前らの体は滅茶苦茶だな」

 

「絶対に当たらない弾を当てる貴方に、滅茶苦茶とか言われたくありません……というかその狙撃銃を使ってくださいよ、ずっといつ撃つのか警戒してたのに」

 

「だから空に撃ったんだよ、どうせ真っすぐ撃っても当たらないと思ったからな」

 

「あ~……俺の負けですね。完敗です」

 

「良い経験になったのならなによりだ。ほれ、お師匠さんにも叱られてこい」

 

 狙撃手の男は脳震盪の症状が僅かに残る少年を抱き上げて、師匠と呼ばれた人物の下に雑に押し出す。

 

「すみません師匠……負けてしまいました」

 

「敗北のない人生などつまらんのでそれで良い。だが反省しろ、君は最後の最後で勝ったと油断したようだが、それは誘導されたものだったとな。これほど愚かな醜態もあるまい」

 

「はい」

 

「そして傲慢になるな、調子に乗るな、君は別に完璧でも万能でも最強でもない」

 

「ええ、俺は未熟者です」

 

「そうだな、いつも言っているが、君は君が思っているほど強くはない……ならばやるべきことはなんだ?」

 

「ただ徹底的に鍛錬を積みあげていくだけですね」

 

「宜しい、それでこそ我が弟子だ」

 

 そんなやり取りを狙撃手の男は「こいつら怖ッ」とでも言いたげな顔で眺めているのだった。

 

 こうして少年は敗北をまた一つ積み重ね、成長していくことになる。

 

 自分は別に完璧でも完全でもなく、ましてや万能でも最強でもないと自覚したからなのか、より一層、鍛錬に気合が入ったらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ん……懐かしい夢だ」

 

 昔の夢を久しぶりに見た気がする。眠りから覚めて今日も学校が始まることになるのだが、まだ太陽が僅かに顔を見せる時間帯であった。

 

 懐かしい夢を見たからなのか、それとも山内にあんな説教をしたからなのか、俺の頭の中には初心とも言うべき思いがある。

 

 師匠に何度も言われたな、お前はお前が思っているほど強くはないと。この前に山内に言った言葉と大差がないそれは、基本を思い出させてくれるのだろう。

 

 ならば今日は初心に返って、もう一度基礎から積み上げるとしようか。

 

 部屋の隅に置いてあった百キロ越えのバーベル二つを小枝みたいに掴んで、師匠に教えて貰った神楽舞を一から繰り返す。まだ始業時間まで二時間はあるので、その間ずっと鍛錬を続けられる筈だ。

 

 師匠曰く、初心忘れるべからずとのこと。

 

 

 

 

 

 

 

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