ようこそ未熟者がいく教室へ   作:にやまな

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小話集

 

 

 

 

 

 

 

「堀北学はそれがどれだけ難しいか知っている」

 

 

 

 

 

 

 今年の一年生は少しおかしい。それはクラス分けもそうだが生徒それぞれの特色も同じことが言えるだろう。

 

 生徒会長という立場を経験したので、僅かながらも学校の思惑や方向性を察することもできる。俺たちの学年も、南雲たちの学年も、生徒会長を経験するとそれぞれのラインも推測できる。

 

 学校側の考えを察すると、それぞれの学年の現状もよくわかる。三年生は極めて真面目で面白味のない結果となり、二年生も予想通りと言うべきだろうか。

 

 俺が知る上の学年、先輩たちも似たようなわかりやすい結果であったと思う。百点を取るだろうなという生徒が当然のように百点を取ったような、予定調和で計算通りの結果だった。

 

 そう考えると、この学校はざっと五年ほどはある種の停滞の中にあったのかもしれない。

 

 だからなのか、今年の一年生はかなり方向性が変わった。少なくとも俺はそう考えている。同時に、奇妙な違和感を覚えるような試験も多い。

 

 それぞれのクラスに癖のある者を置き、予定調和の結末を覆すような期待が僅かに垣間見えると考えられる。

 

 今の一年生たちが卒業する時、果たしてどこのクラスがAにいるのか予想がしにくいのが今年の一年生であった。

 

 そしてもう一つ、気になる結末が一つある。一年生の中で最も動きが読めず、同時に未来を期待する男がやろうとしていることだ。

 

 一年も終わりが近づいてそれぞれの学年が最後の試験に挑む緊張感の中、放課後に笹凪天武と鉢合わせた。

 

 美術部の二年生に何やら小包を渡している。そういえば今日はホワイトデーだったか。

 

「あ、堀北先輩、今から帰りですか?」

 

「いや、この後クラスで対策会議だ」

 

「そう言えば三年も特別試験があるんだったか。でも次点のBクラスとは大差が付いてるんですよね」

 

「だとしても油断して良い理由にはならない」

 

「それもそうですね」

 

「特別試験は順調か?」

 

「良い感じだと思います。鈴音さんが作戦を立ててくれて、それを中心に早期に準備が進められましたので」

 

「あの子がな……」

 

「頑張ってくれています。とても頼りになりますから」

 

「そうか」

 

 すると笹凪は大きく溜息を吐いた。

 

「もう少し認め上げたらどうですか。彼女、とても優秀ですよ」

 

「俺が鈴音に対して懸念しているのは単純な能力ではない。心の問題だ」

 

「心ですか……」

 

「元々、今の鈴音は昔の鈴音とは大きく異なる。もっと笑顔を見せる子供だった」

 

「鈴音さんは今でもよく笑うと思いますけど」

 

「いや、そんな筈はないが」

 

「まあ大笑いはしませんけど、クスッと笑ったりとか、少しだけ微笑んだりとか、そういうのはよく見ます」

 

「ほう……」

 

 素直に意外だった。あの鈴音がそう言った顔をすることも、そしてそれを他者に見せることもだ。

 

 この一年は、妹にとって充実した時間であったということなのだろうか。

 

「どこまでも俺を模倣するだけの存在だったがな。悪い癖は、鈴音が小学校高学年になった頃から顔を覗かせていた。しかし今思えば、それを放置した俺のミスだ。長年冷たくあしらうことで改善させようと試みたが、その実それは正反対、逆効果だった」

 

「あぁ、堀北先輩ってその辺の不器用な所は鈴音さんと似てますもんね」

 

 コイツの中で俺はどのような評価なのだろうか?

 

「完璧な人間などいない。違うか」

 

「そうですね、何の反論もできません。まさにその通りだ」

 

 俺の知る中で最も完璧に近い人間である笹凪ですらそう言うのだから、完全完璧はあまりにも遠いということだろう。

 

「鈴音は俺が言ったことを忠実に再現しようとした。勉強をしろ、運動をしろ、アレをするな、これをするな。それだけならまだ良い。俺が好きな食べ物、飲み物、果てには好きな色や服装のセンスまで、何だったら髪の長さまでどこまでも俺に強い依存を見せてきた」

 

「会長は髪の長い女性が好みなのですか」

 

「いや、別にそういう訳ではない、ただ何となくそう言ってしまったら、アイツは髪を伸ばし始めた」

 

「なるほど」

 

「だが、お前の話を聞く限りでは、無駄な一年にはならなかったようだがな」

 

「俺は何もしてませんけどね。彼女が勝手に強くなっただけだ」

 

「お前は少し、謙遜が過ぎるようだな。行き過ぎればそれは嫌味にもなるぞ」

 

「ですかね、そんなつもりは欠片もないんですけど」

 

「まあ妹のことはいい。問題なのはお前だ笹凪」

 

「俺ですか?」

 

 廊下の窓から差し込む夕日が目の前の男の顔を照らす。どこか言いしれない神秘的な雰囲気を持つ笹凪は、ある意味では鈴音以上に心配な存在であった。

 

 能力は文句無し、精神性も言うべき所はない、ただしあまりにも目標が高すぎることが心配ではある。

 

 それこそ、一人の人間には決して辿り着けない場所を目指そうとしているのだから。

 

「以前にお前たちの学年で行われたクラス内投票……全てのクラスの生徒を救済したようだな」

 

「それはまあ、余裕がありましたから」

 

「だろうな。だが少し心配にもなった……お前はいつかどこかで一人で挫けてしまうのではないかとな」

 

 この学校のシステムを考えると、笹凪が目標としている場所はとても難しい。それこそ不可能とさえ言えるほどに。

 

 俺はそれをよく知っている。伊達に二年長くこの学校に在籍している訳ではないからな。

 

「その考えは尊いものだ、俺には終ぞできなかったことでもある。だからこそわかる、とても困難な目標だと……それに、どこか使命感や責任を抱いているようにも見えた」

 

「だから、退学者が出た時に凄く落ち込むんじゃないかと心配されてる訳ですね」

 

「そうだな。そして、以前に言っていた正義の味方という目標も少し憂いている……生き急ぎ過ぎているとな。少し立ち止まって、周囲を見てみることも重要だぞ、気が付いたら誰も付いてこれないでは、笑い話にもならないからな」

 

 すると笹凪はポリポリと後頭部を掻いて少しだけ苦笑いを浮かべた。

 

「俺ってそんなに向こう見ずというか、心配されるような生き方してますかね? 堀北先輩に言われた事と似たような話を鈴音さんや坂柳さんにも言われたんですけど」

 

「それだけ、お前の行動や目標が先を行き過ぎているということだ」

 

「ですかね、あまり自覚はないんですけど……けれど、どれだけ無理無謀だと言われても、憧れてしまったのだから仕方がありませんよ」

 

 そう言って笹凪はどこか遠くを見るような視線を窓の外に向ける。当たり前のことだがこの男もこの学園に来る前に色々とあったということだろう。

 

「憧れか、そう言われると何も返せないな」

 

「えぇ、厄介なものですよ……でも、それで良いと思ってます」

 

 そして苦笑いから純粋な笑顔になる。

 

「どうせ倒れるのなら前のめりにいきましょう。そして未来の誰かにこんな人がいたんだって語ってもらえたら、俺はとても幸せです……だから、できもしないのに正義の味方を目指すんですよ」

 

「覚悟があるのならこれ以上は何も言うまい。目標が高いことは大いに結構だ」

 

「そうでしょう。それに、大丈夫ですよ。孤独と孤高をはき違えてはいませんし、俺は実は寂しがり屋なので、誰かと一緒にいたいとも思っています。皆を置き去りにして勝手に進んだりはしません」

 

 そこがわかっているのならば、これ以上あれこれ言うのは無粋だろうな。

 

 だが最後に一つだけ、伝えておくことにしよう。

 

「誰か特別な存在を作れ。仲間でも友人でも恋人でも良い。全てを置いてけぼりにする前に思い出せるような誰かをだ」

 

「わかってますって。もしかして俺は先輩から馬鹿だと思われてるんですか?」

 

「鈴音とは別方向でな」

 

「酷い言われようだ」

 

 クスクスと笑う笹凪は、その神秘的な瞳を俺の背後に向けて来る。

 

「ところでつかぬことを訊ねますけど、先輩と橘先輩は交際されているんですか?」

 

 笹凪と話し始めた瞬間に、こちらを立てるように一歩下がった橘を見て、笹凪はそんなことを言ってきた。

 

 振り返ると、突然に話題を振られたことで、橘はギョッとしたように強張っている。

 

「さ、笹凪くんッ!? 突然、何を言うのですか?」

 

「いえ、いつも一緒にいらっしゃるので、そうなのかなっと」

 

「勘違いするな笹凪、俺と橘はそういった関係ではない」

 

 誤解を解く為にそう伝えると、笹凪は途轍もなく呆れた表情を向けて来る。それどころか額を掌で覆って天を仰ぐ始末だ。

 

「堀北先輩。俺に周りをしっかり見て孤独になるなと説教しておきながら、そんな体たらくはどうかと思います」

 

「酷い言われようだな」

 

「お互いさまです。その様子だとホワイトデーの贈り物もしてないんじゃないですか?」

 

「あまり侮るな、それくらいの礼儀は弁えている。毎年バレンタインデーにはクラスの女子が共同で購入した物をくれるのでな、男子も共同でポイントを出し合って返礼をしている」

 

 すると笹凪は穏やかな表情を崩して、もの凄い渋面を作る。

 

「因みに橘先輩からも貰いましたよね」

 

「……確か、ポイントを出したとは聞いているな」

 

「え~、個別に上げてないんですか?」

 

「そ、それはその、えっと、あの……」

 

 背後にいる橘が狼狽えている。何か拙いことを言っただろうか?

 

 笹凪の視線は俺と橘の間を行ったり来たりしており、最終的には大きな溜息を吐くのだった。

 

「堀北先輩、こちらをどうぞ。進呈します。今日はホワイトデーなのでしっかりと責任を果たしてください」

 

 手に持っていたビニール袋から出て来たのはリボンが巻かれた小包だ。それをこちらに渡してくる。

 

「何故お前が俺にホワイトデーの返礼を渡す」

 

「そんな訳ないでしょうが、後ろにいる橘先輩に上げてください」

 

「お前は橘からチョコを貰っていたのか? それなら直接渡した方が良いだろう」

 

「……面倒だなこの人、鈴音さんをどうこう言える立場かよ」

 

 呆れた表情のまま押し付けられるのはお菓子が入った小包だ。

 

「俺に特別な誰かを作れと言ったのは貴方です。堀北先輩ももう少し周りを見た方がいいですよ。恩師曰く青春は大切らしいので」

 

 そう言い残して笹凪は去っていく、最後まで呆れた顔と視線を向けられていた。

 

 ただ、何が言いたかったのかはわからないが、何をすればいいのかはわかる。

 

 青春か、ずっとクラスや学校のことに集中していたから振り返ってみるとそれらしいことは無かったな。

 

 なるほど、そんな俺が笹凪に大切な誰かを作れと言うのは、少しおかしな話か。

 

「橘、これを渡しておこう」

 

「え、あの、堀北くん?」

 

 振り返って一歩引いた位置にいた橘に、進呈された小包を渡しておく。ホワイトデーの返礼はクラスの男子とポイントを出し合って女子たちに既に渡していたが、個人では確かにやっていなかった。

 

 ただこれはホワイトデーの贈り物と言うよりも、日々の感謝を込めた形にした方が良いんだろうな。

 

「いつも感謝している。俺は、その言葉をもっと早く言うべきだったのだろうな」

 

「い、いえそんな……言葉にされなくたって、伝わってますから」

 

 それを後輩に諭された挙句、お膳立てまでされる日が来るとは、俺もまだまだ未熟ということなんだろう。

 

 青春か、高校生活も終わりが見えて来たこともあって、妙に物悲しい気分になってしまう。

 

 最後に少しくらい、そういった時間を探してみるのも悪くないのかもしれない。

 

 笹凪に誰か大切な人を作れと言った手前、俺もそういった相手を探してみるとするか。

 

 顔を赤くした橘を見てどこか微笑ましい気分になりながら、そんなことを思うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「堀北鈴音の断髪式」

 

 

 

 

 

 俺の手には鋭利な鋏がある。ケヤキモールで鈴音さんが買ってきた散髪用の鋏であった。

 

 そして目の前には、床に引かれたブルーシートの上に椅子を置き、そこに腰かけている鈴音さんの姿があり、その装いはまるでテルテル坊主のように首から下をシーツで隠した様子である。

 

 散髪の邪魔にならないようにと、そして後片付けが楽になるようにとシートで体を隠した彼女はまさにテルテル坊主と表現できてしまう。

 

 ここは彼女の部屋、間違っても散髪屋ではない。けれどこんな状況になっていた。

 

「本当にやるの?」

 

「そのつもりよ」

 

「こういうのはプロの人に任せた方が良いと思うよ」

 

 ケヤキモール内には女性人気の高い散髪屋もしっかりと備わっているのだから。そこにいる人に任せた方が安心だと思う。

 

 そんな説得を俺はするのだが、彼女は緩やかに首を横に振った。テルテル坊主スタイルで。

 

「最初はそう考えたけど……その、ああ言った場所に行くのは少し勇気が必要なのよ。それに見ず知らずの他人に髪を触られるのも少しね……頻繁に話しかけて来る人だと会話もしなければならないわ。正直あの空間は落ち着かないのよ」

 

 う~ん、最近はかなり改善されてきたけど鈴音さんはなかなかの口下手さんだからなぁ。これが桔梗さんとかなら何の心配もいらないんだろうけど。

 

「普段はどうしているのさ?」

 

「前髪は自分である程度は整えられるもの。それ以外はこれまで伸ばしていたから、以前に本格的に散髪したのは随分前の話になるわね」

 

「そうか」

 

「天武くんは自分で散髪しているのでしょう? なら落ち着かない場所で切るよりは貴方に任せるわ」

 

「男の髪は雑で良いんだよ、だけど女性ではだいぶ話が変わるさ……まぁ、ある程度の経験があるから大丈夫だとは思うけどね」

 

 そもそも俺が自分で散髪しているのは、鋭利な刃物――正確には鋏を持った人に背後に立たれるのが凄く落ち着かないという理由からだ。別にあの散髪屋の独特の空間が苦手な訳じゃない。

 

 そして同じ理由で師匠も他人に鋏を持たれた状態で身動きを取れない状況を嫌う傾向があり、俺に散髪を任せることが多かった。なので経験は豊富であったりする。

 

「それじゃ最終確認だ……やるよ?」

 

「えぇ、お願いするわ」

 

 意思の共有も行ったので、俺はテルテル坊主スタイルの鈴音さんの背後に回り、その長い髪に触れていく。

 

 これだけのロングヘア―に鋏を入れるのは少し勿体ないような、残念なような、ちょっと罪悪感があるような、そんな気分になるのだが、本人の意思なので尊重するしかない。

 

「ぁ……どうして撫でるのかしら?」

 

「いや、長い髪の鈴音さんが見納めになるかと思うと、ちょっと名残惜しくてね」

 

「そう……でも、髪の長い短いに大した意味は無いわよ」

 

「そうだね、短い髪の鈴音さんも、魅力的だろうから」

 

「……馬鹿、そういうことを言わなくて良いのよ」

 

 少し照れた様子のなのがわかる。背後から見える耳が僅かに赤くなったからな。

 

「それじゃあバッサリいっちゃうよ。細かい場所はそれから整えて行こうか」

 

 そう宣言して俺は遂に鈴音さんの長い後ろ髪に鋏を差し込み、一思いに切り落とす。

 

 長い髪はそのまま床に敷かれていたブルーシートに落ちて行った。これで後戻りはできないので、他の部分もジョキジョキと音を立てながら切っていく。

 

 前髪に関しては自分で頻繁に調整しているようなので、今日切るのは後ろ髪だけだろうな。流石に前髪までは責任が取れないので触れることはしない。

 

「ところで、どうして急に髪を短くしようと思ったのかな?」

 

 散髪しながらそんなことを訊ねると、彼女は少し悩んでからこう答える。

 

「色々とあるわね。もうすぐ四月で新しい学年が始まること、今年一年の振り返ったこと……心機一転するのなら、今だと思ったのよ。それとも貴方は反対なのかしら?」

 

「いいや、髪が長くても短くても君は君だ。名残惜しくもあって、期待もしている、そんな心境かな」

 

 すると鈴音さんはテルテル坊主スタイルでクスクスと笑った。

 

「なら楽しみにしていなさい」

 

「そうするよ」

 

 ざっくりと肩付近まで髪を切り落とし、そこからは慎重かつ丁寧に調髪していく。こうしていると師匠の散髪を思い出して懐かしい気分になるな。

 

「単純に一年の節目だから髪を切ろうと思ったのかな?」

 

「それもあるけれど、決意表明でもあるのよ。最後の特別試験は勝利することができたけれど、同時に課題も浮き彫りになった試験だったもの。運に助けられた部分もある。来年以降はより厳しい物になるのは簡単に想像できるわ」

 

 決意表明か、彼女らしくもあるな。

 

「最終試験は二周目作戦が上手く嵌ったと思うよ」

 

「けれど、天武くんありきのクラスであることは変わらないわ。二年生になっても同じように進んで行けるとは思えない。クラス全体の底上げがどうしても必要だと思っているのよ」

 

「うん、そうだね」

 

「それに……」

 

 そこで彼女は言い淀む。

 

「それに?」

 

「貴方だけに頼り切りだなんて……カッコ悪いじゃない」

 

「……そっか」

 

 また背後から見える鈴音さんの耳が赤くなっているのが見える。

 

 それに気が付かないフリをしながら彼女の後ろ髪を整えていく。不格好にならないように最大限注意しながら。

 

「よし、形は整えられたかな」

 

 流行の髪型などさっぱりなので、髪をざっくりと切って先を整えただけの状態だが、鈴音さんは素材が良いのでどんな髪型でもよく似合う。

 

 次に毛ブラシで細かな髪を落としていく。パラパラと髪が床に引かれたブルーシートに落ちていき、それが無くなったら散髪も終わりである。

 

 ある程度は余裕も残してあるので、気に入らなければプロに任せることもできるだろう。

 

「終わったよ」

 

「そのようね、感謝するわ」

 

 身に纏っていたシートを取り払ってテルテル坊主スタイルを止めると、椅子から立ち上がって彼女は少しの違和感を覚えているらしい。

 

 あれだけ長かった髪がバッサリだからな、軽く感じるのかもしれない。

 

 そして彼女はいつまでたってもこちらに振り返らない。やはり後ろから見える耳は赤かった。

 

「どうしたんだい?」

 

「その、今更だけど、少し恥ずかしいのよ」

 

「確かに今更だね。けれど俺は今の鈴音さんをしっかり見たいな」

 

 ただ後ろ髪と側面の一部を短くしただけだが、それでも大きな変化である。何より短い髪の彼女は間違いなく似合っている筈だ。

 

 ワクワクと期待する雰囲気が伝わったのだろう。鈴音さんは意を決したように深呼吸してからゆっくりとこちらに振り返る。

 

「ど、どうかしら」

 

「……」

 

「もう、どうして黙るのよ」

 

「……」

 

「ちょっと、聞いているの?」

 

「綺麗だ」

 

「え……」

 

「綺麗だよ。短い髪も、良く似合っている」

 

 嘘偽りなく穏やかにそう伝えると、彼女は少し照れた様子で視線を逸らす。

 

「でもやっぱり長い髪も捨てがたいような気もするね」

 

「心配しなくてもまた伸びるわよ。そうなったら、それはそれで気分転換になるでしょう。そしてまた時期が来れば短くして、私はそれで良いと思うわ」

 

「あぁ、そうだね。一つの形に拘る必要なんてどこにもないさ。君が君であることは変わらないんだから」

 

「そうね……拘る必要なんて、どこにも無かったのよね」

 

 そう言って彼女は美しい微笑みを見せてくれた。短い髪になったことで少し印象が変わったような気もしたけど、その表情は何も変わってはいなかった。

 

 来月には四月になって俺たちは新しい一年に挑むことになる。彼女の言う通り、心機一転するには良い機会なのだろう。

 

 それに、鈴音さんのイメチェンを目撃した最初の一人になれた訳だ。これはこれで変な優越感があって嬉しかったりする。

 

「それにしても随分と慣れた様子だったわね。経験があるとは言っていたけど、とても上手よ」

 

「自信が無ければ絶対に引き受けなかったさ。何が何でもプロにお任せしただろうしね」

 

 まさか師匠の散髪がここで役に立つ日が来るとは、人生とはわからないものである。

 

「髪もさっぱりしたし、これで四月を迎えられそうだ。来年もよろしく頼むよ」

 

「それはこちらのセリフよ」

 

 お互いにクスっと笑い合ってから少しだけ清々しい気分となった。

 

 ただ髪を切っただけ。言ってしまえばそれだけの話なのだが、彼女にとってはきっと何かが変わった瞬間なのだと思う。

 

 新学期が楽しみだ。俺は髪が短くなった鈴音さんを見て、そう思うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「これから苦労する彼らの受難」

 

 

 

 

 

 あの男が憎い。

 

 

 

 憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い――――ただそれだけの感情が僕の中で渦巻く。

 

 たった今終わらせたカリキュラムは完璧な内容だった。けれどその数字を見た教官たちは「綾小路清隆の方が凄かった」と口を揃えて言うのだ。

 

 それが僕の人生、僕の存在、僕を表現する全て。

 

 そんな訳がないとどれだけ叫ぼうとも、数字という物を神のように扱うこの場所の学者や教官たちは、常にその存在と僕を比べているのだ。

 

 どれほどの屈辱かも知らず、どれだけの苛立ちを覚えているのかも理解せず、今日もまた僕は綾小路清隆という数字の神と比べられている。

 

 このカリキュラムもそう、昨日やった対人戦闘訓練もそう、きっと明日やるテストだって何も変わらない。いつだって最後には「綾小路清隆の方が凄かった」で終わることになるのだ。

 

 奥歯を鳴らす音が止まることはない。それでも外面だけはしっかりと整えられるのだから、五期生は四期生よりも様々な面で優れている筈なのだ。

 

 それでもやはり、数字を信奉する大人たちの意見は変わらない。

 

 チャンスが欲しかった、僕の方が優秀だと証明するチャンスが。

 

 たった一度でいい、それだけあれば僕があの男よりも優れていると証明できるのに。

 

 そんな陰鬱とした思いを抱えながらも、今日もまた綾小路がと比べられる日常が始まるのだった。

 

 いつものカリキュラム、いつもの訓練、いつもの栄養摂取、いつものテスト、いつもの――――。

 

 

「今日はお前たちに、ゴリラの生態について教える」

 

 

 いつもの……うん? 今あの教官はなんて言った?

 

 

「ゴリラは非常に凶暴な生物だ、基本的に接触は推奨されない。もし向かい合う状況になった場合は刺激せずに撤退するのが基本である」

 

「え、なにこれ」

 

 僕の隣にいる同期の少女、天沢がそんなことを小声で言った。僕が今感じている思いを代弁するかのように。

 

「一般的なゴリラの握力は500キロ前後と言われているが、その数字だけでも人間が勝つことが出来ないのはわかるだろう。こういった危険な動物と接触してしまった時はどうすればいいのか、八神、答えてみろ」

 

 白い部屋の中で教官がそんなことを言ってくる。何かしらの裏を読むべきなのか、それとも素直に答えれば良いのか判断ができないが、ここは後者を選択した。

 

「敵対しない、静かに距離を取る、でしょうか」

 

「その通りだ。危険な存在には近づかない、基本中の基本だ……だが時として、避けようのない状況というのは訪れるものだ。その時に備えておかなければならない」

 

「はい、その通りだと思います」

 

「うむ……普通のゴリラならば銃でも持って来れば話は終わるのだが、特別なゴリラにはそうはいかない」

 

 さっきから教官はなんの話をしているんだろうか? そんな意思を込めて隣にいる同期に視線を送るのだが、彼女は「私に聞かれても」とでも言いたそうな顔をする。

 

「いや、話が随分と遠回しになってしまったな、本題に入ろう……実は近々、諸君らの何名かは、七号と呼ばれる特殊なゴリラと接触する機会があるかもしれない。その時に備えて対処方法を学んでもらおうと考えている」

 

 そう言って教官は七号レポートと記された書類を僕たちに渡してくる。

 

 黒塗りされている部分が多いので全体像はハッキリと掴めないが、ここに書かれている七号なる存在を数字で表した情報のようだ。

 

 ざっと視線を黒塗りされていない部分に走らせてみると。標識を引っこ抜いただとか、推定握力がゴリラ以上だとか、実は改造人間なのではとか、特殊な薬物を使っているのではとか、ミュータントだとか宇宙人だとか、本当なのか嘘なのかわからない、ましてや推測交じりの情報が羅列されているのがわかる。

 

「へぇ~、コイントスで百回連続で表を出したんだってぇ」

 

 隣にいる天沢一夏が絶対にありえない情報に食いついているが、そんな荒唐無稽な情報よりも、僕が気になったのは単純な身体能力の数値だ。

 

「基本的にこの七号との敵対は推奨されない。だが、さっきも言ったがどうしようもない状況というのはある……なので、そうなった場合に備えてカリキュラムが大幅に変更となった」

 

 つまり、この七号対策として今後は大規模な戦闘訓練が加わるということだろう。

 

「どんなカリキュラムになるんだろうねぇ」

 

「この七号という存在に勝てるようにという調整だろう」

 

 教官の指示に従って僕たちはそれぞれが運動着に着替えて鍛錬場に足を運ぶことになる。あの黒塗りだらけの情報だけでは完全に相手の戦力を把握することはできなかったが、こうしてわざわざカリキュラムを変更するくらいなのだから、警戒をしているのだろう。

 

 だが疑問にも思う。僕たちホワイトルーム生はそもそも精鋭ぞろいだ。単純な戦闘能力ならその道のプロから手ほどきを受けているので極めて高い、しかも徹底的な肉体管理と筋力トレーニングをしている、大抵の相手なら勝利できるだろう。

 

 それでもこうして特殊なカリキュラムを加えるとするならば、相手はそれほど強いということだろう。

 

 だが構わない、何が来ようとも完璧にこなすだけだ。

 

 そんな思いと共に鍛錬場に入ると。そこには数十名の武装した大人たちが待っていたことで、僕たち五期生は一様に言葉を無くす。

 

 数十名の大人たちはどいつもこいつも筋骨隆々で、しかも武装している。

 

 警棒、テーザー銃、さすまた、わかりやすいほどに制圧用の武器だ。それだけでなくヘルメットやプロテクターなどを全身に付けて身を固めてすらいた。

 

「では特殊戦闘訓練を開始する。お前たちはこの五十名を十分以内に制圧すること。手段は問わん、同期で連携するもよし、敵から武器を鹵獲するもよし、では始め!!」

 

 問答無用で訓練は開始された。疑問も批判も挟ませず、それどころか突き放すかのように。

 

 教官が始めと言った瞬間に、五十名の武装して集団は統率の取れた動きでこちらに向かってくる。アレは烏合の集まりではなく一つの軍隊ということか。

 

「いやいや、無理無理」

 

「やるぞ」

 

「うっそでしょ~」

 

 これまでも多対一で戦う訓練は幾度もあったが、ここまで徹底的な形はなかったな。つまりこれだけの相手に勝てなければ七号とやらには勝てないと思われているのだろう。

 

 僕たちが下に見られているということだ。

 

 それだけは許せはしない。

 

 そう考えてこちらに向かってくる武装した五十名と戦いを挑むのだが、僕たちはあっさりと制圧されてリンチにも似た状態となる。

 

 当たり前と言えばそれまでの結果だった。

 

 ボロボロになった同期と仰向けで倒れていると、少し離れた位置にいる教官たちの会話がこちらに届いた。

 

 

 

 

 

「七号なら五分ほどで制圧できる計算なんだがな」

 

「やはり無茶なのでは? アレは人間の形をしているだけの別の何かです。人類の枠に収めるべきではない」

 

「ましてやカリキュラムの変更など、大きな歪となるかもしれない」

 

「だが今よりも対人戦闘能力を高めないと、今後の接触に不安が残るだろう」

 

「それはそうですが……交渉して不干渉を結ぶという方向性もある筈です」

 

「不可能だ。我を押し通すことに躊躇がない生物だぞ。気に入らないことがあれば必ず処理してくるだろう……現役の国会議員でさえ乗り込んで殴りつけるようなゴリラだぞ」

 

「だから、せめて自衛できるだけの能力を早急に持たせなければならないのはわかります。しかし――」

 

 

 

 

 

 教官たちはああでもないこうでもないと言い合っている。とても熱が入っている様子だ。

 

 だけど同時に恐ろしくも思った。下手したらこのカリキュラムが明日からずっと続く可能性すらあるからだ。

 

 そして、そうしなければならないほどの何かと接触する可能性があるという事実。

 

 

 僕たちは一体これから何と戦わされるんだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 




なお、ホワイトルームが見ている七号レポートは、天武くんが十三歳の頃の数字な模様……。
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